18日に雨からみぞれへ、そしてに変わりました。今年の初雪です。11月18日の初雪は、明治以降、観測史上一番遅い初雪とか新聞でみたような?w
宗教研究のブロブでありながら、最近はこの世的な記事を多く書いています。
今日は、総集編的な意味で、私が得た宗教の本質的な内容について、詳しく述べてみたいと思います。
(1) 宗教の基本について
宗教とは何か?という問いに対し、私は「この世からみたあの世への希求」、或いは、「あの世から啓示(メッセージ)を受けたこの世のあり方」だと思います。
つまり、「この世」と「あの世」の関係なくして、宗教は成立しないと考えます。
ただ単に、”宇宙の法則”などと答える論理は、私は哲学であるとみなし、”宗教”とはみなしません。
”宗教”とはかなり”具体的で、生々しい現実”であるのです。
仏教にしろキリスト教にしろ、現実世界を描写し、この世での生き様を正し、そしてあの世的な場所に移動しなさいと言ってます。
ただし、あの世には”地獄的な場所”もあり、この世での行いによって”地獄的な場所”に移動してしまうことも充分語られています。
このように、この世とあの世の相関は、かなり生なましい現実が語られるのです。
それは抽象的な世界観ではありません。
私たちは、現実に生きており、その生なましさをある意味”あの世”へも持ち込む存在なのです。
ですから、宗教は”具体的で、生々しい現実”なのです。
宗教にシャーマニズムであろうが、一神教であろうが、多神教であろうが、上下はありません!
一神教は唯一正しく、シャーマニズムが邪教だと決めつけるのは例えばキリスト教などが持つ思い上がりにすぎません。
では、一神教の”神”なるものをキリスト教的な宗教において証明したのでしょうか?
もし、証明できる、あるいは証明したなどという者は、大嘘つきか詐欺師に違いありません。
"神”を証明することなどできないのです。
私たちは”創造”の中にあり、”中”にある者が創造を外から眺める、或いは客観的に証明することは不可能なのです。
人間の科学なるものがどんなに発達したところで、それを証明することはできません。
私たちは”直観”のみにより、彼=”神”を知ることができるのです。
”知る”こと=”証明”ではありませんね。
”知る”ことは主観的なことであり、”客観性”を欠きます。自分にしかわからないことなのです。
このように、宗教は”主観的な直観”によって成り立ちます。
それが集団的な形態をとろうが、最後は主観的な個人へと還元されるのです。
(2) あの世は多次元界である
創造の世界は、多次元界によって構成されています。
私たちが住む3次元界は、その一つの表現にすぎません。
色々な宗教関連のHPなどをみると、やはりあの世は多次元界であると書いてある記事を目にします。
ただ、私が気になるのは、多次元界の表現において、かなり一面的な表現が多いということです。
例えば、キリスト教では第一天から第十天までとかあるように書いてますが、ものによってはものすごい数の次元界があるとしています。
しかし、ある特定の宗教観にとらわれているため、どの多次元界の表現は一面的であるといって良いでしょう。
ですが、これらは全て正しくもあり、間違いでもあるのです。
具体的に説明しますと、人間の魂(霊)は”主観的な意識”によって全てを判断します。
例えば、貴方の現状意識が、全ての世界観を形成するのです。
それは歴史的でもあり、貴方の現状の知識であり、貴方の主観的な感情であり、貴方の現状の理性など、もろもろの現在意識があの世の世界を認識させるのです。
例えば、スゥエーデンボルグはアンチキリスト者でありましたが、やはりキリスト教世界に住んでおり、その知的影響を受けていますから、彼の見るあの世の構造は色濃くキリスト教的世界となるのです。
日本の優秀な霊能者である竹内満朋氏が見てきたあの世は極めて東洋的です。
一方、ロバート・A・モンロー氏の見たあの世は、極めて現代的で宗教観の少ない世界でした。
これらを総合的に分析しますと、現状の主観的な意識構造が、あの世を見せる土台となっていることが分かります。
