台風の後に続いた雨、溜まっていた熱気を流してくれたのでしょうか、ずいぶん過ごしやすくなりました。
それでも、日中の作業はきつい。
そして、この雨を得て雑草君たちが一気に伸びました。
また、溜めに溜めて先送りしていた新庄の庭の手入れ、秋作準備もほとんど進んでいない畑!!
見回せば気付かぬふりをしていた仕事がたくさん待っています。
てなことで、往復30分余りの時間も作業に回そうと新庄にお泊りです。
涼しくなった夕方からは、先日刈り込んだ剪定屑の片付けや目につかない場所の刈り込み作業。
そんな作業も、パッと開いた玄関脇の鉄砲ユリの美しい姿に何か報われたような感じです。
当然ですが、お料理も自分で作って「うっま~~」とか言いながら食べています。
ちなみに、今日のお昼はワタリガニのカレー。
タイ料理ではブー・バッポン・カリー、僕の中では、タイカレーの王様的でしょうか。
味付けはかなり違いますが、これも美味い!アオデのお出汁って、カレーに最高!
夜はというと、白イカと野菜のザックリ炒めに、トマトとバジルソースで調整したソースを掛けただけの簡単手料理ですが、、、
一人の贅沢時間を楽しんでいます。
あっ、新庄ってTVがないので、意識を邪魔するものがありません。
これって、最高の時間の過ごし方の一つかもしれませんね。
銀座鳩居堂での房仙会書道展が終わってから初のお稽古、久しぶりに房仙先生と一緒にランチ。
ついつい感じていること、思いついたことを饒舌に語ってしまいました。
宗教に決まってるじゃないですか!
鳩居堂での一コマ、訪れた報道関係の方が宗教みたいですねと語ったとか、先生がこっちに来て話して!って。
今になってちょっぴり後悔しているのは、なぜマスコミの方に“バカなことを言われますね、宗教に決まっているじゃないですか!”って断言しなかったのかなあと。
厳密に言えば、書道など道のつく芸事も武道も宗教という規定はできませんが、道を求めていく姿勢やそこから学ぶことは、宗教と大きな違いはないだろうと思います。
信仰を持ち、常識では考えられない結果を出している多くの方にお会いしてきましたが、共通しているのは、とにかく師の教えの通り、自我や余事を交えずに愚直に実践している方々です。
結果の出ない方は、決まって我見が強く愚痴の多い方、それに、すぐに他人と比べてしまう方でしょうか。
1,000人で残っているのは15人
先日、内田樹の「街場の戦争論」を読んで感じたことを、「生きる力」というタイトルでブログを書きました。
芸事も武道も学問も、きっと宗教だって、崩れざる幸福に向かう「生きる力」を涵養するのがその目的じゃないか、もっとも、生まれて生きることってそのためかもと。
ただ、その道をたゆまず進むのは容易ではないことなんでしょうね。
内田樹が師とした多田宏先生は、20歳にして植芝盛平、中村天風、船越義珍という稀代の3人に師事できた“武運”を持った方ですが、内田樹が入門したのは多田先生の道場創建15年の時、入門者は1,000人を超えていたのに道場を開いた数人を除き、残っていたのは15人。
数多の中からそこを選んだ、門を叩くのにも大きなハードルがあり、修行は自我との相克。
内田樹は、師の教えは余事を交えずに受け入れることと書いていますが、知らないから習うと考えると当たり前のこと、それを自分はどうだから、こうだから、ついついなっちゃいますよねえ。
謙遜したつもりが
鳩居堂書道展の出品作品を制作するに当たり、自分は力がありませんから(当然ですが)とか言って謙遜したつもりなんて、何とおこがましいことかと反省しています。
決めるのは師匠なんですね、自分は知らないから習っているのだから、師匠の言うことをそのまま受け入れて実践することが弟子たるものなんだろうなあ、そこって、幾重にもハードルがある。
さて、15人の一人として残っているのかどうか、、、
ナツズイセン
昨日、奥出雲でぐうたら農法の西村和雄先生の環境農業講座があり参加しました。
その帰り、田んぼの横、山のげしにピンクの花が目に入り、車を急停止しバックしてその花を見に行ってきました。
ユリでもなしヒガンバナでもない、何?帰って調べてみるとやはりヒガンバナ科、ナツズイセンと言うのだそうです。
自然界は、与えられた場所で、あるがままに生きています。
これって、ある意味究極の生き方かもしれませんね。