のしてんてん ハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

心はどこにあるのか

2017-11-27 | 心の旅

心、クオリアの世界

 

物質の世界は裏切らない

水は100度になったら沸騰し

0度から下がると凍りつく

 

たとえ90度で沸騰しはじめても

それは気圧との因果関係が

裏切りでないと証明してくれる

 

しかし心はどうだろう

愛を注げば必ず愛が返ってくるという

そんな法則はどこにもない

 

裏切りは日常茶飯事

信頼と愛は

それゆえに至極の宝となるのだ

 

心の世界は

信頼から成り立っている

信頼が揺らげば世界が揺らぐ

信頼を失えば世界を失う

 

それは法則ではない

信頼だ

 

信頼すれば心はそこにあり

疑い、自己否定は心を際限なく卑小なものに変えていく

 

心はどこにあるのか

それは場所ではない

信頼と愛の中にあるそれが心というものだろう

 

物質は場所

心は愛

 

心をとことんまで広げてみよう

あなたは

どこまで広い心を実感できるだろうか

どこまで深い心を体験できるだろうか

 

 

 

 

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「クオリア」との出遭い

2017-10-22 | 心の旅

心を「質」として理解する最新の脳科学

この卵を見ているあなたは今いる自分に気付いていますよね。思考が働いたり、何も考えず見ていたり、何かを期待していたり、・・・今この瞬間、あなたは何かを感じているに違いありません。それは眠りによって中断しますけれど、

この感じは、次の眠りにつくまでの間、ずっと続いていますね。この意識が続いている感じを「心の質感」というとらえ方をして「クオリア」という概念をつくり出したのが、脳科学者茂木健一郎先生です。

今まで、喜怒哀楽を一つのものとして考える概念がありませんでした。個人個人すべて違う表情を見せる感情は科学の対象外でした。それをあえて研究するための概念、つまりすべての感情や心をひとつのテーブルの上にのせて考えることが出来る、そんなテーブル(概念)をクオリアと名付けたのです。

 

私が「クオリア」に出遭ったのは、たまたま行った図書館の大活字本コーナーでした。

そこで本を物色するうちに、「脳と仮想」という背表紙に目が留まり、手に取ったのが茂木健一郎先生の著作でした。

読んでみると、心の問題を脳科学の立場から説いたもので、実に読みやすく私の提唱する五次元宇宙論と相性が良くて、まるで歌うように読み通しました。文体が論文というより文学的だったのも読みやすい理由でしたが。

自分の手元に置きたい本でしたので、早速ネット購入しました。

 脳と仮想

そこでクオリアという概念に出遭ったのですが、それを詳しく説明する文書を別の本から見つけましたので転載します。

 

ネガティブ脳とポジティブ脳によって人の行動は大きく変わってくる。しかしこれらはあくまで気持の問題であって、科学的に解き明かす土壌がなかった。

そこで1997年「クオリア」という概念を発表した。

という意味の説明があって、次の文です。

***

「クオリア」とは、もともとは「質」を意味するラテン語です。私たちが心の中で感じる、さまざまな質感。それらすべてを、脳科学の世界で「クオリア」であると位置づけたのです。

たとえばチョコレートを舌にのせた時のまろやかで甘い感覚。トーストをかんだ時のサクッとした感覚。こういう感覚を「クオリア」と称します。また味覚だけでなく、初めて入ったレストランのワクワクした感じ。昔の友人を思い出すことで感じる懐かしさ。これもまた「クオリア」なのです。

そしてこの「クオリア」は、実際の数値で表すことは出来ません。重さや速さといったものとはまったく異なるのです。たとえば甘さについても、果実には糖度というものがあります。同じリンゴでも糖度が高いほうが甘いわけです。

しかし、同じ糖度のリンゴでも、食べる人によって甘さは変わってくるでしょう。甘いと感じる人もいれば、すっぱいと感じる人もいる。また同じ人が食べたとしても、その時の気分や体調で味は変わってきます。恋人と一緒に楽しく食べれば、どんなリンゴも甘く感じるかもしれません。この、数値で表すことのできない不思議な感覚すべてが「クオリア」なのです。そしてこの「クオリア」こそが、現代の脳科学における最大のミステリーでもあるのです。

感動する脳 PHP文庫  茂木健一郎 「イメージトレーニングとクオリア」より

 

