アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

空海と現代人のうつ病

2016-07-02 06:18:42 | 密教
◎出家前の厭世観

空海は三教指帰で、自分の出家前の気分を説明している。

『こうして私は世俗の栄華を一念一念に厭うようになり、山林にたちこめるもやを朝夕に慕うようになった。

軽くてあたたかい衣服を着、肥えた馬にまたがり、流れる水のように速い車に乗る暮しを見ては、稲妻や幻のような無常のありさまを歎く心がたちまちに起こり、醜い者や貧しい人を見ては、前世の業の報いを悲しむ心がやまなかった。

目に触れるものはみな私に出家をすすめた。吹く風をつなぎ止めることができないように、だれがこの出家の志を止めることができようか』
(弘法大師空海全集第六巻/筑摩書房P6から引用)

空海も無常で厭世な気分に陥った。うつ病になると厭世的な人生観になる。うつ病には6人に一人が罹る時代(うつ病の生涯有病率は13~17%)。

空海
がうつ病だったとは思わないし、うつ病の人がほとんど大悟したり神人合一したりするわけでもない。

一方で、およそ悟る者は、あらゆる実感を経た者であるとされる。あらゆる体験をし尽くし、あらゆる実感をほとんど終えて、そこにすべてが空しいと感じる気分が起こる。釈迦も一休も道元も。仏教といえば厭世。

うつ病が日本でこれだけ蔓延しているのを見ると、現代人のかなりの割合が輪廻転生の最後のサイクルに近い人が転生してきているという巷間の説にも根拠がないわけでもないように思う。

冥想をすればうつ病が治癒するというものではないが、それでも坐るのが求道者。

参考:厚労省HPの「地域におけるうつ対策検討会報告書」に掲載されている「うつ対策推進方策マニュアル  -都道府県・市町村職員のために-」http://www.mhlw.go.jp/shingi/2004/01/s0126-5b2.html
から以下引用

『うつ病を疑うサイン-自分が気づく変化
1. 悲しい、憂うつな気分、沈んだ気分
2. 何事にも興味がわかず、楽しくない
3. 疲れやすく、元気がない(だるい)
4. 気力、意欲、集中力の低下を自覚する
(おっくう、何もする気がしない)
5. 寝つきが悪くて、朝早く目がさめる
6. 食欲がなくなる
7. 人に会いたくなくなる
8. 夕方より朝方の方が気分、体調が悪い
9. 心配事が頭から離れず、考えが堂々めぐりする

10. 失敗や悲しみ、失望から立ち直れない
11. 自分を責め、自分は価値がないと感じる など 』
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白楽天

2016-07-01 05:36:25 | 冥想アヴァンギャルド
◎強酒

唐代の詩人、白楽天は、禅にも浄土にも道教にも関心が深く、非想定という言葉を詩に登場させたり(晏坐閒吟)、浄土に向かう秘密結社まで作った。

白楽天の詩。
『強酒   

若し坐禅して 妄想を銷せずんば
即ち 須らく吟醉して  狂歌を放(ほしいまま)にすべし。
然らずんば  秋月 春風の夜
争(いか)でか 閒(かん)に往事を思ふを 那何んせん。』

坐禅して妄想が消えなければ、酒を食らってカラオケで歌いまくろうというような詩であって、不真面目ではある。酒は、それを紛らすが、紛らせている自分を残している。
酒の酔いにて意識は狭くなり、その中で過ぎ去った過去のことどもが、やはり念頭から消えない。

こうした正面からの取り組みを避けた生活には、人間は慣れやすいもので、ともすれば何十年も何百年も繰り返してしまう。
厳しく見れば白楽天は、宗教フリークであったが、菩薩(大悟が条件)や真剣な求道者とは言えない。
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人間性という渇望

2016-06-30 05:28:53 | 丹田禅(冥想法8)
◎なにもかもなしであるはずの禅

世界中のトップエリートが集う禅の教室(川上全龍/角川書店)では、相変わらずの禅をやるメリット強調の信者集めと『なにもかもなし』であるはずの純禅の相剋を改めて感じさせられたものだ。

