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医科歯科通信  (医療から政治・生活・文化まで発信)



40年余の取材歴を踏まえ情報を発信

人な何のために生きるの?

2015-06-10 06:34:41 | 創作欄
梅雨入りの季節となった。
午前3時50分に家を出たが、雨模様に思われたので傘を持つかどうかと迷い玄関で立ちどまった。
だが、外へ出て空を見上げると三日月が輝いていたので安心した。
自転車が背後から来た。
始発電車に乗るのかもしれない。
轟音とともにダンプカーが2台行き過ぎる。
風圧で帽子が飛ばされる。
午前4時20分、月が頭上に輝いているのに、濃霧となってきた。
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濃霧は徹にとって苦い思い出につながった。
あのころの徹は創作家を目指していた。
大学時代に女性史の研究をしていたことがベースとなり「現代女性論」でも書こうかなどとも思っていた。
徹にとって女は、恋愛の対象ではなく、女性論の題材と思われていた。
なぜ、女性論であったのか?
16歳で自殺した高校の同級生だった大沢京子が残した言葉が忘れないでいた。
「人な何のために生きるの?」
図書館で徹は夏目漱石の小説「三四郎」を読んでいた。
詩人の萩原朔太郎に傾倒していた京子はその日も詩集を読んでいた。
「私、尼寺に行こうかな」京子は窓に目を転じながら呟くように言った。
銀杏の葉が風に吹かれ流れるように散った。
「ダメ、会えなくなるから、尼寺に行くのは止めて」と徹は懇願するように京子の横顔を見つめた。
京子のポニーテールに徹はルノアールの絵を重ね観た。
京子の祖母はフランス人であったので、徹は西洋の少女のような京子の面影を愛らしく思っていた。
京子は小顔で座高が低いので小柄に見えたが立ち上がると徹と同じ背丈であった。
京子が睡眠薬で自殺したのは3日後の夜中のことであった。
濃霧の中での教会の葬儀であった。





















喫茶店・ナイスショット

2015-06-10 01:38:57 | 創作欄
取手駅の裏通りは、昔は表通りであったかもしれない。
取手はいわゆる宿場町でありそこには遊郭もあって、栄えていた江戸の時代、新四国88か所の巡礼の起点となる長禅寺へ向う巡礼の白装束の人たちも多く見られ賑わっていた。
太師通りに面した寿司屋を出た利根輪太郎は、コーヒーを飲みに「ナイスショット」へ行く。
その店は喫茶店であるが、ラーメン、チャー飯などのメニューも掲げられていた。
マスターの倉持稔の新しい彼女が新しいメニューを考案し、自ら調理していた。
マスターは寿司屋の倅であったが、地元取手を嫌って、高校進学も東京上野にある学校を選んだ。
高校へ進学しても倉持は小学校時代から続けていたので野球部へ所属した。
だが、ある日、倉持は友人の佐野光四郎に誘われ、東京・芝のゴルフ練習場へ行く。
そして、「こんな面白い競技があったのか」と倉持は感動したのだ。
それを契機に倉持は野球を止めてゴルフに夢中となる。
夜は上野の居酒屋でバイトをしてゴルフ場へ通う金を捻出したのだ。
真剣になってゴルファーを目指していた。
倉持は高校卒業後、サラリーマンとなったが、同世代の青木功や尾崎将司らの活躍も刺激となりゴルフにのめり込んでいた。
輪太郎は取手の利根川河川敷のゴルフ練習場で、倉持と出会った。
輪太郎に「あんた、筋がいいね」と倉持が声をかけてきたのだ。
「すごく、飛ぶんですね」輪太郎は倉持のドライバーショットに驚いていた。
輪太郎は取手の居酒屋、バー、スナックへは通っていたが、彼にとって喫茶店・ナイスショットへ通うのは初めてであった。
その店は取手のゴルフ好きたちにたまり場となっていたのだ。














性に目覚める時期

2015-05-25 13:25:13 | 創作欄
先日、私は京王線に乗っていて、隣の席の50代なかごろと想われるご婦人が英語の小説を読んでいるのをみかけた。
常磐線の中ではほとんど見かけない光景であった。
中学生の時に英語に反発した私は、「将来、苦労するぞ!」と英語教師から指摘されたとおりとなってしまった。
なぜ、英語に反発したのか?
英語教師が嫌いであったのだ。
この教師には妻子がいたのに、若い数学の教師と不倫関係にあったのだ。
偶然、2人が腕を組みながら多摩川沿いの路地裏の旅館へ入るのを私は見かけてしまったのだ。
美貌の数学教師に憧れを抱いていた私はショックを受けるとともに、英語教師を憎んだ。
当時、ロマンスグレーと言われるタイプの中年男がいたが、英語教師は男の色気を漂わせる雰囲気を醸し出していた。
それ故に40代の中年男が20代のフランス映画に出てくるようなエレガントな数学教師の心を捉えたのであろう。
小豆色のベレー帽をかぶっていた数学教師の後を胸を高鳴らせながら着けたこともあった。
金木犀の花の季節であり15歳の私が性に目覚める時期でもあった。