つまり、あの世の多次元界は、”貴方の持っている現状意識によって見え方が異なる”ということです。
このことは普遍的な事実と考えられますから、特定の宗教による”あの世はこれが正しい!”とすることはできないのです。
それは”一つのあり方”としては正しいのですが、全体的な見方としては間違っているということです。
あの世は多次元界であり、かつ多面的であるということを覚えておいてください。
(3) 多次元界を支配する基本理念は”愛”の一言
この多次元界は、創造の”意識”により形成されたと言われています。
ですから、創造から派生した”意識”として、私たちの”魂(霊)の基本は意識により形成されている”といって良いでしょう。
この”意識”なる存在は不確かなるものであるが所以に、私たちの”真実の実態である”とは信じがたいのですが、物質としての肉体は解体するわけですから、実態として残るのは実際に”意識=魂=霊”のみなのです。
このように、私たちの”意識=魂=霊”は創造の意識から派生した存在なのです。
故に、私たちは”神”であるといわれる所以なのです。
”意識体”はすべて”神”の分身であるわけです。
ただし、人間だけが”意識体”であるわけではありません。
”意識体”は低級なものから、より高級なものまで、多様に存在します。人間意識はその一部にすぎません。
キリスト教系の驕(おご)っているところは、人間の魂のみを崇高としている”無知”にあります。
この部分は、宗教としての大きな欠点であると言ってよいでしょう。
現状の欧米文明は歴史の一つの過程にすぎませんが、欧米文明がその野蛮さを持っているのはキリスト教の驕りと密接な関係があります。
そしてそのキリスト教の驕りを煽ったのは、ユダヤ教徒であるということです。
ここに歴史の秘密があります。
そして現代の歴史の秘密があるのです。
さてさて、イエスが人々に教えたのは”神”とは”愛”であるということです。
”神”とは意識の存在ですから、それは”愛”だと言って間違いないでしょう。
しかし、一刀斎は凡人ですから、その”愛”なるものは理解できません。
まぁ、言葉で言えば、それは”無限の愛”ですから、善も悪も包括する大きな許(ゆる)しなのでしょう。
具体的には、心の小さい一刀斎では、理解不能ですw。
色々な霊能者が理解した言葉を、一言でいえば神の心は=愛であるようです。
とりあえず、現状の創造がなした意識は”愛”から派生し、そして”愛”帰るということなのでしょう。
(4) 創造もやがて上昇する
新約聖書に”この世の終わり”という言葉がでてきます。
イエスの言葉では、ユダヤ人がユダの地から追放されるという”終わり”と真実の意味で”この世の終わり”という二重の説明がなされています。
ユダヤ人がユダの地から追放されるという”終わり”は、歴史的にイエスの預言通りローマによって実行されました。多くのユダヤ人がユダの地から追放され、奴隷とされ、流浪の民となったのです。これは歴史の教える通りです。
さて、もう一つの終わりですが、これは”神”のみぞ知るであって、イエスだって知らないと言っています。
つまり、いつそうなるかはわからないのです。あと千年後かも知れないし、10万年後かも知れないし、百万年後かも知れません。
まぁ、そんなわけで、”この世の終わり”なんて気にする必要はないのです!
ところで、”この世の終わり”とは何でしょうか?
三次元の物理的法則から言えば、この地球もいつかは太陽に飲み込まれて消滅する運命にあるようですが、イエスの言った”この世の終わり”はそれとは別でしょう。
”この世”という意味では、”創造が終了する”という意味と同意語と思います。
何故なら、イエスはこの世をベースにあの世についても語っているからです。
よく、この世で肉体が引き上げられ、より高度な人類に進化するような”超アホ”な主張をする宗教者がいるようですが、信じてはいけませんねw。
次元界の法則は厳然と守られていますので、それを超えることは通常できないのです。
ま、たまに乗り越える人もいますが、それは稀(まれ)です。
一人、二人が超人になったところで、何の意味があるのでしょうか?
