アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

前漢の武帝側近の東方朔

2016-09-26 04:47:35 | 道教
◎働きながら世を避ける

前漢の武帝側近の東方朔は、その相談相手。周囲からその才知に比して官位が低いことを批判されても、「天下に災害がなければ聖人がいたとしてもその才を施すところがない。上下が和同していれば、賢者がいたとしても功を立てるところはない」という古諺を引いて、戦国時代と平和な漢代は違うこと、自分が学を修め道を行うのは出世のためではない、と朝廷の中にいて世を避けたと自認していた。

BC110年7月7日夜10時頃、武帝のところに西王母が来訪。西王母は侍女に命じて、7つを持ってきて、3つを自分で食べ、4つを武帝に与えた。

西王母は物陰から覗いていた東方朔を見とがめて、「この人は桃を3つも盗んで食べたいたずらっ子だ」と云った。こんなわけで、史記では、東方朔は、滑稽列伝に入れられており、トリックスターとして評価されていた。

七つの身体でいえば、武帝は四つとは、肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体の個別性を残す4ボディ。コーザル体は、最後の個別性で、アートマン、ニルヴァーナの3ボディの3つの桃を西王母が食したと読む。

東方朔は下から3つを食べたのだろう。
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米中の地球温暖化対策批准

2016-09-25 06:55:42 | 時代のおわり
◎南極氷床、グリーンランド氷床、北極海海氷

京都議定書に米国は批准せず、中国は温室効果ガス削減義務がなかった。こうした地球温暖化対策に過去非常に消極的だった両国が、唐突に2016年9月3日、2020年以降の地球温暖化対策の新たな枠組み「パリ協定」を批准したと共同発表し、気候変動問題で足並みをそろえ、両国の協調を示した。

パリ協定は、先進国だけに温室効果ガス削減を義務付けた一九九七年採択の京都議定書に代わる新たな国際ルール。国別温室効果ガス排出比率は、世界全体を100とすると中国が20.1%、アメリカが17.9%、日本は3.8%、欧州全体でも12.1%。米中で世界の4割を占める。

この時期に、突然両大国が温室効果ガス対策をやることになったのは、事態は危機的になってきたためだと見てよいのではないか。温暖化による海水面上昇の被害は、ツバルやモルディブで著しいが、各国沿岸低地と港湾、島嶼での被害も予想される段階に入って来たのではないか。

気象庁のHPにIPCC(国連の気候変動に関する政府間パネル) 第5次評価報告書が掲載されているが、これによると2100年までに中程度の予測値で世界平均海面水位上昇は、33cm~63cmとされている。ただし、南極氷床の海洋を基 部とする部分の崩壊が始まった場合はこの予測値を超えるなどと不気味なことが書いてある。

またグリーンランド氷床や北極海の海氷の動向も重要であり、JAXA (http://www.eorc.jaxa.jp/earthview/2016/tp160516.html)によると北極圏に位置し、寒冷なグリーンランドでは例年5月下旬から6月上旬に氷床表面の融解が始まるのだが、2016年4月11日、グリーンランド氷床で大規模な表面融解が生じたことを水循環変動観測衛星「しずく」が捉え、異例の早さで融解が生じた可能性が高いと考えられるとしている。

参考:
『1986~2005 年を基準とした、2081~ 2100 年の世界平均海面水位上昇は、諸過程に基づく モデルによる予測の 5~95%の信頼幅で、RCP2.6 シ ナリオで 0.26~0.55 m、RCP4.5 シナリオで 0.32~ 0.63 m、RCP6.0シナリオで0.33~0.63 m、RCP8.5 シナリオで 0.45~0.82 m の範囲となる 可 能性 が 高 い ( 中 程度 の 確信 度 )。RCP8.5については、2100 年まで の上昇量は0.52~0.98 mで2081~2100年の上昇 率は1年当たり8~16 mmとなっている。』
(第13章 海面水位の変化 概要http://www.data.jma.go.jp/cpdinfo/ipcc/ar5/ipcc_ar5_wg1_es_chap13_jpn.pdfから引用)

これらを受けて国土交通省がその影響を予測(http://www.mlit.go.jp/common/001048728.pdf)しているが、台風の強大化(強風と高潮)と潮位の上昇がメインであり、港湾施設の損壊、低地、埋立地の水没が懸念されるところである。