娘夫婦が同居した日々

2015-05-24 12:47:41 | 創作欄
2012年1 月 6日 (金曜日)
娘夫婦は東京の北千住のマンションに住んでいたが、子どもが生まれて実家に戻って来て、貴子たち同居することになった。
半年が経過した頃から、貴子はイライラが募ってきた。
孫娘は夜中によく泣いた。
貴子は熟睡ができずに睡眠不足のまま朝を迎え家事をした。
夫は午前5時30分に起きて、自動車で千葉県市川市内の仕事場へ向かう。
娘の夫は歯科技工士であり、深夜に帰宅する日が続いていた。
娘は、「子育てに精いっぱい」と自分の夫の食事の支度を母親任せにしている。
「私のことを、お手伝いの婆やと思っているんじゃないの!」と貴子は声を荒げた。
「ごめんね、おかあさん、暫く頼むわ」
娘はニヤリと笑って申しわけ程度に首を竦めるだけだ。
睡眠不足が重なったので、貴子は寝室を2階から1階に移した。
そして、2世帯住宅のつもりで、夫と自分だけの食事の支度をした。
娘に甘い夫は、酒を飲んで帰宅すると娘たちの部屋へ顔を出して出て来ない。
そればかりではない、娘の夫の食事の支度までやった。
夫は現在、宅建の資格をとって不動産業をしているが、貴子が結婚した頃は東京・日本橋の料理屋の板前をしていた。
だが、35歳の時に夫は、兄に説得され建設業に転じた。
色々な経緯があって、夫の兄の建設業は借金を重ねた挙句に倒産した。
「いずれ、料理屋を開くという貴方と結婚したのに、兄さんにさんざ利用されるだけ利用されて、放り出されたのね」
貴子は嫌味を並べたが、夫は詫びるわけではない。
不機嫌に黙り込み、朝から酒を飲んで憂さを晴らしていた。
45歳になって貴子は、近所の不動産屋の事務として働きだした。
失業した夫は47歳であった。
「中途半端な年齢なんだ、どこも雇ってくれないな」
夫は職安から帰ると冷蔵庫からビールを取り出して飲んだ。
息子は自動車販売のセールマンとなっていた。
娘は歯科技工士として、歯科医院に勤務していた。
貴子は寝れない夜、夫が失業していた頃のことを思い出した。
「明日は、娘夫婦に家を出てほしい」とハッキリと言おう。
決意をすると、貴子は深い眠りにつくことができた。

チェーホフの短編集

2015-05-24 12:39:07 | 創作欄
2012年1 月 2日 (月曜日)
初めてチェーホフの小説を読む
些細なことには、怒ることはよそう。
新年にあたり、指針として人生の師は、「朗らかに生きよう」と呼びかけた。
腹は立てるもではなく、腹を揺する。
つまり、笑い飛ばして、力強く歩むのだ。
神奈川県の小田原で昼食のために、その店に入る。
主人らしい50代の男性と、30代と20代と思われる店員が居た。
そして、厨房に1人。
ところで、主人はことあるごとに、20代の店員に文句を言っていた。
「遅い! 早く」
「ぼんやり、立っているんじゃない。かたずけろ」
「何度、言わせるんだ。早く」
「お茶が出てない。先にお茶を出すんだろ」
「ハイ分かりました」「ハイ、すいません」と若者は感情を表に出すこともなく率直に返事をしていた。
食事をしながら若者の様子が気になりだした。
立ち居振る舞いが、緩慢なのだ。
知的障がい者のようにも思われた。
徹はイジメにあっても、何時も何事もなく微笑んでいた若者がいたことを思い出した。
それは、学生のころにアルバイトをしていた東京・新宿の居酒屋でのことであった。
ある日、終電に乗り遅れて、徹は若者のアパートに泊めてもらった。
歌舞伎町から職安通りを渡り、柏木の若者が住む古い木造のアパートへ向かった。
4畳半一間の部屋には、机と本箱だけがあった。
読みかけであったのだろうか、机の上にチェーホフの短編集があった。
本棚に目をやると、露西亜の作家の単行本が多かったので、「ロシアが、好きなの」と聞いてみた。
「18世紀、19世紀のロシアが好きだね。でもソ連は嫌だ」と微笑んだ。
徹はフランス文学やドイツ文学、そしてイギリスの文学を好んでいた。
露西亜文学に対しては、暗く重苦しいイメージを抱いていたのだ。
「チェーホフの短編集、君に貸すよ。認識を変えてしい」
若者は頬を紅潮させて、はにかむように言った。
徹は裸電球の下で、ページをめくった。

「チェーホフの言葉」

2015-05-24 12:35:37 | 創作欄
2012年1 月 2日 (月曜日)
心が乾き買い求めたのが「チェーホフの言葉」
1970年(昭和45年)12月24日、徹は銀座の何時もの喫茶店でその人を待っていた。
徹の友人2人が都合で来られない。
現代風に表現すれば合コンの約束だった。
その人は友人を連れてくると言っていたが、30分遅れてやってきた時は、1人であった。
笑顔がないので、その人は高慢な女性に映じた。
「あら、1人なのね!」
声にも人を突き放すような響きがあった。
「明日にしましょう」
その人は席に座らず、踵を返して店を出ていった。
徹はソーダー水を半分残して席を立った。
会計をすますのももどかしい。
外へ出て、その人の姿を探したが見えない。
何時も以上に銀座は人並みで溢れていた。
空しさが広がり、心の渇きを覚えた。
徹は銀座から東京駅まで歩いた。
1か月前、その人と一緒に映画を観た映画館の前で立ちどまり、ポスターを確認した。
だが、上映されているのは戦争映画だった。
ひどく落ち込んでいたので、見る気になれない。
結局、八重洲まで歩いて、ブックセンターへ入る。
そして、買い求めたのが「チェーホフの言葉」佐藤 清郎訳編(彌生書房)だった。
次の日の12月25日、作家の三島由紀夫が死んだので、その年は忘れられない年となった。

奈那子

2015-05-24 12:26:43 | 創作欄
2011年12 月31日 (土曜日)