****

要するに、「クオリア」とは、私たちが心と呼んでいる感覚をひとつのものとみなして考えるということですね。

これは学者でない私たち一般人にとっても画期的な概念だと思います。1997年と言いますから、20年も前に提唱されていて気付かなかったのが残念ですが、それより出遭わせていただいた図書館に感謝いたしましょう。何よりこの1997年は「のしてんてん系宇宙」を自費出版した年というのも面白い偶然です。

クオリアは、夢を見ない完全な眠り以外の私たちの意識の世界を表す言葉なのですね。いえ眠りの無でさえ、クオリアと位置付けることが出来るでしょう。

ここから真っ先に理解できることがあります。

それは一瞬たりとも途切れないで私たちに寄り添い存在するものだということです。

するとこういうことがはっきり認識できるのです。

たとえば苦悩があります。

悲しみがあって、しかしその次はに喜びがやってくる。

この時悲しみと喜びはクオリアですが、その悲しみと喜びの間も同じクオリアであって、その間にクオリアが悲しみから喜びに変化しているのですね。まさに波のように。

つまり私たちの心は、クオリアであって、様々な感情は別々に生まれているのではなく一つのクオリアが変化しているだけなのです。

 

そうすると、心とは何かという問題は、クオリアとは何かという問題として考えられるわけで、個人の中で好き勝手に生まれている心であっても、クオリアを研究することで心を科学することが出来るという訳ですね。

 

何より驚いたのは、クオリアとは、のしてんてん系宇宙そのものではないのかと思えることです。のしてんてん系宇宙の世界が科学として語られる時が来るのかもしれません。

 

 台風の影響で雨がひどくなってきました。大きな被害がありませんように。

 

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命を頂く

2017-10-01 | 心の旅

感じるままにこんな画像を並べてみました。

 

何かを

 

感じて

 

頂ければ

幸いです。

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 まかこさんからこんな詩を頂きました^よ^

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コケコッコー殻も恵みの玉子かな 
殻も空も恵みの実


涙眼で地球の空見る手水鉢

悲しい鳥が飛んでいる

地獄の爆弾背負わされて


のどかなる草食む鹿の安らぎが
広がりますよう若草山から


真鹿子(まかこ)

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いつもありがとうございます。

上の写真は、

① 我が家で食したたまごの殻 たまごを描く

② 奈良公園で見かけた手水鉢 自分を好きになる

③ 若草山 奈良に行ってきました

④ 近所の秋 今はもう秋(一つの驚き)

⑤ お墓詣り 第一回「邂逅」展に向けて

の、それぞれの記事で使用した写真でした。

つなげてみると、新しい意味が生まれてくるのですね。

私も返歌を書かなくっちゃ。^ね^


という訳で、返歌出来ました


空となって殻はいのちを全うし
涙目は潤いを与える

大地に若草ありて集う真鹿子の群れ

稲穂にときありて
かわずもまた龍となりぬ

のしてんてんソワカ




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はじける瞬間

2017-09-03 | 心の旅

8月27日泉南市花火大会より

 

偶然撮れた花火のはじける瞬間、

この火の球はビックバンを連想させる。

 

なんとなく、ビックバンは宇宙の始まりだという知識が私にはある。私たちの宇宙はこうして始まったのだと。

 

爆発する力が内側からつきあがって盛り上がり、夜空を照らすほど光を放つ。その力は花となって広がっていく。

その姿はまさにビックバンであり私達の宇宙だと思えるのだが、待てよと思考が働く。

この花火をビックバンに例えるのなら、その背景にある空は何なのだろう。

 

宇宙科学に耳をかたむけると、この宇宙はビックバンから始まったという。

しかしその説明はおかしいのではないだろうか。

なぜって?

 

だってほら、この花火のように、爆発して広がっていくためには空か必要だろう。そうでなければビックバンは成立しない。

 

つまりビックバンの前に空間がなければ、爆発はおこらないし、拡大して広がるということもないわけだ。

 

すると、宇宙の始まりはビックバンではないということになる。

 

宇宙はビックバンが始まる前からここにあって、

まさに今、花火が爆発膨張している空間にさえ、時を越えて存在している。

 

光に照らされて雲の一部が見え、

二枚目の写真には、すでに爆発した痕跡が煙となって浮かびあがっている。

 

光の意味さえ、この花火に教えられている。

 

 

あの花火が、

卵巣から発生する人間なら、背景の空は母親の胎内だ。

ミクロの卵子と精子が出逢って、人は胎内で爆発的に成長する。

そのスピードはおそらく

計算すればビックバンの膨張と同じだろう。

 

胎内で人は進化を繰り返す。

その究極にビックバンがある。

人はみな、

一つのビックバンだ。

 

ビックバンの背景に宇宙があるなら

受精卵の背景の胎盤も宇宙

そしてこの花火ですら宇宙の中に咲いているのだ。

爆発して始まり、

膨張して消えていく。

 

自然の理のままに展開される宇宙の姿を

私達は見上げ、美しさに魅了されている。

 

人間だけがそこに苦悩を見い出す。

待って!消えないで!

