アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

審神なき世界

2016-07-29 05:40:22 | 冥想アヴァンギャルド
◎チャネリングという修行形態の評価

この時代は、人間が悪意を持つということに寛容であり、無感覚な時代である。審神とは憑依あるいは降臨した神がまず善神か悪神かを決めること。巷間では、「霊界では高位」の人物だと自称する人がしばしばあるが、その人の居る霊界が善なる霊界とは限らず、地獄的霊界であることはままある。
それを見分ける技術が審神(さにわ)である。

出口王仁三郎の審神論(霊界物語から)。

『総て神界には正神界と邪神界との二大別あるは、この物語を一ぺん読みたる人はすでに諒解されしことならむ。

されど正邪の区別は人間としていかに賢明なりといへども、これを正確に審判することは容易でない。邪神は善の仮面を被り、善言美辞を連ね、あるひは一時幸福を与へ、あるひは予言をなし、もつて審神者の心胆を蕩(とろ)かし、しかして奥の手の悪事を遂行せむとするものである。

また善神は概ね神格容貌優秀にして、何処ともなく権威に打たるるものである。されど中には悪神の姿と変じ、あるひは悪言暴語を連発し、一時的災害を下し、かつ予言の不適中なること屡なるものがある。

これらは神界の深き御経綸のしからしむところであつて、人心小智の窺知し得べき範囲ではないのである。

ゆゑに審神者たらむものは、相当の知識と経験と胆力とがもつとも必要である。かつ幾分か霊界の消息に通じてゐなければ、たうてい正確な審神者は勤まらないのである。世間の審神者先生の神術にたいしては、ほとんど合格者はないといつても過言に非ずと思ふのである。

 却説、盤古大神の注意周到なる審神はよくその効を奏し、邪神はここに化の皮をむかれ、一目散にウラルの山上目蒐けて雲霞のごとく逃げ帰つた。されど一度憑依せし悪霊は全部脱却することは至難の業である。

ちやうど新しき徳利に酒を盛り、その酒を残らず飲み干し空にしたその後も、なほ幾分酒の香が残存してゐるごとく、悪霊の幾部分はその体内に浸潤してゐるのである。この神憑りありしより、常世彦、常世姫、竜山別も、日を追ひ月を重ねて、ますます悪神の本性を現はし、つひには全部八頭八尾の大蛇の容器となり、神界を大混乱の暗黒界と化してしまつたのである。あゝ慎むべきは審神の研究と神憑りの修業である。』
(霊界物語第5巻第一四章 審神者から引用)

この霊界物語では、実力ある審神者が邪神を弁別してみせたが、かえってその結果世界は更に紛糾することになってしまったという。

現代では、力量ある審神者はまずいないが、利己主義、物質優先・金銭優先主義という邪悪な思想に侵された人が大半な中で、正統に審神をしてみせたところで、その結果は必ずしも喜ばしいものとは限らぬ。

帰神、神がかり、神降ろし、チャネリングという修行には審神者が必ず必要だが、審神者が適格であっても、神降ろしという修行形態がダメという評価なのである。

明治大正の当時ですら大神がかかる人は稀であった。いわんや現代をや。『私は悪人だから、あなたも悪人だろう』みたいなのが、あたりまえとされる人間関係ばかりでは、どうにもならない。本当に真善美を求める気持ちを洗い出していくいう方向性がないと、世界は落ちてゆくばかり。
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ファティマの感覚と情動の操作

2016-07-28 05:38:39 | 冥想アヴァンギャルド
◎マインド・コントロール技術の進展

1917年ポルトガルの一寒村ファティマに聖母マリアが出現し、空中に強烈な閃光がきらめいて、光の中心に、小さな美しい貴婦人が出現したり、ブーンという蜂の羽音のようなものが聞こえたり、目撃者全員が爆発音を聞き、小さな雲がヒイラギの木のそばから昇って行くのを目にしたりした。

また銀白色の卵型物体が出現し、青空にゆっくりと上昇して聖母の出現に先立って閃光がきらめき、付近一帯にはバラの花のような奇妙な甘酸っぱい芳香がただよった。さらに銀色に輝く見慣れぬ太陽が出現し、周囲にはさまざまな色光が放射され、火の車のように回転するようなことがあった。

