虚空漂浪日記

魂の開放を求めて、右往左往。嫌われものの”宗教”の根本を捜し求める日記です。

宗教とユダヤ教と秦氏

2008-01-25 12:58:53 | 宗教
異常な低気圧のせいで、大荒れの天気・・・のはずが、です。

ここ3~4日、ほとんど眠れず、漸く、昨日、睡眠がとれました。永遠に眠らないのかと思うほどでしたから、相当、脳から覚醒剤が放出されたでしょうねw。

そういうわけで、秦氏についてHPを調べてみました。5000件以上ありました。無論、重複表示があるので5000件以下ですが、相当、人気のある歴史上の謎の氏族だということが分かります。

秦氏人気は、日本の主要な神社に大きな影響を与えているからでしょう。
日本の神社は、日本人の伝統に根ざした宗教ですから、興味深い課題だといえます。

果たして、秦氏がもたらした宗教は何だったのでしょうか?
秦氏が朝鮮半島を経由して日本に渡ってきたことは、多分、歴史的な事実だと思います。
定説とされるのは、3世紀ころ朝鮮半島南部にあった加羅・加耶の国から渡ってきたとされるようですが、元々、その国にいた人達はどこから来たのでしょうか?
何れにしろ、3~5世紀(はっきりした時代考証はされていないようです)ころ、日本に渡ってきたらしいことは確からしいですね。
そして、彼らが日本人の一部を形成し、特に、宗教的な影響を強く与えただろうといえます。

秦氏がもたらした宗教は、それ以前にあった宗教形態と混合しただろうことも、また否定できない事実だと思います。
秦氏の宗教的対応は、歴史的に極めて柔軟だからです。
自らの宗教的形態を持ちながら、あっさりと新来の仏教施設を造るなど、外面的に柔軟性をもっています。
こうした面から、秦氏は支配層には逆らわないが、自らの宗教的信念は貫く民であることが分かります。

こう言うと、すぐユダヤ人に結びつける人がいますが、その典型は日ユ同祖論です。
例えば、失われたイスラエル10部族の人達の一部が日本に来たなどですね。
まぁ、話半分にしておきましょう。否定も肯定もできませんからw。

ユダヤ教の経典(旧約聖書:律法、預言者の完成)は紀元前400~200年頃、ネヘミヤとエズラが完成させたと言われています。(ユダヤ人の歴史・上:ポール・ジョンソン著)
一方、北イスラエル王国が滅亡したのは、紀元前722年です。イスラエルの失われた10部族は、この時に起きています。
ユダヤ教の経典の一部が完成する300年以上も前のことです。
そして、彼らが混血し、他の宗教と混交していったことも明らかな歴史的事実なのです。
ですから、安易に日ユ同祖論を支持すべきではないというのです。
にも関わらず、日本の神社形式などに、ユダヤ(イスラエルというべきかも)教的な痕跡が残されていることも確かだろうと思います。
ダビデの星や菊の紋などは論外(古代の遺跡ではあちこちにあります!)ですが、ユダヤ的ではないかと思われるものもあるからですねw。

だから否定もできないw。

ところで、旧約聖書にあるモーセの話は作り話であることを、皆さんはご存知ですか?歴史的事実ではない?・・・確認されていないのです。

古代エジプトの王朝は、細かい歴史的出来事を記録したようです。
そこには、モーセも100万人を越すといわれるイスラエルの民もいないのです。
都合の悪いことは残さなかったのかも知れませんが、2~3人の逃亡者(エジプトからの)すら記録しているのに、全く痕跡がないということらしいです。
定説という言葉は使いたくないですが、モーセの話はキリスト教の歴史学や考古学では根拠がないとされています。

しかし、旧約聖書にはこと細かく記録されていますね。

元々、旧約聖書に記されている前半部分は、メソポタミアの様々な歴史や伝承から組み立てられています。別にユダヤ教の専売特許ではないのですね。
それが、一つの宗教の経典として、現代まで残されたにすぎないということに注意しておくとよいのではないでしょうか。

もう一つ。現代、ユダヤ人と称している人々は、旧約聖書にいわれるアブラハムの子孫ではありません。中には少々いるのでしょうが、大半は他の人々なのですね。ここは重要なポイントなので、覚えておく必要があります。
現代のユダヤ人は、ユダヤ教を信奉している人々なのであって、誰でもいいんですw。貴方もユダヤ人になれます! 神の恩寵をうけることができますので、ご安心を。

少々、脱線しました。

私は前回のシリーズで、ソロモンのシールや古事記の数字の話からカバラ的なものがあることを明らかにしました。
ですが、そこで秦氏=ユダヤ教と誤解を生むのではないかと危惧し、今日、この文書を書いています。

秦氏ですが、HPをあちこちみると、一つの疑問がでてきます。
どうも、誰も疑問に思っていないようですが、秦氏は一つの系統なのかという疑問です。
徐福の伝説があります。彼らも中国の文献では”秦”と呼ばれているというらしいですね。日本にも伝説が残っていますから、徐福たちが、日本に住み着いたということも充分ありえます。そして彼らは、秦(しん)から来たので”秦(はた)”と称したとしてもおかしくありません。
そして、弓月の君などの話。彼らも秦(はた)と称します。
どこかで錯綜しているのではないか?そんな疑問です。

新撰姓氏録は漢文なので、正確に読めません><;。

隋書倭国伝(608年)に”秦王国”の記述がみられ、秦王国の人々は中国と同じだと記されていますが、弓月の君の後裔が”秦王国”だとすると、当然、朝鮮半島南部からの渡来説が吹っ飛びます。つまり、弓月の君らは朝鮮半島を経過したに過ぎないという根拠になるからです。