それが苦悩の正体だ。

 

背景はビックバンのはるか前から存在し続けているし、

いま花火と共に消えるわけでもない。

花火は消えても、空間は存在し続ける。

花火は消えるのではない。その空間に還るだけなのだ。

 

消えてもまた打ちあがってくる。

花火の軌道を見上げて

すべてを受け入れることの意味合いを

肌で感じようではないか。

 

 

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満たされる

2017-08-26 | 心の旅

路上のこどもいがぐり(奈良散策より)

 

風もなかったのにピンポン玉より小さないがぐりが落ちていた

可愛い二つのマリモのようないがぐり

いずれ赤茶けて枯れていく

 

満たされているのだろうか

ふと思った

 

秋には手のひら一杯のいがぐりとなって、自然に枝から離れるはずの実が

青いまま落ちてしまった彼らは

満たされているのだろうか

 

かれらをごらん

きれいに、そして静かになんて堂々としているのだろう。

 

不安や悔悟や絶望はどこにある?

焦りや、恐れや、悲観の表情もなく

ただ彼らは美しい

 

満たされている

そう思う意外に私の中に答えが見つからない

 

自然の摂理の中に身をまかせて

この今を精一杯表現している

それが

満たされるということなのかも知れない

 

いがぐりは

そうかたりかけている。

 

では

満たされないとはどういうことだろう

 

いがぐりを擬人化したら

たちまちそれがわかる

 

いがぐりの私は

早熟で(あるいは未熟のまま)落とされたこの身を嘆き悲しむ

横にある枯れたいがぐりの残骸に恐れおののく

これ以上成長できない不幸とその運命を呪うだろう

どうして私なのか

まだ枝についている仲間をうらやむ

満たされない絶望に

さいなまれ続ける

 

これがまさに

満たされない一部始終だろう

つまり人間の心そのものだ

 

いがぐりがいがぐりそのものに執着した心がつくり出す

いがぐりの姿が自分の境界でそれ以外は自分ではないという執着。

その不足の思いが満たされないものの幻想をつくり出すのだ

 

けれど、ごらん

路上の二つのいがぐりは

己の中にいない

 

青々とした美しい姿で

かれらは自然の中にいる

堂々と、至福の中で自然の一部となっている

 

そう、

かれらは満たされている

全き自然の大きな輪の中で自然の至福を味わっているのだ。

 

やがて枯れ、踏まれて砕けていく運命だとしても

その運命は、

枝の上で育っていく仲間の運命と

同じものだと

いがぐりは知っている

無知の知が

いがぐりをこの上なく幸せものにしてくれているのだ。

 

自然の中に不幸は無い

それは

人の心の中に生まれた幻想だ

 

己のこの身を限りに自と他を区分して、

己に執着する。

満たされない空間を生きる人の心だからこそ

 

半分だけでいい

自分の心に

そっと

いがぐりを住まわせてみよう

 

いがぐりの棲む世界から来る風が

心を吹き抜ける

あなたの心の中で

いがぐりは育ち始める

 

やがて秋になって

成熟したいがぐりが

赤茶色になって

自然に身を開き

あなたの心に

豐醇な実を落としてくれるだろう

 

 

 

 

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水のうた

2017-07-26 | 心の旅

 

みなもに腰を落として眺める

清水が岩肌を這い

しがみついたえだつやごけの長い茎に

涼しい団子が並んでいる

穂先から団子が膨らんで

みなもに還っていく

 

ポトリ

心で聴いた音と共に

可愛い

一つの泡が生まれる

その丸い面に

世界が映っている

その中心に

小さな私

 

泡の上の私が

私を見ている

清楚な谷川の

一すくいで消えるほどの

奥まった

水場の

 

泡はゆるゆると

岩肌に引き寄せらて

私を写したまま

動いてゆく

 