こうして有名なファティマ第三の秘密がミステリーとして現代にも語り継がれている。

ところが、このような超常的感覚現象は、現代の脳科学等を利用した技術で引き起こし得るところまで来ているように思われる。人工的に脳波に近い電磁波を照射して、知覚のゆがみや見当識障害を引き起こし、一種のトランスを惹き起こし、そこで適当なビジョン、イメージ、暗示を与えれば、疑似ファティマの奇蹟みたいなことが起こし得るところまできているようなのだ。

ファティマの一連の奇蹟には、最後5千人も集まり、見慣れぬ太陽のジグザグ運動まで目にしたらしいが、こうした感覚やビジョンの操作技術のない当時のことではあるが、人々は大きく情動を動かされ、最後の審判が到来すると恐れおののいた人もいたようだ。

未悟の人は、誰が覚者か、どれがまともな宗教かを見分けることもできないが、こうしたマインド・コントロール技術の進展で、自分の情動や感覚すらも信じられない時代に突入していることも一つの脅威である。
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脳波操作

2016-07-27 05:40:12 | 時代のおわり
◎情緒操作、行動操作

冥想と脳でいえば、冥想中にはアルファ波が増えることが知られている。ちなみに脳波の周波数による分類は以下である。脳波は全体として1~14Hzの周波数の中に収まる。

δ波 デルタ波 1-3Hz
θ波 シータ波 4-7Hz
α波 アルファ波 8-13Hz
β波 ベータ波 14-Hz

脳波とは脳の電気活動だが、1990年代までにアンドレヤ・ブハーリック博士は、精神を活性化し気分や行動に変化をもたらすのは電磁波だということを把握していた。
研究室で脳波に近い微弱磁場を作ると特定周波数において人間は以下のような反応を示す。

『6ヘルツ―――頭痛
6.66ヘルツ以下―――吐き気、頭痛、混乱、憂欝な不安
7・8ヘルツ、8ヘルツ、9ヘルツ―――瞑想に達するアルファ波の発生、幸福感
10.35ヘルツ―――焦燥感、不安、敵意のある攻撃的な行動
11ヘルツ―――暴力的行為』
(電子洗脳/ニック・ベギーチ/成甲書房P112から引用)

これを見ると、悪用の方が容易なメニューが並んでいる。さらにこの周波数は地球上の万物を通過するため、狙われたら身を守るすべはないそうなのだが、旧ソ連は地球全体に5~15ヘルツの極低周波信号を無線で流し続けていたという。

地域ごとにまとめて流すことも可能だそうだから、地域住民の民心を不安定にしてしまうこともできるだろうし、別の技術を併せて特定の個人に無差別殺人を行わせるようなこともできないとはいえないのだろう。

宗教対立だけが無差別殺人の原因ではないことを皆承知しているが、こうしたファクターがあることも無視できない。

冥想するとアルファ波が出るから情緒安定に冥想は役立つなどと誇っていたのは、牧歌的な時代だった。
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新種の殺人マシーン

2016-07-26 05:41:17 | 時代のおわり
◎脳にも心にもファイア・ウォールがない

1950年代から米国、ソ連をはじめとする各国は人間の心身の健康に及ぼす最新兵器の研究に明け暮れていたという。

それ以前は、プロパガンダ、デマゴーグ、謀略など外部情報操作で、本人が騙されているという自覚のないまま間接的に人を操る手法が主流だった。ところが、1990年代に入ってから、人体を電磁波、音波、ICチップなどにより人体を直接騙し、操り、誤った情報を埋め込むだけでなく、外部から人体を操作する最強の人間操作システムが誕生しているらしい。
(以上参考:電子洗脳/ニック・ベギーチ/成甲書房)

これは、脳にも心にもファイア・ウォールがないことを応用したハードウェア的技術のことだが、NLPなどのように記憶や動機を操作し、人間をある目的のための行動を起こさせる技術が存在する。これは、民生技術としては、コンプレックスやトラウマなどの解消に適用されるのだが、軍事・情報的にもソフトウェア的技術として、人をある種の行動に駆り立てる技術としても応用可能であると思う。

