虚空漂浪日記

魂の開放を求めて、右往左往。嫌われものの”宗教”の根本を捜し求める日記です。

グノーシス主義

2006-06-28 10:37:45 | 生活
なんとなく模様・・・後らしい。

ユダの福音書は、グノーシス主義による福音書だと言われる。
グノーシスとは、知性、叡智をさす言葉であるが、簡単にいうと自分の頭で考えて神へ至る道を獲得するというものと言っていいだろう。
そのような捕らえ方をすると、私はグノーシス主義になるわけだ。

グノーシスには神話といわれるものがあるが、私は必ずしも、この部分=神話の内容には同意しない。

神話の中身については、ネットで探すと詳しく記されたホームページがあるのでそちらを探して欲しい。
一応、概略を、超簡単に述べると、
源初の神(霊)が自ら生まれ、その源初の神が次々と神々を創り出していく。
そんな中で、ソフィアという女神が源初神の同意なくして、自分も創造をしてみたいと考え、”おろかな神”を創造してしまった
その”おろかな神”が、この物質世界を創造し、自らを神として拝めというわけだ。
それで、その”おろかな神”とその創造した世界=物質世界は悪であり、悪の世界から源初の神へたち返る道を探すことがグノーシスというらしいのだ。

一方、初期キリスト教の一部の団体が、この神話を取り入れ、旧約聖書の神=おろかな神=悪として捉えたらしい。
その流れをキリスト教グノーシス主義というらしいが、かなりの影響力があったことは、新約聖書にもその影響が垣間見られることからも確かである。

私がみる限り、グノーシス主義はカバラの影響を強く受けており、源初神の創造部分とその派生などはカバラから剽窃したのであろうと推察される。

それでもグノーシス神話は、神自身の創造からこの世の仕組みまで、ある程度の論理性をもって対応しているので、論理性のない正統といわれるキリスト教団体にとっては脅威であったようだ。

ユダの福音書でも、イエスがユダに奥義を語る部分があり、奥義のない新約聖書では困るわけだ。
しかも、奥義は公表しないのが原則であったはずだから、文字として書かれるとこれまた困る。
あとは正統争いで、現代でも正統とされるキリスト教団体が勝ち、まずいものは歴史の闇へと消されていったわけである。








聖書の読み方

2006-06-26 23:36:42 | 宗教
スカッと

前回のブログ(ユダの福音所書)を読んでみると、何やらあちこちに飛んだ文章になっているので、ここで整理してお伝えしたいと思う。

①新約聖書には、天国(霊の王国)の奥義は書いてない。
イエスは、人々に譬え話で色々と語っているが、神とは何か、霊の世界とは何かなどは一切語っていないし、聖書にも見当たらない。
その理由は、「彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである」(マタイ 13.13)とされる。
当時のユダヤはローマに占領され、属国とされていたが、人々はメシア(救世主)待望論が強く、人々が待ち望んでいたところにイエスが登場したのである。
人々が望んでいたメシア、キリストは、当時のユダヤをローマから救うユダヤ王国(地上の王国)の王=メシアであって、イエスの語った霊の王国ではなかったのである。
人々が望むメシアとイエスの言葉には、大きな隔たりがあったのである。
そこで、譬えで話すことになったと考えられる。

②では、弟子達に奥義を話したのであろうか?
イエスは、弟子に譬え話の説明はしている‐聖書にある‐が、奥義というほどのものではない。
結局、イエスが弟子に口述したらしい内容は、闇の中である。

③イエスは読心術の達人であったらしい。
ユダヤのラビ(教師)が、イエスがキリストらしいという噂を聞いて、イエスについて調べた‐直接、会うことはできなかったが‐調査報告をみると、どうも、イエスは人の心が読めたらしい。
そう、イエス周辺の人々が証言している。
で、あるならば、12使徒と言われる人々の考えなども見抜いていたであろうことは想定できる。
そこでイエスを売ったイスカリオテのユダであるが、ユダはイエス集団の会計を預かっていた人である。
聖書には、ユダがお金をちょろまかしたということが書いてあるらしいが、イエスがそんな人物に会計を任せるはずがないであろう。
なにせ、その人物が将来なにをするかぐらいは、見抜いていたのであるから・・・w。
例を上げよう。

