のしてんてん ハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

のしてんてん絵画新作展(延長のお知らせ)

2018-05-02 | 展覧会

のしてんてん絵画新作展は4月末で終了の予定でしたが、事情により、5月15日まで延長することになりました。

まずは、遠いところお越しいただいた皆様に対しまして、篤く御礼申し上げますと共に、15日間の会期延長を新たにお知らせいたします。

 

 

 

 

 

waakitayabu@yahoo.co.jp

予約は上記メールアドレスにお願いいたします。

 

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気流を呼ぶ龍

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創作への道(己のない龍)

2018-02-11 | 展覧会

2002年全興寺(第4回瞑想の絵画展)

 

 全興寺での10年展の中でも、最も充実した展覧会となったのが2002年の第4回展でした。

この年、御住職は作品展示場所を寺全体に拡げてくれました。

中でも、本堂の祭壇の左右に作品を展示するように言われたのには驚きました。

作品を中央の祭壇の横にある仏様を安置した厨子の前に置けと言うのです。

加えて、同展では作品を野外にも展示いたしました。(その後野外展が主流に)

 本堂の動かない闇のイメージとは対照的に、野外の光と影、そして風の通り抜ける葉音が絵を躍らせてくれます。そんな対極の展示を体験させていただいたのですが、

加えて、今まで展示させていただいていた庫裏には、新しい試みの作品を展示したのです。

画面全体を中間トーンだけで仕上げる作品で、今思えば本堂の展示と野外の展示とは違った、対極の中道を行く作品展示だったのです。

それが今の空気を描く作品につながりました。

和尚さんは可能性があるとしてそれを評価してくれました。

しかし空気を描くということは、描く線に、何を描くという目標がない。つまり意味のない線を描き続けなければいけないわけで、細部を見ないで全体を描くということになるのです。それは描かないで描くというようなわけの分からないことを、細いシャーペンでやる?ということになって、結局長いあいだ理解することが出来ませんでした。

 

10年展終了後さらに10年の音信不通から、やっと描けた作品を見て御住職は大層喜んでくれました。

「そろそろあなたも自分の集大成を創らんとな」

「失礼やがあなたは」(はい?)

「絵描きとして不器用すぎる」(おっしゃる通りで・・・今だに・・)

「その不器用がいいのだ」(はあ?)

「不器用を見せたらいい」(そ、そうなんですか?)

私が示したプランを見てこれはどこにでもある器用な襖絵だというのです。こんなものはうんざりだと言わんばかりの語気の中に、私は和尚さんの失望を感じ取りました。

そしてその時やっと気づいたのです。

あの第4回展で絵を祭壇の前に飾らせてもらえたのは、私の絵の中に仏と同等の何かを見たからではなかったのかと。そうでなければ普段入れない本堂の祭壇の、しかも結界の中にある厨子を後ろに隠して作品を展示するなど考えられない。誰が見ても神聖な仏の場所を汚す行為ではないでしょうか。(恐れ多い気持ちを口にしましたが、良いという強い言葉にそれ以上の思考を止めたのを思い出します)

しかしなぜそのことに今まで思いが至らなかったのか、

そう考えれば「空気を描きなさい」という言葉は、その内なる仏に気付かせようとした和尚さんの心遣いだったのだ、と。自然に見えてくるのに。

分からないまま、御住職の示して頂いた道を歩んできただけなのかも知れない。

今さらながら私は、

和尚さんの見ている仏性と、私が追い求めている五次元の描く宇宙と神のイメージが重なっていくのを感じたのです。

それなのに、十数年もかかってやっと気づいたのか!という内心の和尚さんの前に、私は空っぽの箱を差し出した。(オイオイ;)

そんな己の愚かしさが見えて、私はやっと決心することが出来たのです。(こわいけれど・・・)

 やるなら今しかない。

もはやプランなどいらないし、うまい下手もない。

形のない仏性を私の理解できる宇宙観と重ねあわせるしかない。失敗してももともとということです。(っていうか、どこまで本気の本心でやれるか)

 

「3日間、ここに籠らせていただいて絵を描いてもいいでしょうか?全力で明け渡す体験をしてみたいと思います。」

「大変なことは分かるが、やってみなさるか。」

「いつかやらなければいけないことなので・・・」

「分かった、そうしなさい」

 

御住職が笑って応えてくれました。(つ、ツッコめなかった・・)

 

 

 

 

 

 

 

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創作への道(次なるステップ)

2018-02-08 | 展覧会

全興寺(せんこうじ)涅槃堂

 

邂逅展 その後

で紹介しましたように、空気を描くという意識で描いた龍の絵が全興寺の御住職の気に入って頂けたのですが、そこに至るまでには御住職とのかれこれ20年にわたる対決がありました。(対決?勝手に思っているだけで私、手のひらの猿ですが)

その経過は↓でご覧いただけます。

全興寺瞑想の絵画10年展 (HPの管理が悪く::悪すぎ!ごめんなさい・・)

でもまあ、雰囲気だけは分かって頂けるかと・・・

御住職の眼に、堕落と映ったら即中止という条件で行った10年展でしたが、その個展の最中にさらに空気を描けと言う難題(何だい?)を与えられまして、実現するまで意識から離れません。

それが10年後にやっと、龍のおかげで偶然描けたわけですが、御住職はさらに上手でございました。

 