何故、冤罪が起こるのか?
夏目徹は考え続けた。
眠れない夜であった。
書棚から判例集を出して読んでいた。
時計を見ると、午前2時を回っていた。
終電車は既に終わっていた。
結局、待ち人は外泊をしたのだった。
徹は居たたまれない想いに駆られ、絨毯の上に仰向けになる。
そして、昼間、澤田奈那子と新宿駅で別れたことを思い浮かべる。
奈那子は、新宿駅の西口に何時ものように30分余遅れてやってきた。
遅れて来たのに、小走りになるでもなくユッタリした足取りで改札口を通過する。
イライラして、不機嫌な顔をしている徹の姿を雑踏の中で目ざとく見つけると、こぼれるような笑顔になった。
徹はその笑顔に魅せられて、何時も怒る気になれない。
徹の前に立つと奈那子は、西洋の劇の中に出てくる少女が演技をするように足を一歩前に出して、腰を屈めて挨拶をした。
奈那子が両手でミススカートを持ち上げたので、太股が露となった。
徹は周囲の視線を感じた。
奈那子がそのような仕草をする時は、何かがある兆候でもあった。
「徹ちゃん、悪いわね。私、用事が出来ました。なるべく早く帰るので、私のマンションで待っていてね」
黒皮の真四角な小さなハンドバックからマンションの鍵を出した。
キーホルダーは、徹が東京タワーで買ったものだ。
徹は言いたいことが喉に詰まった。
奈那子は右手をひらひらさせ身を翻すようにして、足早に去って行く。
奈那子から何度か約束を裏切られてきた。
「もう、いい、お別れだ」徹は投げやりな気分となった。
だが、1日、1回は奈那子から電話がかかってきた。
「今、何をしているの?」
「これから、学校へいくところ」
「今日、会えるでしょ?」
「ハイ」
居間で母親が聞き耳を立てていた。
電話は玄関の靴箱の上に乗っていた。
脇には花瓶があって、母親は活けた百合の花が香っていた。
「徹ちゃん、誰かが側に居るのね?」
「まあ・・・」
「渋谷に来て、午後6時に、来られるわね。ハチ公の前にいるわ」電話をそれで切れた。
結局、その日も30分余、遅れて奈那子はハチ公の銅像の前に現れた。
奈那子は渋谷の道玄坂にある法律事務所でバイトをしていた。
司法試験に2度落ちて、3度目挑戦するところであった。
徹の父は大学病院の心臓外科医であった。
父の医療訴訟を請け負ったのが、渋谷・道玄坂の法律事務所であった。
父の東京地裁での裁判を傍聴した時に、徹は奈那子と出会った。
徹は裁判所へ足を踏み入れたのは初めてでる。
建物に威圧され、胸をドギマギさせ途方に暮れた少年のように戸惑っていた。
徹の脇を通り過ぎた若い女性が振り向いた。
その場の雰囲気を和ませるような女性の爽やかな笑顔であった。
「学生さんね? 傍聴なのね?」
「ハイ」徹は助け船を得たような気持ちとなった。
「今日は、医療訴訟の裁判があるの、傍聴するなら一緒に行きましょ」
「医療裁判?!」徹は腰が引けた。
身内の裁判を赤の他人に傍聴されたくない、と思ったのだ。


 美登里の青春

2015-05-24 12:20:28 | 創作欄
2012年2 月 7日 (火曜日)
「私が休みの日に、何をしているのか、あなたには分からないだろうな?」
北の丸公園の安田門への道、外堀に目を転じ美登里は呟くように言った。
怪訝な想いで徹は美登里の横顔を見詰めた。
徹を見詰め返す美登里の目に涙が浮かんでいた。
「私が何時までも、陰でいていいの?」
責めるような口調であった。
区役所の職員である36歳の徹は、妻子のいる身であった。
「別れよう。このままずるずる、とはいかない」
美登里は決意しようとしていたが、気持ちが揺らいでいた。

桜が開花する時節であったが、2人の間に重い空気が流れていた。
乳母車の母子の姿を徹は見詰めた。
母親のロングスカートを握って歩いている少年は徹の長男と同じような年ごろである。
「私は、何時までも陰でいたくないの」
徹の視線の先を辿りながら美登里は強い口調となった。
徹は無表情であった。都合が悪いことに、男は沈黙するのだ。
北の丸公園を歩きながら、美登里は昨日のことを思い浮かべていた。
九段下の喫茶店2階から、向かい側に九段会館が見えていた。
美登里は徹と初めて出会った九段会館を苦い思いで見詰めていた。
美登里は思い詰めていたので、友人の紀子に相談したら、紀子の方がより深刻な事態に陥っていた。
「私はあの人の子どもを産もうと思うの。美登里どう思う?」
美登里はまさか紀子から相談を持ち掛けられるとは思いもしなかった。
「え! 紀子、妊娠しているの?」
紀子は黙って頷きながら、コーヒーカップの中をスプーンでかきまぜる仕草をしたが、コーヒーではなく粘着性のある液体を混ぜているような印象であった。
「美登里には、悩みがなくて良いわね」
紀子は煙草をバックから取り出しながら、微笑んだ。
「私しより、深刻なんだ」美登里は微笑み返して、心の中で呟いた。 
結局、美登里は紀子の前で徹のことを切り出すことができなかった。

新聞の死亡欄が気になる年代

2015-05-24 12:15:54 | 創作欄
2011年12 月31日 (土曜日)
「新聞はまず毎朝、死亡欄から見る」
あと、何年生きられるだろうか?
徹は、毎年、12月の末日が迫ると想ってみた。
昔、徹が勤めた会社の社長が、「新聞はまず、毎朝、死亡欄から見る」と言っていた。
社長は徹より、7歳年上である。
死亡欄にまず目がいくと言う経営者に、30歳代の徹は侮蔑の目を向けた。
「後ろ向きで、性格が暗いから社員が定着にないんだ」
酒を飲むと後輩に対して、経営者批判をした。
その後輩の一人は遅刻が重なって突然、社長から解雇された。
「彼は、とても優秀ですよ。歯科医師会の役員からも、可愛がられています。戦力として欠かせません。解雇を撤回してください」
徹は社長に率直な気持ちを伝えた。
「遅刻し過ぎだ。もういいよ。だめな奴はだめなんだ!」
社長が自分で雇ってのだから、決断も自分がするのは当然。
徹は口をつぐんだ。
社長は生真面目な人間であるが、狭量でもあった。
「影でとやかく言うな。文句があるなら俺を説得してみろ」
 誰も文句を言わないなかで、徹は言うべきことを言ってきた。
「こんな会社、いつでも辞めてやる」
腹のなかの気持ちである。
それから10年が経過して、リストラ解雇されると徹の気持ちは、大きく変化していた。
そして、徹も新聞の死亡欄が気になる年代となっていた。
数少ない親友たちが50歳代で逝くことが重なったことも、影響した。