ノストラダムス出口王仁三郎もこうしたことは、幻視済、折込み済みであり、こうした異常気象の原因たる人間の心をなんとかしないと止むことはないと見ている。
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マザーテレサの列聖

2016-09-24 05:25:03 | キリスト者の秘蹟
◎日本人は豊かだが精神的には貧しい

2016年9月5日、バチカンのサンピエトロ広場に約10万人の信者らが集まり、マザーテレサの列聖式が行われた。この日は彼女の命日。
修道女マザー・テレサ(1910~97)は、インドのコルカタ(カルカッタ)で貧しい人たちを救済する活動に尽くしたが、「聖人」に正式に認定された。
列聖には、条件となる死後の二度の奇蹟が必要だが、一つはマザー・テレサに祈ったインド人の女性の腫瘍が消えたこと、もう一つは脳腫瘍を患ったブラジル人男性の妻がマザー・テレサに祈った結果、回復したことだそうだ。

彼女は、終生、エイズ、重い皮膚病にかかった人、見捨てられた幼児など、最も世間で相手にされない人たちに身近で寄り添った。

ノーベル平和賞の祝賀晩さん会は欠席し、その費用を貧しい人の救恤に充てるよう依頼した。ローマ教皇からもらった高級車は、貧しい人を助ける資金集めのチャリティの景品として出した。ダイアナ妃からもらった服もオークションにかけて売った、などその清貧は徹底している。折れた椅子の脚を添え木して使い続けた禅僧趙州並みですね。

マザーテレサは、来日時日本が豊かであることに驚き、一方日本の多くの人が弱い人、貧しい人に 無関心であることに気付き、物質的に豊かな多くの人は他人に無関心であり、精神的に貧しい人だと喝破した。

こうして彼女は愛の反対語は無関心だと示した。人はともすれば、都合の悪い人、見栄えのしない人、貧しい人、弱い人などに対して無関心を装う。無関心を示すことで、愛が現れる最初のチャンスを失う。

核家族化と半端な個人主義的ライフスタイルで、かつまた離婚率3割で家庭もほぼ崩壊した日本。こんな日本には弱者に向けて『無関心』の風が吹く。24時間○○などで金を出すのだけが慈善ではないだろう。縁ある人や見かけた人で弱い人、貧しい人、困った人がいれば声をかけてやるのが、無関心でない最初の一歩。

そうした困った人を助けようというのを逆手にとって詐欺をやる振り込め詐欺や生活保護ビジネス(公園等で集めたホームレスを「無料低額宿泊所」に住まわせ、食事などの最低限の便益を与える代償に、入所者に支給された生活保護の大半を搾取するビジネス)が一世を風靡しているのも末法の世の習い。

キリスト教は罪をバネにして悟りに向かい、十字架上で刑死したイエスを主たるシンボリズムとして用いる。こういうものが好きではない東洋人たちにとってもマザーテレサの無私と慈善はなかなかできることではないが、自分がそうなろうという志は持たないと。

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ノストラダムス予言と瑞能神歌・霊界物語

2016-09-23 06:17:51 | 時代のおわり
◎世界的災厄と至福千年

ノストラダムス予言は、1999年を過ぎてからほとんど関連本が出版されないようになってしまった。

人が神を知るあるいは神になる(神人合一、身心脱落)という体験とは言えない体験が起きると、その夢にも思わぬ世界の広がりと深さに驚嘆しつつ、自分の過去世も来世も見に行ったりするものだそうだ。

さらにはこの世の始まりから終わりまで見るということもするらしい。この内容についてそのまま書き残すことはしばしば神様のお許しにならないところだから。断片的にしか残されないし、時間の順序もまぜこぜで置くものである。

正神の見せる将来ビジョンを残すという観点でいえば、アトランティス滅亡直後に成立した世界の神話群、旧約聖書、北欧神話エッダ、古事記などで、世紀末における世界的災厄と至福千年の到来が必ずメインテーマとして入ってきたことを想起すれば、同様のモチーフでもってその将来ビジョンを残すだろうと想定される。

要するにノストラダムスも世界の終わりと千年王国の到来つまり人類の進化を幻視したのであれば、その幻視内容では、必ずやそこをメインテーマとして公開するだろうということ。