昨今のマイアミのレストランでの銃乱射、ヨーロッパで相次ぐ、個人が自爆気味にやる少数の銃器を用いた乱射事件など、ちょっと頭のおかしい難民あるいは精神的に不安定なホームグロウンの青年がこうした洗脳技術によって、無差別殺人を犯させられているのではないかとピンと来ている人もあるだろう。

古くは、ケネディ大統領暗殺の実行犯の一人が催眠術で殺人を実行したのではないかという疑惑があった。最近ではオウム真理教による殺人で、一部の実行犯の中に完全に洗脳されていると思われる人物がいることが注目された。

こうした硬軟とりまぜた洗脳技術が実用段階に達し、実行犯の多くが自爆、自殺、あるいは射殺されるのでは証拠は残らず、いわばドローン並みの手軽な殺人マシーン、人間凶器が完成し、実用段階になったのではないかという憶測をも呼ぶ。

一方で人間の移動を操作するポケモンGOが出てきたのは偶然なことではないだろうと思う。
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タイ米を食べた頃

2016-07-25 05:32:16 | 時代のおわり
◎冷夏雑感

毎年7月23日前後は、梅雨空が突然終わって盛夏に突入するものだから、体調を崩しやすい時期である。今年は梅雨が明けずに、冷夏が続いている。こういう夏は珍しい。

冷夏過ぎて小学校ではプールが開かれず、米の作が悪くタイから米を緊急輸入したは良いが、あまりの味のまずさに驚いたのは1993年のことと、もう23年も前のことになる。

山では熊が人を襲うことが多いが、これはかつてなかった。これも15年くらい前から山形の蔵王の樹氷の付く樹木が枯れることから、原因が中国の大気汚染であることは知られていた。その後も山の樹木の枯死が進み、熊も養えないほどになったのではないか。

欧州の移民問題は、移民が散発的に無差別殺人を繰り返すのと、大型テロ組織がソフトターゲットの大量殺人を繰り返すので、日本国内の移民容認論は、重大な問題提起を受けている格好だ。外国人参政権も認めず、移民容認も認めていない現在であっても、沖縄県のように国策に従わない県が出てくるのを見れば、国家統治の点からこれ以上の地方分権の進展を認めていくのは厳しいのではないか。このように中国からの日本の混乱惹起策は、徹底している。

日本の貧困化は更に進展し、拡大し、進化している。いくつかの要因はあるが、貧困化の固定化要因として人材派遣業の存在は大きい。過去20年以上官公庁でも民間でも自らの経営改善のために積極的に人材派遣業などを介して正規雇用を非正規に置き換えてきたが、そのなれの果てが、今の若い世代の貧困化だ。この解決策の方向性は、平均で民間の倍の年収を得る役人の年収を半分にできるかどうかということになると思うが、平時ではそんなことはできまい。

だからといって、有事や天変地異やそれが起こった後の外国の指示(GHQから指示された憲法や皇室典範みたいに)を待って、それを行うのでは知恵がなさすぎる。政治家そして国民一人一人がそういう認識を持たないといけないが、大マスコミはまずそんなことは書かないから。

国民一人一人が、清貧に甘んじる覚悟がないとそんな時代にはならないが、今はその方向へのモチベーションはほとんどない。それでも一人一人が冥想を。
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ポケモンGO

2016-07-24 06:07:26 | 時代のおわり
◎今風の伊勢踊り、おかげまいり、ええじゃないか

ポケモンGOで、人々がスマホ片手に市街をうろうろしている。

日本には、古来伊勢踊り、おかげまいり、ええじゃないかと民衆が街頭に出て、表面的な宗教的興奮に誘われて、その土地で踊ったり、伊勢まで遊行したりと、しばしば大ムーブメントを形成した。

そのきっかけは神札が天から降るというものが多いが、目的を持って人が事前に神札をばらまいたというところだろう。中国でも神札が天から降ったという奇瑞は時々記録にあるが、神札が降っただけで世の中が改善するならば、印刷屋さんは世直し神としてあがめられちゃうだろう。

伊勢踊り:伊勢神宮のご託宣や奇瑞があった時に、人々が群れをなして乱舞する現象。江戸時代にもそれ以前にも見られた。

おかげまいり:江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣。奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣した。

