医科歯科通信  (医療から政治・生活・文化まで発信)



40年余の取材歴を踏まえ情報を発信

10年やれば専門家 20年やれば大家に

2015-07-14 01:54:54 | 創作欄
人は使命を自覚した時に、急激に伸びる。
先人の言葉に一郎は納得した。
「文学をやりなさい」と崇拝する病理学者の吉田富三先生に諭されていたが、大学の恩師の森脇教授の言葉にも拘り続けていた。
就職は一流の新聞社には到底及ばなかったが、日本工業新聞社に入社した時に、国文科の主任教授であった森脇教授に報告に行く。
「そうなのか。就職したのか。4月から出勤だね。頑張りなさい。君には短歌の才能があるのだから、続けなさい。どの道を進もうと10年やれば専門家だ。20年やれば大家になるはずだ」
一郎は「どの道に進もうと」に背中を押された気持ちとなる。
森脇教授は萬葉集の研究では大家と評されていた。
4月1日から出勤するものとばかり想っていたが、3月1日からの出勤であった。
まだ、卒業式前である。
一郎は学生気分が抜けきれず、日本工業新聞社の仕事に身を入れることが出来ないでいた。
偶然、大学の先輩の一人が社内に居て、昼飯に誘ってくれた。
産経新聞の姉妹纸であった日本工業新聞社は産経会館の6階にあった。
大手町地下街の食堂に先輩の木嶋哲郎が一郎を誘った。
「編集を希望したが、2年間も営業だ。営業の仕事はつまらん。沼田も営業だろう。長く続ける仕事じゃないよ。今、俺は就職活動中だ」木嶋は冷笑を浮かべながらカレーライスを口に運んだ。
一郎もカレーライスを食べていた。
社内に先輩がいたことで気強く思っていた一郎は拍子抜けがした気分となる。
「広告が取れないので、上司に嫌味を言われてな、腹が立つ!」木嶋は怒りを露にし、スプンで皿を叩く。
一郎は1週間の研修期間であったが、前途に不安を覚えていた。
そして、研修期間を終えてから出勤しなくなる。
当然、会社の方から何らかの連絡があると思ったが、その連絡もなかったのだ。
つまり社員が定着しない企業と一郎には想われたのだ。
日本工業新聞社にとっては一郎はどうでもいい人材であったようだ。






















コメントを投稿