「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。」・・・とイエスが言うと、
「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」
とペテロは答えている。
イエスはそのあとに、「よくあなた(ペテロ)に言っておく。今夜、鶏(にわとり)が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」と言うのだ。
事実、イエスが捕らえられてから、ペテロは三度、イエスを知らないというのである。(マタイ 26.31~75)

つまり、弟子達が何をするか預言できたのであるから、その人選に関して間違ったことをすることは考えられないのである。
もし、ユダがイエスの仲間達のお金をちょろまかすような人間ならば、イエスは人選を誤ったことになり、ただの人ということになる。

④十字架刑はローマ法による。
イエスは、ユダヤ人達に捕らえられる前に、何度か12使徒に自分の運命について語っている。

「さて、イエスはエルサレムへ上るとき、十二弟子をひそかに呼びよせ、その途中で彼らに言われた、『見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子(イエスのこと)は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう』。」(マタイ 20.17-19)

さてはて、犬のメメさん、この時点ではユダはまだ裏切っていないのですよね。
全部説明するとなが~い文章になるので、端折っていきます。
イエスは、自分の運命を預言できたのだし、12弟子の運命も預言できたはずですね。
すると、ユダを除く11弟子がイエスの言葉(預言)を信じていなかったことは、前回、聖書を引用して説明しましたね。
消去法から、ユダだけに自分の運命を託すことができると、イエスが考えていたことが想定できるのですよ。
イエスがユダを信頼していたとされる根拠は、自分の運命を託す=実行する唯一の人物として存在するからですね。
ユダヤの法では、死刑は石打の刑ですから、「すべてお見通しだ!」(決まった)ったわけです。
結局、裏切り者とされるユダは、唯一、イエスを理解した人物であるとなるわけで、そのことが「ユダの福音書」に記されているわけです。

今回はこの辺で止めます。では、次回まで、










ユダの福音書

2006-06-24 02:27:04 | 宗教

さてが続いてます

ユダの福音書を目にしたので買ってきた。
失われた部分が多く、断片的な福音書である。
発見当初は、然程(さほど)、損傷はひどくなかったらしい。
将来、失われた部分が明らかにされることを願うのみである。

さて、ユダを強調した聖書であるが、所謂(いわゆる)新訳聖書をよく読んでみると、12使徒といわれる人々がイエスをよくわかっていないことは明らかである。
しかも、新約聖書にはイエスが語った真実は何も知らされていないのである。

新約聖書には、こうある。

「その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」(マルコ 16-14)

イエスは弟子達に、生前に語っていたのではないか!
ここで、十一弟子というところに注目してほしい。
ユダは既に、イエスを売り渡すことにより死んでいる。

隠しようもなく、十一弟子はイエスの神聖を理解しておらず、ユダがイエスの死をサポートする役割をおこなったことは、新約聖書をよくよく読むと理解可能なのである。

聖書をどう読むか。
それは、頭から信じるのではなく、その奥に隠された真実を引き出す”知性”が必要となるのだ。

ユダの福音書は、その一端にすぎない。

聖書を読んだことのない方がいるでしょうから、ユダの福音書に関係する部分を新約聖書から引用してみよう。

イエスは12使徒の無知について、充分知っていたのである。

まず、マタイから。

「イエスは答えて言われた、『あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。・・・それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。』

だが、新約聖書には、使徒に語ったことは記されていないのである。
あれ、ならば何で聖書は“聖書”なの?
実は、イエスの語ったことの真実は口述されたのである。
つまり、書かれていないのである。

さて、12使徒、或いは11使徒かも知れないが、まったくイエスの言葉を理解していなかったことは確かである。
そのことは、前述した引用で分かるであろう。
イエスは何度も、自分が磔にされることを弟子達に語っていた。
引用してみよう。

「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。
すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、『主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません。』と言った。
イエスは振り向いて、ペテロに言われた、『サタンよ、引き下がれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」

「イエスは『人の子が死人の中からよみがえるまで、いま見たことをだれにも話してはならない』と、彼ら(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)に命じられた。」(マタイ)

