2023年3月のタスマニア2日目
高台のスミス・オブライエン
・コテージから降りて来ると
右に損傷の激しい大きな建物
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/73/320e718299be6d9b170ed2eb730e7fef.jpg)
ここも鉄のフレームで支え倒
壊を回避し保存しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/f7/4ba7d92d5ec45a29c57f60c8c14098a4.jpg)
世界遺産ですから管理や補修
は最善を尽くしているはず。
レンガの建物がここまで傷ん
でいるのは森林火災のせい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/06/b2797e7847a16fadbd5de69977bf7438.jpg)
プリズンドクター(矯正医官)
だったDr.ブロウネルの診療室
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/b8/625066cc50bc9cc20f34ac6dc780ac2c.jpg)
1830年代前半に木造の診療
所ができ開業していました。
ブロウネルは常駐医として2
度ポートアーサーに勤務し、
1840年に再赴任したときは
子ども9人の11人家族でした
が、15ヵ月間駐在したそう。
ポートアーサーと周辺の流刑
施設の囚人だけで約2,000人
さらに管理する軍人たちとそ
の家族をたった1人で診るの
ですから大変な激務でした。
1842年には年間延べ13,000
人を診療し、本格的医療施設
の拡充は待ったなしでした。
1842年に待望の病院が完成
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/ce/c72be60e2209f5f8c7ec3bd4408ac6b6.jpg)
堂々たる砂岩のファサードで
左右の切妻のウイングの上に
は石工の囚人が彫ったヒポク
ラテスと聖ルカ(聖路加病院の
路加)という医療の聖人たち
(※写真は1877年の払下げ後、
森林火災前の1880~90年代)
フレームで支えていたのはこ
の建物でしたが、外からは見
えないようになっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/60/76d7ce904d37e2bdd79a7e2cb8660da2.jpg)
内部は6病棟からなり、売店
や食堂も完備していたそう。
当時の健康上の問題はビタミ
ンC不足からくる敗血病、労
働中のケガ、胸の病でした。
囚人は炭鉱や伐採業務にも就
き、ほとんどが危険な仕事で
結核は命取りだった頃です。
治療以外の医療従事者の任務
は囚人全員の毎週の健康状態
の確認、鞭打ちの立ち合い等
周辺の民間人の医療にも対応
していましたが、ほとんどが
往診だったそう。さすがに刑
務所には来られなかったか
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/eq_2.gif)
払下げ後教会の寄宿舎となり
ましたが、1895年の森林火災
で半焼、保険で再建したもの
の1897年の火災で再び焼け、
現在の姿を留めるばかりに。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/f5/4d7f0f348aade06b57452b19efa4518f.jpg)
スミス・オブライエン・コテ
ージと右の病院、左の刑務所
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/e3/6c833b8014f9c8e42b322bb723f9572c.jpg)
4階建ての製粉所兼穀物倉庫
の完成が1845年。刑務所へ
の改築工事の完成が1857年
なので、病院はそれよりも遥
かに早く完成していました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/fe/00fee9c3207473bbc8253e83e3333342.jpg)
(※写真は1870年代の刑務所)
1833年に流刑施設となったポ
ートアーサーは1840年代には
受刑者数が1,100人にのぼり
画一的で厳格な軍隊式管理か
ら、福利厚生の拡充へと十年
足らずで軌道修正していかざ
るを得なくなっていました。
必要に迫られたものとはいえ
柔軟で現実的な対応が、大英
帝国の流刑植民地政策を支え
ていたのではないでしょうか