ええじゃないか:慶応3年(1867年)8月から12月にかけて、近畿、四国、東海地方などで発生した騒動。「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ。」という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊ったもの。

今回は、事前に現代の神札ポケモンGOがダウンロードでばら撒かれ、人が乱舞している。

ポケモンGOで、事実上のゾンビが街を闊歩するのだろうが、それ自体白でも黒でもないが、後で見れば、冥想できる短い余暇時間をそれに宛てていたということになるのだろう。あの手この手で自分に向き合う時間を作らせまいと、時代はじたばたあがく。人と神のかい離は広がる。
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不死となる霊水アムリタを与える

2016-07-23 06:46:03 | 現代冥想の到達点
◎怒って飲まなかった人

チベット密教経典秘密集会タントラが糞尿オンパレードであることは書いたが、これについて承知しておくべきことがある。

一日、大聖クリシュナの求めに応じ、インドラ神は、ウッタンカ仙人に対し不死となる霊水アムリタを与えることになった。ところが、インドラ神は漁師の姿になって現われ、その尿としてアムリタを与えようとしたから、ウッタンカ仙人は怒って飲まなかった。

これについて、シャンカラがコメントする。
『〔聖者〕ウダンカは、〔ヴィシュヌ神が、武器を持ち恐ろしい形相の狩人に扮したインド
ラ神を介して甘露を与えようとしたが、それが狩人の尿の排泄器官から出ていたために、折角の甘露を〕尿ではないか、と考えて、甘露を受け取らなかったように(『マハー ・バーラタ』アシュバメーダ章五十四)、人々は、行為が止滅することを恐れて、アートマンの知識を受け取らない。』
(ウパデーシャ・サーハスリー 真実の自己の探求 [岩波文庫] シャンカラ/著 岩波書店P28から」引用)

行為とは有の世界、アートマン側のことであるから、行為が止滅とは、アートマンから先に進むことを云うと見る。或いは行為の主体である個我の止滅と見る。いずれにしても不死は人間に属することではない。

尿で与えるとは、無用の用の一つの表現のあり方。わびさびもその表現の一つだが、コミュニケーションにあたってインパクトはあるが、もっと説得力のあるものがないものか。
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信心銘

2016-07-22 05:32:37 | 丹田禅(冥想法8)
◎努力する事、しないこと

禅の三祖僧璨信心銘は、禅の文書中にあって神秘主義的な響きを持つ文章である。

その一部をOSHOバグワンが説く。まず信心銘本体。
『物事の深い意味が分からぬうちは、
心の平安はいたずらに乱される。
道は大いなる虚空のように完全だ。
足りないものも、余計なものもない。

しかり、いいとかいけないとか選り好みをするばかりに、
本当の姿が見えないだけだ。
外側の物事のもつれの中にも、
内側の空無の中にも、住んではいけない。

穏やかに、何を求めるでもなく、
大いなる一体性の中にとどまるがいい。

そうすれば、誤った物の見方は自ずから消えよう。
静寂を得ようとして、行動を抑えてみても、
まさにその努力が、かえって人を行動で満たす。
どちらか一方の極端にいるかぎり、
決して一体性を知ることはできない。
このただひとつの道に住まぬかぎり、』
(信心銘/ラジニーシ/禅文化研究所P49から引用)

この信心銘本文では、努力することの放棄を求め、それをなんとか放棄しようと努力することの悪循環を指摘する。
禅で悟りを得ようと努力するが、悟りはその努力の先にはないと言っているわけだ。

OSHOバグワンは、逆効果の法則(フランスの心理学者、エミール・クーエが提唱した法則で、努力すればする程、反対の結果になるというもの)を引いて、次のようにコメントする。

『老子、荘子、ボーディダルマ、僧璨、こういう人達はこの逆効果の法則の精通者だ、そしてこれがヨガと禅との違いだ。

ヨガはあらゆる努力をする。禅は努力をしない。そして禅は、どんなヨガよりも真実だ。だが、ヨガの方が人に受ける。なぜなら、あなた達に関するかぎり、することは易しいからだ。たとえ、それがどんなに難しいことでも、することは易しい。

しないことは難しい。「何もしてはいけない」と言われれば、あなたたちは途方に暮れる。』
(信心銘/ラジニーシ/禅文化研究所P53から引用)

