残暑が続いていますが、皆さん、如何お過ごしでしょうか?
私たちはよく”神”という言葉を使いますが、果たして”神”ってなんでしょう?
日本には八百万の神様がいますが、ユダヤ教-キリスト教-イスラムでは唯一者の神と言います。
ヒンズー教でも色々な神々がいます。
仏教には神が出てきませんが、仏が神の代用でしょうか。
私はこの1年間に自分のブログを書きながら、考え続けてきました。
そこで気付いたのですが、単に視点の違いであるに過ぎないということです。
唯一、仏教で神という言葉を使わないのは、大乗仏教(日本の仏教)の依怙地にすぎません。
古典的仏典には神々が多々でてきますから、仏教にも神は存在します。
そこで、私のブログでは”神”を整理したいと思います。
皆さんは”神”というと、どんな存在だと思いますか?
普通に考えると、自分を含めて、人々を助ける存在だと思うでしょう。
”神様、助けて!”と、困難に陥った時に、助けを求める相手が神ではないですか?
でも、大半の場合、”神”は”よっしゃぁ~”と言って助けてくれません。
助かった場合を、奇跡といいます。
私もそんな通俗的な思考から、出発したのです。
この1年、私は主に神話の本を、多少意識して読んできました。
その締めくくりとして、読んだ「ホピ 宇宙からの聖書」によると、神とは次のような存在として語られています。
『最初の世界はトクペラ(無限宇宙)といった。
だが、ホピによれば、初めは創造主タイオワしかいなかった。それ以外は、すべて無限世界だった。始まりもなく、終わりもなく、時も、空間も、形も生命もなかった。始まりと終わり、時、形、生命をタイオワの心の中にもつ、推し量ることのできない無の世界のみがあった。
次に、無限者は有限をはらんだ。』
ホピはアメリカの先住民族(通称、インディアンの一部族)ですが、アメリカ大陸に渡る以前の記憶から現代に至るまでを、伝承として残してきたという点で、貴重な(宗教的な意味において)価値があります。
特に、特定の権力者に毒されていないという点で、その純粋性が貴重なのです。
さて、皆さんは、ホピが伝えている最初の神(現初神)についてお伝えしても、”ふ~ん”という感じでしょうね。
では、カバラを知らずして聖書の意味は分からないと言われる「カバラ」から引用してみましょう。
『カバラによれば、何らの動きもいかなる特性も創造されない原初のはじまりに、ただ一つだけの存在状、つまり、存在があった。このただ一つの存在とは、空虚の状、つまり、無であって、それはグレートアビス、つまり、大いなる空虚と言われており、ここから総てのものが造られたのである。』(「カバラの信義」M・ドーリル)
ほとんど同じですね。
カバラは、アトランティスの末裔であるメルキジデクがアブラハムに教えたと伝えられています。
カバラは、神自身の創造とその展開過程を述べた伝承ですから、長い間、秘密にされてきたようです。
あのブラバッキー夫人ですら、カバラを知らずして聖書の意味は分からないと言いながら、カバラについては一切触れなかったようです。
現代では、その辺の本屋に解説本が売っています。
占いではないので、要注意!
神話の世界をみると、ほとんどは”無”から神が生じたと語っています。
ギリシャ神話をみてみましょうか。
『「いかにも最初にまずできたのはカオス」・・・このカオスとは・・・空間や隙間の、何もない拡がり、あるいはもやもやと煙霧の立ちこめた無限』(「ギリシャ神話」上巻 呉茂一著)
さて、私たちは、この無のような、空虚状態を神と言っていいのでしょうか?
どうも、それを神とするには抵抗があります。
取敢えず、それを神を形成する素材としておきましょう。
何もない=無から何かが生じるということは不思議に思えるのですが、現代物理学では常識かも知れません。
皆さんが使っているコンピューターは、0と1という二進法で動いているのですが、0=無、1=有ですから、ひょっとすると神創造の原理かも知れませんね。
しかし、そこからは具体的な物は生じません。
神が偉大なのは、具体的な物を無から生み出したことにあるのでしょうか?
神が存在しなければ、私たちも存在しないのですから、私たちの苦しみ、悲しみ、喜びもありえませんね。
にもかかわらず、私たちは厳然と存在します。
何故に、神は私たちを生み出したのでしょうか?
この答えは、まだ、私にも分かりません。