空間から物質は生まれる
Q:身体と空体というのは、とても中途半端なのです。分かったようで分からないです。というより、なんとなく別々には分かる気がするのですが、両方同時に分かろうとすると変な感じになります。
A:その感覚はとても正確な感想ではないでしょうか。ご質問は私達の知る(認識する)能力の欠点を突いた貴重な体験だと思います。両方同時に分かるというのは、実は真実を丸ごとそのままの姿で見ようとしているからで、実際にはそれは見ることが出来ないものだと言えばいいのでしょうか。実はそれが人間の認識の限界なのだと私は思っています。
今、私達は目の前にある花を見ていると考えてみてください。
花の色や形、見覚えのある花なのか、はじめて見る花なのか、どんな様子なのか・・・・
様々な情報を呼び起こしますね。この時私達はこの花を認識しているのです。この認識に対して普段はそれ以上の深い思いは起こりませんね。
しかしこの認識にあえて立ち入って考えてみたいと思います。
そもそも花の形を私達はどうして認識しているのでしょうか。それはズバリ、花と花でない部分があるからです。その区別がなくなれば花を認識する事は出来ません。どこからどこまでが花なのか分からなければ、そもそもそれが花なのか何なのかさえ分かりませんね。
たとえば闇の中で花は認識できません。
それはまわりが暗いからだと納得したら問題はそれで終わるのですが、本当の要点は闇のために花と花でない部分が分からなくなるからです。
要するに、私達が「何か」を認識するためには、その「何か」とそれを取り巻いている背景が必要なのです。すっきりまとめると、認識は認識対象と背景によって成り立っているという訳ですね。
問題の身体と空体は、実はこの認識の対象と背景の関係にあるのです。身体を認識したら空体はその背景になります。逆に空体を意識したら身体が背景になって見えなくなってしまうのです。ルビンの壺と同じですね。
ルビンの壺
白い壺に意識を向けると黒は背景になってしまい
黒い人型に意識を向けると白い壺は消えて背景になってしまう
ですからあなたが体験したように、両方を同時に知ろうとすると変な気分になるというのは、上の例で言えば闇の中で花を見ているのと同じことになっているからだと思います。
花と花でないものを同時に認識しようとしたら、なんだかわからなくなる。
ルビンの壺を、壺と人を同時に認識しようとしたら、目がちらちらして落ち着かない。
そして、身体と空体を同時に認識しようとしたら、変な気分になる。
どれも同じですね。
こんなふうに考えてみたらどうでしょう。
(花+花でないもの)=(身体+空体)=全体
つまり人間は、全体を認識する事が出来ないのです。逆に言えば、認識というのは、全体から部分を取り出してその部分を特別に知ることだと言えるのです。私達が知っているのはそれがすべて部分だからだと考えられるのです。
そして私の求める真実とは全体のことなのです。これは真実を知り得ない人間の深い闇と言えるでしょうか。
変な気分になるというあなたが見たのは、そんな闇であり、逆にその闇こそ人間が意識することの出できる真実の姿なのです。
知る必要はないと言われれば、その通りと言うしかありません。私達には知る必要はありません。なぜならいつの時代であっても私達はただ在るだけで全体を生きている訳ですから。思考は無駄なことかもしれません。
どう考えても最善は今在る自分を無条件に受け入れて人生を謳歌することでしょう。そんな時、難しい考えはむしろ有害だと私も思います。全体の中の至福を受け取ることが出来たらそれ以上はないのですから。
ところが、私自身が苦悩を抱えているのです。どうして人は生きているのか。どこから来て何処に行くのか。そんなことを思ってしまう思考の流れを止めることが出来ないで、答えを求めてしまう。そんな自分は探求者だと自認しております。知り得ない全体をどこまで人間の認識で近づくことが出来るのか。その可能性の追求なのです。
なにを探求するのか?。この世の全体とは何かということです。そのために五次元の旅を続けている訳ですが、この度行き着いた身体と空体の関係は、「私」というものの全体を知る大きな鍵となるのではないかと思えるのです。
私達の認識というのは、質問者様の疑問のとおり、身体と空体を同時に知ることが出来ないという決定的な欠点を持っています。これはいかんともしがたい事実なのですね。
では諦めるのか。そこに可能性はないのかということなのです。
本当に身体と空体を同時に認識できないのだろうか。その可能性の追求の結果が五次元であると言いたいのです。
難しくなって申し訳ありませんが、それ以外に表現しようがありませんのでおゆるし願いたいのですが、五次元思考を手に入れることで、私達は空間を認識できるようになりました。そのことで身体と空体を同時に認識できるただ一つの点を発見したのです。
それは物質を認識する時間の概念と、空間を認識するためのスケールの概念が交わるただ一つの点があるということです。それがスケールと時間の交わる点、すなわち今この時なのです。