これ一つをとってみても、定説なるものが如何に根拠のないものであるかわかりますよね。

特に、日本の歴史学者は宗教的視点を備えていないのではないか?と疑問に思っています。
神話は、神と神との戦いの歴史です。それほど重要な民族的位置を占めているにも拘わらず、どうもその視点が抜けているように思えてなりません。

その良い例が、様々なところで顔をだす道教説です。
定説となっていると書かれたHPをみると呆れてしまいます。
どうも呪術=道教らしいのですが、根拠を明らかにして欲しいですねw。

呪術なんて古代史や古い民族的な歴史ならどこでもでてきます。
シャーマニズムは自然発生的に生じます。宗教を紐解くと、それは自明のことだからです。
何故なら、霊的な世界に感応できる人がいれば、いつの時代でも呪術は生じるからです。現代でもそれはあります。

ですから、シャーマニズムから様々なものを飲み込んで発達した道教・説は根拠のない暴論といっていいでしょう。
更に研究して欲しいと思います。
逆に、私も少し道教を勉強することにしたいと思います。
批判がましいことを書きましたが、秦氏は謎だらけです。
今後、何か気が付きましたら、また、秦氏と宗教との関係についてご報告したいと思います。

では、またお会いしましょう。


















マリアの福音書とグノーシス

2008-01-24 04:21:38 | 宗教
寒い日が続く中で、灯油も切れ、urban survivalを体験しましたw。余りにも寒いと、体を動かすことも出来なくなりますね。

漸く、迷走したシリーズを終え、少しホッとしています。
元来、神社に対する偏見もあって、日本の神々について深く考えたことがなかったせいか、新しい発見の連続でした。そして錯綜した神々の世界が、我が日本にはありそうだという点で、ほんのちょっぴりその門戸を開いた感じです。

今回は話題をガラッと変えて、マグダラのマリアについて書いてみたいと思います。
何故、急にマグダラのマリアなのか?と思うかも知れませんが、前回までのシリーズで、あの世の構造みたいなことを少々書きました。
実はそれと関連があり、マリアの福音書が何故グノシース主義といわれるかということとも関連します。

私が前回のシリーズを書く気になったのは、自分自身がほとんど日本の神々について知らないということ、日本古来の宗教はアミニズムだといわれることに対する疑問などからでした。

私は、アニミズムについて肯定的でもあり、否定的でもあるという立場を取っています。
それは創造主(神)の創造は、あらゆる物に神の片鱗を与えているからといえます。
翻(ひるがえ)って、人間の側からすると、あらゆる物に神の片鱗があるならば、それぞれを神として称えたところで必ずしも間違いとは言い切れない面があるのだと思うのです。

例えば、人間が創造主(神)からでたものならば、本質的には<神を内臓している>と考えられるのではないでしょうか?
一神教的な見方からすると、神と創造されたものの関係になり、畢竟(ひっきょう)二元論の立場をとります。
それは対立する概念であり、創造の本意ではないと思っています。
我々は、神の世界というと、何か平安の世界と思いがちですが、私が思うに、創造主(神)と創造された全ての宇宙そのもの-人間的な営為である善も悪も含めた全てをトータルしたものが神の世界というのだろうと思います。
何故なら、それは神が造りたもうたものだからです。
私はそうした視点から霊的な世界をみるので、天国も地獄もないというのです。

さて、前文が長くなりましたw。
まず最初に、グノーシス主義について少々お話しておきます。
グノーシス主義は、地中海周辺でおきた一つの宗教的・哲学的思想でしたが、キリスト教とは基本的に関係はありませんでした。
特殊用語がありますので、興味のある方はHPでお調べ下さい。
基本的にグノーシスは、絶対者-エロヒム(第一の顕現)-世界魂(第二の顕現)により人間の霊とその他の物質・物体の霊が形成されたという見方をしているようです。但し、エロヒムから人間の霊がで、世界魂からその他の物質・物体の霊が形成されたとし、人間の霊のみがエロヒムへと帰還するとされます。無論、その他の物質・物体の魂はその時がくればそのエネルギーを失い(消滅し)、世界魂へと戻っていくということです。

なんのこっちゃと思うかも知れませんが、まともに書くと、またシリーズ化しますので、そんなもんだという程度でお許しをw。

グノーシス思想を初期キリスト教が取り入れ、キリスト教グノーシス派といわれる流れが生じます。新約聖書にもグノーシス的思考がなければ理解できない部分が多々あるそうです。

キリスト教グノーシス派(色々と派があるようですが:但し、グノーシス派という呼び名は後世につけられ、当時はなかったようです)の最大の問題点は、多分、旧約聖書に現われる神を<悪の神>と捉えるところでしょう。
現キリスト教では、旧約の神=イエス・キリストの神ですから、そんなことは許されませんねw。
昔、読んだのでうろ覚えですが、確か、女の創造霊(ピステス・ソフィア)が一人(=男の霊なしでという意味だったような)で創造を行なったため、この世に混沌と混沌の創造者を招来(生み出)してしまうというような話だったようなw。この世の支配者(アルコーン=混沌の支配者)が旧約聖書の神だという筋書きだったと思います。

この話は古事記のイザナギ-イザナミが、女の方から先の声をかけたために、ヒルコを生んだ話と、深いところで繋がっているようにみえます。日本書紀ではこの点も曖昧にされています。

本筋に入りましょう。
マリアの福音書は、一度、HPの訳で読んだことがあるのですが、何故、グノーシス主義なのか理解できませんでした。
で、1年くらい前でしょうか。「イエスを愛した聖女-マグダラのマリア」を買い読み直してみました。非常に短い福音書です。僅か、7ページしかありません。欠落が多いためのようです。

グノーシス主義といわれるのは、「マリア、幻に見た魂の昇天について語る」部分にあるようです。
魂が昇天するにあたって、第一から第四の権力の尋問を受けます。
また、第四の権力には7つの権力が示されるのです。
第一の姿は闇、第二は欲望、第三は無知、第四は死の願望、第五は肉体の王国、第六は肉体の愚かな知恵、第七は怒る者の知恵。