私を知っているはずもないのに

私を放さない

小さな泡は

すでに並んでいる

岩肌の

泡の行列の

後ろについた

 

山を行く

その合間の休息

その今にさえ

この一瞬の

平和の営みがある

涼しさに

蘇るものが有る

 

泡の行列

その一つ一つに

私がいることに気付いたのは

そのせいかもしれない

 

泡を浮かべている

みなもにも

私の姿

 

そっと掬い取った

水が私の喉を潤す

 

出発の時だ

 

 

 

 

 

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建仁寺〇△□

2017-06-15 | 心の旅

建仁寺〇△の庭(中央に〇、奥に□の井戸、手前斜めの線でできた△)

 

セザンヌは「自然は、円筒、球、円錐 として扱いなさい」と言った。

つまり自然は、絵描きの目から見て、円筒、球、円錐という要素からなるということだ。そこに遠近法(自分)のかかわりが出来て絵が出来るという。

 

面白いことに、

円筒を真横から見たら

球は横から見ても〇

円錐は真横から見たら△

それどれを中心の垂線で回転させたら円筒・球・円錐が出来る。

己の描く自然の中に単純な原型〇△□を見ているのだ。


建仁寺〇△□の庭は、

単純な三つの図形は宇宙の根源的な形態を示し、密教の六大思想(地水火風空識)を

地(□)、水(○)、火(△)で象徴したものといわれる。(パンフより)



 こんな絵もある

 

  江戸時代の禅僧 仙崖の描いた有名な禅画である。
 宇宙のすべてのものは円三角四角の形態によって現わされる
 禅の世界を言い尽くした絵と云われる。
 セザンヌと全く同じ見解だ。

 

仙厓と建仁寺は禅つながりでわかるが、フランスの画家ポール・セザンヌが同じ答えを自分の絵画論の中で導き出していることに驚かされる。

まったく違う立ち位置から

同じ答えを見出す。

それは真実に触れている証しではないのか。

「セザンヌ」の画像検索結果

有名な「セントビクトワール山」だが、

その絵画論のとおり、円錐や円筒が配されている。その気になればいくつもの球体をこの絵に見ることが出来る。


宇宙の始まりは

おそらく単純だ。


そして我々人間にもその単純さは貫かれている。

個人という殻の中で

孤独を強いられる我々だが、


共有できる真理は我々が生まれる前から

きっと存在している。


外に向かって探し求めなくとも

この内に

必ず共通の真理がある。


しかも探すのではなく

気付くだけでいい

己の〇△□に気付けば

仲間外れの孤独から

立派な宇宙の一員となるだろう。


建仁寺の双龍がまだ私の中で渦巻いているようだ。

〇△□の中で遊ぶ龍は五本の爪で如意宝珠を握っている。

五本の爪は最高位、皇帝を表しているという

庶民が持つ龍は三本爪

貴族が四本爪

と、中国では考えるそうだが、

 

見方によれば、この天井に描かれた双龍、

己の宇宙に気付いたものはみな皇帝なのだと言っているような気がする。


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濃溝の滝(のうみぞのたき)

2017-06-14 | 心の旅

この 風景ご存じですか

 

華の歩き続ける道 

さんのブログに紹介されていました風景を探してみました。

まさか実際にある風景ではないのではと、思いましたが、実はこれ、どうやら本当に存在する風景らしいです。

千葉県にあるらしく、濃溝の滝と言われているそうです。

解説はいりませんね。

とにかく見てください。

こんな風景が日本にあるのです^よ^¥

  

濃溝の滝 の画像検索結果

 

どうです?

私が興奮してるの分かりまっしゃろ

すごいね

エルフの国??!

 

 

思わぬ発見のおすそ分けです。

 

 

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建仁寺双龍の旅

2017-06-11 | 心の旅

平成14年に開帳した大天井画「双竜図」小泉淳作

以前ニュースで知りましたが、思い立って建仁寺に行ってきました。京都は何度も行っていますが、実は祇園は生まれて初めて。

建仁寺には、海北友松の襖絵「雲竜図」があるというので、今日は是非とも、二組の竜にあってこようという訳です。

さて、初めての祇園。

 