下の宇宙モデルを見た時、私達は物質(黒点)と空間(白い背景)を同時に認識する事は出来ません。どちらも自分が主人公だと主張したら、私達はあいまいなまま全体を感じるしかありませんね。
物質(黒点)は時間の概念(変化)によって認識されます。
時間は過去・現在・未来という一本の時間軸として簡単に思い描くことが出来ますね。そこに時間の流れと共に変化していく物質の姿を見るのです。
その一方で空間(白い背景)はスケールの概念によって認識可能になります。そこでは極小・「私」・極大とつながっていくスケール軸を思い浮かべることが出来るのです。
下の図は五次元思考によって思い描ける世界を座標で表したものです。
五次元の世界は物質と空間が図のように二つの座標軸によって思い描けるのです。この物質と空間は表裏一体の存在で、どちらかを認識すれば他方はその背景となって認識から抜け落ちます。
これをもう少し分かりやすく言いますと、意識が時間軸に沿って動くと、スケール軸は動かない。逆にスケール軸に沿って意識が動けば時間軸は動かないということがこの座標軸から分かると思います。二つの軸を同時に認識できないというのはこのことから理解できるのではないでしょうか。
さてその時、この二つの座標軸を同時に認識できる場所を探せばいいのですが、もちろん一目瞭然ですよね。それは二つの軸の交点しかありません。
すなわち、XY座標の原点です。そこは時間軸の「現在」とスケール軸の「私」が重なった部分だということが分かるでしょう。
「私」が今この瞬間にいる事、その事実が五次元座標の原点を作っているということなのです。
それは言うまでもまく、身体と空体が同時に存在している場所であり、半分ずつの実在が合わさった完全な一つの存在として認識できる唯一の場所ということになるのです。
しかし身体と空体という相反する認識が今なぜ必要なのかと言えば、その理由はただ一つです。つまりこの原点だけが全体を知りうる場所だという事なのです。知性ではなく感覚で知るという意味です。
今この瞬間にある自分の身体。その身体が呼吸をし、意識が延々と広がっていく実感の中に空体を意識する。空体は身体をおおい包んでいて、二つが互いに補完し合って一つになっている。身体が空間と共に全体になるその瞬間が分かるのです。
「両方同時に分かろうとすると変な感じになります。」
この変な感じはおそらく、身体と空体を個別に意識して両方を認識しようとした結果ではないかと私には思えるのです。
五次元座標の原点にある今この瞬間に身を置いたら、身体と空体は別々ではない一枚のコインの裏表のように思える時があります。その時「私」の身体は、ゆったりとお風呂の中に浮かんでいるような気分になり、母親の羊水の中を思い出すのかもしれません。空間に包まれている自分を感じたら、自然に意識は身体を抱きかかえている空間の柔らかさに気付くのです。愛とはこんなものかと思ってしまいます。さらにこの感覚は身体と空体という別々の意識からは起こりません。部分ではなく全体なのです。身体と空体は切り離せない一つのものとしての理解がその時生まれているはずです。
そうなったら、変な感じはきっと一つの充実した存在感に変る。そう思えるのです。
それを体験して頂ければ幸いです。
(以下参考記事)
(Q&A)
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)20 Q&A2
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)19 Q&A1
(私の体験)
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)18 私の体験6
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)17 私の体験5
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)16 私の体験4
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)15 私の体験3
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)14 私の体験2
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)13 私の体験
(量子力学を考える)
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)12 量子力学との合流4
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)11 量子力学との合流3
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)10 量子力学との合流2