「最後の文学青年」

2015-05-20 00:56:02 | 創作欄
徹は大学新聞で応募した先輩の小説が当選となり、文学雑誌にも転載され、それが芥川賞候補になったことに大いに刺激された。
そして書いたのが「最後の文学青年」であった。
だが、その小説は佳作にも該当しなかった。
また、大学の卒論の合間に、あるレコード会社で企画した歌詞にも応募したが、それも最終選考にすら残らなかった。
当選作品には曲が作られアイドル歌手が歌うことになっており、そのことに魅力を感じて徹は奮起して作詞したのだ。
だが、自信作と思い込んだ作詞も全く評価されることがなかった。
それ以来、徹は作詞も止めた。
実力が伴わない変な自負心が打ち砕かれたのだ。
小説や詩も俳句も短歌も封印して、母親の期待に応えて平凡なサラリーマンとしての生活を歩みだしたのである。














明智光秀の生まれ代わり

2015-05-16 23:30:19 | 創作欄
明智信雄は、明智光秀の生まれ代わりだと自認している。
本名は、小作信雄であるが17歳の時に見た夢で、明智光秀の生まれ代わりと告げられたのである。
告げたのは、夢に出てきた武将で「あなた様には何としても、殿の無念を晴らしていただきたい」と告げて、甲冑姿で霧の山里に消えたのだ。
信雄は東京の高校を中退し、父親の故郷の甲府にいた。
「何で、明智光秀の生まれ代わりなのか? 俺が崇拝する武田信玄ではないのか?」と落胆し、叔母に夢の話をした。
「お前は、お父さんに似て変わった子だね。変な夢を見るんだね」と叔母の美祢は苦笑を浮かべた。
信雄の父の信太郎は、「俺には、最強の武田騎馬軍団の武者の血が流れているから、戦場では死なん!」と豪語していたが、シベリアに抑留されて亡くなった。
信太郎は剣道の道場を構えていて、自宅の裏山の竹藪で真剣の試し切りをしていた。
「俺は生まれて来るのが遅かった。戦国の時代に生まれかかった」と信太郎は旧制中学の時に言っていた。
「変な子だね」と祖母のイネが呆れていた。


「楽しまなくちゃ」

2015-05-13 16:30:18 | 創作欄
「楽しまなくちゃ」と知人の島田さんが徹を諭すように言った。
徹は買った車券が外れるレースごとに、怒りを露にしていた。
だから彼は「楽しむ」心の余裕を失っていた。
「なぜ、直ぐに巻き返さないんだ! 7番手に置かれて、仕掛けが遅すぎりではないか!」と吐き捨てた。
皮肉にも中段のラインが大きく車間を開けて、逃げたラインを追走するタイミンを遅らせている。
9人の選手たちが一列棒状で走る競輪は、中段にいるラインがレース展開を緩めれば緩めるほど、一番弱い逃げたラインが残る可能性が大きくなるのだ。
あくまでも、本命ラインを勝たせない作戦である。
つまり捲り不発に追いやるのだ。
本命ラインは7番手から早めに猛然と巻き返す気概があれば別だが、多くの場合は車間をあける中段のラインの思惑・術中にはまってしまうのだ。
自転車の長さを仮に2㍍にすると、7番手は14㍍以上後方に置かれる。
車間を5㍍以上空ければ、その差は20㍍以上にもなる。
しかも、走る格闘技でもあるので、勝負どころの4コーナーで外に押し上げられ、捲くってきた本命選手が失速する場合が大半である。
コマの回転と同じでスピードが優っていれば弾き返せるのだが、そもいかないのが競輪。
想えば過去の「鬼脚」と評された井上茂選手はコマのように弾き返せた唯一の選手であった。
結果的にファンから支持された本命選手は2着か3着になる。
最悪の場合は4着以下で車券の対象にならない。
的中車券は10万円以上の配当にもなる。

花が好きだとは以外だな

2015-05-11 14:22:02 | 創作欄
先日、輪太郎が特別観覧席にリックを置いて競輪場内を歩き回っていたら「パソコンが入ったまま、よく席を離れられるね」と知人の富田さんに真剣な顔で言われた。
「あのパソコンは業務用で、もう手元にはありません。今、入っているのはカメラです」と言いながら、カメラを取り出して見せた。
「テッセンだな。バラか、きれいに撮れているじゃないか。花が好きだとは以外だな」と感心して、画面の映像に見入る。


「友人の影響で、花の写真を写しているけど、まだまだで、友人の域には至らない」
「生花と同じで、同じ花でも刺し方で味わいが違う。それと同じだな」
「そうですね。センスの問題ですね。満足できる写真が少ないですね」と輪太郎は本音を述べた。
「死んだ息子がカメラが好きでね。小学校2年生の時にせがまれて買ってやったら、小学校の遠足で友だちを写しては焼き増して配っていたな」
「そうですか。私も小学校4年生の時に、当時、1000円の子どもの手の平に収まる小さなカメラを買ってもらって、遠足でうつしていました。写真屋さんに{僕上手だね}と褒められたのが嬉しくて、よく学校内でも写していたな。そのカメラを誰かに盗まれて、カメラはそれっきりで、次に始めたのは業界新聞の記者になってから」
「そうなのか。君は元記者か。俺は印刷工場で雑誌や新聞の印刷していたんだ」
競輪仲間は前職の話などしないので、彼がどんな仕事をしていたのかは顔を見知って10年余で始めて知った。