阪急祇園四条駅を降りてすぐ、祇園景観地区。

そこは取り残された京都の景観。凛としたおかみさんの姿が心を引き締められるようです。

この景観地区を通り抜けると、建仁寺はすぐです。

想像以上に広い境内。

まずはその様子をすこしだけ見てください。

石庭もいいですが、

緑もまた見事な調和。

そして実内には、

 俵屋宗達の風神雷神図屏風が在り、

 

 そしてお目当ての雲竜図

 

圧倒される迫力です。

友松の竜が迫真なら、小泉淳の双龍はユーモラス。同じ迫力の中での違いを見てみたい。

最後に別棟法堂に向かいました。その前に、双龍制作のドキュメントビデオを見ていましたので、体育館に敷き詰めらた大画面のイメージを持っていましたが、実物に出逢うとただ絶句。

唖然と、首が痛くなるほど上を向いたまま時を過ごしました。

そのうちに、

あの闇の空間に、五次元宇宙を描きこみたいという

至福の想像を抱きながら、帰ってまいりました。

そのあと、高台寺など巡りましたが、機会があればまたその時に。

 

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クスノキの精霊

2017-02-21 | 心の旅

 

 

清州の駅から徒歩20分、

清須市はるひ美術館に向かう道程に大きなクスノキが見える。一本の樹が一つの森のようで、毎回私を寄り道に誘う。

先日、その誘いに乗って、行ってみると、拝殿はなく、神楽の舞台と小さな社があるだけの境内。そこに大楠が立っている。

石柱に大國霊神社の名があるので、どうやら先週に見た裸祭りの国府宮と関係があるのかも知れない。

ともあれ、誘われて立ち寄っただけの価値のある樹容。一目で好きになった。

二本の幹が寄り添って空に向かう素直さがうれしい。

手を添えると、精霊が流れ込んでくるような気分になる。

温かい肌だが、正面だけ樹皮が擦り切れている。私のように手を触れるやからが多いいということののだろうか。あるいは精霊の出入り口なのかも知れない。

見上げると見事な宇宙。いのちのドームが見える

時間を忘れて見上げている。

このクスノキの風景に、もう一つの風景を重ねたらどう見えるだろうか。

ふとそんな思いがやってきた。

対称性宇宙から見た世界だ。

天に向かって歓喜の祭礼か、暗黒の儀式か。

それは見るものの心にゆだねられている。

 

ところで、あの精霊の出入り口には何が見えるのだろう、もし本当に精霊の出入り口なら、対称性を備えたその真の姿が見えるかもしれない。

一体どうしてこんなことが起こるのだろう。

かわいい精霊が、その入り口から私を見つめているではないか。しかもその上には闇の樹霊が見下ろすように眼を光らせている。

 

自然というものの不思議。

この不思議に包まれて生きてる自分が、まるで精霊に抱かれているように思えるのはどうしてなのだろう。

ナウイズムの姿がそこにあるのだろうか。

ワタシにはワカラナイ

 

 

 

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五次元宇宙の波 朗読の旅

2017-01-25 | 心の旅

波は、振幅と波長でその大きさが決まると言われています。

上の図で言えば。

波長は波の速さ(時間)を表していて、

振幅は波の大きさ(スケール)を表していると考えてみましょう。

 

五次元の考え方は、時間とスケールの織りなす世界ですから、この波で言えば、スケールの世界は振幅に相当します。

波の山が極大、そして谷が極小と考えられるわけです。

すると、スケールの世界を旅するというのは、意識がこの波の上を移動しているということになります。

そしていつも、極大と極小の中間にある意識の地平(今)に戻ってくる。

これを五次元宇宙の波と言っていいかもしれませんね。

 

先日、

二つは一つ  宇宙今空間円相螺旋を  永遠に歩いて行く 

で紹介しました「まかこ&のしてんてん」コラボの連歌は、偶然にもこの波の旅を実感させてくれるもので、朗読していると、5次元の世界が波のイメージになって繰り返されるのです。

 

興味ある方は、一度試してみてください。朗読によるスケールの旅です。

(まかこ&のしてんてん合作 スケールの旅)

 

一節と二節を繰り返して読んでいると、波がいつまでも続いて、無限に螺旋運動をするような宇宙の大きさを意識することが出来ます。

その感覚を満喫したら、、五次元の旅から帰還しましょう。その無限循環の出口を設けました。第三節に移って旅を終えます。

 

お時間があればぞうど 波が実感出来たら成功です

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のしてんてん&まかこコラボレーション連歌

 

(二つは一つ 宇宙空間円相螺旋を 永遠に歩いて行く)