大悟覚醒は、過去何回かの人生の経験と成熟と努力によるまともな方向性の集大成である。一朝にして突然鳶(とんび)から鷹が生まれるわけではない。

努力しないことについて、あらゆる工夫とノウハウを傾けているうちにその努力が落ちることがあるというものであって、なにもせず漫然としていれば、落ちるというものではあるまい。
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社会的成功ほど失敗する

2016-07-21 05:25:02 | 道教
◎人生の安物買い

この貧富の差が大きく、子供の貧困6割、非正規就業4割の下層が半数を占める時代に無用こそ真の用であることを理解させるのはなかなかむずかしい。千利休らが茶道具の値をつり上げて高く見せたのは、畢竟失敗だった。天下人秀吉に侘び数寄の無用の用を見せたのは、大成功だったが、後継者たちは軒並み茶道具の値の高さに目を奪われたきらいがある。

久松真一が茶道の徳を格調高く説明してみせたが、そんなに綺麗に説明できるものなら、世の中の茶の湯者はもっと増えていよう。

前世に荘子だったOSHOバグワンが荘子を語る。

『まわりを見まわしてごらん
成功した人々を見てみるがいい
政治家やら財産家、大実業家たちを
彼らにはどんなことが起こっているね?
彼らの所有している物を見るんじゃない
彼らそのものを直接見なさい

なぜなら物を見てしまったら欺かれる
物は胃カイヨウにならないし
車は心ぞう発作にもおそわれない
邸宅は入院することもない

だから物を見てはならない
見たらだまされる
人を見なさい

あらゆる所有物を取り除いたあとの
その人そのものを直接見るがいい
そうしたらあなたはそこに貧しさを感じるだろう
そうなったら乞食でさえ金持に見える
そうなったら、〈生〉に関するかぎり
貧乏人でさえずっと豊かであるかもしれない

成功は失敗する
成功ほど失敗するものはほかにない
なぜなら成功する人は〈生〉をつかまえそこなうからだ
あらゆるものをつかまえそこなうからだ

成功する人は実際安物買いをする
ニセ物のために本物を投げ捨て
浜辺にころがる色のついた小石のために
内なるダイヤモンドを捨ててしまう
小石を集めてダイヤモンドを失うのだ
金持とは失う人、成功者とは失敗者のことだ

だが、あなたがたは野心の眼で見るから
所有している物のほうを見る
政治家を見ないでその地位を見る
その大臣職を、その権力を見る

あなたはそこに坐っているまったく無力な
すべてを取り逃がしたその人をけっして見ない
歓びが一瞬とて垣間見ることすらないその人を・・・・
彼は権力を買った
が、その買物のなかで自分を失った
そしてそれはすべて安物買いなのだ』
(虚空の舟(下)/バグワン・シュリ・ラジニーシ/メルクマール社 P68-69から引用)
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猫的ライフ・スタイルの人

2016-07-20 07:09:11 | 時代のおわり
◎人と直接コミュニケーションせずに孤独にならない

絶海の孤島や山奥に行かなくとも、孤独な生活はある。ただ全く人を見ない生活は不便だし、ちょっと不安である。

気が向けばtwitterしたりlineしたりして、またたまにはリアルの人と喋ったりするけれど、ずっと喋ったりコミュニケーションし続けるのはしんどい。

他人とのコンタクトに気が向かなければ、一人でネットをしたりマンガを読んだり、テレビを見たりして自分の部屋にこもる。

最近の小学生だって、群れているのに各人が別々にゲーム機で興じるのが主流で、カードゲームを他人と一緒にやっているのは少ない。

一人だけど、毎日一人きりなのも寂しいから適当に他人がいるのが見えていて、それを眺めるのが丁度よい対人距離。

この距離感は実は同士の距離感でもある。猫も大体寝ていることが多いのだが、起きていても遊んだり、ごろごろしたり。群れていても適当に距離を置いて群れる。

なるほど最近はテレビによくが出るが、世の中に猫的ライフ・スタイルの人が増えたせいだとは、気が付かなかった。

冥想できる余裕はあるが、冥想のないルーティーン。死んでから、閻魔大王に一生の食事代を請求されないとよいが。
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終北国のこと-2