唐末の禅僧趙州は、120歳の人生を極貧に生きた。いつも脚を補修した椅子に坐って人に応対したが、信者等から新品や中古のちゃんとした椅子を上げると言われてもすべて断り、別の部材で脚を補修し、その壊れ椅子をなおも使い続けたという。
それでも何の問題もないことを知っていた。

そういう家族も持たない、財産も持たない純禅の師家本来のありかたの方を強調せず、スティーブ・ジョブズなど有名人が参加しているなどと関係ないことで客引きをするなど、その姿勢が問われる。

普化は、臨済と一緒の食事招待の席で、テーブルを蹴り倒したが、そういうあり方では、テーブルを蹴り倒されようというものだ。普化は、死んで棺桶に入ったのではなく、棺桶に入ってから死んだ。

ダンテス・ダイジの詩に
『楽しさをあこがれ続けるらしい

運命はあるらしい
冬が終わって春が始まるように
運命を改善するテクニックもある
天命に流されるというのもある
地獄のどうどう巡りもあるだろう

これも過ぎ去る
変易しないものが何一つないのであれば
一体、人間性という渇望に
何が言えるというのだ

それでも人間性は
楽しさをあこがれ続けるらしい』
というのがある。(老子狂言から)

現代人は禅だけではつまらないところまで来たのかもしれない。
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世界中のトップエリートが集う禅の教室

2016-06-29 05:42:44 | 丹田禅(冥想法8)
◎目的を持って坐る

世界中のトップエリートが集う禅の教室(川上全龍/角川書店)は、目的を持って坐ってはいけないという禅の基本中の基本からすれば、逸脱した内容であった。

マインドフルネスが世界的に流行し、自分の内面を見つめることで自制心や創造性を発揮しやすくなることが知られてきたことが大きいとはいう。

彼は禅の坐法をすることで今を大切にし、今の一瞬のパフォーマンスを最大にするための心的トレーニングが禅であるとするが、これぞ目的や狙いを持った禅であり、問題がある。
また彼は、禅の価値観をあるがままの状態を把握するために主観を排すと称しているが、それが外から来る、教条、イデオロギーと同列の信念、信条から禅を行うという誤解を生じさせかねない。

禅を行う利を以て人を引きつけるという方便はあるのだと思う。でも禅語録のどこを読んでも、取りつくしまがなく、説明をしないのが、禅でいう親切であり、禅らしいところではある。でないと、外にはいるはずのない牛を発見するはずもないからである。

禅こそ無用の用。無用の用にメリットの入り込む余地はないはずなのだが。

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OSHOバグワン 無用の用を語る

2016-06-28 05:44:57 | 道教
◎マインドは逆のものを通じて動く

OSHOバグワンが無用の用を語る。
『卑小な精神だけが一貫性をもつ
マインドは狭ければ狭いほど、より一貫性をもってくる

マインドが広大であるときには
そこにはあらゆるものが巻きこまれて入っている

光があり、暗闇がある
神があり、また悪魔もある
すべてがその十全な栄光の内にある

もしあなたに
〈生〉のこの神秘的なプロセス、逆のものを通じて動く
この弁証法的なプロセスが理解できたら
逆のものどうしが助け合いバランスをもたらし
抑揚を生み背景を創り出すこのプロセスが理解できたら
そのときこそはじめてあなたは荘子を理解できる』
(虚空の船(下)/バグワン・シュリ・ラジニーシ/メルクマール社P49-50)から引用)

無用の用は死の側だが、死と生両方相まって、本当の完全性を実現する。荘子の時代から現代に至るまで、一貫して死の世界を無視してかかる片手落ちな文明が続いた。

そうした死の側を忌避するアポロン型文明である近代西欧文明は、EUの実現でピークを迎えたが、Brexit英国の離脱によって、ようやく大航海時代以来の世界覇権を失う第一歩を踏み出したように見える。
だからと言って今のアジアが、単なるパワ-バランスの反対方向への振れによって覇権を得たとしても、それだけで次の精神文明たる千年王国が実現するわけではない。逆のものを得るかどうかだ。
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内も外も中央も(荘子達生篇)

2016-06-27 05:35:56 | 道教
◎枯れ木のように無心に立つ

荘子達生篇に、魯の国の単豹という隠者は、世俗の名利を捨て、山の岩穴に隠棲し、70歳になっても赤子のような色艶をしていたが、結局虎に喰われてしまった。一方張毅という者は、高貴の家も貧賤の家もくまなく奔走して交際を行っていたが、40歳になって熱病によって頓死した。

