虚空漂浪日記

魂の開放を求めて、右往左往。嫌われものの”宗教”の根本を捜し求める日記です。

モーセとは誰だったのか?(その2)

2008-10-29 12:04:26 | 宗教
今年の春から我が家に通っていた子猫(5匹いました)のうち1匹が昇天しました><;。何か、良からぬものを拾い食いしたようです。歩道に腰を抜かしたような格好で、胃液か唾液を吐いたあとがありました。息子が発見し、知らせにきた時はまだ息はあったのですが、私が抱えて家に運んですぐに息を引き取りました。成仏して欲しいものです。
なお、母猫は9月上旬に子離れして、どこか放浪の旅にでました。

さて、モーセの続きです。
今回はモーセが生きていた時代はいつごろか、特定-推定に過ぎませんが-してみたいと思います。
この問題を解くには、モーセのいた時代を大雑把に把握しないと、分けがわからなくなるようです。

モーセに関して今回読んだ本は14冊ありますが、モーセの生きていた時代について2つの見解があります。
その一つが、出エジプト記にある『ピトムとラメセスを建設した』(出エジプト記 1-11)という記述から、エジプト第19王朝のラメセス二世とその息子であるメルエンプタハの時代(2人の在位期間:BC1279~1203 但し、年代については誤差が大きい)です。一応、これが定説となっているようです。

もう一つの見解は、《ツタンカーメン》で有名なトゥトアンクアメン(在位:BC1340~1331)の時代です。
その前のファラオはアクエンアテン(BC1358~1340,但しBC1342~1340まで息子のスメンクカラーが共同統治)という名前で、エジプトの歴史上唯一一神教を唱えたファラオです。

どちらが正しいのでしょうか?

前回、モーセ五書はかなりいい加減な記録だといいました。そのいい加減さから判断すると『ピトムとラメセスを建設した』話に信憑性はないといえます。
確かにそういう名前の町はラメセス二世の時代に築かれたらしいのですが、モーセが導くとされたカナンの地は概ねエジプトの支配下にあったとされています。
何故なら、ラメセス二世の祖父と父であるラメセス一世およびセティ一世の時代(2人の在位期間:BC1299~1283)に、カナン地方を制圧したことがカルナクのアテン神殿外壁に書いてあり、碑文も見つかっているそうです。
無論、その後もラメセス二世がカナンの北方にあるヒッタイトと戦い(カデッシュの戦いで有名)、その後アッシリアの脅威からヒッタイトと同盟を結んでいます。

メルエンプタハもシリア・パレスチナ遠征の石碑を残しており、そこに『イスラエルは子孫を断たれ、』と歴史上始めてイスラエルという民族名が登場します。
つまり、定説とされるラメセス二世・メルエンプタハの時代には、既にパレスチナ方面にイスラエルと呼ばれる民族がいたということになります。
メルエンプタハの遠征は支配地における反乱制圧の記録ですから、この時代より前に出エジプトはあったということになるのです。

特に、カナン地方は紀元前15世紀ころから一貫してエジプトの支配地であり、アクエンアテンの時代に一時混乱はあったものの、その後エジプトの支配権は回復されています。

そうすると、エジプトの支配権が及んでいたカナン地方へ脱出すること事態、おかしな話だと気づきます。
しかも、エジプト側の記録は一切ありません・・・見つかっていないのです。イスラエルのイの字もありません。

聖書では大規模な民族移動であるはずなのですが、記録がない、イスラエル人(ヘブライ人:蔑称らしいです)がいた記録もないのです。

ところが、エジプトの記録が抹消された一時期があります。
それがアクエンアテン→トゥトアンクアメン(ツタンカーメン)及びアイの期間です。
アイの次にファラオとなったホルエムヘブというファラオが4人のファラオとその事跡全てを消し去りました。
ですから、長い間、エジプトの歴史から4人のファラオは消えたままだったのですね。

消された4人のファラオは、アテン神(一神教)と何らかの関わりを持っていましたから、元来のアメン神(多神教)に完全に戻ったことを踏まえてアテン神に関わったファラオを歴史から抹消したわけです。それを積極的に行ったのがアクエンアテンの時代に将軍だったホルエムヘブなわけです。

長くなりそうなので、次回に続けます。

また、お会いしましょう

モーセとは誰だったのか?(その1)

2008-10-28 05:31:27 | 宗教
あっというまに10月も終わりそうです。昨日、周辺の山は初冠雪にみまわれました。冬が里まで降りてくるのは、数日後のことでしょう。