 

 

 

 

 わたしは小さくなる

 

限りなく見えなくなる方向

 

素粒子方向に向かって

 

自分でもいつもの自分と変わらない自分に

 

見えるかもしれないけれど

 

行雲流水万物変化は否めない

 

やがて変化も顕著になるので

 

それはそれでよい

 

わたしは小さくなる

 

限りなく無い方向に

 

わたしさえも無い方向に向かって

 

今空間を歩いて行く

 

宇宙と一体である

 

宇宙今空間未知領域円相螺旋を

 

極微極小永遠体となって

 

どこまでも

 

永遠に歩いて行く

 

 

 

わたしは大きくなる 

 

かぎりなく大きなみえない世界

 

銀河のつどう海にむかって

 

この身はいつまでも

 

思う心に無常の波は押し寄せる

 

よきかな よきかな

 

わたしは大きくなる

 

限りなく1なる世界を求めて

 

わたしでさえ、1なるもののピースのように

 

今この空を見つめる

 

1なるもの この宇宙の血肉となる

 

わたしの未知領域

 

極大無限に向けて

 

いつまでも

 

永遠の広がりの中に進んで行く

               →↑

 

↓ 

 

 ※※※

わたしは大きくなる

わたしは小さくなる

わたしは大きくなる

わたしも小さくなる

わたしは大きくなる

わたしは小さくなる

わたしは大きくなる

わたしは小さくなる

わたしは大きくなる

わたしは小さくなる

わたしはそのはざまで

今、この宇宙と

一つになる

わたしは小さくなる

わたしは大きくなる

わたしは私になる

 

 

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禅問答

2017-01-24 | 心の旅

先日、のしてんてん喫茶室(コメント欄)に集うお客様の間で、禅の話題に花が咲きまして、私もカウンターごしに興味深く話を聞かせてもらいました。

 

ことの発端は 吾は空なり、新たな道(未知) 8 で提唱しました、ぐうたら禅(食禅)に取り組んでいるという むっちゃんさんの話が発展して、食禅があるのなら、ウオーキングは禅にならないのかと、頬杖ついてチョコレートをかじりながら申します。

門外漢のマスター、コーヒー豆を取りこぼしながら目を宙に泳がしておりますと、

今まで静かにホットココアを飲んでおられた、まかこ女史が助け舟を出してくれたのです。その話が実にすばらしく。マスターもコーヒーポットを持ったまま聴き入ったほど。

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千葉県館山市の曹洞宗の西光寺さん、
むっちゃんさんのご質問に
お答えしてくださっているようなコーナーがありましたので、
割愛しても長文になるのですが、
ご紹介させていただきますね。


さて、ご質問の主旨ですが、
禅には座る禅以外に、立禅、動禅があるということですが、
結論から申しますと、立禅も動禅もあります。


さらに申せば、食べる禅もあれば、寝る禅もあります。
泣く禅もあれは、笑う禅もあります。歌う禅もあれば、
「糞する禅」(ごめんなさい)もあります。


決して冗談で申しているのではありません。 
禅とはつまり生活総てと捉えるべきなのです。

生活総ての基本が「挫禅」に始まるべきだということです。
それは挫禅を総ての生活に応用することで、
「禅的生活」を送ろうという意図です。

ですから禅は形においては限定されていません。
では禅とはなんでしょうか。
それを一言や二言で言うのは難しいことですが、
あえて一言で申せば「なりきり」ということです。


「なりきり」とは無我無心の境地であり、
悟りの世界に最も合理的に通じる手段なのです。
悟りの世界はこの「なりきり」の境地が
入り口になっていると言ってよいでしょう。


その「なりきり」を狙った公案こそが、
有名な「無字の公案」なのです。

「なりきる」ことで「一切皆空」「諸法無我」
「涅槃寂静」といった「世界」を感得することを
狙っているのです。その感得を悟りというのです。


その「なりきり」の最良の手段が「挫禅」なのです。
ですから挫禅こそ悟りの入り口ということになるのです。
さらにほんとうにその意味が理解されたときこそ 
「挫禅そのもの」が「さとりの姿」と
捉えることができるのでしょう。
まさに挫禅こそ安楽(さとり)の法問なのです。