古本屋になるといいわね

2015-05-11 12:29:41 | 創作欄
人間が戦うには「剣と筆」はある
公明新聞連載の出久根 達郎さんの「文学大博覧会」を興味深く読んでいる。
徹は青春時代、彼女から「徹ちゃん、本が好きなのね。古本屋になるといいわね。奥さんになる人は田舎出で素朴で、気立ての良い子がいいわ。そうしないさい」と言われたのだ。
つまり彼女は自身に対する徹の恋心を承知の上で突き放すように言ったのだ。
2人は公園の芝生にハンケチを敷いて座っていたのだ。
「私ね。また、失恋したの。及び難いと思うと一層、心が燃えるのが恋なのね」と胸の内を明かした。
その時、「及び難い」との思いは徹の気持ちそのものでもあった。
「私、タバコ吸いたくなった。徹ちゃん、タバコ買ってきて」彼女は涙目になっていた。
徹は彼女の潤んだ瞳に惚れ直す思いがした。
徹は黙って立ち上がると公園の芝生を素足のサンダルに感じながら煙草屋へ向かった。大学時代の徹は「近代文学研究会」に所属していて、「春」を読んで卒論は藤村にしようかと思っていた。
また、北村透谷の恋愛は「人生の秘鑰(ひやく)である」に強い思い入れもあり、透谷も棄てておけないと思う。
さらに夏目漱石の3部作を読んで、最終的に漱石に決めた経緯があった。
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島崎藤村の小説「春」に出てくる青木のモデルは詩人北村透谷である。
小説の時代は明治26年。
青木は2年前に横浜山手公会堂で外国人による「ハムレット」観劇している。
この劇を見た日本人はたった2人、透谷と坪内逍遥であった。
透谷は20歳で詩集「楚囚之詩」(そしゅうのうた)を自費出版した。
ところが製本途中で、あまりに大胆な表現に後悔し、一部だけ手元に残し、あとは断裁してしまった。
従ってこの世にはこの一冊しかないと、長いこと思われてきた。
昭和5年にデパートの古書即売店で、早稲田大学の学生が均一本の中から、二冊を購入し大騒ぎとなった。
出品した古書店主は、知識の不明を恥じ、猛勉強してのちに日本一の詩集専門店になった。
透谷は19歳、熱烈な恋愛の末に結婚した。
婚約していた三歳上の娘を強引にくどき落とした。
透谷は「恋愛は人生の秘鑰(ひやく)である」と言った。
秘密を開く鍵だ、というのである。
恋愛あっての人生がある。
恋の勝利者となった透谷だが、万民を救う政治家の夢は破れ、現実の前に文学はあまりに無力であった。
「子どもは決して文学者にするな」と妻に言い残し、透谷は25歳で自殺した。

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出久根 達郎(でくね たつろう、1944年3月31日 - ) は日本の小説家、随筆家[1]。茨城県行方郡北浦町(現:行方市)生まれ。