これを見て、孔子のコメントは、内を養うことに籠ってはいけない、外を養って目立ってはいけない。その中央に枯れ木のように無心に立つ(柴立)のがよい。この三者をゲットすれば、その名を極めることができるだろうと。

通例なら、内と外のバランスを言うのだが、ここでは中央を殊更に立てて三者鼎立を説く。最も重要なのは中央だが、枯れ木のように無心に立つことが基本であるとは、冥想の道である。
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蘇生と臨死体験

2016-06-26 06:34:00 | 冥想アヴァンギャルド
◎生きるということは他者に自分自身を差し出すこと

テレビドラマERで救急救命が日常的にあることを見て、人間の死は、蘇生プロセスの中で、何度も回避され得るというのが社会的に知られるようになった。

そうした蘇生科学の方面から臨死体験は改めて注目されるようになってきた。

アメリカの見習いプロテニス選手だったローラリンという女性は、20分で終わるはずのありふれた手術の最中に、医師が誤って腹部大動脈に穴を開けたため、大量失血して心停止、死亡した。

彼女は、体外離脱し、手術台の自分の肉体を見た。
真っ暗闇の中に自分がいることに気がつき、地平線のかなたに温かなまばゆい光が見え、それが自分を手招きした。

更に亡くなった義兄に出会い、自分の人生を理解できるようにする旅に連れ出してくれた。彼と別れると同時に彼女は自分の肉体に戻った。

この後、彼女の人生で大きく変わったことが2点。一つは、この体験のあと、自分は「知らない土地にいる異邦人」のようだと感じるようになったこと。
また生きるということは他者に自分自身を差し出すことだと知ったこと。

彼女は、毎日、明日はないかもしれないと思って、その日を精一杯生きようとするようになったという。(以上のローラリンのエピソードは、「人はいかにして蘇るようになったのか/サム・パーニア&ジュシュ・ヤング/春秋社p172-173から抜粋」)

臨死体験は、無数のレベル、無数の体験があり、バラついているが、これは十牛図でいう第三図見性は通過している。なかなかこういうのはない。地平線のかなたに温かなまばゆい光を見たのは、神に出会ったこと。そして「自分は「知らない土地にいる異邦人」のようだと感じるようになった」ことは、大悟を経た禅者の人生観に等しい。

死者がすべて悟れるわけではないように、臨死体験者すべてが、臨終正念、覚醒するわけではない。ただ、大悟すれば、彼女のように、『生きるということは他者に自分自身を差し出すことだ』と知り、無私(諸悪莫作 衆善奉行)を生きるのが自然になる。

この世界観は、戦中の滅私奉公を批判する左な人々からは叩かれるかもしれないが、人間の自然はそうなっているのだから仕方ない。
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リフトンのカルト基準

2016-06-25 07:34:01 | 冥想アヴァンギャルド
◎全体主義の偽物を越えて

洗脳研究で、先駆的業績となったリフトンのカルトの基準は、次のようなものである。

1.環境のコントロール
信者の自由な外部・内部との通信、コミュニケーションを支配、管理する。

2.神秘的な人間操作
カルトの神秘的目的のために信者全体の行動を規制する。主神のために・・・・・、○○教祖のために・・・など。

3.純粋性の要求
罪と恥、純粋と不純、善と悪、正と邪というような二元性を認めず、自分たちが絶対に正しいという純粋性を堅持させる。

4.告白の儀式
犯してもいない罪を告白させたり、人為的に誘導されてやった罪を告白させられて、劣等感を植え付けられる。これはカルトに対する忠誠を試す儀式でもあり、カルトに対するスパイ発見儀式ともなる。

5.神聖なる科学
カルトは必ず全体主義的組織だが、その正統性をサポートする神聖な教義が付随しているものだ。その神聖さに疑問をさしはさむことは禁じられている。

6.特殊用語の詰め込み
カルト内部でしか通用しない用語がどっさり押し付けられる。こうした神話への信仰を強化したり、カルトへの忠誠心を疑わせないような理論に関する標題とスローガンを暗誦、復唱、合唱させられたり、資格試験を受験させられたり、教義本や教団誌を買わされたり。