とにかくこれはいいと喜んでいただき、涅槃堂に納まった作品に感無量でございましたが、正直このお堂に作品のサイズが少々小さくさみしい感も心の片隅にあったのです。

その思いを見透かしたのか、

「この空気の中で、この龍をふくらませてみないか」と言われたのです。

ここに泊り込んでもいいから、この空間から生まれる絵を描いてみろというのです。師弟関係ではありませんので、その言葉は私にとって新たな挑戦状です。(一番厳しい師と心得ておりますが)

 

で、私はたかなる思いを抱きながら挑戦状を持ち帰り、夜も寝ないで熟考いたしました。(嘘つけ、ビール飲んでそのあげく)(まあまあオサエテおさえて)

 

そんなわけで、こんなプランを作りました。

表紙の写真にラフスケッチをしてみただけのものですが、桟を生かして白壁に絵をはめ込むという計画です。3年でやりましょう。

 

ところが!!

このプランに対して、御住職が何と応えられたと思います?(難と応えた) 

そのとーぉり。私はぐうの音も出ませんでした。(いまお腹なってたやろ) 

ポンコツ頭の私に言葉をそのまま再現できませんが、こういうことをいわれたのです。

 

寺にはたくさんの襖絵や天井画があるが、そういう絵は好きではない。このガラスの涅槃仏を見て見なさい。

これが普通の涅槃仏だったら、ここに置かなかった。

ガラスの塊に単純な線を刻んだだけ、ここには作家の「頭」の中にある仏がない。そこがいいのだ。

私が欲しいのは作家の思い描く仏ではない。誰もの心の中にある仏。(つまり誰にでも自由に仏の姿を思い描ける像ということでしょうか)

 確かにこの涅槃仏は、ガラスのかたまりに子供の落書きのような線が刻まれているだけ

 見ようによっては大きな目のクジラのようにも見えます^ね^

 

10年間展示してもらったのは、あなたの絵が(はい?)丸や四角、訳の分からんものを描いていたからで、これが当たり前の仏さんの姿だったら、即中止だった。(そういえば、そんなこと仰っていました、ハイ今思い出しました)

襖絵はいらんのですよ。

 はっと、私は思い出しました。

箱の絵を描き続けておりました頃、ある人が私の絵を評して「星の王子様」の話しをしてくれたのです。

王子様が子供にゾウの絵を描いてくれと頼まれます。ところが王子様がどんな絵を描いて見せても、そうじゃない!(ゾウがかかっています^よ^)と納得しません。そこで王子様は箱の絵を絵描いた。「この中にゾウが入っているよ」と言ってやると子供はやっと納得したという話。

 

そうか、私は箱から龍を出して見せてしまったんだと・・(これ、和尚様を子供扱いに)(してないしてない)

 

空を描くとえらそうに言っておきながら、枠の中に収めた龍を示すという愚かさを御住職は厳しく指摘されたということです。

 

 

 

 

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邂逅展 その後2

2018-01-24 | 展覧会

 

伊勢志賀山流五世宗家 志賀山登羅さんの舞踊を観てきました。

邂逅展を主催された小倉先生のお誘いを受けて、伊勢志賀山流の舞初め公演を観てまいりました。

邂逅展ギャラリートークの折に、ご自身がモデルとなった絵の前でポーズをとって頂いた志賀登羅さんの写真。

この時私は思わず声を上げておりました。素からポーズに入られる瞬間の、まるで空間を切り裂くような緊張感に体が感応したのです。

 

その登羅さんの舞台が観られるのは何ともありがたいことで、様々想像をめぐらしつつ出かけたのですが、ギャラリーの会場で感じたものがはっきり見えた気がいたしました。

 

会場の撮影は禁ですので、舞台の様子は映像でお見せできませんが、パンフレットから志賀山登羅さんの舞姿をごらん下さい。

 

 

パンフレットで目を引いたのは、志賀山には、他の流派にはないナンバ歩きの振りがあるということです。

ナンバ歩きというのは(右手右足)(左手左足)をセットに前に出しながら歩く方法で、古代人の歩き方と言われています。竹馬に乗ったときの歩き方、ラクダの足の運びと同じ歩き方ですね。

現代人の歩き方は(右手左足)(左手右足)と交互に前に出す歩き方で、これは体幹をねじりながらの歩きとなりますが、ナンバ歩きは体幹が揺れないため安定した移動が出来ます。そのため無駄な体力を使わない合理的な歩きと言われています。

実際には古武術などの体術の中に残っており、忍者の気配を消した歩き方などいろいろあるようですが、私たちになじみ深いのはお能ですね。

ナンバ歩きの振りが残っているというのは、つまりお能を起原にした最も古い舞踊を受け継いでいるということなのかもしれません。

 

今回この古代の動きを舞踊という形で見せていただくことで身体と空間の関係を強く意識させられました。能では物語が主で気付かなかったのですが、舞踊はまさに体の動きによる表現。私の中で意識が逆転したのです。

舞踊。それはいわゆるダンスとは違うということが分かりました。

その違いというのは体と空間の関係にあるのです。

ダンスは空間の中で身体を表現しますが、この伊勢志賀山流の舞踊は、身体で空間を動かすということです。つまりその表現は空間と身体の一体感を作る表現だと感じたのです。

その根幹に、お能と同じ古代から伝わったナンバの動きがあると理解できました。

もちろん神ではありませんので、すべての動きにそれが出来ているという訳ではありませんが、空間と同調した身体表現の息をのむ瞬間、身体と空間の境界がなくなって心に迫ってくるものがあります。私には初めてみる全身が空間化するすごさを感じました。融けてなくなるというのではなく、身体が空間の主人となって震わせるという方が適切かもしれません。