そういう人はマンガの読み過ぎ、空想の世界だといっていいでしょう。
特殊な人間がいることは、私は否定しませんが、空想もほどほどにした方がいいということです。
さて、”この世の終わり”の話に戻しますが、”この世の終わり=創造の終わり”とは何もなくなることではありません。
それは新たな始まりを意味します。
創造が終わる=新な創造世界が始まるということです。
それは現在の創造界の多次元界が、更に高度な多次元界へと飛翔する展開を意味しています。
そこへ創造と共に移行できる精神(=魂=霊)たちは、少なくとも現創造において選ばれたものたちであることは確かでしょう。
では、新な創造へと移行できなかった精神たちはどうなるのでしょうか?
聖書では”打ち捨てられる”と書かれていますけど、悲観しなくて大丈夫。
現在の創造世界はそのまま残るからです。
そこに”打ち捨てられ”た貴方はそのまま残るから、心配無用です。
思い出して下さい。神の心は”愛”なのです。
決して見捨てるわけではありませんねw
永遠の時間をかけて、貴方は次の飛翔へと意識を成長させればいいのです。
この世の終わりとは、そういう意味なのです。
決して、悲観することも恐れることも必要ないのです。
おどろおどろしい宣伝に騙されてはいけません。
それが、真実なのですから。
以上、わかったような、わからないようなことを書きましたが、私が辿(たど)りついた宗教の世界とはこんなところです。
また、何か思い付きましたら宗教の話をするかもしれません。
それまでは、この世の話を続けたいと思います。
また、お会いしましょう。
宗教研究のブロブでありながら、最近はこの世的な記事を多く書いています。
今日は、総集編的な意味で、私が得た宗教の本質的な内容について、詳しく述べてみたいと思います。
(1) 宗教の基本について
宗教とは何か?という問いに対し、私は「この世からみたあの世への希求」、或いは、「あの世から啓示(メッセージ)を受けたこの世のあり方」だと思います。
つまり、「この世」と「あの世」の関係なくして、宗教は成立しないと考えます。
ただ単に、”宇宙の法則”などと答える論理は、私は哲学であるとみなし、”宗教”とはみなしません。
”宗教”とはかなり”具体的で、生々しい現実”であるのです。
仏教にしろキリスト教にしろ、現実世界を描写し、この世での生き様を正し、そしてあの世的な場所に移動しなさいと言ってます。
ただし、あの世には”地獄的な場所”もあり、この世での行いによって”地獄的な場所”に移動してしまうことも充分語られています。
このように、この世とあの世の相関は、かなり生なましい現実が語られるのです。
それは抽象的な世界観ではありません。
私たちは、現実に生きており、その生なましさをある意味”あの世”へも持ち込む存在なのです。
ですから、宗教は”具体的で、生々しい現実”なのです。
宗教にシャーマニズムであろうが、一神教であろうが、多神教であろうが、上下はありません!
一神教は唯一正しく、シャーマニズムが邪教だと決めつけるのは例えばキリスト教などが持つ思い上がりにすぎません。
では、一神教の”神”なるものをキリスト教的な宗教において証明したのでしょうか?
