テレビをつける度に、「いじめによる自殺」という不愉快な報道を目にしてしまう。そして、そのわずか14歳で自ら命を絶たなければならなかった少女のことを思うと、周囲の大人たちは何をしていたのか。と腹が立って仕方ない。
私はその子のことは何も知らないし、その子が通う学校のことも、部活のことも何もしらないけれど、「『うざい』などの言葉が直接の自殺には結びつかない。」と平然と言ってのける校長の会見にますます怒りがこみ上げてしまった。
自殺に結びつく言葉なのかどうかって、他人が判断することなのだろうか。
全く意味がわからない。
どうやら、最終的に学校側は自殺の原因がいじめによるものだと、認めざるを得なくなったようだが、今、子どもを持つお父さん、お母さんたちは、どうか学校に頼らないで欲しいと思う。
私はまだ、偉そうなことが言える立場ではないし、子どもも産んだこともないし、親の気持ちはわからないけれど、子ども側の気持ちならわかるので、この場を借りて言いたい。
子どもを救うことができるのは親しかいない。ということを。
普段、生活している中で、「プロ意識」のない人間と関わることはないだろうか。買い物に出掛けた先の店員さん、通勤で利用する電車の駅員さん・・・。だから教師だって一緒だと思う。「教育のプロ」だから安心だと思うのは大きな間違いだと思う。
もちろん、中にはすごく素敵な先生がたくさん居るし、私もそんな良い先生方に恵まれてこそ現在があるのだと思うが、そうじゃない先生もたくさん見てきた。
例えば、中学時代がそうだ。
時々、ちらほらと登場させている中学時代の話。私がこれまでの人生の中で最も辛くて二度と戻りたくない2年間。そして、唯一、自殺を考えた瞬間があるのが中学時代である。
私は、中学時代、バスケットボール部に所属していた。小学生の頃から、中学生になったらバスケ部に入るんだ。って決めていた。私の入学した中学はマンモス校と言われる1学年10クラスの学校。
バスケ部には、30人を超える同級生が入部した。
体育会系に所属すれば、当たり前の上下関係。入部してからの約1年、私たちはボールにほとんど触らせてもらうことができず、声出しだけの毎日を過ごした。
2年目を迎えようとしたある日、あと半年で自分たちの時代、自分たちの天下がやってくるハズのある日、隣の中学校から、怖いと有名な教師がやって来た。
その日から私たちの生活は一変することになる。
言葉の暴力も今なら間違いなく体罰として問題になるようなことも全て受けてきた。もちろん、私だけじゃない。同級生全てと、後輩たちもそうだ。
ある時は、全員並ばされて、端から順にビンタを受けた。
ある時は、バットを持って現れた。
ある時は、グラウンドを100周走らされ、そしてある時は、練習に参加することが許されず、来る日も来る日もコートの端に立たされた。
倒れるチームメイトもたくさん居たし、過呼吸の手当てだってすっかり身についてしまった。走りすぎによって、疲労骨折になる子もいたし、当の私も少々の理由では休むことができなかった為に両足のじん帯が伸びたまま、現在に至っている。
それが、わずか14歳や15歳の子どもにとってどれ程の恐怖であり、苦痛であるか想像できるだろうか。
中には、そんな仕打ちを親に相談するチームメイトが居た。もちろん、親は文句を言いに学校に来る。そうすると、親に相談したその子は、もっとヒドイ目に遭うのである。
もちろん、その後、親が来ることは無い。なぜならば、その恐怖を受けた生徒は、その後二度と親に相談することができなくなるからだ。
ある生徒は、担任に苦痛を訴えた。
もちろん、前述と同じ目に遭ったことは言うまでもない。
中学生の私たちはそんなことを経験し、あることを学んだ。
「教師は信用できない」
時々、私たちの様子を確かめに来る先生がいた。私たちに「○○先生、恐くない?」と聞きにくる先生も居た。
私たちは、決まってこう答えた。「そんなことないです。とっても良い先生です。」と。
そうして、たずねてくれた先生がその場を去ると私たちは、安心したように「本当のことなんて言えるか。誘導尋問になんて乗るか。」とお互いの意思を確認したものである。
子どもなりに、心配して聞いてくれているということは、良くわかっていた。でもその先生が本当の意味で自分たちを守ってくれない。守れない。ということも知っていたのである。
ある時は、以前は別の先生がバスケ部の顧問をしていたということを知り、「なんとかもう一度顧問をしてはくれないか」と部員全員で頼みに行ったことがある。
当時の私たちの顧問は女性で、しかも、まだ若かった。
私たちがその時頼みに行った教師は、男性で、明らかにその顧問よりも立場が上だった。だから私たちは「助け」を求めに行ったのだった。
事情もあるのだろうが、とにかく断られた。
そうして私たちは、また一つ頼るものを失わなければならなかった。