期せずして、まかこさんから頂いたコメントに感銘いたしました。抜粋して紹介します。(いつも感謝するばかりです)

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私も伊勢志賀山流お家元の
邂逅展でのお写真を拝見いたしましたが、
凛たる精気みなぎるお姿に、感服いたしました
まるで気流を呼んでいらっしゃるようです。

ところでわたくしは、
現代の歌や踊りの原点は
古代の神事だと感じています。

全身全霊を天に空け渡し、
歌い踊り恍惚状態で神々と交流、
神々のお言葉を民に伝えるシャーマン!
日本では巫女さんですが、
天皇もシャーマンでしょうね。

伊勢志賀山流にも伊勢が見受けられますが、
伊勢神宮の伊勢は、古代ヘブライ語では、
「イーシュ」と発音
「救い主」という意味だそうですよ。
また人を救う医師、医者も発音が似ていますね。

そもそも伊という文字は象形文字で、
人が手で神の杖を持っているところの象形
伊は神の意志を伝える
聖職者を表しているそうです。(まかこさんコメントより)

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私が頂いた教訓は計り知れません。

空間は体現できる。

それは絵画も同じこと。それを舞踊の形で見せていただいた。そんな思いでいっぱいです。

ありがとうございました。

おかげさまで、 鉛筆による描線が空間に変わる具体的なイメージをつかむことが出来ました。その尻尾をつかむことが出来たような気がいたします。

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邂逅展 その後

2018-01-21 | 展覧会

気流を呼ぶ龍 S40 号

 

邂逅展に向けて描いた龍の絵が最後に行き着いた絵ですが、

邂逅展に向けて(気流に乗る) で紹介しましたように、この絵は全興寺住職から「空気」を描きなさいと教えられ、その答えとして、十数年後にようやく描けた作品でした。

「空気」を描く試みは、何年かけても実現せず、半ば挫折して止まってしまったままでした。

それが龍を描くことで、偶然にも解決したのです。

死んだままになっていた空間を、龍が生き返らせてくれたと言っていい。空気が描けた。自分でそう思える作品になりました。

 

邂逅展の会場で何度も作品を見ていて、ようやくこの作品なら住職にお見せできると思えるようになったのです。

 

会期を終えて、作品を全興寺(せんこうじ)に持ち込みました。

御住職は快く迎えてくれまして、私が作品の梱包を解くと一瞬様子が変わりました。

この作品はいいというのです。

「空気から龍が出たのか、それとも龍のまわりに空気を描いたのか。」

まるで禅問答のような質問、

「龍は空間の化身です。」

「確かにそう見える」

そう言って、この絵にちょうどいい場所がある。持ってきなさいと案内してくれました。

そこは涅槃堂でした。

御住職は現代美術にも憧憬が深く、ここに安置されている涅槃仏はガラス造形の作家が手掛けた総ガラス製の半抽象的な涅槃仏なのです。上にあるガラスの伽藍は、一粒が般若心経の言葉を表しているのだそうです。

 周辺には水が張られ、時と共に色が変化していき、波紋が仏のまわりに揺れます。

この涅槃仏が安置された前に、座敷が作られており結界の向こうは白壁の畳部屋となっています。御住職がそこに龍を架けるようにうながします。

S40号のキャンバスが、まるで測ったような寸法で壁枠に収まりました。

「今朝この部屋を掃除したとき、こんな予感がしました」と一緒に見ていたお内儀さんが不思議そうに言われる。

「水墨画では描けない絵ですね」と御住職が見せたい人がいると呼んでくれた檀家衆。

 

そんなわけで、ありがたいことに作品はここに居場所を与えられました。

 

大坂平野 全興寺 

近くにお越しの折には、是非お立ち寄りください。

全興寺は平野郷の町おこし運動の中心で、境内はよくテレビでも紹介されるユニークな施設が多く、御住職は自ら子供のために紙芝居をしたりしながら地元に愛される開かれた寺を目指しておられます。

涅槃仏も龍の絵も境内に開かれている涅槃堂にあって、靴をはいたままどなたでも自由に観覧することができます。

 

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赤井正人展ことよのほら

2018-01-09 | 展覧会
作品の前で作者と座る
 
 
土曜日のことでしたが、ネットで応援していただいている
Hyoguten Okudaさん
が邂逅展にこられて、赤井正人展・ことよのほら を紹介していただき、
帰りに立ち寄ろうという私たちを案内までしてくれました。

案内状で見るより、作品はるかに素晴らしく、

私の鉛筆空間と共通する温かい闇を感じました。

テンペラを水で描くのだそうで、暖色系の黒が山の

言霊を呼ぶくぐもった声のように感じます。

天川村の山奥で生まれ山で育ったものとして、

もののけと神と人間をひとかたまりに表現するのだと

私には受け取れた作者の言。

心惹かれて、作品の前で座らせて欲しいとお願いしたら、

自分も横に坐ってくれて、思わぬツーショットとなったのが、

上の写真。

 

こんな絵を見せられると、

創作意欲が疼いて、たまりません。

 

Gallery OUT of PLACE 

赤井正人 ことよのほら

 

●会期
2017年12月23日(土)~2018年1月28日(日)