2016-07-19 03:02:18 | 道教
◎桃源郷の暮らしぶり


列子湯問篇の終北国の続き。終北国とは中国の地上天国のことであり、桃源郷のことである。

『人々の性質が素直で外物に従い、競わず争わず心が柔軟で身体はしなやか、驕らず忌み嫌わず、老いも若きも一緒に同居して、君臣の別もなく、男女は雑居して遊び、結婚も媒酌もない。

水辺に住んで耕作したりしないが、風土気温が温和なので、布も織らず服を着ることもなく、病気もなく若死にもなく百歳で死ぬので、人口は増えていく。嬉しく楽しいことだけなので、病気や老化での耄碌、哀しみ苦しみはない。音楽を好むのがこの土地の風俗で、一緒に歌を歌い合い、一日中曲の止むことがない。

飢えたり倦きたりすれば、神フン(サンズイに糞)の水を飲む。すると体力も気力も回復するが飲み過ぎると酔って、10日過ぎないと醒めない。神フン(サンズイに糞)の水で沐浴もして、肌つやがあり、香気は10日も残っている。』

これは、中国の千年王国だが、その人々が裸体で暮らすことを面妖に思う人もいるだろう。ところが、出口王仁三郎の説くとおり、人は裸体で生れて裸体で天国に復活する。霊界物語でも第一天国に住む天人達は真裸体である。(上天国=第一天国、中間=第二天国、最下=第三天国)

なお、この地上天国では人間は老いるが、出口王仁三郎は、天人五衰を一部否定している。
『天国の団体にある天人は、何れも男子なれば現界人の三十才前後、女子なれば二十才前後の若い姿である。この故は現界人の肉体は物質界の法則に由つて、年々に老衰して頭に白雪を頂き、身体に皺の寄るものであるが、人間の霊魂や情動は不老不死であつて、どこまでも変らないものだから、精霊界の天人は年が寄つても、姿は変じない。

 故に、現界において八九十才にて死んだ人間も、精霊界の天国へ復活した後は、その強壮な霊魂のままで居るのだから、決して老衰するといふことは無い。天人にも五衰といふ説があるが、それは決して天人の事ではない、霊界の八衢に彷徨してゐる中有界の人間の事である。』
(霊界物語第20巻如意宝珠未 霊の礎(六)から引用)

終北国は、天国の天人の社会生活をモデルとしているが、微妙に人間らしいところを残している。この話をよしとする人も感心しない人もいるだろうが、列子では、この話に続いて、斉の名臣管仲が桓公に終北国に行くことを勧めたのだが、別の家老がこれを諫めるのに対し管仲は、家老に終北国の価値などわかるものではないとバッサリ切り捨てている。

無用の用がわかる人だけどうぞというオチである。
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脳の電気活動停止と微細身

2016-07-18 07:14:39 | 冥想アヴァンギャルド
◎意識と「自己」

悟りとは、死の技術である。自分が死ぬ。
クンダリーニ・ヨーガの究極では、心停止、脈拍停止がある。
医療現場では以下の文章のように、死ぬと10秒ほどで脳の電気活動が停止する。ところがごくまれに死の起こったプロセスを正確に記憶している人がいる。

『人は死ぬと、ハンマーの一撃を喰らったように瞬時に意識を失い、脳の電気活動は10秒ほどで停止する。科学的にいえば、こうした状況下で意識を失っている人は当然ながら、その体験について、正確な発生順の詳細にわたる明快な記憶や説明を報告することはできないはずである。

そして、実際、なんらかの脳損傷を負った患者の大多数は、事故の直前直後のことを憶えていない。しかし、どういうわけか、臨床的な死の期間にこうした心的プロセスを自覚していたと主張する人びとは、まったく気づいていないはずの詳細を思い出すという説明不可能な能力に恵まれている。

それゆえに、この体験は心に関する新たな科学的理論への道を示している可能性があると、わたしは考えている。ニューロン・レベルでの電気的かつ化学的な発火があらゆる認知的プロセスを生み出していると信じている科学者は多い。

しかし、死後に脳波が水平になった患者が、意識のない状態で手術台に横たわっている間に発生した出来事の詳細を憶えていると主張するのである。さらに信じられないことに、そうした患者の意識と「自己」は、その間天井の辺りに浮かんでいて、自分の体は眼下にあったというのである。』
(人はいかにして蘇るようになったのか/サム・パーニア/春秋社p194-195から引用)