私の見るところセザールへの手紙が預言詩全体を貫く緯糸であり、預言詩の側は経糸。だから予言詩の地名と年代のヒントを拾っては、当たった当たらぬの議論をするのはあまり意味のあることとは思えない。

ノストラダムスの時代に於いて、預言詩の地名も年代もそれは正しかった。だがそれから400年経って同じことを彼が幻視したら、その内容の中で時間のある世界から予言したものにはずれが発生している。そのずれをもってはずれと認定するのはいかがなものか。

出口王仁三郎は、出口ナオとのパートナー活動開始に際して、明治31年に京都に出た時に伊勢神宮と○○寺の燃え上がるを幻視したがそれと同じことが出口ナオのお筆先に書いてあったとしており、それが正神から来るビジョンであることを確認した。この延長線上にある予言集が、瑞能神歌や霊界物語である。どちらも至福世年たるみろくの世が、七福神に代表されるクリスタル・ピープルによって実現することが基調になっている。

だがこのいずれも大正以前に書かれたものであり、ほとんど一世紀前のものであり、その点での時間軸や地政軸のずれは相当発生している。

昭和に入ってから日本は敗戦となり、日本に来日しなかったクリシュナムルティOSHOバグワンは西洋で世界的ブームとなり、日本では密かにダンテス・ダイジが出現した。
そして阪神大震災があり、東日本大震災、熊本地震と日本は国土自身が禊を盛んにする国であることを国民も知った。

いまや肉体は、筮竹もタロットカードも天津金木も必要とせぬほど世界全体の微妙な動きにレスポンスできるほどに発達した。ノストラダムスの予言詩も瑞能神歌・霊界物語も読まなくても相当にこの時代が、神の側ではない反対方向にスライドしてきてしまっていることを皆感得しているのではないか。時代は、ノストラダムスの予言詩や瑞能神歌・霊界物語の想定以上に厳しい状況かもしれない。

それでも預言者たちは、この3千年1万年のプランだから簡単には崩れない、と言う。
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野良猫と餓鬼

2016-09-22 05:42:03 | 冥想アヴァンギャルド
◎飢えつつ遊ぶ

ジョギングを始めてから、定例のルートの途中で野良猫に会うことがある。夏の野良猫は、元気でよいが、皆食べ物に飢えている風であることは変わらない。猫はそのすました猫背に餓鬼を潜ませているのだ。

猫は、その曲がった背中で、あらゆる音に聞き耳を立て、クンダリーニ・ヨーガをする。食べて、散歩して、そうでない時間はクンダリーニ・ヨーガの冥想にふける。猫のクンダリーニ・ヨーギは、死期を悟ると人の前から姿を消し、しまいには肉身を虚空に分解して屍体を残さないという屍解をする。もっとも交通事故や病気などで死体を残す猫もいるのだが。

そして猫は霊を追い払う。猫は家に付くものなので、家にあって霊を追うのだ。でもあまり期待してはならないと思う、猫は猫のロジックで追うのであって、人間の現世利益なロジックで追うのではないから。
このあたりが、猫が十二支に入っていない理由ではなかろうか。

一日、そうした野良の子猫を保護した。幸いその子猫は里親のもとへ行ったので、野良猫であるよりも長命な生活をするに違いない。子猫はかわいいものだ。ちょっとしたおもちゃにじゃれつき、人の差し出す手にもじゃれつき、生えはじめの2~3ミリしかない短い歯で我が指を一生懸命噛んでその感触を確かめたり。

子猫はお腹がすいてもかまわず、休むいとまもなく遊び続ける。そして寝る。思無邪とは、詩経だが、子猫はまさに思無邪。飢えながらも無邪気に遊べるという姿は、あらゆるまともな覚者の生き様であるから、むしろ深い感動を覚える。

厳冬の朝、草むらを過ぎると親にはぐれて食べ物もないのか、草むらのほうから子猫の声がする。その声は飢えを歎き、道に迷って当惑し、寒い朝をどこで過ごすか絶望している声である。

昔、午後いつも食事のなかった禅僧は、飢えをしのぐため腹に温めた小石=懐石を入れたが、子猫ではそんな芸当もできない。猫も自分の生で追い込まれているのだと、そんな声を聞くたびにもののあわれを感じたものだ。