7.教義の優先
教義に合致しないデータや人間の経験を一切捨象し、教義の絶対化を図る。現実に起こっていることより、教義優先。

8.存在権の分配
カルトの全体主義的環境は、存在権を認められる者と、その罪により認められない者の2種類に分けられる。認められないものは、常に自分の消滅、絶滅の恐怖にさいなまれ、深刻な葛藤を生きているものだ。カルトは、アンチ・カルトの信者の生存権を認めないほどのきっちりした全体主義的論理構成で組み上げているものだ。


新興宗教も伝統宗教もこうした属性の一部は該当すると思うが、いまやどの宗教が正しいか正しくないかではなく、その人物が正しいか正しくないかが真っ先に問われる時代になったのではないか。

その教団に属しただけでは何も変わらないが、自分が悟るかどうか、勧誘した人は悟っているのか、リーダーは悟っているのか、悟った人を多く出しているかどうかがキーになっているのではないか。

日本人は、なんだかんだ言っても国家神道という外から見たらカルトみたいな強烈な体験を経てきているので、カルト的なものに対して社会的に感情的な親和性はあるのだろうと思う。

ただしそれが吉と出るか凶と出るかは、日本人の今からの冥想に向かう気持ちがどれほどのものかによる。

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獺祭魚

2016-06-24 07:11:31 | 時代のおわり
◎名前でもなく、値段でもなく、感覚刺激でもなく

礼記は、礼儀作法の根本であって、古来礼儀は凡そこの書によって学んだもの。
礼記の月令第六では、正月ともなると東風が凍結した川や湖や沼地の氷を溶かし、穴に潜っていた虫が動き出す。魚は氷の上に姿を現し、カワウソ(獺)は川べりに魚を祭り、鴻や雁も南方から飛び来る、と示す。

カワウソ(獺)は取った魚を並べるのが、人が先祖の霊を供養する供物を並べる様に似ているので、獺祭魚。

晩唐の詩人である李商隠は、詩作の際に多くの参考書を周囲に並べるように置き、豊富な典故を引いたので、自ら獺祭魚と号した。

明治の正岡子規は日本新聞社に入社して、新聞記者となり、「獺祭書屋俳話)」を連載し、俳句の革新運動を始め、自らの号も獺祭書屋主人とした。

ものを集めるのは楽しいこともあるが、その病が病膏肓に入れば、自らを獺祭魚と呼ぶようなこともあろう。いまはどの業界でもデータという魚を膨大に並べてみないと全容と傾向がわからないことになっている。集めた魚は目に見える部分であって、本質の半分は目に見えないところにある。それを皆知っているから獺祭魚と自嘲する。

近所のスーパーで獺祭入りましたとて、値段を聞いたら、等級も言わずに1.8Lが18千円で、1Lが8千円という。ひところに比べ、最近は日本酒の値段も下がったが、千寿久保田万寿久保田もピーク時はこんなだったかもしれない。

名前でもなく、値段でもなく、感覚刺激でもなく。
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禅の孤独と寄る辺なさ

2016-06-23 05:37:14 | 丹田禅(冥想法8)
◎枯淡、峻厳、孤独

伝灯録15の洞山の章から。 洞山の室に、燈明もつけないで真っ暗なところに、一人の僧が参禅にきた。先生とは洞山のこと。

『ある夜、灯明に火がついていなかった。僧がでてきて、質問した。あとで、先生は侍者に火をつけさせて、今の僧をよび出させる。僧は、進みよる。

先生、「二つぶ三つぶ、香をもってきて、この上座にやってくれ」
僧は、袖をはらってさがるが、これがもとで道理に気付く。そこで、衣を売りはらって、大
衆に供養した。

僧は三年たって、先生にいとまをつげる。
先生、「気をつけてな」
ちょうど、雪峰がそばにひかえていて、こうたずねる。
「この僧、あんなふうに出ていって、いつ帰ってくることか」

先生、「あいつは行くことしか知らん、再来はできまい。」
僧は僧堂にかえり、自分の座席で、坐ったまま死んだ。雪峰がやってきて、先生に報告する。
先生、「それにしても老僧とは、三度生まれかわるほど距離がある」』
(禅の山河/柳田聖山/禅文化研究所p458から引用)