さて、漸く、モーセについて書く気になりました。
モーセの語った言葉から余計な部分-大部分ですが-を除くと、ほとんどイエスの言葉になります。
ですから、モーセが誰であったかを知ることは、非常に重要なことなんではないかと思うわけです。
モーセはイスラエル人でありイスラエルの救世主とされていますが、多分、モーセはイスラエル人ではないでしょう。
旧約聖書にいわれるイスラエル人という括(くく)りは、基本的に正しくないのだろうとと思います。
日本人が単一民族ではないように、イスラエル人という人々も様々な人種から構成され、歴史的に統一された人々だったのだろうと思います。

旧約聖書のなかで、モーセについて記されているのは、①出エジプト記、②レビ記、③民数記、④申命記の四つですが、これに『創世記』を加えた五つの記録がモーセ五書といわれ、モーセが書いたものとされています。
無論、モーセが書いたというのは事実ではないのですが、天地創造からモーセが死ぬまでの言い伝えを一括(ひとくく)りにしたのでしょう。

モーセ五書の最初は創世記から始まりますが、創世記は皆さんも結構知っている話が多いと思います。
天地創造、アダムとイブ、エデンの園、大洪水、バベルの塔などの神話群とアブラハム一族の話から成り立っています。
前半の神話群は、シュメール・メソポタミアの神話を自らの伝説に合うように改変した話だと言っていいだろうと思います。
アブラハム一族の話は、”カルデアのウル”というシュメール文明のあった都市から神に導かれてカナン地方へ旅する間の話ですが、最終的にエジプトに達します。
そこで(エジプトで)イスラエルと改名したヤコブが死ぬわけですが、創世記はそこで終わっています。
ところで、イスラエルという名前を聖書から判断すると”神と戦うもの”という解釈が一番ピッタリします。
何故なら、ヤコブは不明な神と一夜戦い、その神からイスラエルと改名するようにいわれるからです。
なお、イスラ・エルと分解して、エル=神だそうです。ただし、エルは一般名詞のようで、ヤハウエと同じではないようです。

モーセの話しは、それから400年以上も後の話しです。
モーセは、川に流されてきた子供を時の王女が拾い上げ、自分の子供として育てたということになっています。エジプトやメソポタミアで広く語られていた出生譚をモーセの出自に使っています。
日本風に言えば、桃太郎の話と同じですね。世界的に桃太郎の話は広くあったようです。

さて、桃太郎ではなくて・・・モーセは大きくなりエジプト人を殺してしまうという事件を起こし、エジプトから逃亡します。
これも変な話で、王子であるモーセが一介の監督官(?)であるエジプト人を殺害したとしても何とでもなると思うのですが、そう思うのは私だけでしょうか?

で、逃亡先で妻を娶(めと)り、子供もできて平和に暮らしているのですが、ある時近くの山で<燃える柴>に遭遇したところから、おかしな人生を歩むことになります。

その<燃える柴>こそ神様だったのです!(何の神様かわかりませんがw)
で、その神様に促されて、エジプトにいるイスラエルの民-奴隷とされていたそうです-を救いに出かけることになります。
兄のアロンとモーセは時のエジプト王(ファラオ)と交渉し、ファラオが頑固に拒否するんで、10の災害を起こし、最終的にイスラエルの民をエジプトから旅出させることに成功します。

エジプトから脱出したイスラエル人は青年男子(20歳以上)で60万人いたと聖書に書かれていますが、これはウソ(誇張)です。
もしそうだとすると、エジプトを脱出した人の総数は200万人以上となり、エジプトに人はいなくなるかも知れません。

モーセによって導かれた60万人の人々は、2人を除いて、神が約束したというカナンの地へ至ることができません。モーセも含めて皆死んでしまいます。
その息子たちが、約束の地へ入ることとなります。

良く考えてみると、酷(ひど)い話ですね。

”いいとこに連れていってやるぜ!”と言いながら、”お前たちは俺に逆らったから、砂漠で死ね!”とこの神様は言い、そう実行したわけです。

モーセの話しは、大体そんな話なんですね。

さて、その真実性ですが、多分、半分以上は様々な言い伝えと、筆者がその当時の状況に合わせた創作から成り立っているのだろうと思います。
何せ、モーセ五書が書物化されたのは、モーセがいただろうと考えられる時代から800年以上も後だから、真実のほどがわかりますね。

モーセ以前の話しになると、1000年以上も前の話になりますから、如何に正確に言い伝えたとしても、多分、話しはまったく違う話になっている可能性があります。

モーセの物語については、多くの研究がなされており、考古学、言語学等々からのアプローチもみられます。
ですが、確固とした結論は見出されてないようです。

次回はモーセがいた時代について、考えてみたいと思います。

では、また、次回まで