禅堂の食事作法では、自分が食する前に餓鬼に米数粒を供える。餓鬼とは餓鬼草紙とか地獄草紙の餓鬼を思い浮かべていたが、野良猫も餓鬼なのだと悟った。日本でも夕食のない子供が増えてきてマスコミの話題に上がるようになってきた。当然そういう大人も増えている。

だから中国の技術重要度ランクでは、第一位が農業=食であり、奢侈品の技術はずっと下だった。現代は逆にスマホやファッション、アクセサリーが第一位に置かれているが、こうした時代もいつまでも続くまい。

人が悟るのが文明のテーマだが、技術方面のテーマはほとんどの時代、餓鬼をなくすことなのだと思う。

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ナオの方舟

2016-09-21 03:08:08 | 古神道の手振り
◎心の岩戸を開きましょう

出口王仁三郎全集 第7巻から和歌。

ノアは破壊修祓、ナオは復興修理。主たるテーマは、人心と日本における
最後の審判とその後のみろく神世。

『天地(あめつち)の神にかはりて世をひらく人は誠の神に通へる

人草のこころの空の晴れぬれば日本(やまと)も唐(から)も一つとぞなる

神の世の審判(さばき)に今やあふ坂の人は知らずに日を送りつつ

百千(ひゃくせん)の災一度に来るともおどろくなかれ神にある身は
(以上 大正七年五月)


鳥けもの草の片葉にいたるまで神の御魂のこもらぬはなき

まのあたりこの世の終りいたるまでに改(か)へて置きたし人のこころを

大三災(だいさんさい)小三災(しょうさんさい)の頻発も人のこころの反映なりけり

いすくはしノアの方舟また一つ新たに現れしナオの方舟

むらぎもの心の岩戸ひらきなば天津日のごと魂かがやかむ

身魂さへ清く正しく澄むときは医師(くすし)薬品(くすり)も要らぬ神国

天地の諸のわざはひしきりなり神の怒りの解けやらぬ間は

(以上十六首 大正七年六月)』

一国を立て替えるには、一国だけではだめで、宇宙全体を立て替えねばならない。宇宙全体を立て替えるためには、こころの岩戸を開き、身魂を清く正しく澄みきらねばならない。
立て替えた後には、ナオの方舟で再建である。


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死がどんな意味も持たなくなってしまった人たち

2016-09-20 06:50:31 | 究極というものの可能性
◎不死を知っている者

OSHOバグワンが不死を語る。これは禅問答の二重構造の解説でもある。

宗教は時間のない世界から語るために始まりもなく終焉もない。科学は、肉体が必ず死ぬということはわかっているが、同時に自分は死なないと内心思い込んでいるがゆえに未来のことを気にする。

クンダリーニ・ヨーガでは、コーザル体からアートマンへ進む時に自分は死に、只管打坐にあっては、自分などない。

に取り囲まれている人たちは、不死とは死なないことだというふうにしか理解していない。
だがその人たちは間違っている。不死が何であるかを知っている者は、そこには自分など一度も存在したことがないことを知っている。その違いはきわめて深く、また根本的なものだ。

死を見ている人は、もし魂が不死だということが真実だとしたら、自分は死なないのだと考える。その考えは、未来を向いている。その人は未来に住んでいて、先のことを心配している。だからその理解は未来指向になる。

だが不死を知っている者は、「私などいない。私は一度も生まれたことがない」と言うだろう。その人は過去指向になるだろう。

あらゆる科学的知識が死によって取り囲まれているために、科学は常に未来について語る。
そして宗教は隅から隅まで不死によって取り囲まれているために、それは常に過去について語る―――――始源について語り、終焉については語らない。その関心は根本的源にある。

(中略)

科学の探求は死に関心を向けている人たちによって進められている。宗教的思考は、死がどんな意味も持たなくなってしまった人たちによってなされている。』
(神秘の次元/OSHO/日本ヴォーグ社p111-112から引用)
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ギリシア神話での託宣