中学卒業後集団就職で上京し、月島の古書店に勤める。1973年独立し、杉並区で古書店「芳雅堂」を営む[1]。そのかたわらで作家デビュー。
1990年「無明の蝶」「猫じゃ猫じゃ」「四人め」「とろろ」で直木賞候補。
1992年に『本のお口よごしですが』で講談社エッセイ賞。1993年に『佃島ふたり書房』で第108回直木賞。
読売新聞「人生案内」の回答者の一人である。 2015年、『短篇集 半分コ』で芸術選奨文部科学大臣賞受賞。
著書[編集]
『古本綺譚』新泉社 1985 のち中公文庫、平凡社ライブラリー
『古書彷徨』新泉社 1987 のち中公文庫 
『猫の縁談』中央公論社 1989 のち文庫
『古書法楽』新泉社 1990 のち中公文庫 
『無明の蝶』講談社 1990 のち文庫 
『本のお口よごしですが』講談社 1991 のち文庫 
『漱石を売る』文芸春秋 1992 のち文庫 
『佃島ふたり書房』講談社 1992 のち文庫 
『あったとさ』文芸春秋 1993 のち文庫
『人さまの迷惑』講談社 1993 のち文庫 
『むほん物語』中央公論社 1993 のち文庫
『あなたのお耳に』講談社 1994 「踊るひと」文庫 
『落し宿』中央公論社 1994
『思い出そっくり』文芸春秋 1994 のち文庫 
『四十きょろきょろ』中央公論社 1995 のち文庫
『面一本』講談社 1995 のち文庫 
『笑い絵』文芸春秋 1995 のち文庫
『朝茶と一冊』リブリオ出版 1996 のち文春文庫
『お楽しみ』新潮社 1996
『たとえばの楽しみ』講談社 1996 のち文庫
『波のり舟の 佃島渡波風秘帖』文芸春秋 1996 のち文庫
『逢わばや見ばや』講談社 1997 のち文庫
『恋文の香り』文芸春秋 1997
『残りのひとくち』中央公論社 1997
『粋で野暮天』リブリオ出版 1998 のち文春文庫
『いつのまにやら本の虫』講談社 1998 のち文庫
『えじゃないか』中央公論社 1998 のち文庫 
『おんな飛脚人』講談社 1998 のち文庫
『猫の似づら絵師』文藝春秋 1998
『花ゆらゆら』佐野有子画 筑摩書房 1998 のち文庫
『みんな一等』朝日新聞社 1998
『御書物同心日記』講談社 1999 のち文庫
『仕合せまんまる』中央公論新社 1999
『死にたもう母』新潮社 1999 のち角川文庫
『書棚の隅っこ』リブリオ出版 1999 「人は地上にあり」文春文庫
『倫敦赤毛布見物』文藝春秋 1999
『犬大将ビッキ』中央公論新社 2000 のち文庫
『風がページをめくると』リブリオ出版 2000 のちちくま文庫
『紙の爆弾』文藝春秋 2000
『漱石先生とスポーツ』朝日新聞社 2000
『昔の部屋』筑摩書房 2000
『土龍』講談社 2000 のち文庫
『犬と歩けば』新潮社 2001 のち角川文庫
『いの一番』中央公論新社 2001
『俥宿』潮出版社 2001 のち講談社文庫
『書物の森の狩人』角川選書 2001
『猫にマタタビの旅』文藝春秋 2001
『秘画 御書物同心日記』講談社 2001 「続・御書物同心日記」文庫
『百貌百言』文春新書 2001
『本の背中本の顔』講談社 2001 のち河出文庫 
『嘘も隠しも』富士見書房 2002
『二十歳のあとさき』講談社 2002 のち文庫
『虫姫 御書物同心日記』講談社 2002 のち文庫
『立志ふたたび』新潮社 2002
『安政大変』文藝春秋 2003 のち文庫
『今読めない読みたい本』ポプラ社 2003
『出久根達郎の人生案内』中公新書ラクレ 2003
『古本夜話』ちくま文庫 2003
『昔をたずねて今を知る 読売新聞で読む明治』中央公論新社 2003 のち文庫
『行蔵は我にあり 出頭の102人』文春新書 2004
『猫も杓子も猫かぶり』文藝春秋 2004
『古本・貸本・気になる本』河出書房新社 2004
『世直し大明神 おんな飛脚人』講談社 2004 のち文庫
『あらいざらい本の話』河出書房新社 2005
『かわうその祭り』朝日新聞社 2005 のち角川文庫
『最後の恋文 随筆』三月書房 2005
『下々のご意見 二つの日常がある』清流出版 2005
『まかふしぎ・猫の犬』河出書房新社 2005
『養生のお手本 あの人このかた72例』清流出版 2005
『逢わばや見ばや 完結編』講談社 2006 のち文庫
『隅っこの「昭和」 モノが語るあの頃』角川学芸出版 2006
『本を旅する』河出書房新社 2006
『本の気つけ薬』河出書房新社 2006
『ぐらり!大江戸烈震録』実業之日本社 2007 「大江戸ぐらり 安政大地震人情ばなし」文庫 
『作家の値段』講談社 2007 のち文庫
『セピア色の言葉辞典』2007 文春文庫
『萩のしずく』文藝春秋 2007
『抜け参り薬草旅』河出書房新社 2008
『古本供養』河出書房新社 2008
『御留山騒乱』実業之日本社 2009 「将軍家の秘宝 献上道中騒動記」文庫
『春本を愉しむ』新潮選書 2009
『ときどきメタボの食いしん坊』清流出版 2009
『夢は書物にあり』平凡社 2009
『乙女シジミの味』新人物文庫 2010
『作家の値段 『新宝島』の夢』講談社 2010
『新懐旧国語辞典』河出書房新社 2010
『東京歳時記 今が一番いい時』河出書房新社 2011
『日本人の美風』2011 新潮新書
『古本屋歳時記 俳句つれづれ草』河出書房新社 2011
『一日一言366日 日めくり歴史名言集』河出書房新社 2012
『人生の達人 いい「大人」のための人物伝』中公新書ラクレ、2012
『西瓜チャーハン』潮出版社 2013
『隅っこの四季』岩波書店 2013
『七つの顔の漱石』晶文社 2013
『名言がいっぱい あなたを元気にする56の言葉』清流出版 2013
『雑誌倶楽部』実業之日本社 2014
『本があって猫がいる』晶文社 2014
『本と暮らせば』草思社 2014
『短篇集 半分コ』三月書房、2014

編著[編集]
『漱石先生の手紙』日本放送出版協会 2001 のち講談社文庫
『七人の龍馬 坂本龍馬名言集』編著 講談社 2009
『むかしの汽車旅』編 河出文庫 2012
『犬のはなし 古犬どら犬悪たれ犬』選 日本ペンクラブ編 角川文庫 2013











筋萎縮性側索硬化症になった息子の真

2015-05-09 16:36:57 | 創作欄
君嶋菊治の息子の真が筋萎縮性側索硬化症になったのは、中学校の1年生の時であった。
格闘技に憧れていた、真は小学校から空手を習っていた。
映画のジャッキチェンが憧れであったのだ。
真は一方で機械が好きで、隣の自動車の整備工場を覗いていることがあった。
菊治は大学時代、自動車部に所属していたので、自分で車の整備ができたが、社会に出てからはデパートの外商部に勤め自動車とは段々無縁になっていった。
「真、そんなに自動車が好きか?」と息子にたずねた。
「将来、僕は機械関係の仕事がしたいな」と息子は微笑んだ。
「格闘技はどうなんだ?」と話題を変えた。
「格闘技はいいけど、僕は体が小さいから向いてないね」と弱気なことを言う。
「お父さんも、小学校時代は体が小さかったけど、中学で10cm身長が伸びて、高校で7cm伸びて普通の体となった。お前も大きくなるさ」と慰めた。
「僕はお母さんに似ているんだ」と否定的であった。
妻の貴子は148cmと小柄で体は痩せていた。
「真は機械関係がいいのか、お父さんは大学の自動車部にいたので、車の整備もできるんだ」
「そうなの!すごいね!」真は目を輝かせた。
菊治は息子の真が大学附属病院で筋萎縮性側索硬化症と診断されたことに大きなショックを受けた。
妻の貴子は泣き崩れていた。
彼女の祖父も筋萎縮性側索硬化症で亡くなっていたのだ。
「私の家系なのね。これは宿業なのよ」と貴子深刻に受け止めた。
「宿業?!そんなものはあるはずがない」菊治は腹立たちさを覚えた。
妻は近所の人から勧められ、彼が思いもかけぬ信仰を始めていたのだ。
「お前が宗教をやるのは自由だが、息子や娘には勧めるな」と釘を刺していた。
だが、「どんな病も治る。医者から見放された時こそ信仰を深めることができ、宿業を転換できる」と言われ、妻はそれを素直に受け止めていた。
心外であったのは、息子の真自身が信仰を卒直に受け止めたのだ。
「僕、死ぬことは怖くないよ」13歳の息子はまるで悟ったようなことを言いだした。