一般的には、これは死に伴って体外離脱が発生し、その離脱したアストラル・ボディで肉体に起こることを見ていたとされる。

通常は、肉体死にあっては、人はアッという間に意識を失う。ところが、クンダリーニ上昇プロセスにあっては、意識を清明に保つことがスタート条件になっていて、意識を失っていてはダメなのだ。

しかしながら体外離脱して、自分の身体を見下ろすのはヘミシンクでは頻出だが、単なるアストラル離脱なら、大悟覚醒、神人合一とはなんの関わり合いもない。

この文章では、医学ではアストラル体離脱を認めていないと常識的な立場から述べているだけだ。
しかし体外離脱は3種あり、メンタル体で頭頂から出るのだけが正解であって、それ以外はアウトのようである。

医学的事象として、エーテル体、アストラル体などの微細身の証明にトライした人は少なくないが、肌感覚として微細身を感じない人が今の時代は大多数すぎるのだろう。

幽霊を見る人は10人に一人いるようだが、そのことは世間体が悪いので、口には出さない。
霊能力そのものも、もともと白でも黒でもないが、きわもの扱いされるので、黙っているのが当たり前の世界では、微細身のことなど議論などできまい。

未開人が眼前に巨大な鉄製の船があるのにもかかわらず、そんな船はないと言い張った話が文化人類学で出てくることがある。見たことのないもの、理解し得ないものは、無視するという心性も人間には備わっている。

次の千年王国は霊的時代と言われるが、微細身を感ずる感覚が万人に備わっているので、微細身を証明するまでもなく、あたりまえの時代なのだと思う。
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イメージとしての海浜リゾート

2016-07-17 06:16:55 | 時代のおわり
◎体験可能な天国

現代における地上天国のイメージは、海浜リゾートが代表的なものである。昔、岩石砂漠に住むのが当たりまえな民族にとっては乳と蜜が流れる国が楽園であり、永遠の故郷のイメージだった。ところが、今の日本人、欧米人にとっては、南海の小島だろうが、大洋に面したプライベートビーチだろうが、常夏の日差しを浴びて、衣食住の心配がなく、グルメも味わえ、気分も愉快な場所、それは、中世以前には、この世にない天国だったが、20世紀、21世紀になってからは、椰子の木が繁る熱帯、亜熱帯の浜辺が、体験可能な天国のイメージとして登場してきた。

つまり第二次世界大戦以降は、中流市民が、カンヌ、ニース、リオデジャネイロ、ホンコン、カンクンなど世界のリゾートに出かけることができるようになり、並行して大衆向けにバリ、セイシェル、イビサ、タヒチなど無数の新リゾートが開発されることになっていった。

19世紀以前は、あの世の天国、西方浄土を希求させていたのだが、20世紀以降は、自分自身が神を見るべきアクアリアン・エイジ(みずがめ座の時代)となり、ちょっとお金を出せばこうしたリアル天国が味わえるようになったのは偶然ではない。

世界大戦の時代、アウシュビッツの収容所にあっても、スターリングラードの塹壕戦にあっても、人は乏しい食料を差し出しても、一時の音楽に永遠の癒しの糸口を見つけようとしたものだ。かくの如く、人はどんなに厳しい環境にあっても、地上天国、王道楽土を忘れるものではない。


求道は清貧がベースだが、それはあらゆる歓楽を極めつくした魂のための最後のラグジュアリー。海浜リゾート好きな人は、天国に生きることを望む願望が無意識に潜む。リゾートブランド・ショップで買い物をするということですら、現代人の神を希求せんとする願望の裏返し。

冥想こそは、最後にして最高のブランドである神へのコネクション。人は良いもの、快適なもの、正統的なものを求めるものだ。

世界的リゾート、フランスのニースでトラックによる200人以上の死傷事件が起きた。人間の本源的な地上天国へのノスタルジーは良い。しかし、もはやノスタルジーの先に進む時代を催促されているのだろう。
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失神