木曜日 - 日曜日 12:00 - 19:00開廊 
※月火水 休廊

 
 


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邂逅展 オープン~クローズ

2018-01-07 | 展覧会

新年ももう二日となりますが、

6月より準備してまいりました邂逅展が今日オープンしました。

以下日記ふうに、この記事に書き加えて行きますので、邂逅展の雰囲気をお楽しみ下さい。

(1月2日)

雰囲気だけですが、画像です。

 

 

 

 

 

 

 

ギャラリートークの一こまです↑

のしてんてんソワカ

 

(1月3日)

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孔はやがて空になる

目の前の空気を指して”何もない”と呼びます。

その先の多量の空気を大気と呼びます。

その奥にある青を空と呼びます。

私たちは知らぬうちに空に触れ、

動かしさえしているのでしょう。

私たちの振る舞いは空の動きの一部であります。

 

邂逅展最年少、20代の葛本康彰氏の

パンフレット「孔はやがて空になる」より

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私が60年かかった達観を彼はわずか7行の詩にまとめ上げた。

なぜこんな詩が?

その問いに、山端を見回して自分は空の底にいると思ったと答えてくれました。

私はヒマラヤで観た体験を思い出し、強い邂逅の意識を持ちました。

 

お気に入りブログ

風月庵便り の自閑さん、

JFK-world 世界の撮影取材地トピック のJFKさんがやって来てくれました。ネット上のつながりが、現実の出会いとなったその驚き。

電子のつながりが現実の邂逅となったことは、踊りあがる喜びでした。

のしてんてんソワカ

 

(1月4日)

なんとなくAI(人工知能)の話題になり、将棋界のみならず、人の査定にまで人間にとってかわろうとしているAIに対し、我々絵描きはどう対応すべきなのかという話になりました。

単純なことですが、AIに真似されない絵を描くしかないということで、その場は納得したのですが、

さて、AIが真似できない絵画とはどんなものなのか、

意外に難しい問答となりました。

改めて、じっくり考えてみる価値はありそうです。

 

(1月5日)

 ギャラリートーク風景

ついでの訴えということで、地球の爆弾すべて花火になれ!本文と英訳をプリントして参加者全員にお渡ししました。

今日のサプライズはなんといっても

 日本舞踊伊勢志賀山流家元がご自身がモデルとなった絵の前でポーズをとって頂きました。90歳を超えるとお聞きしましたが、びっくりする身体の切れ味に心が吸い込まれてしまいました。

そんな舞踊家との素晴らしい邂逅が心に残りました。

 

(1月6日)

一階喫茶室に展示している はせがわはっち さんの絵本の原画

私も絵本をかきたいと思っているのだが、かわいい絵が描けなくて諦めていると打ち明けたら、その考えは大きな間違いだと指摘されました。

龍の絵が、そのまま絵本になるのですと、思ってもみないことを教授されました。

子供対象だけとは限らない

そんな話を聞いているうちに、私の絵でも絵本になると思えるようになりました。

はせがわさんの出会いもまた邂逅展の出会いと思います。

 

ここに書き切れない邂逅の驚きと喜びに

ありがとうございます。

のしてんてんソワカ

 

(1月7日)

最終日、邂逅展は様々な出会いを実現して終わりました。

今日一番うれしかったことは、恥ずかしげもなく五次元を語り合える若い作家と出遭いの会話を交わせたこと。

まっすぐに語り合える仲間としてつながる予感がうれしい。

一人は文章からつながり、一人は創作からつながる。

そんな可能性を最後に残してくれた邂逅展でした。

明日に向けて、今のこの心眼を拓く糧といたしましょう。

 

のしてんてんソワカ

 

 

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邂逅展に向けて(気流に乗る)

2017-12-27 | 展覧会

2002年 ギャラリーリボン 新風景展より

 

今回はまず2002年から描き始めた、空気を描く作品からお付き合いください。

物質を描かない空間だけの絵は、大きさをもたないために、キャンバスを何枚もつなぎ合わせて増殖させることが出来る。そんな試みから、十数年前にHP上の体験コーナーを作りました。

これは下の増殖する絵画をクリックしていただくと体験画面に飛んでいくのですが、オレンジ画面の9×9マスの(正か逆)をクリックしていただくと、下のグリーンの画面の3×3升マスに画像の正逆が並んでいくように工夫したものです。作成時から経年して画像のあいだに隙間が出来てしまいますが、9枚の空間絵画を回転させたりして自由に組み合わせを楽しんでいただくもので、お時間がありましたら、遊んでみてください。

 

増殖する絵画

この増殖する絵画は、前回にも書きましたが、それ以上なかなか進展させることが出来ずに止まったままだったのです。

もちろん、出来る限りの試みをしました。

2003年ギャラリー由芽では、画廊の壁面を埋め尽くしたり。

組み合わせによって、さまざまな表情になる壁画として展示したり、

 

2009年の文字を取り入れた空間絵画などです。

2009年ギャラリーPaw

空気だけの空間に、丸と文字を配することで、物質ではないが物質に近い形態を画面に持ち込もうとしたのです。文字は創作文字で読めそうで読めない文字。それが一線を越えない工夫でした。

しかし結局空気を描くという納得が得られないままだったのです。

 

そもそも空気の絵画は、10年間お寺の境内で作品展示の修行をさせていただいた全興寺住職から与えられた課題でした。

 