魂がそれぞれの権力の領域で、彼らに尋問を受けながら上昇し、最後に物質と肉体の世界であるこの世(=実際はあの世にもあるということ)から解き放たれて自由になるという幻です。

グノーシス主義の教義や魂の昇天に同じような話があり、グノーシス主義とされるらしいのですが、最後(第四)の権力として<怒る者の知恵>とは明らかに旧約の神を意識した記述だろうと思えます。
 
確かに旧約聖書の神はよく怒るw。大洪水やソドムの例もありますが、一つだけ出エジプト記(モーセ)から例を示しましょう。

『わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。』(「金の子牛」より)

よく怒る神なんです。モーセに諭されたりされるところが面白いかもw。

マリアの福音書について書く気になったのは、あの世の構造として、そのような神みたいな存在があるらしいと感じたからなのです。
以前紹介したロバート・モンロー氏の「究極の旅」に、実は同じような場面が登場します。

モンロー氏の魂がどんどんとあの世を上昇していくと、最終場面に、
<我は、汝の仕うべき、主なる神である>と登場し、
<我を、汝の神として受け入れぬのか?>と強要します。
<呪わしき者よ! 汝は、汝の主、我のエネルギーの滓に過ぎぬというのに!>
と捨て台詞をいって消えていきます。

余りにも、旧約聖書の神の資質と似ていませんか?

あの世の構造の一端をあらわす例として、マリアの福音書、モンロー氏の究極の旅があると考えました。
あの世は、霊的なエネルギーの世界でしょうから、そこにも人間社会で培った様々な欲のエネルギーが蔓延している可能性があります。
ですから、それを突き進んでいかなければ、神の元へ帰還できないのではないかと思います。

ゴータマさんが、バラモンの神の世界も含めて全ての欲から開放されることを示したのは、あの世の構造を知ったからだと言ったら考えすぎでしょうか?

あちこちへ話しが飛びましたが、今回、話題にしたかったことは、以上のようなことなのです。

では、また次回まで。





日本の古代史と神々(その15) -追加編-

2008-01-23 14:35:36 | 宗教
忘れるといけないので、緊急追加しました。

古事記の最初の三神∔二神&神代七代(夫婦神を一代とする)=12代の神々。
これは明らかにカバラの思想です。

私は、最初の三神に二神が繋がっているため、思いつかなかったのですが、生命の木は10のシンボルから成り立ちます。
3∔7(3母字∔7複字)を意識し、生命の木が10のシンボルからなっていると思っていたからなのです。

ところが、物界を表すマルキュト(足:父、母)には、更に足首から下に2を足し全体で12とし、創造すべてを表現します。

10に2を加えた12が、古代象徴学での顕著な数字だということです。イスラエルの大祭司胸当の12の石、黄道帯12宮、イスラエルの12部族、イエスの12使徒等々、すべて聖なる一者が物質界へ顕現した秘密のシンボルとされています。(「カバラの信義」より)

こうして神は、物質界に顕現し、イザナギ-イザナミが国生みを開始する物語は完全にカバラを前提として組み立てられているといえます。

つまり、古事記の元資料にはカバラを意識した思想が組み込まれていたと言っていいでしょう。
古事記は、元資料に忠実だったと考えられます。

一方、日本書紀は一定の形式(3とか7)を踏みながらも、その内容にはカバラ的思想がみられません。
意味が分からないために、適当に編纂したものと考えられます。
ただし、形式だけは整えたといったところでしょうか。

こうした視点からすると、古事記が日本書紀に先だって成立したことは明確になります。
多分、元資料、古事記を参照しながら編纂したのでしょうが、渡来人が多く携ったことにより、元々の意味も分からず、意味不明な神々を並べたということだろうと思います。
もっと深い意味があるかも知れませんが、取敢えず、そのようなことでしょう。

ふと、閃いたので、忘れないように追加いたしました。
多分、このような視点から古事記、日本書紀を考えた人はいないと思いますから、<トンデモ説>とされるでしょうが、根底にある宗教思想的流れには自信があります。

興味のある方は、このような視点から日本古来の神々を紐解いてみたらいかがでしょうか。

では、またお会いしましょう。

日本の古代史と神々(その14)

2008-01-23 06:47:04 | 宗教
最近、新聞の投書欄で2回ほど環境保護で割箸について意見を拝見しました。
両方とも(日にちは違います)、割箸は使い捨て=無駄、木である=森林破壊、輸入=海外森林の破壊ということで、環境保護のために<my箸>を勧めるとのことでした。

こうした意見は正しいようで、必ずしも正しくないんですね。my箸を多くの人が使うのもいいのですが、割箸が全てダメというわけでもないのです。
実は、森林を維持・保護するには間伐という作業が必要なのですが、間伐した木材の使い道は限られているものですから、割箸にしていることが多いのですね。
<森林保護・保全>―<間伐⇒間伐材の発生>―<割箸へ加工>ということで、間伐材で作った割箸を使うことは、森林保護・保全に役立つわけです。

<過ぎたるは及ばざるが如し>で、理屈だけではなく、中身をよく調べてその成否を決めたら良いと思います。その場合、知識=具体的な知識が必要でしょうね。
気になったので、少々、述べさせて頂きました。

さてはて、このシリーズ、いよいよ泥沼に首をつっ込んだ感があります。
最初は、まさかこのような方向に向かうとは夢にも思っていませんでした。
しかし、3ヶ月考え続けてきたものですから、ボンヤリと開始したことも、様々な閃きが生じるんですね。