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1. 筋萎縮性側索硬化症とは
筋萎縮性側索硬化症(ALS)とは、手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気です。しかし、筋肉そのものの病気ではなく、筋肉を動かし、かつ運動をつかさどる神経(運動ニューロン)だけが障害をうけます。その結果、脳から「手足を動かせ」という命令が伝わらなくなることにより、力が弱くなり、筋肉がやせていきます。その一方で、体の感覚、視力や聴力、内臓機能などはすべて保たれることが普通です。
2. この病気の患者さんはどのくらいいるのですか
1年間で新たにこの病気にかかる人は人口10万人当たり約1-2.5人です。全国では、平成25年度の特定疾患医療受給者数によると約9,200人がこの病気を患っています。
3. この病気はどのような人に多いのですか
男女比は男性が女性に比べて1.2-1.3倍であり、男性に多く認めます。この病気は中年以降いずれの年齢の人でもかかることがありますが、最もかかりやすい年齢層は60~70歳台です。まれにもっと若い世代での発症もあります。特定の職業の人に多いということはありません。
4. この病気の原因はわかっているのですか
原因は不明ですが、神経の老化と関連があるといわれています。さらには興奮性アミノ酸の代謝に異常があるとの学説やフリーラジカルの関与があるとの様々な学説がありますが、結論は出ていません。次の項目で説明をいたしますが、家族性ALSの約2割ではスーパーオキシド・ジスムターゼ(SOD1)という酵素の遺伝子に異常が見つかっています。最近になりTDP43, FUS, optineurin, C9ORF72, SQSTM1, TUBA4Aと呼ばれる遺伝子にも異常が見つかってきており、次々に原因遺伝子が明らかになっています。
5. この病気は遺伝するのですか
多くの場合は遺伝しません。両親のいずれかあるいはその兄弟、祖父母などに同じ病気のひとがいなければまず遺伝の心配をする必要はありません。その一方で、全体のなかのおよそ5%は家族内で発症することが分かっており、家族性ALSと呼ばれています。この場合は両親のいずれかあるいはその兄弟、祖父母などに同じ病気のひとがいることがほとんどです。そのうちの約2割は上で触れたスーパーオキシド・ジスムターゼ(SOD1)の遺伝子異常が原因となっています。
6. この病気ではどのような症状がおきますか
多くの場合は、手指の使いにくさや肘から先の力が弱くなり、筋肉がやせることで始まります。話 しにくい、食べ物がのみ込みにくいという症状で始まることもあります。いずれの場合でも、やがては呼吸の筋肉を含めて全身の筋肉がやせて力がはいらなくなり、歩けなくなります。のどの筋肉の力が入らなくなると声が出しにくくなり(構音障害)、水や食べ物ののみこみもできなくなります(嚥下障害)。またよだれや痰(たん)が増えることがあります。呼吸筋が弱まると呼吸も十分にできなくなります。進行しても通常は視力や聴力、体の感覚などは問題なく、眼球運動障害や失禁もみられにくい病気です。
7. この病気にはどのような治療法がありますか