2016-09-19 06:40:31 | 究極というものの可能性
◎希望者自身がシャーマンになる

託宣とは、シャーマニズムだが、古代ギリシアでは、神の託宣を聞きたい祈願者本人がシャーマンとして神の声を聞く仕組みだった。

祈願者は、13歳になる二人の少年に導かれ河に降り、そこで沐浴し油を塗られる。
次にレーテーの泉の水を飲むと過去のことは忘れ果てる
次いで記憶の泉の水を飲むとこれまでの記憶を取り戻す。

そして託宣所には深さ8ヤードの大穴があいており、その中心部には小穴が開いている。
梯子で祈願者は蜜菓子を持って大穴に降りる。この小穴に足を入れると祈願者はくるぶしをつかまれ、いきなりぐいと下に引かれて頭を打って、死んだようになる。この時姿の見えない語り手が彼に、様々な秘密や未来のことも予言する。

そしてまだ朦朧としている中で祈願者は椅子に坐らされ、先ほど聞いたことを繰り返すように求められる。この時祈願者の蜜菓子はなくなっている。

姿の見えない語り手は神霊のことであるが、このやり方では、審神者はない。語るには語るのかもしれないが、意識の深化の訓練もしていないような祈願者に降りる神などしれている。それでも、万人に対して薬物投与により意識レベルの低下を促してトランスに入れるという手法である。

当たることもあっただろうが、はずれもあっただろうし、祈願者本人のスピリチュアル・エマージェンシーの問題もあっただろうと思う。とてもではないが精妙なやりかたとは思えない。

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魔女キルケーの毒を避ける

2016-09-18 05:17:35 | 冥想アヴァンギャルド
◎オデュッセウスがヘルメスに出会う

ギリシア神話にオデュッセウスがヘルメスに出会う一節がある。

オデュッセウスの部下たちは、アイアイエー国の女領主キルケーの館に先に到着し、キルケーの御馳走攻めに会った。その食物には毒薬が入っており、薬で身体の自由を失った部下達の肩をキルケーが叩くと、彼らは次々に豚に姿を変えていった。

この災難を一人逃れたエウリュロコスは、ほうほうの体でオデュッセウスにこの悲劇を伝えた。オデュッセウスはとるものもとりあえず、剣だけを持ってアイアイエー国に向かって飛び出すと、驚いたことに途中でヘルメスと出会った。ヘルメス神は、オデュッセウスに丁寧にあいさつしてキルケーの魔法をよける薬をくれた。

それはモーリュという黒い根をした匂いの強い白い花で、これを摘むことができるのは神々だけであった。オデュッセウスは、キルケーに饗応された後、肩を杖で打たれたが、事前にモーリュの花の匂いを嗅いでいたので魔法にかからなかった。

オデュッセウスは怒ってキルケーに剣を振り上げたところ、キルケーは命だけは助けてくださいと乞うので、褥を共にすることになった。


災難の前に必ずヘルメスが、災厄を逃れる手段を与えてくれるもの。彼に出会ったことに気が付くかどうか、彼からもらったグッズを生かすかどうかはその人による。
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善悪不測

2016-09-17 06:58:27 | 古神道の手振り
◎人はただ、神を信じ神に随い善を行い悪を行わない

出口王仁三郎の善悪観は、神秘学的世界観に立脚しながらも、精密に世の冷厳な現実を見据えている。霊界物語の「善悪不測」の引用部分は短文だが、その意味するところは深い。

西洋の哲学者の言に天佑自助というのがあるが、自助努力として善事を一つ為すためには往々にしてそれの倍もの悪事を為すものである。人は善だけ行って永遠の幸福を生み出すことは到底できない。よって人生には絶対の善もなければ絶対の悪もない。

このように陰陽善悪美醜が入り雑じって宇宙は完成しているものである。

神秘学的に見れば、宇宙は霊力体でできており、霊は善で、体は悪である。ところが体より発する力は、善悪入り雑じっている。出口王仁三郎は、善悪混淆のこの力こそ神力であり、神の威徳であるから善悪不二にして、美醜一如であるといきなり論理がジャンプする。

善悪不二にして、美醜一如は、個別性のない世界だからアートマン。そこから個別性の属性たる善悪美醜男女陰陽が展開していく様を実地に目撃せねば、こういう論理のジャンプは起こらないのではないか。