どうも本邦初公開のトンデモ説になりそうな予感ですw。
HPを探した限りでは、木島神社の三角鳥居がソロモンのシールだなどと言ってる人はいないと思います。カバラと結びつくなどと考えもしないようです。
M・ドーリル氏の「カバラの真義」によると、『三母字は中央に点、つまり、目(古代一者たるホア)のある三角形で象徴され、三角形の各点は、三母字の各字を表わしている』(カバラ入門の章より)とされています。

カバラは元々、ユダヤ教からでていますから、古代イスラエルの民の神官がいるとすれば、当然、カバラやソロモンのシールくらいは知っていたでしょう。
だからといって、秦氏の一族がイスラエルの民(ユダヤ人)とする必要はないと思います。ユダヤ教徒であればいいだけです。

秦氏に関しては、新羅人説、百済人説などがあるようですが、日本書紀の記述を信じれば、両説は否定されます。朝鮮半島を通過してきた人々だというだけです。何故なら、新羅や百済からの移民はそのように書いているからです。
また、徐福伝説などもありますが、その真偽のほどはわかりません。

秦氏が景教徒だという説がトンデモ説とされるのは、景教の中国伝播と秦氏の移民に明らかな年代差があるからです。
つまり、秦氏は景教が中国へ伝播されるず~と以前に日本にきているからですね。秦氏=景教徒とするには、基本的に無理があるのです。
ですが、ユダヤ教徒であるとすれば、景教を受け入れる素地があったと考えても良いと思います。メシアが現われるという希望は、ユダヤ教徒に根強くあったからです。
ですから、秦氏が建てた広隆寺(別名、太秦寺)に弥勒菩薩があるのは偶然ではないと思います。弥勒菩薩は、仏教における未来の救い主=メシアだからであり、マイトレーヤ→ミロク思想となったと言われているからです。
更に、広隆寺には大酒(古くは大辟)神社があったそうです。「秦氏ゆかりの広隆寺の鎮守の一つでもある。」とされています。(大酒神社の伝承による)
まぁ、この辺のことは、様々な本で取り上げられているので、興味のある方はそちらをどうぞ。きりがありませんので。

ところで、記紀ですが、前回「3」とか「7」という数字について書きました。記紀の伝承では、旧約聖書と明らかな一致がみられたり、ギリシャ神話との類似が指摘されています。
つまり、記紀の元本には、旧約聖書やギリシャ神話を知っていた人がいたということでしょう。
そこで「3」と「7」なのですが、先にあげたカバラ入門には、3母字と7複字という言葉がでてきます。一方、記紀には三柱の神とか神代七代などというふうに出てきます。カバラの言っている意味とは必ずしも一致しないのですが、奇妙にこうした数字を意識していると思います。
特に、古事記の最初に現われる神、天之御中主神―高御産巣日神―神産巣日神の三神に注目したいと思います。

何故、注目するかといえば、既に、カバラを知っていると思うからです。生命の木によると、最上部の三角形をなす部分は、ケテル(冠頭:両性:アブ-アイマ)―チョクマー(智慧・男・父・頭・頭脳)―ビナー(知性・理解・母・心)という三角形をなします。
思い出して欲しいのですが、高御産巣日神は男神であり、神産巣日神は女神として古事記では表されています。
これは奇妙な一致だけなのでしょうか?
木島神社(秦氏の神社)の祭神は、天之御中主神でしたね。そして、それはソロモンのシールのことだということを明らかにしました。
すると、聖徳太子―秦氏のラインからみると、完全に否定できないと思うのですが、どうでしょうか?
この三神のあとに二柱の神がでてきますが、まだ、そこまでは解明していません。

何れにしろ、三柱の神はあちこちにでてきます。例えば、有名な<アマテラス―ツクヨミ―スサノヲ>、<ヤソマガツヒ―カンナオヒ―オオナオヒ>、<ソコツツオ―ナカツツオ―ウワツツオ>、<ソコツワタツミ―ナカツワタツミ―ウワツワタツミ>等々。(日本書紀より)

何故、これほど「3」に拘(こだわ)っているのか、まだ、私にも分かりませんが、古事記の最初の三柱は聖徳太子―秦氏の呪縛があり、日本書紀はその呪縛を避けたのではないかと思う節あるのですが、どうでしょう?

記紀のこの辺の話は、珍説ぐらいにしておきましょう。

日本の古代史に首を突っ込むと、底なしなので、このシリーズはここらで終わりとしたいと思います。
また、何か気づくと、新たに書くかも知れません。

では、またの機会に

日本の古代史と神々(その13)

2008-01-18 16:05:47 | 宗教
今日は。時々もちらつきますが、陽(ひ)の有難さが感じられます。

日本の古代史に興味を抱いている人は多いようで、ホームページも沢山あります。力作も多々あって、読むのに1日で終わらないというものも多いですね。

これまで長々とこのシリーズを書いてきましたが、縄文時代に蛇信仰があったのは明らかな事実だろうと思います。
何故、蛇信仰なのか? 残念ながら、明快な回答に到っていませんし、納得できる考えにも出会っていません。
大体、現代人が考える答えは、ご利益にいたるようですが、本当にそうだったのでしょうか?
例えば、蛇は主に水の神様ですが、そのご利益と害は想像可能です。水が無ければ全ての動植物は生きていけませんからね。水は生命の源と理解すればいいだけです。その害も、河川の氾濫から大津波、暴風雨、雨乞いにみられる少雨など等。
ですが、縄文人が<霊的>なものを感じ取っていただろうことも、もう一方の事実だと思います。死者の埋葬方法や再生を願う土偶などから伺えます。

死者を祭ることが怨霊と結びつく発想は、かなり遅く、国家がまがりなりに形成された後のことだろうと推察しています。
但し、その根底に縄文いらいの<神の祟り>という発想がベースにあっただろうことは否定できません。