もし、証明できる、あるいは証明したなどという者は、大嘘つきか詐欺師に違いありません。
"神”を証明することなどできないのです。
私たちは”創造”の中にあり、”中”にある者が創造を外から眺める、或いは客観的に証明することは不可能なのです。
人間の科学なるものがどんなに発達したところで、それを証明することはできません。
私たちは”直観”のみにより、彼=”神”を知ることができるのです。
”知る”こと=”証明”ではありませんね。
”知る”ことは主観的なことであり、”客観性”を欠きます。自分にしかわからないことなのです。
このように、宗教は”主観的な直観”によって成り立ちます。
それが集団的な形態をとろうが、最後は主観的な個人へと還元されるのです。
(2) あの世は多次元界である
創造の世界は、多次元界によって構成されています。
私たちが住む3次元界は、その一つの表現にすぎません。
色々な宗教関連のHPなどをみると、やはりあの世は多次元界であると書いてある記事を目にします。
ただ、私が気になるのは、多次元界の表現において、かなり一面的な表現が多いということです。
例えば、キリスト教では第一天から第十天までとかあるように書いてますが、ものによってはものすごい数の次元界があるとしています。
しかし、ある特定の宗教観にとらわれているため、どの多次元界の表現は一面的であるといって良いでしょう。
ですが、これらは全て正しくもあり、間違いでもあるのです。
具体的に説明しますと、人間の魂(霊)は”主観的な意識”によって全てを判断します。
例えば、貴方の現状意識が、全ての世界観を形成するのです。
それは歴史的でもあり、貴方の現状の知識であり、貴方の主観的な感情であり、貴方の現状の理性など、もろもろの現在意識があの世の世界を認識させるのです。
例えば、スゥエーデンボルグはアンチキリスト者でありましたが、やはりキリスト教世界に住んでおり、その知的影響を受けていますから、彼の見るあの世の構造は色濃くキリスト教的世界となるのです。
日本の優秀な霊能者である竹内満朋氏が見てきたあの世は極めて東洋的です。
一方、ロバート・A・モンロー氏の見たあの世は、極めて現代的で宗教観の少ない世界でした。
これらを総合的に分析しますと、現状の主観的な意識構造が、あの世を見せる土台となっていることが分かります。
つまり、あの世の多次元界は、”貴方の持っている現状意識によって見え方が異なる”ということです。
このことは普遍的な事実と考えられますから、特定の宗教による”あの世はこれが正しい!”とすることはできないのです。
それは”一つのあり方”としては正しいのですが、全体的な見方としては間違っているということです。
あの世は多次元界であり、かつ多面的であるということを覚えておいてください。
(3) 多次元界を支配する基本理念は”愛”の一言
この多次元界は、創造の”意識”により形成されたと言われています。
ですから、創造から派生した”意識”として、私たちの”魂(霊)の基本は意識により形成されている”といって良いでしょう。
この”意識”なる存在は不確かなるものであるが所以に、私たちの”真実の実態である”とは信じがたいのですが、物質としての肉体は解体するわけですから、実態として残るのは実際に”意識=魂=霊”のみなのです。
このように、私たちの”意識=魂=霊”は創造の意識から派生した存在なのです。
故に、私たちは”神”であるといわれる所以なのです。
”意識体”はすべて”神”の分身であるわけです。
ただし、人間だけが”意識体”であるわけではありません。
”意識体”は低級なものから、より高級なものまで、多様に存在します。人間意識はその一部にすぎません。
キリスト教系の驕(おご)っているところは、人間の魂のみを崇高としている”無知”にあります。
この部分は、宗教としての大きな欠点であると言ってよいでしょう。
現状の欧米文明は歴史の一つの過程にすぎませんが、欧米文明がその野蛮さを持っているのはキリスト教の驕りと密接な関係があります。
そしてそのキリスト教の驕りを煽ったのは、ユダヤ教徒であるということです。
ここに歴史の秘密があります。
そして現代の歴史の秘密があるのです。
さてさて、イエスが人々に教えたのは”神”とは”愛”であるということです。
”神”とは意識の存在ですから、それは”愛”だと言って間違いないでしょう。
しかし、一刀斎は凡人ですから、その”愛”なるものは理解できません。
まぁ、言葉で言えば、それは”無限の愛”ですから、善も悪も包括する大きな許(ゆる)しなのでしょう。
具体的には、心の小さい一刀斎では、理解不能ですw。
色々な霊能者が理解した言葉を、一言でいえば神の心は=愛であるようです。
とりあえず、現状の創造がなした意識は”愛”から派生し、そして”愛”帰るということなのでしょう。
(4) 創造もやがて上昇する
新約聖書に”この世の終わり”という言葉がでてきます。
イエスの言葉では、ユダヤ人がユダの地から追放されるという”終わり”と真実の意味で”この世の終わり”という二重の説明がなされています。
ユダヤ人がユダの地から追放されるという”終わり”は、歴史的にイエスの預言通りローマによって実行されました。多くのユダヤ人がユダの地から追放され、奴隷とされ、流浪の民となったのです。これは歴史の教える通りです。
さて、もう一つの終わりですが、これは”神”のみぞ知るであって、イエスだって知らないと言っています。
つまり、いつそうなるかはわからないのです。あと千年後かも知れないし、10万年後かも知れないし、百万年後かも知れません。
まぁ、そんなわけで、”この世の終わり”なんて気にする必要はないのです!