マタイ伝ではあと2ケ所あり、マルコでも、ルカでもヨハネでもでてくる。

イエスは自分の運命を預言し、それを実行させる役割が、ユダであることは聖書を読む限り明らかなのである。
他の11弟子は、そのことを理解していないこと、イエスを普通の人間とみており、精々、預言者くらいにみていたもと思われる。

ユダが死んだあと、イエスの蘇りがマグダラのマリアに最初にもたらされたということも聖書に書いてある。

イエスが、マグダラのマリアを信頼していた証である。

こうしてみると、聖書から除外されたマリアの福音書やユダの福音書は、その内容がどうであれ、成立すべきものとして書かれたことは、一端の真実を伝えたいるものといっていいであろう。

私は、グノーシスという内容を最近知ったが、その神話と言われる部分は信じていないが、私はグノーシスそのもであることを確信した。

聖書をどう読むか。
それは貴方の知性と深い洞察力が必要となる。
私も道半ばであるが、皆さんも努力することを願うのみである。

では、また。



二元論の意味

2006-06-07 01:52:00 | 宗教
明日はらしい。
最近の天気予報は微妙に外れる。晴れになるか雨になるかは、雲の勢いによるのだろう。風に押され、雨雲が早くくると、予報は外れて””となる。
ま、予報官よ、真摯に勉強しなさい。そうすれば、いずれ直感力が養われる。

今日の話は、二元論。
昔、昔、お爺さんとお婆さんさんがいました。
お爺さんは芝刈りに行き、輝く竹を見つけ、切ってみると、な、なんと、かぐや姫がいましたとさ。
お婆さんが川に洗濯に行くと、ドンブラコと大きな桃が流れてきて、切ってみるとな、なんと桃太郎がでてきましたとさ。
かぐや姫と桃太郎は、大きくなり、結婚したんだとさ。
(かぐや姫、桃太郎の異伝-嘘です)

お爺さんとお婆さんを記号で表すと、♂と♀ですね。
これは二元論ですね。違うって?
お釜もいる?って
ま、そこんとこは置いといて。

一刀斎が若かりし頃、美少年であった・・・ではなくて、二元論を馬鹿にしておった。
そんな単純なことで世の中、語れるはずがない!、と思っていたのである。
皆さんも、そう思うであろう。

そんな若き日から、月日がたち、明治、大正、昭和、平成となり・・・そんなに生きてませんがな・・・二元論というのは重要な意味があることを理解したのである。

うぅ~、おでんが旨い。セブンイレブンのおでんもなかなかいける。
と、おでんを肴に酒を飲みつつ、眠れぬ夜にブログを書いているのじゃ。

二元論とは何か?
まぁ~、色々あるがな。
♂と♀、+と-、0と1(PCはこれで動いておる)、敵と味方、善と悪、神と悪魔、無と有、天と地、ほかにないか?
あった、陰と陽、月とスッポン・・・違った、月と太陽、天国と地獄などなど。
ある意味、二つの概念を対立させて説明するのは分かりやすい。

ちょっと、算数の問題。
① +×+=+
② +×-=-
③ -×-=+

これを+=神、-=悪魔としよう。×=結婚としますね。=は結果とします。

① 神と神が結婚すると、天国が生まれる?
② 神と悪魔が結婚すると、地獄が生まれる?
③ 悪魔と悪魔が結婚すると、天国が生まれる?

二元論の喩えです。あなたはどう思われますか?

喩えが悪いので少し修正。+=天使としよう。

① 天使と天使が結婚したら、天使が生まれた。
② 天使と悪魔が結婚したら、悪魔が生まれた。
③ 悪魔と悪魔が結婚したら、天使が生まれた。

この方が分かりやすい。
掛け算の面白いとこですね。
これが足し算だったら、強い方(大きい)が勝ことになる。②の場合ですが。

引き算がまた面白い。例えば、

① 5人の天使-6人の天使=1人の悪魔
② 5人の天使-6人の悪魔=11人の天使
③ 5人の悪魔-6人の悪魔=1人の天使。

このように、二元論というのは如何ようにも展開できることがわかる。

宗教的にも、単に神と悪魔の対立と考えることは、余りにも硬直した思考である。
もともと1からでたものが2になったのであるから、それは対立概念でもあり、調和すべき概念でもある。