元々、神は恩恵を与えるとともに、祟る=人間に罰を与える存在として捉えられていたはずです。蛇神=水神の発想がそのことの本質をあらわしています。
神の恩恵を祝う=祭り、神の祟りを鎮める=祈りの両面が縄文の神に対する行為としてあったのだろうと思います。
それが水神=蛇神に仮託されたのでしょう。

日本における神社の古式から想定すると、本当の神は<漠然とした捉えがたい何ものか>であったのでしょう。
そのことは、依代(よりしろ)として山、岩、木などを神聖視する礼拝形態から明らかです。やがて、それは動物=日本では蛇(化身)として表現され、巫女(依代)へと変化していくのだろうと思います。
巫女は人に<言葉=言霊>として表現してくれますから、蛇よりまだ分かりやすいわけです。
縄文時代にニセ・シャーマンは、男でも女で殺された可能性があります。そうのように解釈される人骨が出土するからです。
シャーマンも命がけですねw。

卑弥呼(巫女)を立てることによって国内が治まった理由は、縄文時代からそのような土台がこの日本の存在したからなのであって、中国からの移入によるものでないことが、これで理解できるでしょう。

さて、ここからが問題です。
記紀の神話によると、古事記では<天御中主尊・高皇産霊尊・神皇産霊尊>、日本書紀では<国常立尊・国狭槌尊・豊斟渟尊>の三柱が現われることになっています。
何故か「3」という形に拘(こだわ)っています。

記紀に、ベースとなる原資料があったのは確かです。
その<原資料>は、多分、聖徳太子と蘇我馬子が記録した(させた)ものだろうと思われます。
日本書紀・推古天皇の項に、次のような記述がみられます。

『この年、皇太子と馬子大臣が相議って、天皇記および国記、臣・連・伴造・国造など、その外多くの部民・公民らの本記を記録した。』

皇太子は聖徳太子、馬子は蘇我馬子です。

これらの記録文書は、結局、大化の改新の折、蘇我蝦夷らによって焼かれるのですが、一部、国記などは焼却をまぬがれたとされています。(皇極天皇の項)


大化から天武天皇までせいぜい30~40年くらいしか経っていませんから、当然、聖徳太子が造らせた国記は残っていたでしょう。
古事記を編纂するにあたって、古史古伝を読み憶えた稗田阿礼は多分、焼却された部分である臣・連以下の古史古伝を記憶(記録)したのでしょう。

整理すると、こういうことです。
     
            国記(聖徳太子編)
天皇記(古事記)← <基礎資料>  →日本書紀
            稗田阿礼の記録

図式が書けないので、少々不満ですが、上のような関係で記紀は編纂されたと予想されます。特に、日本書紀編纂には百済・新羅からの渡来者が関わっているといわれていますので、日本の歴史には疎(うと)いとみてよいでしょう。
そうすると、編纂方針は何らかの指針が必要となります。
多分、聖徳太子が編纂した国記に、その指針をみいだしたと考えるのは、自然だと思います。既にあるのですから。

さて、聖徳太子(存在しないとも言われています)が、ある一定の編纂方針を決めていたと仮定しましょう。―それ以外にありえないのですがw。
特に、神代(上)はパターンが決まっています。
3とか7とかいうパターンで記述されています。
これがどういう意味かは、ここでは書きません。

聖徳太子は仏教徒だという話は、眉つばです。記録としては確かに書いてありますが。

聖徳太子を語るときにポイントになるのは、秦河勝(はたのかわかつ)であることが様々な本やHPでも指摘されています。

ところで、この秦一族とは、どんな一族なのでしょう?

記録によると、仲哀天皇の第8年(書記AD199or200:改定288年)、弓月(ゆづき)の王 功満が公式訪問に来日したとあります。(新撰姓氏録)

日本書紀では、応神天皇の第14年(書記AD283年:改定372年)、弓月の君が百済から来朝し、百二十県の人民を率いてやってきたが、新羅が妨害して日本に移住できないと訴えています。
第16年になって漸く、弓月の民を率いて葛城押襲津彦(かつらぎそつひこ)が帰還します。弓月の民の数は18,670人といわれています。大集団ですね。
何故か、モーゼの出エジプトを思い出させます。

さて、ここまでは日本側の記録でわかるのですが、では、彼らは何処にいた民なのでしょうか?
京都の大酒神社伝承によると、秦始皇帝14世の孫(弓月の君)とされていますが・・・少々怪しいw。

中国の文献(資治通鑑)に弓月のことが記されているらしいのですが、確認できませんでした。(「封印の古代史2<仏教・景教篇>」)

『弓月王は中国の巨丹(新彊・ウイグル自治区のホータン)に生まれ、中国・甘粛省(ガンスー省)、敦煌よりさらにはるか西にある。陽関地方を含めた120県から一族を集めて、AD238年に大挙して日本に移住して来た。この地方に「弓月の君、百二十県の民を率い、大挙して日本に渡来、移住す。」という記録が残されている。120県にちらばっていた2万人を束ねて砂漠を越え、黄河をくだり、半島をへて渡海してきた。2万人とは、大事業である。』(「魔多羅神2」より引用させて頂きました。)

何れにしろ、秦氏は西域から集団で移動してきた渡来人であるようです。これは秦氏が建立した寺や神社などを調べると、その痕跡が伺えます。

秦氏は弥勒菩薩で有名な広隆寺、木島神社ほか宇佐八幡宮、松尾大社、金刀比羅宮、伏見稲荷大社等々と関係がある(建立したor乗っ取ったのだと思うw)とされています。

秦氏の神社とされる木島神社(木島坐天照御魂神社:このしまにますあまてるみたまじんじゃ)は、推古天皇12年に勧請され、実年代はAD606年と考えられています。
この神社は三柱鳥居と元糺(もとただす)の池、御祭神に天之御中主神(古事記の天御中主尊と同じ)、景教の名残だとされる社伝があるなど、一風変わった神社です。
「この鳥居の中心部に組石の神座があり、宇宙の中心とされ、主祭神の天御中主命の降臨する所である。」という説明と写真をみると、あることに気づくはずです。
無論、宗教に詳しくない人にはわかりませんがw。