2016-07-16 06:40:26 | 冥想アヴァンギャルド
◎失神して神に出会うのも稀

くしゃみと並んで、失神も原初の光を垣間見るチャンスの一つである。

『失神とESP

私白身が臨死体験につながりうるもの、失神を初めて体験するきっかけになったのはティーンエイジャー時代の悪ふざけだ。

ある日曜日の午後、何をするでもなく、仲間のひとりの家の地下室に皆でたむろしていた。それにしても退屈である。すると誰かが、意識を飛ばしてハイになれるか試してみないかと言いだした。これが受けた。若気の至りである。

仲間が次々と失敗するのを横目に、自分ならもっとうまくやれると内心ほくそ笑んでいた。番が回ってきたので、しゃがみ込み、せわしく呼吸を繰り返す。わざと過呼吸の状態に陥るためだ。唇がしびれて、日がかすんできたところで、ぱっと立ち上がり、口に腕を押し当てて息んだ。飛行機の中で耳抜きをする要領だ。

この方法、脳への血液を見事に止めた。気が遠くなって倒れかかる私を、仲間のひとりが抱一き留めてくれた。

脳に血液が戻ってきた時は、深い眠りの底から浮かび上がるような気がした。初めは、ここはどこ、何があったのという感じだったが、やがてぞくぞくするほど興奮してきた。ブラックアウトの間に幻を見ていたからだ。父が家の前で扉を開け放ったまま、いらいらと私を呼んでいるところである。子どもたちに集合をかけるのは母の役目で、父が自ら呼び立てることなど滅多になかったから、面食らった。

失神自体は恐ろしくも不快でもなかったけれど、父の怖い顔が頭に浮かんできて、家に飛んで帰った。我が家では普段、日曜の夕方から家族で外出することなどなかったのに、家の前まで来ると案の定、待ち構えていた父にとっ捕まって、予定を忘れたのか、おまえのせいでみんな遅刻だと叱られた。

失神している間に父の声を聞いたり姿を見たりすることなど、物理的にできるはずがない。それなのに、私はなぜか、父の呼ぶ声が本当に聞こえたと思った。滅多にない外出だからころっと忘れていたのを、失神している間の何かが引き金となって私に思い出させたのだと納得がいったのは、後のことである』
(死と神秘と夢のボーダーランド/ケヴィン・ネルソン/インターシフトP152-153から引用)

過呼吸は、脳虚血を惹き起こし脳障害になる可能性があるので、こんなことを安易にやってはならないのは、時折マスコミなどで伝えられるとおり。

著者は、この失神で見当識を失ったが、リモートビューイングができた程度で、原初の光、神に出会いはしなかった。

失神で神を見るためには、それぞれのプロセスで精妙に起こったことを感得する感受性が必要なのである。

当たりまえだが、臨死体験の人でも神に出会うのが稀なように、失神して神に出会うのも稀なのである。
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自らの自由意志によって死に入ってゆく実験

2016-07-15 05:47:13 | 究極というものの可能性
◎乗り物をあとにして旅人が先へと進む

さて、くしゃみでも原初の光に出会うチャンスはあるが、王道は冥想であり、三昧=サマーディには、既に自分はなく、自分は死んでいる。

以下はOSHOバグワンの説明。
『そう、方法はある。われわれは、みずからの自由意志によって死に入ってゆく実験をするとことができる。いわせてもらおう。ほかならぬ瞑想、サマーディがまさにそれなのだ。自発的に死に入ってゆく体験が瞑想であり、サマーディだ。

ある日、肉体が落ちるとともにおのずと起こってくる現象。―――内側で自己と肉体のあいだに距離をつくりだすことによって、われわれはみずから進んでその現象を起こすことができる。内側から肉体を離れてゆくことによって、死という事件を体験できる。死という出来事を体験できるのだ。われわれは今日、この夕暮れどきに、死を体験できる。

というのも、死という出来事は、ちょうど乗り物をあとにして旅人が先へと進んでゆくように、乗り物と旅人のあいだにある違いと同じ違いを、われわれの魂と肉体がその旅の途中で体験することにすぎないからだ。』
(死 終わりなき生/オショー・ラジニーシ/講談社P19から引用)

生が真実ならば、死はうそだが、死が真実ならば生はうそになる。生も死も真実であることを自証するなら、冥想によるしかない。
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