私がなんとか死なずに、いま、こうして生きているのは、自殺しか残されていなかった少女よりもちょっとばかり神経が図太かったことと、負けん気が強かったことと、相手が大人だったということだろう。私にはたくさんの仲間が居たから。大人よりも信頼できる友達が居たからだと思う。
だから、同級生(=自分と同じ子ども)から、いじめを受けた場合、心の拠り所がなくなってしまうのだと思う。
そういえば、中学時代、こんなこともあった。
同級生の男の子(仮にA君とする)に、ちょっと変わった雰囲気の子が居た。大人しくて、運動が苦手でクラスでも目立たないタイプだったが、落語好きで、たくさんの題目を暗記していた。
A君は、同級生の男の子たちの前で落語を披露し、笑いをとっていた。
そんな様子を私はそれほど気にかけることもなくやり過ごしていた。でも、なんだかおかしいことに気付き始めた。その内、女の子の間で、話題になり始めた。
「あれってもしかして無理矢理やらされてるんじゃない?!」って。
それは、どんどんエスカレートして、ついにそのA君は、職員室に逃げ込んだらしい。
実はこの話、ここからが問題である。
逃げ込んだA君に対し、先生たちは何もしなかったらしい。もちろん、そこまで追い詰めたたくさんの、クラスでも中心的な存在で、ちょっとばかし男前で、先生からも女の子からもモテるタイプの男の子たちが、咎められることはなかった。
そんなことを知ったある日、私は担任に言った。
「先生、あれってイジメって言うんじゃないの?」(生徒としてあるまじき、タメ口・・・お許し下さい。悪魔で事実を正確にお届けしたくて 笑)と。
その時、苦笑いを浮かべるだけで、何も答えることのできなかった担任の姿は、今でもハッキリと覚えている。
それから、そういったことが女の子たちの間で、問題になり、冷ややかな態度を取り始めたことと、一人の信頼すべく強い男の先生の力によって、(かどうか記憶は定かではないが・・・)大事には至らず、その後A君が職員室に逃げ込まなければならない事態はなかったように思う。
つまり、何が言いたいかというと、中学生はまだまだ子どもなのである。だから基本的に大人が恐いし、頼りにもしている。だけれど、頼りにならないことも理解してしまえる年頃なのだ。
だから、もし、自分の子どもに異変を感じたら、徹底的に守ってあげてほしい。学校や教師に頼りきっている場合じゃない。その子が安心して通うことができる状態になるまで、親がとことん介入していくべきだと思う。(中途半端ならやらない方がマシなので、お間違えなく。)
もしもクラブでいじめられているのなら、辞めさせることだって1つの手だと思う。そうして辞めることは、何もその子のせいじゃない。それによって「物事を最後までやり遂げることのできない人間になる」なんてことは絶対ない。
そのことは、私が実際に経験しているので自信を持って言える。途中でそんな馬鹿げたクラブを辞めていったチームメイトも、最後まで所属し、引退の日を迎えた私も今となれば別に何も変わらないから。
生きてさえいれば、これから楽しいこともたくさんあるかも知れないのに、辛いことしか知らず、一番辛い状況のままに、自分の手で自分の命を奪わなければならないなんて、あまりにもかわいそうなことだと思う。
だから、全国のお父さん、お母さん、自分の大切な子は自分でしっかり守りましょう。
私はその子のことは何も知らないし、その子が通う学校のことも、部活のことも何もしらないけれど、「『うざい』などの言葉が直接の自殺には結びつかない。」と平然と言ってのける校長の会見にますます怒りがこみ上げてしまった。
自殺に結びつく言葉なのかどうかって、他人が判断することなのだろうか。
全く意味がわからない。
どうやら、最終的に学校側は自殺の原因がいじめによるものだと、認めざるを得なくなったようだが、今、子どもを持つお父さん、お母さんたちは、どうか学校に頼らないで欲しいと思う。
私はまだ、偉そうなことが言える立場ではないし、子どもも産んだこともないし、親の気持ちはわからないけれど、子ども側の気持ちならわかるので、この場を借りて言いたい。
子どもを救うことができるのは親しかいない。ということを。
普段、生活している中で、「プロ意識」のない人間と関わることはないだろうか。買い物に出掛けた先の店員さん、通勤で利用する電車の駅員さん・・・。だから教師だって一緒だと思う。「教育のプロ」だから安心だと思うのは大きな間違いだと思う。
もちろん、中にはすごく素敵な先生がたくさん居るし、私もそんな良い先生方に恵まれてこそ現在があるのだと思うが、そうじゃない先生もたくさん見てきた。
例えば、中学時代がそうだ。
時々、ちらほらと登場させている中学時代の話。私がこれまでの人生の中で最も辛くて二度と戻りたくない2年間。そして、唯一、自殺を考えた瞬間があるのが中学時代である。