行為の善悪は測りがたいとなれば、目先のきく人はどんな悪いことをやってもいいんだと早合点する場合もあるが、人はただ、神を信じ、神に随い、なるべく善を行い、悪を行わない、人の行為の善悪を決めつけず、ただ惟神(かんながら)の道を遵奉するしかない。

以下は霊界物語第六巻からの引用だが、この文章は、 野立彦神、野立姫神が、大洪水による世界立て直し後に天教山火口に飛び込み根底の国に赴いたというクンダリーニ・ヨーガ的シーンの後に置かれている。神慮図りがたし。

『智慧暗く、力弱き人間は、どうしても偉大なる神の救ひを求めねば、到底自力を以て吾が身の犯せる身魂の罪を償ふことは不可能なり。故に人はただ、神を信じ、神に随ひ成可く善を行ひ、悪を退け以て天地経綸の司宰者たるべき本分を尽すべきなり。

西哲の言にいふ、『神は自ら助くるものを助く』と。

しかり。されど蓋は有限的にして、人間たるもの到底絶対的に身魂の永遠的幸福を生み出すことは不可能なり。人は一つの善事をなさむとすれば、必ずやそれに倍するの悪事を不知不識なしつつあるなり。

故に人生には絶対的の善も無ければ、また絶対的の悪も無し。善中悪あり、悪中善あり、水中火あり、火中水あり、陰中陽あり、陽中陰あり、陰陽善悪相混じ、美醜明暗相交はりて、宇宙の一切は完成するものなり。故にある一派の宗派の唱ふる如き善悪の真の区別は、人間は愚、神といへどもこれを正確に判別し給ふことは出来ざるべし。

 如何とならば神は万物を造り給ふに際し、霊力体の三大元を以てこれを創造し給ふ。霊とは善にして、体とは悪なり。しかして霊体より発生する力は、これ善悪混淆なり。これを宇宙の力といひ、または神力と称し、神の威徳と云ふ。故に善悪不二にして、美醜一如たるは、宇宙の真相なり。

 重く濁れるものは地となり、軽く清きものは天となる。しかるに大空のみにては、一切の万物発育するの場所なく、また大地のみにては、正神の空気を吸収すること能はず、天地合体、陰陽相和して、宇宙一切は永遠に保持さるるなり。また善悪は時、所、位によりて善も悪となり、悪もまた善となることあり。実に善悪の標準は複雑にして、容易に人心小智の判知すべき限りにあらず。故に善悪の審判は、宇宙の大元霊たる大神のみ、その権限を有し給ひ、吾人はすべての善悪を審判するの資格は絶対無きものなり。

 妄に人を審判は、大神の職権を侵すものにして、僣越の限りと言ふべし。
 唯々人は吾が身の悪を改め、善に遷ることのみを考へ、決して他人の審判をなすべき資格の無きものなることを考ふべきなり。

 吾を愛するもの必ずしも善人に非ず、吾を苦しむるもの必ずしも悪人ならずとせば、唯々吾人は、善悪愛憎の外に超然として、惟神の道を遵奉するより外無しと知るべし。』
(霊界物語第六巻第二〇章 善悪不測から引用)
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世界が火で滅ぶイメージ

2016-09-16 04:35:16 | キリスト者の秘蹟
◎ペテロの第二の手紙

仏説と出口王仁三郎は、世界が滅ぶ原因の大なるものは風水火であるとし、火と水で滅ぶイメージは、朝鮮の神人姜甑山も有している。ノストラダムスも火と水

新約聖書ペテロの第二の手紙では、ことさらに火による滅亡を説く。

『第3章
古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、 その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。

しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。

愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。

しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。

このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。 しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。

(口語訳新約聖書(1954年版) ペテロの第二の手紙第三章から引用)

ここには、予言実現の時間的ずれのことも書いてあるが、そもそもイエス自身が、最後の審判が、すぐにも来るように思い込んでいたところはあるのではないか。

クンダリーニ・ヨーギ本山博が内経図の解釈において、アストラル体は水、メンタル体は火という卓見を示しているが、メンタル体で出る悟りを皆が目指す現代は、当然火が終末のサインと見るだろう。ヨハネが水で洗礼、イエスは聖霊と火で洗礼というのもその流れを前提とした見方である。
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99%の人が知らない死の秘密