<違いなく、古代のユダヤ教です。

私も、ラビ・M・トケイヤー氏の「日本・ユダヤ封印の古代史」を読んだ時は、なるほど程度の印象でした。そういう説もあることは知っていたので、然程、気になる話ではないし、古代に少しは西域の影響もあるのだろうくらいに思ってました。
が、今回、このテーマで考えてみたところ、どうも違いますね。

トケヤー氏はユダヤ教のラビでありながら、根本的なことが分かっていないのか、説明したくないのか?、三柱鳥居と天御中主尊(神)について語っていません!
何故なら、それはカバラにおける<ソロモンのシール>そのものだからです。

△の中に・(目)があるシールのことで、ソロモンのシールといい、アメリカのドル紙幣にも印刷されています。秘密結社の印のように言われますが、元々は違います。カバラからでた印です。
△の頂点がケテル、左角がビナー、右角がチョクマー、中心の・(点)がホアといいます。この<・>が目として象徴されているのですが、創造神をあらわしているのです。

秦氏と景教(通称、ネストリウス派キリスト教:大乗に対する小乗みたいな蔑視語)を結びつけると、何かトンデモ本あるいは説とされるみたいですが、それは間違いでしょう。
むしろ、<トンデモ>と言ってる人が無知なだけです。ほっときましょうw。

これで謎が一つ解けました。秦氏は古代のユダヤ教徒(ユダヤ人とは限りません、念のため)だったのです。

ですから、後から伝わった景教(東方キリスト教)をすんなり受け入れたのでしょう。キリストがユダヤの地から出たということを大喜びで受け入れたことでしょう。

ここで年代の整理をしましょう。

①秦氏の祖先は、概ね3~4世紀には日本にいた。彼らはユダヤ教徒であった。
②景教は431年エフェソスの公会議でローマ側から異端とされ、東方へ急速に布教された。(5世紀~)
③景教が中国へ正式に伝わったのは600年代初頭?。635年、長安に寺院が建てられている。
④木島神社は606年に立てられている。景教が中国と同時頃日本に達した可能性大。
景教徒は布教に異常なほど情熱を傾けたらしいから考えられる。(日本にもいますねw)
⑤ただし、原始キリスト教は1世紀にインド→チベット→中国へ伝わっている(トマスの伝道)。<参考まで>
⑥古事記 712年成立。

こうしてみると、秦氏は景教を即座に受け入れ、自らの信仰に取り入れたといえます。但し、巧妙に、日本風に改変して受け入れたということでしょう。

実は、天御中主尊が祭られている古式神社はほとんどありません。ところが、古事記で最初に現われる神は、この天御中主尊なのです。古事記は天皇の私家本みたいのものです。我が家の歴史なんですねw。その最初の祖先が<天御中主尊>なのに・・・何故、祭られないのか!

日本書紀では、何故、一書として書かれているだけなのか?

謎は謎を呼びますねw
ミステリーですね。(意外とミステリーじゃないと思うけどw)

今回は書きすぎたので、この辺で終わりにしょうと思いますが、おさらい。

木島神社の三角鳥居は、皆が思っているようなものではなく(キリスト教の三位一体説:真ん中に神はいません!、方位説:真ん中に神が降りる意味不明?)、古代ユダヤの密教である。
△は「3」であることに注意!
古事記も日本書紀も3人の神から始まる!(中の点は表示しなくても良い)
これを持ち込んだのは秦氏であり、聖徳太子である。
記紀には、ユダヤ密教が取り込まれている。

ま、大体、こんなところでしょうか。

では、またお会いしましょう








日本の古代史と神々(その12)

2008-01-17 06:36:26 | 宗教
寒波が続いていますね。冬本番といったところでしょうか。

古代の神々で「蛇」はもうやめようと思いましたが、どうも「蛇」から逃れられないようです。
日本書紀にこんな記述もみつけました。
神代(下)で、タカミムスヒが葦原中国(あしはらなかつくに)を平定しようとし、その探索に天稚彦(あめわかひこ)を派遣するのですが、その時、天鹿児弓(あまのかごゆみ)と天羽羽矢(あまのははや)を授けます。

話は飛んで、神武天皇の項になりますが、国土防衛軍総大将の長髄彦(ながすねひこ)が侵略軍総大将の彦火火出見(ヒコホホデミ:神武天皇)に使いを送ります。
そこに天羽羽矢が出てきますが、注書で「蛇の呪力を負った矢」とあります。
同じ天孫の印であるのに、単に天羽羽矢-しかも先にでてくる矢には注なし-でも二種類あるのでしょうか。

面白いことに、ナガスネヒコはミナカノトミノミコト、トミノナガスネヒコと言われます。[トミ]は地名ということらしいですが、蛇の古語でもあるとされています。
ナガスネヒコは、別名アラハバキ=足長神とされています。
また、古語拾遺によると「古語に大蛇、これを羽羽と謂ふ」となっています。

あ、忘れていましたが蛇神は水神です。

前回以降も、思いつくことを調べていると、諏訪大社がどうも古代に蛇神を祭っていたらしいこと(祭神はタケミナカタとヤサカトメ:タケミナカタは侵略者らしい)、諏訪大社は古代に南方刀美神社(ミナカタトミノカミノヤシロ:延喜式神名帳)といったらしいです。おっと、ここにも<トミ>の言葉がありますね。
素直に読めば、<南方の蛇の神の社>ということでしょうか。
古式の神社には、必ずといっていいほど<蛇>の影がまとわりついているようです。
また、注連縄は蛇のメスとオスが絡んだ(生殖行為)形を表現していることなどがわかってきました。
そうすると、日本の神社は蛇だらけということになりますね

蛇の追加になりましたが、<蛇神⇒人神>への移行が古代のある時期にあったのだろう。これは事実だろうと思います。
何故、そうなったのか、この点が実は今悩んでいるところです。
ヒントはあるのですが、裏づけがとれないのです。傍証は沢山ありそうなのですが、今、一つ確信が持てないといったところでしょうかw。

今回は、蛇神の追加となりましたが、日本の古代の一時期は蛇だらけです。縄文の終わり頃がその時期と考えていいのではないでしょうか?