私は、中学時代、バスケットボール部に所属していた。小学生の頃から、中学生になったらバスケ部に入るんだ。って決めていた。私の入学した中学はマンモス校と言われる1学年10クラスの学校。
バスケ部には、30人を超える同級生が入部した。
体育会系に所属すれば、当たり前の上下関係。入部してからの約1年、私たちはボールにほとんど触らせてもらうことができず、声出しだけの毎日を過ごした。
2年目を迎えようとしたある日、あと半年で自分たちの時代、自分たちの天下がやってくるハズのある日、隣の中学校から、怖いと有名な教師がやって来た。
その日から私たちの生活は一変することになる。
言葉の暴力も今なら間違いなく体罰として問題になるようなことも全て受けてきた。もちろん、私だけじゃない。同級生全てと、後輩たちもそうだ。
ある時は、全員並ばされて、端から順にビンタを受けた。
ある時は、バットを持って現れた。
ある時は、グラウンドを100周走らされ、そしてある時は、練習に参加することが許されず、来る日も来る日もコートの端に立たされた。
倒れるチームメイトもたくさん居たし、過呼吸の手当てだってすっかり身についてしまった。走りすぎによって、疲労骨折になる子もいたし、当の私も少々の理由では休むことができなかった為に両足のじん帯が伸びたまま、現在に至っている。
それが、わずか14歳や15歳の子どもにとってどれ程の恐怖であり、苦痛であるか想像できるだろうか。
中には、そんな仕打ちを親に相談するチームメイトが居た。もちろん、親は文句を言いに学校に来る。そうすると、親に相談したその子は、もっとヒドイ目に遭うのである。
もちろん、その後、親が来ることは無い。なぜならば、その恐怖を受けた生徒は、その後二度と親に相談することができなくなるからだ。
ある生徒は、担任に苦痛を訴えた。
もちろん、前述と同じ目に遭ったことは言うまでもない。
中学生の私たちはそんなことを経験し、あることを学んだ。
「教師は信用できない」
時々、私たちの様子を確かめに来る先生がいた。私たちに「○○先生、恐くない?」と聞きにくる先生も居た。
私たちは、決まってこう答えた。「そんなことないです。とっても良い先生です。」と。
そうして、たずねてくれた先生がその場を去ると私たちは、安心したように「本当のことなんて言えるか。誘導尋問になんて乗るか。」とお互いの意思を確認したものである。
子どもなりに、心配して聞いてくれているということは、良くわかっていた。でもその先生が本当の意味で自分たちを守ってくれない。守れない。ということも知っていたのである。
ある時は、以前は別の先生がバスケ部の顧問をしていたということを知り、「なんとかもう一度顧問をしてはくれないか」と部員全員で頼みに行ったことがある。
当時の私たちの顧問は女性で、しかも、まだ若かった。
私たちがその時頼みに行った教師は、男性で、明らかにその顧問よりも立場が上だった。だから私たちは「助け」を求めに行ったのだった。
事情もあるのだろうが、とにかく断られた。
そうして私たちは、また一つ頼るものを失わなければならなかった。
私がなんとか死なずに、いま、こうして生きているのは、自殺しか残されていなかった少女よりもちょっとばかり神経が図太かったことと、負けん気が強かったことと、相手が大人だったということだろう。私にはたくさんの仲間が居たから。大人よりも信頼できる友達が居たからだと思う。
だから、同級生(=自分と同じ子ども)から、いじめを受けた場合、心の拠り所がなくなってしまうのだと思う。
そういえば、中学時代、こんなこともあった。
同級生の男の子(仮にA君とする)に、ちょっと変わった雰囲気の子が居た。大人しくて、運動が苦手でクラスでも目立たないタイプだったが、落語好きで、たくさんの題目を暗記していた。
A君は、同級生の男の子たちの前で落語を披露し、笑いをとっていた。
そんな様子を私はそれほど気にかけることもなくやり過ごしていた。でも、なんだかおかしいことに気付き始めた。その内、女の子の間で、話題になり始めた。
「あれってもしかして無理矢理やらされてるんじゃない?!」って。
それは、どんどんエスカレートして、ついにそのA君は、職員室に逃げ込んだらしい。
実はこの話、ここからが問題である。
逃げ込んだA君に対し、先生たちは何もしなかったらしい。もちろん、そこまで追い詰めたたくさんの、クラスでも中心的な存在で、ちょっとばかし男前で、先生からも女の子からもモテるタイプの男の子たちが、咎められることはなかった。
そんなことを知ったある日、私は担任に言った。
「先生、あれってイジメって言うんじゃないの?」(生徒としてあるまじき、タメ口・・・お許し下さい。悪魔で事実を正確にお届けしたくて 笑)と。
その時、苦笑いを浮かべるだけで、何も答えることのできなかった担任の姿は、今でもハッキリと覚えている。