この僧は、暗がりで香をもらって大悟した。そして3年を洞山の下で過ごしたが、自分の座席で坐ったままの往生となった。誰も看取ることもなく、殺風景な僧堂で一人で死んでいったのだ。

悟った者の務めは、更に得道の後進を出すこと。それなくして逝った僧と洞山には三生の差がある。

昨今中東から欧州の難民が多いが、人間は皆難民である。人生に仮の宿はあるが、人生の荒野に安住できる安全安心な家などない。来ることは来たが、どこかに行こうにも行く場所などない。

これが禅僧の世界観であって、枯淡、峻厳、孤独が好きだから禅画もあのように孤独で取りつくしまがないというわけではない。彼らは寄る辺などない世界に生きているのだ。その世界こそが真実の世界だが、それは大逆転の先にある世界なのだ。
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上州のINRI

2016-06-22 03:55:51 | キリスト者の秘蹟
◎日本の最初の宗教革命の時代

7世紀から関東への朝鮮人大移民が行われた。

666年冬、百済の男女2千余人を東国に住まわせた。百済の人々に対して僧俗を選ばず3年間国費による食を賜った。

716年五月 駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七カ国にいる高麗人1799人を武蔵国に移住させ、初めて高麗郡を置いた。

こうした関東への外国人の大量移民の最中の711年、上州高崎近郊に、多胡碑が建立された。碑文は、この地域を多胡郡とし、羊太夫に300戸を支配させるというもの。羊太夫は、超能力者であったという伝承が多い。翌年古事記が編纂される。

時代は下がって、江戸時代の平戸藩主松浦静山の甲子夜話によれば、旅館長崎屋にて上州の代官が紅毛人テツチンギに対し、羊太夫の墓から出てきたというご禁制の十字架を示し、鑑定せよと迫った。(『甲子夜話』巻之六十三 多胡碑十字架の事)

更に、先年、上野国にある多胡羊大夫の碑の傍より石槨を掘出したのだが、その中に古銅券が発見されて、その標題の字がJNRIだった。その後ある人が、蛮書『コルネーキ』を見ていたところ、この字がキリストの磔刑図の上方に描かれていたのを発見したというが、その意味ははっきり言わなかったという。(『甲子夜話』 続篇巻之七十三 多胡碑の傍より掘出す蛮文并考)

「JNRI」は、ラテン語のIesus Nazarenus, Rex Iudaeorumの頭文字をとった略語INRIのことであって(飾り文字のIとJは似ている)、"ユダヤ人の王ナザレのイエス"の意味で、西洋中世以前のイエスの磔刑図ではよく目にするところ。

中国におけるネストリウス派キリスト教は、635年阿羅本が始めて景教を中国に伝え、845年の会昌の破仏までは隆盛を誇っていたはずであり(大秦景教流行中国碑)、以上の話を踏まえれば、羊大夫は、キリスト教徒であった可能性が高い。

玄宗(712-756)の盛唐の時代には、日本は、道教の日本輸入を断ったが、それに先立ってキリスト教については、朝鮮からの大量移民に伴って、地域限定で認めていたということになろうか。

この混乱した時代の日本での宗教リーダーは、仏僧行基(668-749=日本国最初の大僧正)であり、日本での道教、キリスト教の差配、そして古神道の改竄である古事記の編纂の指導を行ったのは事実上彼だったのではないか。

この時代は日本の最初の宗教革命の時代であった。
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カルトの手口

2016-06-21 07:20:33 | 冥想アヴァンギャルド
◎堅気もカルトも同じ手口

カルトは、自我の確立していない青少年にとって特に危険であるとされる。

社会人になるというのは、ひ弱な自分にとっては、清水の舞台から飛び込むような大きな決心を必要とし、不安を伴うものであるが、同僚、先輩、後輩、上司、仕入先、販売先、同業者などの関係からいろいろな成功、失敗、所属先のありかたを繰り返し体験し、徐々に自分の立ち位置の確信を深めていくものである。