2016-09-15 05:36:20 | 冥想アヴァンギャルド
◎閻魔大王を否定

今中国の状況は、経済危機と政治危機が同時に来ていると評されるが、いつのまにか世界全体も経済危機と政治危機が同時に来ている状態に近づきつつあるように見える。

「99%の人が知らない死の秘密/山川紘矢・阿部敏郎/興陽館」は、死について書かれた本。それぞれの著者の輪廻転生観を披瀝しあっているが、山川紘矢はシャーマンであって、阿部敏郎は中有的世界観のスピリチュアル・オタクのように思った。

センスのある人であれば、1ページ読んだだけで、この二人がどういう世界観で生きていて覚醒しているのかいないのか、過去覚醒したことがあって、その追体験を求めているのか、あるいは、過去覚醒してそれに満足しているのか、覚醒はしないが純粋な道心を持ち続けているのか、覚醒もしていないが純粋な求道精神も薄いのか、こうした分類のどれにあたるかは、感じ取れるものだと思う。

阿部敏郎は閻魔大王を否定しているのだが、これは大いにひっかかるところであった。悟ったことのない人にとって、誕生日や閻魔大王は、その人が何のために今生に生まれてきたかという感覚を呼び覚ますキーワードの一つだと思うのだが・・・・。

至善を問題にするならば、閻魔大王は重要なファクターの一つだと思うのだけれど。
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豊国大明神

2016-09-14 05:43:38 | 古神道の手振り
◎人を祀った神社の末路

太閤秀吉は、農民上がりであったが、位人身を極め、難波のことは夢のまた夢と栄華を恣にした。ところが彼の没後、陵墓たる京都阿弥陀ヶ峰の豊国神社は、1599年の創建後、二度にわたる破却をこうむった。最初は1615年の家康による第一次破却であり、この時は秀吉の正室ねねの哀願により、参道と廟墓だけは破壊を免れた。破壊された豊国神社の敷地には、家康と天海の命により天台宗門跡寺の妙法院が置かれ、この妙法院がしきりに破壊工作を行い、1619年参道はふさぎ、豊国神社の社殿は毀つという挙に出た。こうして1640年頃には、この一帯は荒涼たる廃墟となっていたという。

今修学旅行、観光旅行で行く文化財の多くが、信長、秀吉、家康の手になるものであり、一方で明治時代から昭和20年まで日本最大の富豪とされる人々によるそうした建築や文化財が少ないのは、意外なことである。

信長、秀吉、家康の時代も戦乱に次ぐ戦乱で軍事投資が多かったが、スピリチュアル投資も相当にやってきた。明治時代から昭和20年までも軍事投資が多かったが、文化財という形でのスピリチュアル投資には見るべきものはなかったというところか。創建当時の明治神宮本殿は、米軍の空襲により焼失し、今の社殿は、寄付により昭和33年に再建したもの。

社殿陵墓の華麗さが、スピリチュアルのバロメーターではないが、スピリチュアルを支える重要なファクターの一つであることは間違いない。そういう場所は、しばしば天然のパワースポットだからである。

人が去れば地を巡るの法則で、有力覚者が亡くなれば、その弟子たちは、パワースポットや他の人に知られぬ覚者を求めて地をさまよう。

だが豊国大明神も明治神宮も人を祀った神社。そこはそのように対して行くべきものだと思う。
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正しく狂い且つ神に憑かれた人

2016-09-13 06:15:46 | 究極というものの可能性
◎神の贈り物としての狂気

ソクラテスは、パイドロスで、トランス一般を狂気と称する。恋や芸術のインスピレーションをも狂気に分類しているが、それは主旨ではなく、デルフォイやシビュレなどの神託予言(予言術)などが、正統的憑依によるものであるとして、エクスタシーの最大のものとして高く評価する。

『事実、よきもののうち最大のものは狂気によってわれわれに生ずるのである。もっともその狂気は神の贈り物として与えられるものでなければならないのだがね。

(中略)

さてそこで、予言術が鳥占術より、その名においても仕事においても、より完全であり、より尊くあるのと同じ程度において、ちょうどそれだけ、神からの狂気は人間から生ずる正気よりもより美しいということを古人たちは証言しているのである。