ところで、”この世の終わり”とは何でしょうか?
三次元の物理的法則から言えば、この地球もいつかは太陽に飲み込まれて消滅する運命にあるようですが、イエスの言った”この世の終わり”はそれとは別でしょう。
”この世”という意味では、”創造が終了する”という意味と同意語と思います。
何故なら、イエスはこの世をベースにあの世についても語っているからです。
よく、この世で肉体が引き上げられ、より高度な人類に進化するような”超アホ”な主張をする宗教者がいるようですが、信じてはいけませんねw。
次元界の法則は厳然と守られていますので、それを超えることは通常できないのです。
ま、たまに乗り越える人もいますが、それは稀(まれ)です。
一人、二人が超人になったところで、何の意味があるのでしょうか?
そういう人はマンガの読み過ぎ、空想の世界だといっていいでしょう。
特殊な人間がいることは、私は否定しませんが、空想もほどほどにした方がいいということです。
さて、”この世の終わり”の話に戻しますが、”この世の終わり=創造の終わり”とは何もなくなることではありません。
それは新たな始まりを意味します。
創造が終わる=新な創造世界が始まるということです。
それは現在の創造界の多次元界が、更に高度な多次元界へと飛翔する展開を意味しています。
そこへ創造と共に移行できる精神(=魂=霊)たちは、少なくとも現創造において選ばれたものたちであることは確かでしょう。
では、新な創造へと移行できなかった精神たちはどうなるのでしょうか?
聖書では”打ち捨てられる”と書かれていますけど、悲観しなくて大丈夫。
現在の創造世界はそのまま残るからです。
そこに”打ち捨てられ”た貴方はそのまま残るから、心配無用です。
思い出して下さい。神の心は”愛”なのです。
決して見捨てるわけではありませんねw
永遠の時間をかけて、貴方は次の飛翔へと意識を成長させればいいのです。
この世の終わりとは、そういう意味なのです。
決して、悲観することも恐れることも必要ないのです。
おどろおどろしい宣伝に騙されてはいけません。
それが、真実なのですから。
以上、わかったような、わからないようなことを書きましたが、私が辿(たど)りついた宗教の世界とはこんなところです。
また、何か思い付きましたら宗教の話をするかもしれません。
それまでは、この世の話を続けたいと思います。
また、お会いしましょう。
神の心は=愛であるようです。<
マザーテレサが言ったかどうかわかりませんが、
「神はいないように思う」本当にびっくりしましたが、私はマザーテレサの行動が神そのものだと思っていましたから。
拝さんがおっしゃる通り<神の心=愛だとおもいます。
これは本当に深い心と思います。
人間そのものが、怒ったり、泣いたり、わめいたり、
その中で人間愛を感じたりですものね。
いつも心の栄養になるお話有難う御座います。
長生きしてください。まだまだお話を聞きたいのですから。
あきらめない絶対あきらめない
マザーテレサが言ったことかどうか真意はわかりませんが
「神はいないように思う」・・・・・・。
マザーテレサの行動そしてイエス・キリストを支えにし偉大な行動をしてきました。マザーそのものが愛の心だとおもいます。
とにかく拝みさんの体治すことが先決です。あきらめない
凸
凸×3
勿論スターオーシャン3的な考え方ですよ。