1.ALSの進行を遅らせる作用のある薬:リルゾール(商品名 リルテック)という薬が使われます。

2.対症療法(様々の症状を軽くする方法)
1)ALSにともなって起こる筋肉や関節の痛みに対しては毎日のリハビリテーションがとても大切です。リハビリを行う方法については、主治医の先生や地域の保健師さん、介護保険のケアマネージャーさんあるいは各都道府県にある難病医療連絡協議会の専門員(難病医療連絡協議会・難病医療拠点病院)と相談してください。
2)体の自由が効かないことや、病気に対する不安等から起こる不眠には睡眠薬や安定剤を使います。
3)呼吸困難に対しては、鼻マスクによる非侵襲的な呼吸の補助と気管切開による侵襲的な呼吸の補助があります。一般的には気管切開が必要な時期になると定期的に痰(たん)の吸引が必要になりますので、そのやり方など医療従者との相談が必要です。
人工呼吸器を使用する場合であっても基本的には在宅での生活になります。人工呼吸器や吸引器には電気が欠かせませんので、地震や台風などの災害時におこる停電に備えて予めの準備も必要です。
4)のみ込みにくさがある場合には、後に述べるような食物の形態を工夫(原則として柔らかく水気の多いもの、味の淡泊なもの、冷たいものが嚥下しやすい)する、少量ずつ口に入れて嚥下する、顎を引いて嚥下するなど摂食・嚥下の仕方に注意することが有用です。飲み込みにくさがさらに進行した場合には、お腹の皮膚から胃に管を通したり(胃ろう)、鼻から食道を経て胃に管をいれて流動食を補給したり、点滴による栄養補給などの方法があります。現在は「胃ろう」(PEGとも云います http://www.pegnet.jp/index.html あるいはhttp://www.bostonscientific.com/jp-JP/health-conditions/peg/peg-01.html)で栄養補給する方法が一般的です。呼吸機能が悪くなってからの「胃ろう」の造設はより危険が伴いますので、早めに主治医の先生と相談をお願いします。
5)話しにくい、手の力が入らないなどの症状が進行すると家族や他のヒトとのコミュニケーションが大変になります。早めに新たなコミュニケーション手段の習得を行うことが大切です。文字盤とよばれるコミュニケーションボードを使用するには最初に練習が必要です(日本 ALS協会新潟県支部のホームページに文字盤入門がありますhttp://www.jalsa-niigata.com/)。 体や目の動きが一部でも残存していれば、適切なコンピューター・マルチメディア(意思伝達装置)および入力スイッチの選択により、コミュニケーションが可能です。主治医の先生や地域の保健師さん、介護保険のケアマネージャーさんあるいは各都道府県にある難病医療連絡協議会の専門員(難病医療連絡協議会・難病医療拠点病院)等と相談してください。
8. この病気はどういう経過をたどるのですか
この病気は常に進行性で、一度この病気にかかりますと症状が軽くなるということはありません。 体のどの部分の筋肉から始まってもやがては全身の筋肉が侵され、最後は呼吸の筋肉(呼吸筋)も働かなくなって大多数の方は呼吸不全で死亡します。人工呼吸器を使わない場合、病気になってから死亡までの期間はおおよそ2~5年ですが、中には人工呼吸器を使わないでも10数年の長期間にわたって非常にゆっくりした経過をたどる例もあります。その一方で、もっと早い経過で呼吸不全をきたす例もあります。特に高齢者で、話しにくい、食べ物がのみ込みにくいという症状で始まるタイプは進行が早いことが多いとされています。重要な点は患者さんごとに経過が大きく異なることであり、個々の患者さんに即した対応が必要となります。最近では認知症を合併する患者さんが増えていると云われています。
9. 今後の治療法の開発に必要なこと
わが国ではALS患者さんの自然経過(自然歴)をきちんと調査したデータが少なく、今後限られた患者 数の中で有効な臨床研究あるいは治験をデザインしていく上でとても重要な課題となっています。この問題の解決を目的の一つとしたALS患者さんの JaCALSとよばれる全国調査が厚生労働省「神経変性疾患に関する調査研究」班(研究者代表者 東京都立神経病院長 中野今治先生)で開始されました( http://www.jacals.jp  中央事務局は名古屋大学神経内科になります)。現在、JaCALSでは、ALS研究で今まで世界的にもあまり行われてこなかった、さまざまな臨床情報と遺伝子を併せた大規模な調査研究を行っています。この研究により、新しい知見が生まれつつあり、これらは病態の解明、将来の新規治療法につながる可能性があります。2015年1月現在でALS患者さんの登録症例は 1041名となり、1000名を超えました。ALSと診断され告知されているすべての患者さんが対象となっており、JaCALSの理念にご賛同いただけるALS患者さんはぜひご協力ください。
筋萎縮性側索硬化症(ALS)の食事・栄養について
私たちは毎日炭水化物、脂肪、タンパク質、ビタミンなどの栄養素と水分を十分にとる必要があります。ALS患者さんの場合、次のようなことがもとでこれらの栄養や水分が不足しがちになります。第1には、のみ込む働きそのものが悪くなること(嚥下障害と言います)です。そうなりますと食事に時間がかかって疲れてしまい、食べ物が気管に入ってむせて苦しむ(誤嚥と言います)ようになります。そのために食事の楽しみは失われ、逆に患者さんは食事をいやがるようになり、その結果、十分な量の食べ物や水分がとれなくなります。第2には、手や腕の力が弱くなるためにすぐ疲れてしまい、十分な量の食べ物や水分を口に運べなくなります。3番目には、手足の力が弱くなってトイレに介助が必要になりますと、トイレの回数を減らそうとして飲水量を意識的に減らしがちになります。
ここでは、栄養不足・水分不足の最大の原因である嚥下障害の対策について述べます。その目標は十分なカロリー、栄養、水分をとることと誤嚥を防ぐことです。栄養をとるためには少量で必要な栄養がまかなえるように高カロリー、高蛋白の食べ物をとることです。同時にビタミンやミネラルもとるように注意します。
誤嚥を防ぐには食事の仕方を工夫する方法と、食べ物の形態を工夫する方法とがあります。
(1)食事の仕方
食事時にはできるだけ体を起こし、食事を終えた後も1時間位その姿勢でいることが望まれます。一度に口に入れる食べ物や汁物は少なくし、固形物と汁物を交互にとるのが大切です。あごを引いて呑み込むとむせが少なくなります。座れない人はあおむけで上体を30~40度起こし、頭の下に枕をして頭が少し持ち上がるようにすると良いでしょう。飲み込むときには「さあー、飲み込むぞ」と飲み込むことに意識を集中することが大事です。テレビを観たり、話をしながら飲み込みますと、むせやすくなります。食事回数を増やして1回の食事量を減らすのも良い方法です。特に呼吸困難のある場合は、食べ物で胃が張りますと呼吸が苦しくなりますので、食事回数を増やすことで息苦しさが軽くなります。
(2)食べ物の形態
最も良いのは柔らかくて水気があり、かつつぶつぶしたものが入っていない滑らかな食べ物です。肉や果物はピューレにして柔らかくします。パンはミルクその他の適当な飲み物に浸してから食べるようにします。缶詰は柔らかくて水分が多いため良い食品です。さらさらした液よりもとろみのある液の方がのみ込みやすいので、すり潰したじゃがいもを加えるなどして汁物にはとろみを持たせるのが良い方法です。また、増粘剤(とろみをつける食材)が薬局等で手に入ります。液体は熱いとのみにくいので、冷やすことを勧めます。

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情報提供者
研究班名 神経・筋疾患調査研究班(神経変性疾患)
研究班名簿 研究班ホームページ