では、またお会いしましょう。

日本の古代史と神々(その11)

2008-01-13 11:10:24 | 宗教
寒い日が続きますね。今日もらしいです。日は照っていますが、粉雪がちらほら。日中でもマイナス5度くらいですから、空中の水分も凍るのかなw。

昨今、地球温暖化が叫ばれていますが、これは地球のサイクルでは寒冷化へ向かうはずが、人工的に排出される保温ガス(二酸化炭素など)が急激に増加しているため、気象が劇的に変化することや氷河や南極、北極の氷が溶けて海水面が上昇する脅威があるということですね。

日本の古代史でいえば、縄文時代の初めころ(約13000年前頃)から地球の温暖化が進み、縄文時代中期(約4000年前頃)まで続いたといわれています。海水面は100~200m高く、現代でいえば私の住む札幌も東京も海の底といったところでしょう。
事実、私が昔、取引をしていた温泉を掘る会社の社長さんが、札幌なら一部を除きほとんどの地域から温泉がでると話していました。取り残された海水が地熱で温められたためだそうです。

さて、温暖化の話はさておいて、この間、私が調べていたことは「蛇」についてです。
何故、「蛇」なのかというと、日本の古代における神の化身は「蛇」であるらしいからです。
日本最古といわれる三輪山の神も蛇であるらしいことは、日本書紀にも2ヶ所登場していることから確かめられます。

一つは、崇神天皇の項に出てくる三輪山の神(小蛇:こおろち)とヤマトトトビヒメ(倭迹迹日姫)の関係で、ヒメ(=巫女)は三輪山の神の妻になるのですが、その正体をみてしまい、神の怒りをかって「箸で陰部を撞いて」死んでしまいます。
そのヒメの墓が、「箸墓」だと書いてあります。

もう一ヶ所は、雄略天皇の項で、天皇が少子部連(ちいさこべのむらじ)スガルに、三輪山の神の姿が見たいから捕えてこいと命令します。すると、スガルは「三輪山に登って大きな蛇を捕えてきて天皇のお見せした。」と記されています。

また、ヤマタノオロチ(八岐大蛇)とスサノヲのことは皆さんもご存知でしょう。
ヤマタノオロチを切った剣を天の叢雲剣(あまのむらぐものつるぎ)といい、後に草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名づけられます。この剣は、景行天皇の項で倭姫(やまとひめ=伊勢神宮の巫女)から日本武尊(やまとたけるのみこと)に渡される剣ですね。
一説によると草薙剣の由来は、日本武尊が駿河に遠征したとき、賊が野に火を放ち火責めにしますが、剣で”草をなぎ払い”難を逃れたことによるとされています。
日本書紀を書いた人はさすがに、この由来を信じていなかったらしく、一説として注書きにしています。本文は火打石で迎い火をし、難を逃れたとされています。

ところで、インドでは男性蛇神をナーガ、女性蛇神をナーキィといい、八つのコブラの頭を持つ蛇神をマホーラガ(偉大なる蛇)というそうです。
ヤマタノオロチ=八つの頭のある蛇、草薙(くさ・なぎ)・・・女性蛇神=ナーキィ、何か曰(いわ)くがありそうですね。
中国といっても、ミャオ族、ヤオ族の始祖神話なのですが、伏羲(ふっき:牛神)と女媧(じょか:蛇神)の夫婦神(兄妹)が人類を生む話には、洪水伝説があるそうで、ここにも蛇神が登場します。(「摩多羅神8」:HPを参照させて頂きました。)

一方、民俗研究家の吉野裕子氏によると、「伊勢の大神は、もともと五十鈴川の川底にいたヘビだったという古い伝承がある。ヘビは日本古来の祖神であり、・・・」とされています。(『縄文人は飲んべえだった』岩田一平)


草薙剣を渡したのは、伊勢神宮の倭姫ですね。草=種(くさ:たね)だとすると、前述のナーキィ=ヘビを元とした剣だという論法も成り立つようです。
何れにしろ、蛇からでた剣=伊勢の大神(蛇)にはなんらかの関係がありそうです。

縄文時代中期(今から5000年~4000年前頃)に大量の女性を模った土偶が出土するそうです。それは破壊されて、埋葬されます。
この土偶と蛇に何か関連があるのでしょうか?
不思議なことに、ほとんどの蛇神は女性です。そうでない場合もありますが。
女性を模った土偶、蛇神=女神、これは豊饒の神を表しているようです。死と再生の神なのでしょうか? 大地母神の意味なようです。

日本書紀には保食神(うけもちのかみ:女性神)という神が登場してきます。月夜見尊(つくよみのみこと:男性神:天照大神の弟)が殺してしまいますが、殺されることによって頭に牛馬、額に粟(あわ)、眉に蚕(かいこ)、眼に稗(ひえ)、腹に稲、陰部に麦、大豆、小豆を生じます。
夜の神が動植物を生み出す神を殺し、やがて動植物を再生するという物語であり、土偶を破壊し、豊饒を願う縄文人の祈りに近いことを暗示しています。