通常は、オープンな環境で漸進的に社会的自我の成長、固定化を進めていくのであるが、カルトはこのプロセスを一気に推し進めて、かつカルト以外の組織や関係性をほとんど一律に否定してかかるものであるから、一旦カルトにつかった人間がそれから抜け出す場合、精神病的症状を示す場合が少なくない。

カルトの手口は大別すると入信時の勧誘と入会後の束縛維持、脱会防止時の手段を択ばない対応と3種に分かれる。

入信時の勧誘は、アンケートだのヨーガ教室だの英会話だのあらゆる糸口が容易され、劣等感の植え付け・強化、恫喝、脅迫、催眠術、高額出費による生活の圧迫など、あらゆる手口が知られるようになっている。

カルトの世界観は、功利的、霊がかり的であり、教祖がいる場合は教祖を頂点にしたピラミッドであり、教祖のない場合は、新しい自分の発見を標榜しつつ、ネットワークビジネス的な組織発展と私利の両方の獲得をキーワードにした利益優先の、これまた金がトップに流れる組織になっている。

入信者は、ほとんど教団の奴隷と化し、あたら若い身空をむなしく過ごすことになる。それに気が付かないように、睡眠は不足がち、生活は貧しく、起きている時間帯の拘束はきつい。

脱会しないように金と財産を奪い、場合によっては身柄も拘束するのだが、それでも脱会させまいと教団の方はあらゆる法的手段を弄し、実力行使もする。

一回組織が出来上がると、組織は組織の維持拡大の論理のもとに非人間的に動きだすもので、個人の都合は無視されるのは、カルト以外でも同じなのだが。

カルトは、戦後大きく発展し、海外進出もし、海外カルトの日本侵入もあった。人間の精神をもてあそぶと金になることに気が付いてそれを応用しているのは、カルトのみならず、マーケティングで利用する実業であり、マスメディアであり、官公庁である。そういう目で見ればカルトの蔓延暴走を許し助長しているのは、我々自身であると思う。

だから一人でも半人でも神を知った人を出さねばならないのである。
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スーフィズム托鉢教団の心構え

2016-06-20 05:36:53 | 究極というものの可能性
◎禁欲、精神統一、冥想

沖ヨーガの沖正弘は、実際にスーフィズム托鉢教団に参加し、トランスの中で、鉄の鎖を身体に何度も打ちつけ、真っ赤に焼いた鉄棒を握り身体に当てた。

その托鉢教団入団時の心構えが次。

『「与えられなかったら死ね」
「与えられないと怒るな」
「与えられようと諂(へつらう)うな」
「与えられたもののみを受けよ」
「一切不平を言うな。ただ感謝して受けよ」』
(冥想ヨガ入門/解脱・悟り・三昧/沖正弘/日貿出版社/P300から引用)

水も食物も人も苛烈な中東で托鉢をするというのは、まさにいつ死んでも不思議はない状態で実際に死ぬ人も少なくないのだろう。ここまでの覚悟がないと修行を続けられないということなのだ。

スーフィとは、白いスカートを穿いてホールみたいなところでくるくる回ってトランスに入って神を見るというのが平均的イメージだが、沖正弘が体験したスーフィ教団では、禁欲、精神統一、冥想を修行の中心に据えているので、極く正統的な構えの宗教といえる。

沖正弘の師匠が中村天風で、両氏ともディープアジアの特務として潜入調査を行った。任務として各宗派で修行したので、任務を捨てることができなかったのは残念だったように思う。

またこれら特務の情報を受ける側だったろう、東京裁判で中東方面の企画をしていた大川周明が発狂したとして断罪されなかったのは歴史の闇である。中東にはイスラムもユダヤもある。
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植芝盛平の三種の神器と十種神宝

2016-06-19 07:20:10 | 古神道の手振り
◎なにもかもなし(大虚空の丸)

合気道開祖植芝盛平の合気道の説明。

『「生あるものには必ず休みあり」休みの意義は生きる働きの生み所であります、四角の休み所を保つ場所であります。我々の身の内にはどなたにも三種の神宝と十種の神宝を与えられております。神が、一つの目的の大宇宙をつくられるに当たっては、大虚空をつくられています。何も無いということが大虚空の丸であってまた大虚空の目的であります。