現在の我々が、善悪と考えていることと、古代において善悪と考えていたことは異なる。

現代では、戦争も他国への侵略も国際的に非難され、そのような行為は悪とみなされる。建前ではあるが・・・w。

しかし、古代では当然、当たり前の善であるし、侵略は略奪であり、奴隷狩りであり、女性狩りでもあったと言ってよい。
この当然、当たり前の<善>を<悪>に変えたのは、実質的にはこの20世紀になってからだと言ってよいだろう。

例えば、旧約聖書から引用してみょう。
出エジプト記には有名なモーゼの十戒(じっかい)があるが、実は、これはモーゼの神とその仲間内(イスラエルの民)の戒律であり、他国人には適用されないのである。

「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない・・・云々」
とありながら、
「わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをアモリ人、ヘト人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導くとき、わたしは彼らを絶やす。」
と神が宣言している。
実際は、イスラエルの民が、神の名を語りながら侵略、略奪し、殺戮するのである。(民数記)

日本書紀や古事記でも、同じような記述がたくさん出てくる。
そこには罪の意識や悪の概念は微塵(みじん)もない。神の宣託があり、それを実行しただけというわけだ。

明らかに、20世紀以降の人類の価値観と古代の価値観は異なるのである。
であるから、現代の視点をもって、古代をみてはならないということになる。

価値観は長い人類の歴史の中で少しづつ進歩してきたと考えたほうがよいであろうし、善と悪という概念も変化してきたのである。

絶対的なものもあるのかも知れないが、我々人間は相対的な価値観から逃れることはできない。
善が悪になり、悪が善に替わる・・・0が1になり、1が0になる・・・無から有が生じ、有が無に帰る。
ある意味、それが神の法則なのかも知れない。

では、長くなったのでまたね


綾糟(あやかす)

2006-06-06 01:41:43 | 宗教
取り敢えずになるらしい。

6月になった。もう、1年の半分になろうとしている。

今日のタイトルは、綾糟である。
綾糟ってなに?と思うであろう。私もよく知らないが、人名である。
日本書紀に出てくる蝦夷(エミシ)の指導者の一人で、捕らえられた人物らしい。
実は、5月の給料日に本屋でみかけ、購入した「古代東北と王権」(中路正恒)とういう本の中にでてくるのである。
副題が-「日本書記」の語る蝦夷-となっているように、日本書紀のなかででてくる蝦夷関係の記事を収録、検証した本である。

基本的には学者の書いた本であるから、日本の古代史を充分熟知していなければ頭が混乱する本だし、画期的な視点の新しさはみあたらない。

この本は、最初にこの綾糟という蝦夷の指導者が投降?し、天皇(大足彦天皇)と対面?した場面から始まるのである。

天皇曰く、簡単に言うと「お前たちを殺すぞ!」と言ったところ、綾糟等は「・・・乃(すなわ)ち泊瀬(はつせ)の中流に下て、三諸岳(みもろのおか)に面ひて、水をすすりて盟(ちか)ひて曰さく、」という行動をとったらしい。

この行動について、著者はウダウダと検証しているのであるが、結局、自分の故郷の山に似ている三輪山に誓ったのだという結論をだしている。

本当にそうなの?

著者は、こう書いている。

「三輪山は、ヤマトにありながらも、多くの土着的な人々によって、故国の神々への<通路>となりうる山と感じられる山であり、三輪山の神、大物主とは、それゆえにこその<名>であったのではないだろうか。」

おやおや。ヤマトが占領される前の人々が畏敬の念をもって眺めていた山が、三輪山であったと考えれば、何の不思議もない話なのだが。

元々、神武天皇がヤマトに侵略して、奪った地であろう。
日本書紀にそう書いてあるではないか。
こんな歌が載ってる。(神武天皇)

「エミシヲ、ヒタリモモナヒト、ヒトハイヘドモ、タムカヒモセズ。」
(夷を、一人で百人に当る強い兵だと、人はいうけど、抵抗もせず負けてしまった。)

自分たちの故地に捉えられて来たのであるから、かっての神の山に向かって誓うことが、そんなに不思議なことだろうか?

こんな単純ことが48ページにもわたって、検討されている。
流石に学者である。

てな話で、学者とは不思議な人間であるという、他愛もない話でした。

またね。