私を野外展示の作品の前に呼んでこう言われたのです。

「空気を描きなさい」

物はいらない。空気だけかいてみろと真顔でした。

 

10年間の修行が終わる最後の個展2008年から10年を経ようとしている今、ようやくの思いで龍がその空気を呼び寄せてくれた気がしてなりません。

 

邂逅展開催まで、ぎりぎり間に合った気流を呼ぶ龍です。

龍の背景に、かつての空気を描こうとした描写を試みたのですが、龍の効果が思いのほかあって、今まで納得できなかった空気感が動き始めて気流が観えるようになった。見ていて自分がうれしくなるそんな絵になってくれたのです。

  ←クリックすると大画面でご覧いただけます。

この絵と出遭って、私は初めて空気が描けたと思いました。

これなら和尚さんの前に作品を持って行ける。10年の修行からなお10年かかっためぐりあい。

龍に合掌したい気分です。

 

 

 

 

 

 

 

 

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邂逅展に向けて(間崎氏の案内状)

2017-12-23 | 展覧会

邂逅展・間崎氏の案内状

 

それぞれが、独自の案内状をつくってお誘いをする。最初の会合で決まったことでしたが、参加人数も18人に増ました。

さすがいつも全体を見ている間崎さんらしい案内状に感心いたしました。

参加者のメンバーがこれで分かります。

私の作った案内状とは大違い。反省・・・

 

 

さて、私の作品の方ですが、龍の絵がまだまだ進化中です。

のしてんてん絵画の中を動き回っておりまして、私が抵抗しなければ勝手に自分の棲家を見つけていくようです。

 

現在龍がとどまっているのは、かつて描いていた作品で、中間トーンをモチーフにした作品群。のしてんてん絵画としては亜流の世界で、これ以上の進展がなくそれっきりとなってしまっていた煙のような作品が気に入ったようです。

 

2002年、のしてんてん新風景展(空間のみの作品実験)展示作品 ギャラリーリボン 

かつて、作品としてしっかりとした価値を与えられなかった、中途半端な作品群です。その先に何かありそうな気がしていましたが、結局その意味をひきだすことが出来なかった半ば挫折したもの。意外にもそこに龍がやってきた?

未知数ですが何も考えず、ただ動く龍を追っかけて制作中です。

もしうまく棲みついてくれれば、15年前の挫折した仕事にも意味があったと言えるのですが、まあとりあえずよけいな考えは消して己になりきる。それだけが成功の鍵と自ら言い聞かせております。

 

 

 

その前に通過した龍の姿を紹介します。

 

この作品は、5年ほど前に描いた箱の絵です。両側の爪を隠せばその当時の作品になります。

私のメインテーマである箱を使って、闇から這い出てくるイメージで空間を表現しようとしたものでした。その時には龍など思いもよらなかったのですが、私にやって来てくれた龍は、どうやらそんな表現が好きなようです。

この絵は、両の爪を描き加えるだけで、かつて私の表現したかった闇の広がりが、さらに有機的に実現した一つの成功例となりました。制作時間5年?

 

ほぼ同じ考え方で実現した龍とのコラボ作品

(2011年作品と龍のコラボ)

 

この作品も2011年個展(LADSギャラリー)に描いた螺旋に龍がやってきたのです。

今回の龍の制作は、心底自分の絵画について考えさせられました。

そのことは、今制作中の作品が完成してから、その作品を見ながらお話ししたいと思いますが、私の中の必然が割れて五次元が生み出されるような、そんな実感があります。

 

邂逅展まで、あと2週間・・を切りました。

 

 

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邂逅展に向けて邂逅展(のしてんてん龍)

2017-12-07 | 展覧会

ひもと螺旋のイメージで描いた作品

 

この作品はのしてんてん絵画として、行き詰っていた作品でした。

意識が先行して、画面をち密に描こうとすればするだけ、作品が小さくまとまってしまうと言えばいいのでしょうか、

論理的な要素が強すぎて、一つの限界を感じていた作品です。

 

行き着いて究極に来たら忘れ物に気が付いた感の作品で、私の中ではこれ以上手の施しようのない悔しい駄作としてアトリエに置いたままでした。

 

何かが足りない。動きがない。

螺旋の、波の運動を描きたかったのに、描いている最中には、あれだけ自在に動いていた螺旋なのに、画面に定着してしまうと動かない寂しい絵になってしまいました。

 

けれども私の意識の中には、いまだに生きいきと動いているこんな(と言っても皆様には見えませんが)世界がある。

ただそれを表現出来ないで中途で固まったまま動けなかったのです。

 

ところが、

壁に裏向けて置いていた作品を再び目にしたとき、明らかに私の意識は変わっていました。

それをどう表現したらいいのか、言葉では難しいのですが、行き詰って息詰まっていた意識が動き始めたのです。

 

龍が踊っていました。

箱のまわりの死んだような闇の空間は龍の棲家だったのです。

 

どん詰まり感がウキウキ感に変わって、空間に遊ぶ龍の姿に見飽きることがありません。創作のもっとも深い至福感が龍と共にやってきました。

私はごく自然に龍を描きはじめました。ただ見たままを描けばよかったのです。

それがこの絵↓

 

 

 

 

ようやくやって来てくれたのしてんてん龍。

何よりそのおかげで、螺旋が動きはじめました。物質と空間を取り結ぶ大きな円相の流れが見えるようになったのです。

 

