ニュージーランド移住記録:日記「さいらん日和」

2004年に香港からニュージーランドに移住した西蘭(さいらん)一家。子育て終了、仕事もリタイア。好きに生きる記録です。

ニューカレドニア行:流刑地として

2016-09-14 | 旅行
連日、外出や旅行の記事が続いていると
まるで遊んで暮らしているようですが
そんな訳はなく
(※当ったり前!・・・・笑)


今日も友だちに会いに行った以外は、家で地味~に仕事
でも書かないと終わらないので、7月の旅行記を続けま~す


ニューカレドニアの首都ヌメアは南国らしいたたずまいで



フレンチとメラネシアンの板に付いたミックスぶり。

ここに至るまでは植民地なら避けては通れない艱難辛苦の歴史があり
いまでも独立への夢は潰えていないようですが、


観光客の目から見ると、長閑で落ち着いた街でした。

街の中心ココティエ広場


ここは無料Wi-Fiがあり

多くの人がスマホとにらめっこ。
まさかポケGOってことはないよね(笑)
(※あれが出てくる直前でした)


すぐその横にあるヌメア市立博物館

入場料150円ぐらいだったのでは?(←うろ覚え)
とにかく安くて感激でした。


入り口で展示物の番号に合わせた英語の案内を受け取り
レッツゴー

太平洋のプチフランス
確かにそう


西洋人が初めてニューカレドニアにやってきたのは1774年。
NZ同様ジェームス・クックでした。
彼はこの地を父親の出身地であるスコットランド(カレドニア)に
ちなんでニューカレドニアと名付けたものの、
「暑すぎる
として植民地化を宣言しなかったそうです


その後19世紀にかけ、徐々に交易や宣教師による布教が本格化し
1853年にフランスが植民地化し、1854年に首都ヌメアを建設。

ニューカレドニアは20世紀に至るまで流刑地で、街の多くは
オーストラリア同様に流刑者によって建設されました。
(※知らなんだ~


ほとんど裸で男性はペニスケースしか付けていない人たちが



帽子から靴まで衣服で覆われた人たちと接触していったのだから

18~19世紀は太平洋の激動の時代


博物館の建物そのものも1874年に建設された

ニューカレドニア初の銀行だったそう。


流刑者たちがこづかい稼ぎに彫った貝の彫刻

本国から派遣された役人がみやげ品にしていたそう。
1897年に流刑者の受け入れが正式に停止されました。


ヌメア最初の自動車



カレドニア桃源郷への幻滅

流刑地を脱して、民間の手で植民地建設を進めようとするものの
鉱山ブームの終結もあり財政が破たん。社会は混乱に陥ります。


しかし、20世紀に入ってニッケル需要が高まると活況を呈し
(※ニューカレドニアは世界の埋蔵慮の4分の1を持つそう
労働力不足を補うために日本人や東南アジア人の受け入れ開始!

これも知らなんだ~


アジア人はベトナム人やインドネシア人が多かったようです。



嫁探しの確率

まぁ需要は30以下っちゅーことのようで
(※54なんで論外
どこの植民地も女性不足が深刻だったんでしょうね。


なかなかコンパクトでサクッと見るにはいい博物館でした。

ここは英語の解説が丁寧で助かりました。


まだまだ市内散策が続きます


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