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)9 量子力学との合流1
(般若心経をどう理解するか)
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)1
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)2
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)3
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)4
般若心経を読み解く? (五次元的解釈)5
般若心経を読み解く? 五次元的解釈)6
般若心経を読み解く? (五次元的解釈)7 一部加筆
般若心経を読み解く? (五次元的解釈)8 追補
(以下は数回分をまとめた長文です)
凡人の語る宇宙論(アインシュタイン讃歌E=mc2)1
凡人の語る宇宙論( アインシュタイン讃歌E=mc2)2
① アイスが融ける → 大好きなキャサリンのお手々が汚れる
② 何故キャサリンがオラのアイスを持ってる? → オラに返せ
①と②の思いが交互に湧き上がるのであります。
そこで、素敵な解決方法がふと思いついた。
アイスが融ける前の今、オラとキャサリンが同じアイスを同時に舐める・・♪
スケール軸と時間軸の交点、すなわち「今の私」・・うしし ♪
広大無限の空間で、たった今同じ美味しさを分かち合う・・愛の至福とでもいいましょうか。
愛の至福(← なんども言うな)
邪夢をお許し下さい・・^ね^
お師匠様の笑いは、愛の至福でございます。
笑いを届けて頂けたこと、これこそが私の至福でもあります^ね^
sure_kusa様がかの地でチラチラ
のしてんてんがこの地でチラチラ
同時に見てたらこの目がチラチラ
でもほら五次元でございます。今この時を見たら、見事に二人は交差しているではありませんか。
チラチラなしの笑いが、おぉ!愛の至福となって互いの心が一つになって見えるではありませんか。
お師匠様、ありがとうございまし^た^
我ら、身体はくたびれ果てても、頭が金糸銀糸となりましても、空体は不滅。
食う体でございます^ね^
今遠い国では、フェイク大統領の敗北が農耕。売店候補が実質の勝利宣言してました。
朝日が窓からさしてまいりました。
これも今この時でございますね。
そういえば、心理学を専攻してた時、ルビンの壺と老女の顔のような図を用いって心理傾向を習ったときがあります。
習うまでは面白いのですが、
習ったことを実験実習としてレポートしなければならなかったです。
まとめると20ページほどになりますが、
毎週20ページを書かなければならなかったです。
友人のノートを丸写ししましたね。
犯罪です、はい。
過去の汚点として残っています、はい。
白を先に見てしまうのは楽天的、社交性がある人に多いようですね。
アイスを奪い合う(?)論に発展するケースのあるようですね。
チラチラって結構映像力のあることばだなとも思うし、
とにかく、硬い内容をすれくささんとのしてんてん組にかかると、
笑いが生じますね。
まあ、今は売店氏が253で
フェイクT氏が213です。
先に270に達した人が勝ちます。
フェイクT氏は自分が勝つべき州に売店氏が勝ったから、不正で表を盗まれたといい
州を告発しています。
彼のインタビューを観て
気分が悪くなりました。
でも、彼より最悪なのは
彼のサポーターなのです。
とにかく売店氏勝ちに10ドルかけています。
後で10ドル勝ち取って金持ちになります。
あえて反感を買い、当然嫌われることを百も承知で、尚且つ自分が大統領の立場にあることを分かって言っているわけです。
彼本来のビジネスでもあそこまではしないでしょう。
大統領という立場だからこそするわけです。
それにしても、ニュースでサポーターの扱いがおや?って思ってしまいす。
フェイク氏支持 対 反フェイク氏支持者のにらみ合いって???
売店さんの名が出てこない・・・
これではいかに五次元とはいえ、その原点に立ってみましても、お騒がせフェイク氏しか見えてきません^ね^
それだけ怪物というのでしょうねぇ。
ところで、ルビンの壺は心理学から出ているのでしたか。老女の顔は見方によったら少女に見えるというヤツですね。
それに20ページのレポート1週間で仕上げなければならないのは過酷ですね。
それにこれは犯罪ではございませんよ、きっとコロナのような感染でございます^よ^
だってほら、その友人のノートは、その横の友人のノートから感染したのでしょう。その感染源を辿って行ったら、某教授に行き着くのですか^ら^
まわりまわって、それは良き感染と言えるかもしれませんね。
ありがとうございまし^た^¥
言動はともかく
眼は正直だと思いました。
たった一つ、心の中にある尊厳を傷つけた怪物の思い上がりが、迎合する人々の心に勇気を与えたのかもしれません。