こんな書き方はNGだとは分かっていますが、一観客としての目から、解放された自分の気分をあえてかいてみました。

 

 

 ---------------------------------------------------

 

 

 

 

 お正月というとんでもない会期で行う邂逅展ですが、奈良まちにある大きな画廊です。一つの展示室に11人の作家が、思い思いに自分の個展を同時開催する。そんな新しい試みでもあります。

私は龍の成長過程をそのまま展示いたします。

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斉藤高志展(画廊ぶらんしゅ)

2017-12-01 | 展覧会

一番気に入った作品。屏風仕立ての大作です。

 

 

染色作家、斉藤高志さんの個展に行ってきました。

会場に入ると、屏風仕立ての作品が目を引きます。

中央の面が赤色で染色されていて、赤い毛氈が映えて不思議な感じがします。

染色独特の柔らかな深みに心癒されました。

ちょうどご本人がおられて、染色への思いなどを聴かせていただきました。

会場にさりげなく活けているのは辺塚(へつか)ラン。

宮崎県の野生ランだそうで、作品にもとりこんでいると聴きました。

色の柔らかさを聴くと、

染色は立体だという意外な答え、経糸と横糸の交差する立体を色づけるのだと聴いて納得。そう思ってみると、一層色がしみこむように感じました。

 

斉藤高志展12月3日まで

 

 

 

 

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邂逅展に向けて(宇宙龍2)

2017-11-29 | 展覧会

宇宙龍 未完 (S30号)

 

まだ完成とまで行きませんが、あとは少々の手直しと仕上げを残すのみとなりました。

 

 

前回記事

邂逅展に向けて(宇宙龍)

この試作から全面的に描き直し、

特に目を、この龍にとってどうしても必要な眼差しは何かを意識して描きました。

 

前回、モジリアニの目についてのエピソードを紹介しながら、龍の眼差しについて考えてみました。

私に向けられた眼差しは、目の向こうに他者がいるのですね。

それは、他人にみられている自分の姿を意識させるのです。

完全な個室、

たとえばトイレにいるとき、私たちは他者の目を意識しませんね。すると同時に、私たちは今自分がどんな姿をしているか考えもしません。自分に対して無反省にくつろいでいられます。

しかしその場所が人目につく場所だったら、突然私たちは自分の姿を意識しますね。

自分は今どんな格好をしているのか、どんなふうに見られているのか、笑われるのではないかと、自分を反省しはじめるのです。

眼差しにはそんな大きな意味があるのですね。

 

龍からやってくる眼差しはどうあるべきなのか、作家としてのお前はいったい何をそこに求めているのか。その思いなしに既成の目でごまかしている。

これが私の自問自答でした。

 

のしてんてん絵画は、風景画ではない。

それは私の心の中を描いたものなのです。

けれども、安易な龍の目は、風景画に留まっている。

それがこの絵のちぐはぐ感なんだ。

 モジリアニの目を思い出してから、ようやくそのことに思い至ったのです。

 

じっくりとモジリアニの目を見てください。

この目は、どれだけ眺めていても批判的な眼差しはやってこない内観する目です。

 同時代のキスリングの作品と比較しても

  

 その違いは歴然としていますね。

 

黒いまなこを消しました。

しかしめしいた龍ではない、内観しながら眼差しを向けてくる目。

そんな意識で描いたものです。

 

このブログでは、いろいろ書いてのしてんてん(私の心の世界)を発信していますが、言葉では何とも言える感がいつも付きまとっています。

その意味で、絵はそのまま今の私を表してくれます。

作家として信じる唯一のことですね。

成功も失敗も、謙虚も思い上がりも、すべてこの一枚に現れていて、

それを人前にさらす勇気が作家というものなのでしょう^ね^

感想を頂けたら幸いです。

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 お正月というとんでもない会期で行う邂逅展ですが、奈良まちにある大きな画廊です。一つの展示室に11人の作家が、思い思いに自分の個展を同時開催する。そんな新しい試みでもあります。

私は龍の成長過程をそのまま展示いたします。

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邂逅展に向けて(宇宙龍)

2017-11-17 | 展覧会

 

 宇宙龍 試作

 

邂逅展(2018年1月2日~1月7日)に向けて龍を描くと思い立ち、のしてんてん龍を完成させようと、今、少しずつ階段を上っております。

どうしたらのしてんてんの世界に龍がやって来てくれるのか、

押しなべていうとそんな想いと感じで描き続けて11月も半ばになりました。

 

今回の試みは、素粒子を意識して龍をのしてんてんに招き入れようという作戦です。

今年の1月に完成させたのしてんてん絵画の最先端。

それが2月の ナウイズム旗揚げ展 として美術館で展示できるありがたい機会を頂けたのです。

そして嬉しい書評もいただきました。新聞書評

のしてんてん絵画の一つの区切りとして、ナウイズム旗揚げ展がありました。

その後を受けての邂逅展に、のしてんてん絵画の最先端を飛び越えて龍がやってきたわけですね。

しかしまだこの世界の住人となってくれない。円相が完成しないわけです。このままでは龍はただの気まぐれイラストです。のしてんてんの世界で息をしてくれない。

 

いろいろ想い巡らせるうちにようやく「龍を素粒子で描く」という発想が生まれてきました。

この思い付きははうまく行きそうです。

龍の鱗を素粒子にする!