この大虚空が一霊四魂三元八力の御心御姿御振舞いが、一つの御姿であります。

合気もまたこれにならって、自分が天御中主となって、一霊四魂三元八力の御姿御振舞いを完成します。これに同化して宇宙の大神様の目的に向かって御奉公するのであります。

十種の神宝も、三種の神器もみな、吾人の身の内に与えられてあります。これを生命の動きとして取り出して自由に使わなければなりません。それについて、天の浮橋に立って言霊の妙用たる身内にある赤い血と白い血のたぎりによって、光も熱も力も発してきます。

それで、言葉は末の末でありますが、身の内の血のたぎりによって、すべてのものが一声出しても光と熱と力と同時に出て来て、一つの声でも四元(気流柔剛ウの働き)に結ばれて一つの力の姿を現わします。それによってすべての本を生み出すことになります。千種(ちくさ)の生み親となることになります。』
(合気神髄/植芝盛平/八幡書店P71から引用)

「生あるものには必ず休みあり」の休とは死の世界のことであり、死の世界は、生の産み親。
人間のボディには、既に三種の神器と十種神宝がある。

出口王仁三郎によれば、剣はボディ、まがたま(八咫勾瓊)は暦(太陽暦、恒天暦、太陰暦)鏡は言霊。言霊であるから、もともとは伊勢に天津金木を祀ってあったのが、時代が下がって金属鏡にした由(新月の光 下巻P71)。十種神宝を10チャクラとすれば、身の内に三種の神器と十種神宝は確かにある。

これらはディテールだが、最初の根本は、自分が天御中主となることで、神人合一を果たすことにある。天皇と同様、合気道でも、神事が第一なのだ。
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その健康で何を成し遂げるか

2016-06-18 06:18:11 | ハタ・ヨーガ(冥想法3)
◎聖の面と俗の面

1950年代から60年代にかけて大気圏内で核実験が繰り返されて以降、確実に乳がんの発生は増えた。そのうえ福島原発事故を経て、日本人は放射能による脅威にさらされている。
日本人の健康を脅かすものはそれ以外にもあり、水も空気も汚染された中国産の農作物、加工食品であり、外食産業、冷凍食品、加工食品を中心に膨大な中国産食品が日本で消費されているが、その汚染ぶりを描いた本を読むと、絶望的な気分になる。要するに野菜栽培ではどぶ水にもならないような汚れた水をかけて野菜を育てるみたいな生産段階から悲惨な中国農業なのである。

こうした中、一病息災やら無病息災やら人間は健康を求めていく。健康とは人間にとって何か。

インドで沖正弘の出会った130歳以上の長寿者は、割と食べていたが、笹目秀和の出会った500歳の仙人は、木の実などを食するがほとんど食べないに等しい。

中国の禅者趙州は120歳の長寿だったが、その生活は質素を極めた。インドのババジは千年を越えて生き、サンジェルマンは数百年を越えて生きる。

消化器官をある程度退化させてまで、異常な長寿を求めるのは、別の天命のある人たちだけ。

普通の人は、この危機の時代にわが天命を果たすべくとりあえず健康を求める。その天命をわかっている人もいればそうでない人もいる。自分にとって最高の伴侶に出会うチャンスは一生のうちに何度もあるものではないが、今や離婚率3割だ。天命をわかっている人の割合は、これだけでも少ないことがわかる。

ハタ・ヨーギ沖正弘は、病気とは異常なバランスのとり方であり、健康の秘訣はアンバランスを作らないこと、換言すれば無理をしないことだとする。

その無理とは、

1.からだのかたよった使い方
2.くつろぎの不足
3.運動不足
4.栄養の過不足
5.不要物の停滞と必要物の不足
6.感情の執着や欲求不満や消極的な思考作用による心理的かたよりと混乱のつづき』
(ヨガによる病気の治し方/沖正弘/白揚社P38-39から引用)

長年健康の道に携わってきた人の言であり、これで尽くされているのだと思う。問題はその健康でもって、今生で何をするかである。人間は聖と俗の両面を有し、聖とは、精神であり、悟りであり、太陽の側、俗とは物質であり、肉体と生活の維持であり、月の側。

イチローは、毎日カレーを食べて猛烈なトレーニングを繰り返して日米通算4257安打を放ったが、それで成し遂げたのは俗の側のことだった。
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