さらにまた、病気や最大の困難が、先祖たちの罪によってどこからかその族の或る人々のうちに生じた場合に、狂気が内に生じて予言をし、救いを必要とした人々に救いを見出だしてやったのである。

つまり、神々に対する祈願と奉仕に逃れ、それによって浄化と秘儀に出会い、狂気そのものを持つ人を現在及び将来に対して安全にした、正しく狂い且つ神に憑かれた人のために現在の悪からの解放を見出だしてやってね。』
(プラトン全集3/プラトン/角川書店P273-275から引用)

現代のテレビ、スマホに取り巻かれた生活環境では低次のトランスは起こり得るが、そこからは、三昧=サマディーと呼ばれる神との合一は起こりにくい。むしろこの生活環境は切れ目なく低次トランスへ導入することにより、人間の覚醒への嗅覚すらも奪おうとしているふしがある。

現代はソクラテスの時代に比し、邪悪で低次元な道具や人が巷にあふれている。
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臨死からの生還とその後の死

2016-09-12 03:40:49 | クンダリーニ・ヨーガ
◎全身虚血と再灌流症候群

一般に一度死んでから生還した者の多くが、蘇生措置を受けた数時間後か数日後に再びあるいは三度死ぬという。

これは、クンダリーニ・ヨーガの究極の起きる条件が、心停止と呼吸停止であることからすると、やや不都合な事象である。死んでから生還することを臨死体験と呼ぶが、臨死体験をしたからといって、そのほとんどの人が神に出会うかというと、それはどうもその逆である。

更には、クンダリーニ・ヨーガは、死の世界を窮めるからして、死を体験するのは当然だが、クンダリーニ・ヨーガの窮極に際しては、人はしばしばこの世界に戻る必要性を感じず、そのまま生の世界に戻らない人もいるらしい。それではこの世に何の寄与もしないし、本人のためにもならないではないかと考える人もいるかもしれないが、そうした絶対光明、ニルヴァーナというものは、人間の都合を優先に考えてくれるものでもないことに思いを致すべきだろう。

1972年ソ連の科学者ウラジミール・A・ネゴフスキーは、蘇生して生還した人に特有の二つの病気を指摘している。一つは、全身虚血であり、全身性の酸素欠乏。もう一つは、再灌流症候群であり、通常なら細胞を生かす酸素が、逆に細胞の死を早める物質に変わること。

サム・パーニアは、この全身虚血と再灌流症候群を避ける手段は、死の時間が非常に短かった場合と医師の正しい介入の二つを挙げる。実際問題として、いわゆる体験とは言えない体験後のこの二つの蘇生後症候群を避けるには、死の時間が非常に短いことを神に祈り、またグルがタイムリーに適切に対応することが必要なのだと思う。

冥想修行のグル、師匠が医師免許を持っているとは限らないので、グルの適切な対応を可能ならしめるのは、グルが修行者の危険な状態を見抜き適切な対応をとれるほどの力量あるクンダリーニ・ヨーガの達人であることが条件となる。

クンダリーニ・ヨーガというのは、その意味でも文字通り死の修行であり、だからこそ社会的に問題とされがちなところがあるから、密教なのだと思う。

また蘇生術の本には宇宙飛行士はしばしば宇宙で死にかけ、あるいは実際に死に、あるいは生還した場合でもその過酷な(死にかけた?)体験がトラウマになることが多いことも書いてある。先日テレビで日本人宇宙飛行士山崎直子さんが、宇宙飛行士の訓練は予期せぬ突発的な事象に対応していく過酷な内容が多いと語っていたが、宇宙飛行士は生還してもPTSDにもならず閉所恐怖症でもない人間を選抜して送り込むのだろうと想像された。宇宙飛行士は、目的こそ異なれ、生死を賭している点では特攻隊にも似ているように思う。

出口王仁三郎は、6度死んだが、その1回については、呼吸も心拍もあったが身体も動かず口もきけずで、鼻に松葉を焦がした煙を吹き込まれるなど、蘇生にひどく苦労したエピソードが残されている。他の五回については、サポート神霊の指導を得たのか自分で対応したのかはしらないが、とにかく生還してきた。

最近何でも情報公開すれば良いみたいな風潮があるが、軍事、インテリジェンスと並んで、死の技術あるいは密教系の情報には、公開されてはならない情報がある。
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