それから、そういったことが女の子たちの間で、問題になり、冷ややかな態度を取り始めたことと、一人の信頼すべく強い男の先生の力によって、(かどうか記憶は定かではないが・・・)大事には至らず、その後A君が職員室に逃げ込まなければならない事態はなかったように思う。
つまり、何が言いたいかというと、中学生はまだまだ子どもなのである。だから基本的に大人が恐いし、頼りにもしている。だけれど、頼りにならないことも理解してしまえる年頃なのだ。
だから、もし、自分の子どもに異変を感じたら、徹底的に守ってあげてほしい。学校や教師に頼りきっている場合じゃない。その子が安心して通うことができる状態になるまで、親がとことん介入していくべきだと思う。(中途半端ならやらない方がマシなので、お間違えなく。)
もしもクラブでいじめられているのなら、辞めさせることだって1つの手だと思う。そうして辞めることは、何もその子のせいじゃない。それによって「物事を最後までやり遂げることのできない人間になる」なんてことは絶対ない。
そのことは、私が実際に経験しているので自信を持って言える。途中でそんな馬鹿げたクラブを辞めていったチームメイトも、最後まで所属し、引退の日を迎えた私も今となれば別に何も変わらないから。
生きてさえいれば、これから楽しいこともたくさんあるかも知れないのに、辛いことしか知らず、一番辛い状況のままに、自分の手で自分の命を奪わなければならないなんて、あまりにもかわいそうなことだと思う。
だから、全国のお父さん、お母さん、自分の大切な子は自分でしっかり守りましょう。
あなた自身も教師にひどい目にあったのですね。思いだしたくもないでしょうね。
教師、私達が子供だった頃はもっと信頼されていました。悪い事したときには平手で飛ばされるくらいにぶたれました。でも、好きでした。それは、我々子供達に愛情を持って接していてくれたからです。
高校の頃から、どうしようもない先生がいるものだと思うようになりましたが、それでも暴力教師はいなかった。
今、教職にある人は教育というものをどのように考えているのでしょうね。教えることに懸命になるあまり、履修不足なんて本末転倒なことを起こし、どうやら反省もしていないようです。ズルをして原因は週休2日になったからと、赤信号をみんなで渡れば怖くないと平気な顔をしている。長い目で見た場合、知識が偏った人間を輩出することになると言ったことが解っていないようですね。人を育てるということを忘れた学校、教師はむしろ害ですね。
教師の暴力とともに生徒間での「いじめ」、あってはならないこと。昔は、誰かしら庇って自殺に追い込むということはほとんどなかったのではなかろうか。
無視されたり仲間はずれにされることがどんなに辛いことか。いじめられる側にも問題があるということを聞くこともある。かりに問題があったとしても、皆で無視することはいけない事だ。悪いことだ。と納得・自覚するまで、集団生活が始まるときに新学年が始まるときに、いじめの有無に係わりなく話し合うことが大切なのではないでしょうか。
それと、抜本的には文部科学省と教育委員会。教育委員会を解体再編成しないといけないですね。マスコミはメスを入れることが出来るでしょうか。
まあ、私のことは、そんなに大したことでもなく、今となれば、武勇伝みたいなものですが・・・。
でも、当時はほんと辛かった。そして、そんな中でも、いつかこれが良い思い出に変わることがあるんだ。って信じてました。引退する時には、1年生大会で最下位だったチームがついには優勝だってしました。
それでも、全く嬉しくなかったんです。
引退するとき、少しは感動的なねぎらいの言葉が聴けるのじゃないか?!って期待しました。
ところが、「卒業するまでは引退じゃない。以上。」と言い残して去っていきました。
私がその時心の中で「ふざけんな!」と叫んだことは言うまでもありません。少しでも期待した自分が情けなくて・・・。それから15年経った今も、やはり嫌いなままです。
そんな、勝手な大人のことはさておき、私は「いじめ」が大嫌いです。(好きな人はいないと思いますが。)
だから、テレビで堂々と「いじめられる側にも問題がある」。と言ってのけたトミーズの雅や、赤井秀和だけはどうしても許せないので、彼らがテレビに登場すると必ずチャンネルを変えることにしています。
「イジメ」の何が嫌いかというと、それは必ず「複数対一人」という図式が成立しているからです。イジメを実行する人たちは、大抵、一人になると何もできない。
でも、人間である以上、他人と比べる意識、自分よりも下の人間を作ろうという意識は、なくならないので、「イジメ」がなくなることはないと思います。だから、大人が守ってあげなければならないと思うのです。私は当事者じゃないから、偉そうなことが言えるのかも知れませんが、なぜ、教師は守ることができなかったのでしょうか。
とても不思議でなりません。