今年の春から我が家に通っていた子猫(5匹いました)のうち1匹が昇天しました><;。何か、良からぬものを拾い食いしたようです。歩道に腰を抜かしたような格好で、胃液か唾液を吐いたあとがありました。息子が発見し、知らせにきた時はまだ息はあったのですが、私が抱えて家に運んですぐに息を引き取りました。成仏して欲しいものです。
なお、母猫は9月上旬に子離れして、どこか放浪の旅にでました。
さて、モーセの続きです。
今回はモーセが生きていた時代はいつごろか、特定-推定に過ぎませんが-してみたいと思います。
この問題を解くには、モーセのいた時代を大雑把に把握しないと、分けがわからなくなるようです。
モーセに関して今回読んだ本は14冊ありますが、モーセの生きていた時代について2つの見解があります。
その一つが、出エジプト記にある『ピトムとラメセスを建設した』(出エジプト記 1-11)という記述から、エジプト第19王朝のラメセス二世とその息子であるメルエンプタハの時代(2人の在位期間:BC1279~1203 但し、年代については誤差が大きい)です。一応、これが定説となっているようです。
もう一つの見解は、《ツタンカーメン》で有名なトゥトアンクアメン(在位:BC1340~1331)の時代です。
その前のファラオはアクエンアテン(BC1358~1340,但しBC1342~1340まで息子のスメンクカラーが共同統治)という名前で、エジプトの歴史上唯一一神教を唱えたファラオです。
どちらが正しいのでしょうか?
前回、モーセ五書はかなりいい加減な記録だといいました。そのいい加減さから判断すると『ピトムとラメセスを建設した』話に信憑性はないといえます。
確かにそういう名前の町はラメセス二世の時代に築かれたらしいのですが、モーセが導くとされたカナンの地は概ねエジプトの支配下にあったとされています。
何故なら、ラメセス二世の祖父と父であるラメセス一世およびセティ一世の時代(2人の在位期間:BC1299~1283)に、カナン地方を制圧したことがカルナクのアテン神殿外壁に書いてあり、碑文も見つかっているそうです。
無論、その後もラメセス二世がカナンの北方にあるヒッタイトと戦い(カデッシュの戦いで有名)、その後アッシリアの脅威からヒッタイトと同盟を結んでいます。
メルエンプタハもシリア・パレスチナ遠征の石碑を残しており、そこに『イスラエルは子孫を断たれ、』と歴史上始めてイスラエルという民族名が登場します。
つまり、定説とされるラメセス二世・メルエンプタハの時代には、既にパレスチナ方面にイスラエルと呼ばれる民族がいたということになります。
メルエンプタハの遠征は支配地における反乱制圧の記録ですから、この時代より前に出エジプトはあったということになるのです。
特に、カナン地方は紀元前15世紀ころから一貫してエジプトの支配地であり、アクエンアテンの時代に一時混乱はあったものの、その後エジプトの支配権は回復されています。
そうすると、エジプトの支配権が及んでいたカナン地方へ脱出すること事態、おかしな話だと気づきます。
しかも、エジプト側の記録は一切ありません・・・見つかっていないのです。イスラエルのイの字もありません。
聖書では大規模な民族移動であるはずなのですが、記録がない、イスラエル人(ヘブライ人:蔑称らしいです)がいた記録もないのです。
ところが、エジプトの記録が抹消された一時期があります。
それがアクエンアテン→トゥトアンクアメン(ツタンカーメン)及びアイの期間です。
アイの次にファラオとなったホルエムヘブというファラオが4人のファラオとその事跡全てを消し去りました。
ですから、長い間、エジプトの歴史から4人のファラオは消えたままだったのですね。
消された4人のファラオは、アテン神(一神教)と何らかの関わりを持っていましたから、元来のアメン神(多神教)に完全に戻ったことを踏まえてアテン神に関わったファラオを歴史から抹消したわけです。それを積極的に行ったのがアクエンアテンの時代に将軍だったホルエムヘブなわけです。
長くなりそうなので、次回に続けます。
また、お会いしましょう
なお、母猫は9月上旬に子離れして、どこか放浪の旅にでました。
さて、モーセの続きです。
今回はモーセが生きていた時代はいつごろか、特定-推定に過ぎませんが-してみたいと思います。
この問題を解くには、モーセのいた時代を大雑把に把握しないと、分けがわからなくなるようです。
モーセに関して今回読んだ本は14冊ありますが、モーセの生きていた時代について2つの見解があります。
その一つが、出エジプト記にある『ピトムとラメセスを建設した』(出エジプト記 1-11)という記述から、エジプト第19王朝のラメセス二世とその息子であるメルエンプタハの時代(2人の在位期間:BC1279~1203 但し、年代については誤差が大きい)です。一応、これが定説となっているようです。
もう一つの見解は、《ツタンカーメン》で有名なトゥトアンクアメン(在位:BC1340~1331)の時代です。
その前のファラオはアクエンアテン(BC1358~1340,但しBC1342~1340まで息子のスメンクカラーが共同統治)という名前で、エジプトの歴史上唯一一神教を唱えたファラオです。
どちらが正しいのでしょうか?
前回、モーセ五書はかなりいい加減な記録だといいました。そのいい加減さから判断すると『ピトムとラメセスを建設した』話に信憑性はないといえます。
確かにそういう名前の町はラメセス二世の時代に築かれたらしいのですが、モーセが導くとされたカナンの地は概ねエジプトの支配下にあったとされています。
何故なら、ラメセス二世の祖父と父であるラメセス一世およびセティ一世の時代(2人の在位期間:BC1299~1283)に、カナン地方を制圧したことがカルナクのアテン神殿外壁に書いてあり、碑文も見つかっているそうです。
無論、その後もラメセス二世がカナンの北方にあるヒッタイトと戦い(カデッシュの戦いで有名)、その後アッシリアの脅威からヒッタイトと同盟を結んでいます。
メルエンプタハもシリア・パレスチナ遠征の石碑を残しており、そこに『イスラエルは子孫を断たれ、』と歴史上始めてイスラエルという民族名が登場します。
つまり、定説とされるラメセス二世・メルエンプタハの時代には、既にパレスチナ方面にイスラエルと呼ばれる民族がいたということになります。
メルエンプタハの遠征は支配地における反乱制圧の記録ですから、この時代より前に出エジプトはあったということになるのです。
特に、カナン地方は紀元前15世紀ころから一貫してエジプトの支配地であり、アクエンアテンの時代に一時混乱はあったものの、その後エジプトの支配権は回復されています。
そうすると、エジプトの支配権が及んでいたカナン地方へ脱出すること事態、おかしな話だと気づきます。
しかも、エジプト側の記録は一切ありません・・・見つかっていないのです。イスラエルのイの字もありません。
聖書では大規模な民族移動であるはずなのですが、記録がない、イスラエル人(ヘブライ人:蔑称らしいです)がいた記録もないのです。
ところが、エジプトの記録が抹消された一時期があります。
それがアクエンアテン→トゥトアンクアメン(ツタンカーメン)及びアイの期間です。
アイの次にファラオとなったホルエムヘブというファラオが4人のファラオとその事跡全てを消し去りました。
ですから、長い間、エジプトの歴史から4人のファラオは消えたままだったのですね。
消された4人のファラオは、アテン神(一神教)と何らかの関わりを持っていましたから、元来のアメン神(多神教)に完全に戻ったことを踏まえてアテン神に関わったファラオを歴史から抹消したわけです。それを積極的に行ったのがアクエンアテンの時代に将軍だったホルエムヘブなわけです。
長くなりそうなので、次回に続けます。
また、お会いしましょう