さっそく試作を描いたのが見出の画像です。

 

しかし・・・なんとなくよさそうなのですが、心が完璧に響きません。

何が「良し」と言わせないのか。

何日も作品とにらめっこをしておりました。心がふるえるほどの現実感がない。子供っぽい龍のイメージが邪魔をしてのしてんてんの世界に入っていけない。

そんなある日、ふとモジリアニを思い出したのです。

 

まだ私が20代の頃でしたが、モジリアニについての論文を書いたことがあります。

タイトルは「モジリアニの目」

モジリアニはなぜ、この不気味な目を描いたのかというのが主題でした。

この絵は1918年に描かれた「青い目の女」で、1920年の1月には結核でなくなりました。35歳という若さです。この時期のジャンヌ・エビュテルヌとの恋愛は特に有名ですね。

この青い目をエビュテルヌの肖像に何度も使っています。

まなこを塗りつぶした青い目は、エビュテルヌを描くために必然的に生み出されたものだったというのが論文の結論でした。

モジリアニは愛するエビュテルヌと完全に一つになりたかった。そんな絵を描きたかったモジリアニは、実際に絵筆を握りながら、「目」で行き詰ってしまったのではないか。

なぜなら、目を描けば意志を持って自分を眺めてくるエビュテルヌに向かいあうことになる。モジリアニは彼女を愛しながら、一方で決して彼女を完全には知り得ない(理解できない)ことを知っていた。その知り得ない個性が目を通して自分を見つめてくる。他者のまなざしを痛いほど体験したのではないだろうか。

そんな想いが、若い芸術家の純粋さとつながって、愛の落とし穴にはまってしまったのではないか。自分と恋人を100%重ねあわせるのが愛だと思い込んでしまった。

その矛盾を抱えたモジリアニは己の愛の証しとして、目(まなこ)を青色で塗りつぶしたのではないだろうか。

これがその時の大まかな論旨でした。

モジリアニは、その結果として内観する仏のような目を手に入れた訳ですね。

 

龍を見ながらそのことを思い出したのです。

この絵は、どこか中途半端に感じる。そう感じるということはダメということなのですが、もしかしたら目が原因なのかも知れない。

40年も前の考察が今につながった一瞬でした。

まなこをいれることで、龍が個性を持ち始める。すると龍は勝手にのしてんてんの世界から飛び出してしまう。

単に龍を描くというのならそれでいいのかも知れないが、

私が描きたいのはのしてんてんの世界。自分の心が喜ばないのなら意味はない。

 

そんなわけで、やっと次のステップが見えました。

ただ今制作中、作家にとってこの時期が一番幸せなのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

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邂逅展に向けて(龍の創造2)

2017-11-10 | 展覧会

のしてんてん「伏し龍」(部分)

 

アート(表現)とは、自分のトータルな現れという考え方をしていまして、絵を描くということと生活になるべく垣根をつくらないようにしています。

つまりこのブログも同じことで、そのすべてが私のアートと心得ております。

ところが今回、このブログ発信はけっして一方通行ではないという事実にあらためて気付かされました。

こんなに深く教えを頂くことになるとは思ってもみないことでしたが、そのことで私は新たな気付きを頂きました。

それは私のアートという考え方がいかにも小さかったということです。

自分一人でやっているアートなんて存在しない。自分一人で成長することなどないということですね。

私はその思いと共に、私の体験した感動をお伝えしたいと思います。

それは前回の記事

邂逅展に向けて(龍の創造)

で寄せられたUnknownさんのコメントによるご教示です。

この絵から端を発したUnknownさんのご指導をここに掲載して心より御礼申し上げます。

私はこの絵が狩野信政の真似に過ぎないと少々弱気になって記事を書いたのですが、それに対してコメントを頂いた、次のやりとりです。

Unknownさん--------------

『作られたものは、作るものを作るべく作られたのであり、作られたものということそのことが、否定せられるべきであることを含んでいるのである。
しかし、作られたものなくして作るものというものがあるのではなく、作るものは、また作られたものとして作るものを作って行く。』

のしてんてん--------------

かつて具体と呼ばれる吉原治良率いる美術集団がありまして、その会の合言葉が「ヒトの真似をするな」ということでした。
それは結果、己を最大限に引き出せということだったのですね。

作られたものは作者を離れて公のものになる。Unknownさんのおっしゃるように、創造は人間の財産として積み上げられて行きますね。それが人の歴史というものかもしれません。

すると作る側に立っているものは、樹の生長点のようなもので、常にないところに身をひろげて行かねばならない。そこに具体の理念の素晴らしさがあると私などは思っております。
成長点が、すでにあるものの真似をするだけでは樹は細いままで成長しないですよね。

私が密かに思っているのは、真似を己の養分として新しい芽を育てるということ。

そしてそれが、Unknownさんのいわれてることだと理解しました。

龍を描きだした以上、最大限私の中で生まれる龍を見てみたい。そんな人生の楽しみ方、ワクワク感です^ね^

Unknownさん-------------

龍は、のしてんてんさんの「発心」です

のしてんてん------------

発心から諦観に向かう
それが実現するかどうかは分かりませんが

発心にはその志向性が含まれていますね。

いわば指向性の旅ということでしょうか。

Unknownさん----------

作られたものが、作るものとして、この
塞き止めようのない成り行く勢いの中で
作られたものとして、作っていく。
成り行く勢いの中で、そうならざるを得ないこととしての「発心」ではないでしょうか。

のしてんてん------------

成り行く勢いの中で、そうならざるを得ないこと。

そして他方、そうなることを願うこと。

作家はこの二心で揺れ動きます。

願うことはいわば能動態であり、思いが強くなればなるだけ「作るもの」としての比重が大きくなる。

しかし一方、そうならざるを得ないことは、中動態の土壌ですよね。

そう考えると、「発心」とは中動態への入り口ということでしょうか。

生まれてくるものを無条件に受け入れ、心をもって判断する。

心が喜ぶか、喜ばないか。

それだけです。

Unknownさん----------

「真似をするな」は課せられたこととしての強制であるわけですから、これは受動態として解釈できます。
内発としてではなく、外から与えられたものです。
発心は中動態です。
喜びに変わる一つ前です。

のしてんてん----------なるほど!!

