虚空漂浪日記

魂の開放を求めて、右往左往。嫌われものの”宗教”の根本を捜し求める日記です。

最近いただいたコメントについて考えたこと。

2012-09-30 08:45:50 | 宗教
「恐れることはない、人はもともと天上の種族である」(ピタゴラス)

古代ギリシャの哲学者ピタゴラスは、ピタゴラスの定理で有名ですが、輪廻転生や魂の存在について深い理解を持っていたようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%BF%E3%82%B4%E3%83%A9%E3%82%B9(ピタゴラス)

さて、最近、随分と古いブログにコメントをいただきました。7年も前に書いたブログですので、一刀斎、覚えておりません!
もともと、このブログは宗教について考えるブログでしたので、初心にもどってコメントされた方の意見に沿って、少し考えてみたいと思います。
コメントの内容は、以下の通りです。


「宗教における客観 (宗教機関を離れた信徒) 2012-09-27 15:41:08

>宗教は極めて直感的であり、主観的であるからである。一方、学者はそれを相対化し、客観化しようとつとめるので、宗教の直感的かつ主観的な部分は欠落する可能性がある。

以前某教会に通っていた信徒です。
宗教の客観性は

1)歴史・哲学・地学等他分野との関連性を通じて、宗教の姿を他分野から浮かび上がらせる

2)人間の数だけある信仰・解釈に数多くあたる

事だと思います。
私は、ある宗教組織の説教が肌に合わなくなり、信仰としての宗教よりも学問としての宗教を学びたいと思っています。
個人的には、観念論である宗教を分析するには相当な知性(知性の定義も曖昧です)が欠かせないと思います。
直感と主観が優勢である宗教分野においては、どうしても押しつけや対立が起きやすいと感じています。

大学院以上の教育を受けずして「特定の宗教」を客観的に語れるようになるのだろうか?というのは常々感じる疑問です。
この分野に親しむ人間の8割強は主観に溺れているのではないでしょうか。」


宗教を離れた信徒さんを”X”さんと呼んでおきましょう。

私の意見では、Xさんの言われているような、現代の学問によって宗教の”姿”が現れるかというと非常に疑問に思います。
私は、宗教とは”実践”にあるのであって”学問”するものではないのだと思います。
かく言う一刀斎が”実践”をしてるかと言うと、何もしておりませんが

個人的に宗教を”学問”として学びたいというのは自由ですが、それで宗教の本質が知りえるかというと、ほとんど不可能でしょう。
何故なら、現代における宗教に関んする”学問”の範囲は上っ面を触る程度の深みであり、その本質に到達しえるものではないからです。
宗教を”学問”するということは宗教の本質を獲得する過程の”通り道”に過ぎず、大枠を知る程度にすぎないと思います。

宗教の歴史を眺めてみますと、実践から学問へと変遷するにつれて堕落し、最後はほとんど”化石”化してしまったのは事実です。悪くすれば”悪魔教”へと内実そのものが変化してしまいます。
イエスが教えたことを思い起こしてください。中世のキリスト教は明らかに”悪魔教”です。近代のキリスト教は、欧米の信者以外の原住民(日本人も入るんですよ!)を人間ではないと宣言し、大量虐殺、奴隷制への道を切り開いた張本人達なのです。これが”悪魔教”以外の何なんでしょうか?

仏教! 今、目の前にある日本の仏教を見てください。ゴータマさんが教えた内容と全く違うものが我々日本人の前に繰り広げられていませんか?

学問することと、教えの根本を思考することは全く違うという発想法から、私はこのブログを書いてきました。
長い年月を費やして、今の結論に至っています。
”宗教とはこちら側からあちら側への逝き方だ!”ということであり、”その逝く過程において、こちら側で獲得すべき、正しいあり方を認識し、生き、そして実践することである!”ということだろうと思っています。

人間の本質は”魂=霊”であり、これは不滅ではありますけど、ある次元に束縛されるという認識は必要に思います。それはこの世のあり方によって決定され、自らがそれを為すという点において、この世=あの世における自由が保障されているのです。

宗教は色々な時代、時代におき、地域によって異なるように思われますが、その”本質的を絞り出す”とある一貫した共通点が見出されるのです。
現代の宗教学は、多分、思うに宗教の本質を追い求めるというものではなく、各宗教の外ずらを触る程度のもでしかないと思うのです。
何故なら、宗教を語る学者は”真実”を求めているわけではなく、単に知識としての”宗教”を知っているだけだからです。

宗教についての解釈についてですが、私のブログをご覧になると答えが書いてあります。
あちらの世界は多次元界であり、様々なアプローチが向こうからくるのです。多様であるのが当然の現象なのです。
無論、それを受け取る側の人間も多様になり、宗教に対する理解、解釈も多様であるのも当然であると思います。
ですから、この宗教は正しく、この宗教は正しくないという態度を一刀斎はとりません。
日本の神道はアミニズム的ですが、八百万の神という発想法は、必ずしも間違いではないのです。
一方、一神教の神を想定することも間違いではありません。正しくは、創造(主)は取りあえずは”一つ”なのですから。ここで、取りあえずと言っている意味は明かしません。

学問としての宗教を学びたいということでしたら、あくまでも”宗教の本質とは何か!”という点を追及する手段として学問することをお勧めします。
そこに新たな信仰が”X”さんに生じるのではないかと期待して


また、お会いしましょう。




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2 コメント

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ブログ (花水木)
2012-10-07 21:09:35
ブログに挑戦します。

これ以上忙しくなったらどうしょうとおもっていましたのですが、いつかはやらなければと・・・・・。
何しろ、絵を描こうかなーと何年もおもっていましたので
思い切ってブログの申し込みしたのですが、写真や絵をどうやるか、試行錯誤です。ホントはボーッとしていたいのですが。途中でやめる予感がしないでもないのですが、原発問題いろいろな目線で表現できたらと、

私の中では宗教は拝みさんのおかげで、中性化してしまいました。今は世間の人たちの動向に目を白黒しています。
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頑張ってくださいね (拝 一刀斎)
2012-10-09 14:07:17
花水木さん、お久しぶりです。
そうそう、以前、絵を描くといってましたねw
私も写真の取り込みがよくわかっていません><;
その都度、どうだったかなぁ~と考えながらやってますけど、面倒になると放棄ですw。
人生、それほど長いわけではないので、色々と挑戦するのはそれはそれで楽しいのではないかと思います。
頑張ってくださいねw。
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