日本の古代では、豊饒神=女性から蛇神(女神)へ、そして蛇神(女神)は男神へ変化し、やがて蛇神(男神)も殺される(=スサノヲにより)ことによって、歴史から失われていったように思います。

かくして、人が神として登場する時代に入ったのではないでしょうか?
日本の古代史の中には、明らかに、蛇=神の化身の時代があったように思います。

蛇を題材とすると、シュメールまで行きそうなので、これ以上は追求しません。

では、次回、またお会いしましょう。


日本の古代史と神々(その10)

2008-01-04 08:41:48 | 宗教
明けましておめでとうございます。
特に、おめでたくない日々なんですが、取敢えず慣用句ですねw。
へそ曲がり一刀斎としては、全くメデタクナイわい、と思う今日この頃なんですが・・・。

昨年からこの表題でダラダラと連載してますが、ど~も今一つピンとこない日本の神々なんですね。

それで、少し整理してみたいと思います。

(1)「創造主とあの世の構造」について
一刀斎は、この2年くらいの間、あっちこっちに首を突っ込みながら、"神=創造主”とは何かを考えてきました。
所謂(いわゆる)一神教と多神教などといいますが、”神=創造主”は確かに存在するという確信から、多神教は何故生まれるかを、考え続けてきたわけです。
で、1年くらい前から、徐々に理解できるようになりました。

現在、多神教が生まれる原因は、”あの世の構造”にあるのだろうと思っています。
私のような凡人は、あの世など見にいけないのですが、明らかに特殊な能力をもった人々がいて、その人たちがみてきたあの世の話が公開されています。

さて、その人たちが見てきたあの世ですが、皆さん、その内容が異なります。
何故でしょう?
この点がなかなか解けなかったのですが、それはあの世の構造に起因しているのだということに思い至りました。

大まかに言うと、<創造主>-<あの世>-<私たちの世界>という三重構造になっているのが、(現在の)創造主を中心とした世界だと思います。
しかし、我々生身の人間からすると、<あの世>の構造は非常に複雑であり、かつまた増大する世界だということに思い至れば、多神教の謎は解けます。

<あの世>を簡単にいってしまうと、精神エネルギーの世界と表現してもいいかも知れません。
強烈な精神エネルギーを持った一個の存在は、あの世に一ページの世界を創出すると考えて下さい。
それがこの世の悪といわれる存在であろうが、善といわれる存在であろうが、それぞれ一つの異なった世界を創出するのです。
それらの強烈な魂(精神)の存在が、上位にあり序列として縦のページを形成するとイメージしてみて下さい。
そしてそれが膨大なページとして膨らんでいくという感じです。
縦に並べたファイルだと思ってくれていいでしょう。

現代の宗教でいえば、仏教徒のページ、キリスト教徒のページ、ユダヤ教徒のページ、イスラム教徒のページ、ヒンズー教徒のページ、唯物主義者のページ、悪魔教徒のページ等々ですね。

それぞれのページに創出された”神”がいると考えると、多神教が成立すると思います。
しかし、一神教といわれるユダヤ-キリスト-イスラムにおいても、”神”の存在は闇の中であり、”神=創造主”とは何かを教えてくれません。
確かに”神=創造主”は理性で捉えることができない存在であるのですが、”どんなもんなんだぁ~”という人間本来の欲求みたいなものがあるのも確かでしょう。

ゴータマさんが偉いと思うのは、「この世の欲、あの世の欲を捨てて、行ってみて来い!」と言っていることが凄いのかも知れません。
私には、ゴータマさんがそう言っているのだろうと思えるのですが、如何でしょうか?
まぁ、ゴータマさんは体育会系かなw。
その点、大乗仏教は文科系でしょうね。屁理屈が多くなったということでしょう。
イエスさんは、文武両刀かなw。それがいつの間にか文科系になったというところでしょう。

冗談はさておき、<あの世>を縦型のファイルとイメージすると、日本の八百万(やおよろず)の神々もな~んとなく分かるのではないでしょうか?

(2)何故、日本は八百万の神々なのか?
これは私の推測なのですが、縄文から弥生にかけて様々な人々が自らの宗教を携えて、この日本列島に移住してきたことは明らかだと思います。
そこである特定の集団が、強固に統一を果たしたのなら、多分、八百万の神々とはならなかったでしょう。
ところが、少なくとも、縄文時代には緩やかな連合体があり、それぞれの集団がそれぞれの宗教を認め合う関係があったのだろうと推測されます。
縄文時代でもかなり活発な物資の交流があったことは、発掘によって明らかにされていますし、否定できない事実だろうと思います。
無論、各集団間で多少のいざこざや、戦いもあったでしょう。
ですが、弥生時代のような支配-非支配の関係を築くような争いは少なかったのだろうと思います。
当然、そこでは宗教的な意識の融合もあり、現在みられるような神道的(といってよいかどうか?)な宗教観へ収束する過程があったのではないでしょうか。
それぞれの集団の神を尊重しつつ(八百万の神々)、一つの統一的な宗教形態へと進んでいったと予想されるのです。

こうした宗教文化的背景を、倭(やまと)統一へと向かわしめた集団も否定できなかったし、それを受け入れないと支配することができなかったのでしょう。
裏をかえすと、統一した集団は少数派だったと考えられるわけです。

従って、高皇産霊(タカミムスヒ)-天照(アマテラス)の系列は多分に、元々あった宗教形態に接木(つぎき)したのではないかと思われるのです。

元々は神皇産霊(カムミムスヒ)-素戔嗚(スサノオ)の系列が、統一した宗教形態の頂点を成していたのではないでしょうか?
そう考えていくと出雲に神々が集まる理由も理解できると思うのですが、どうでしょうか?

少々、長くなりました。
また、次回に続けたいと思います。
では、また、お会いしましょう。