発心とは内発であり、
内発に従うことが中動態。
そして一番重要なことは、その先で出会う喜びだけが本物の心の喜び。
すなわち菩提ということですね。

真の内発には真似も何もない。たとえ同じ絵を描いても内発から出たものは己。

逆に真似をしないという意識で描いたものは、いかに独創的でも己とは遠い。

理屈はいらない。ただ発心に従えばいい。

そういうことなのですね。

一枚、眼から鱗が取れた気がいたします。

ご教示に心より感謝申し上げます。

具体を越えねばならないのですね。

Unknownさん----------

菩提の手前には修行があります。
修行の中においても発心があります。

のしてんてん----------

中動態で自分を見ると世界は一変します。
それは菩提に続く道なのですね。

けれど、気付く気付かないにかかわらず、その思考は簡単に能動態にとって代わる。
それだけ体にしみこんだ思考方法なのだということを実感しています。

修行とは、己の中にあるこの思考方法に気付き続けることではないでしょうか。

そうすることで発心を促し続ける。

ありがとうございます。

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Unknownさんとのやりとりはここまでですが、素晴らしい教訓でした。

真似をするしないの問題ではない。

内発するものをいかにそのままの姿で出し切るのか、その後の私の創作に大きな力となりました。その第一号の作品を、感謝をこめて掲載いたします。

まだまだ課題はありますが、記念すべき第一歩です。

Unknown様、あらためて御礼申し上げます。



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邂逅展に向けて(龍の創造)

2017-10-29 | 展覧会

今までの のしてんてん作品

 

新春の邂逅展まで、いよいよあと2か月となりました。

のしてんてん龍は、まだ道半ばですが、少しずつ進んでいる実感はあります。

邂逅展に向けて(一歩進みました)

で闇と龍が空間をつくるという理解を得ましたが、登らねばならないステップは常にその上にあります。

今私がひっかかっている問題は、今までの のしてんてん絵画から跳び出して龍を描きだしたことそれ自体にあります。

今までの絵は、表題の作品のように「私の心象風景」であって、どんなものを描いても比較するものは何もないのですから、オンリーワンであり得ました。

ところが龍はそういう訳にはいかないということが段々に分かってきたのです。

ご存じのとおり龍は想像上の生き物で形に決まったものはありませんから、好きな姿を思いうかべればいいようなものですが、それが案外難しいということが今更ながら分かってきたといえばいいでしょうか。

想像上の生き物でありながら、人間の頭脳に生まれた歴史は長く、そのイメージはもはやゆるぎない実存と言っていいでしょう。

そしてそれは、いかに人は(自分は)既成概念のかたまりだったのかという自虐的な驚きとつながります。

進むにつれて、今までのように心に思い浮かんだ龍を描けばいいと思っていた安易さが見えるようになりました。

つまり、恥ずかしい話ですが、

心のままに描いた龍は、のしてんてん龍ではないことに気付かされたのです。

それはかつてどこかで見た誰かの描いた龍の記憶の残片でしかないということの発見でした。

これは今までに体験したことのない創作上の大きな壁だったのです。

眼、爪、鱗、・・・・

ぼーっとして描けば、それはかつてどこかで見た龍の模倣となってしまう。恐ろしい世界だとあらためて気づかされたわけですね。

逆に言えば、すでに得た龍の姿で満足して深く考えないうわべだけの龍を描いているということです。

描く以上は、この世に二つとない龍でなければ意味はないわけですね。

既成概念を捨て、真っ白な自分に還って龍を描く。

方法はそれしかないのですが、

既成概念は、手袋をてれこに使うことに気付くだけで5年もかかる思い込みの心だと理解して、これではいけないと心の芯にようやく火がともったように思います。

まずは己の欠点を知ったことを進歩と考えて、次なる作品の習作を描いてみました。

真実をつかまえようと身構える伏し龍。

規則正しい魚のような鱗を捨てようと描いたものです。

(サムホール)

 

少し自由になったと喜んだ次の日、

オイオイ、待てよ、このウロコ、この姿勢、狩野信政の天井画じゃないの?!

明らかに、信政の模倣ですよね。

あの世で笑う信政の顔が見えるようです。(どんな顔か知りませんが、面白いもので頭脳は勝手にそんな顔も創り出すのです。)

のしてんてん龍の道は厳しい・・・・というお話でした。。

 

 

 

 

新年の正月初詣、今年は奈良にいらっしゃいませんか。

ついでに邂逅展というスケジュールをお勧めします。

一度に11人の個展を楽しむことが出来ま^す^。^

 

邂逅展に向けて(龍の創造2)

 

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