すなわち、挫禅と同じ境地で、
「起きる」「顔を洗う」「食べる」
「歩く」「トイレに入る」「働く」「寝る」
ということです。


このことを「立禅」「動禅」と言うのです。
つまり言い換えれば、生活すべてが
修行の場であるということなのですよ。
しかしいずれにしろ基本は「挫禅」であると
いうことを忘れてはいけません。


以上ですけれど、むっちゃんさん、
長くなりましてごめんなさい。
それにしましても、ずいぶん割愛させて
頂きましたけど、こちらのお坊さま 
すごく熱心で挫禅への熱い思いが
強烈に伝わってきまして感動!感謝です☆


つまり禅的生活とは、生活総てに
無心になって集中、無心三昧、熱中すると
いうことでしょうか。私自身、悟りとかは、
気持ちがそこまで行かないのですが、
 
今に集中、無我無心で今に熱中するとは、
よいことだとおもいます。

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どうです?まかこさんのお話に、手を合わせたくなりましたよ。

禅 なんていうと、えらいお坊さんが無我の境地に入ってするもの。修行、苦行に耐えなければできないものと、半ば自分とは縁のないものと思っておりました。

しかしそのえらいお坊さんが、寝っころがっても禅だとおっしゃる。

我々庶民にも、禅の御利益があるんですね。


ぐうたら禅にも、えらいお坊さんが良しとおっしゃる。

お墨付きを頂いた訳です。


さあさ、みなさん。

何をやってもいいのです。

自分の気に入ったことをやりながら、禅の御利益を頂こうではありませんか。


 

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二つは一つ  宇宙今空間円相螺旋を  永遠に歩いて行く

2017-01-22 | 心の旅

二つは一つ 宇宙今空間円相螺旋を 永遠に歩いて行く 

真鹿子 まかこ)&(のしてんてん)

 

写真は 鹿子草 カノコソウ 


真鹿子(まかこ)さんは宇宙の詩人

森羅万象、極大極微今宇宙真理を、ご自分を楽器にして奏で続ける。

今を生きる宮沢賢治と、ひそかに思っている私ですが、今回、とてもうれしいことが実現いたしました。

偶然か必然か分かりませんが、明らかに二人の間に計画的な意図はありませんでした。それはとても自然に生まれたのです。

まかこさんの詩に触れて、自然に出てきた私のうた。まかこさんの心をたどっただけのものでしたが、あとで気付くことの多い連歌となったのです。

 

そして、これはどうしても、皆様に読んでいただきたいという思いが、そのずっと後から生まれてきたのです。

まかこさんにお願いして、当ブログにも、掲載させていただくことになりました。

 

まかこ&のしてんてんコラボレーション 連歌

 

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(二つは一つ  宇宙今空間円相螺旋を  永遠に歩いて行く)




わたしは小さくなる

限りなく見えなくなる方向

素粒子方向に向かって

自分でもいつもの自分と変わらない自分に

見えるかもしれないけれど

行雲流水万物変化は否めない

やがて変化も顕著になるので

それはそれでよい

わたしは小さくなる

限りなく無い方向に

わたしさえも無い方向に向かって

今空間を歩いて行く

宇宙と一体である

宇宙今空間未知領域円相螺旋を

極微極小永遠体となって

どこまでも

永遠に歩いて行く



真鹿(まかこ)



わたしは大きくなる

かぎりなく大きな見えない世界

銀河のつどう海にむかって

この身はいつまでも

思う心に無常の波は押し寄せる

よきかな よきかな

わたしは大きくなる

限りなく1なる世界を求めて

わたしでさえ、1なるもののピースのように

今この空を見つめる

1なるもの この宇宙の血肉となる

わたしの未知領域を

極大無限に向けて

いつまでも

永遠の広がりの中に進んで行く



(のしてんてん)

 

 

 

わたしは大きくなる

かぎりなく大きな見えない世界

銀河のつどう海にむかって

この身はいつまでも

思う心に無常の波は押し寄せる

よきかな よきかな

わたしは大きくなる

限りなく1なる世界を求めて

わたしでさえ、1なるもののピースのように

今この空を見つめる

1なるもの この宇宙の血肉となる

わたしの未知領域を

極大無限に向けて

いつまでも

永遠の広がりの中に進んで行く


わたしは小さくなる

限りなく見えなくなる方向

素粒子方向に向かって

自分でもいつもの自分と変わらない自分に

見えるかもしれないけれど

行雲流水万物変化は否めない

やがて変化も顕著になるので

それはそれでよい

わたしは小さくなる

限りなく無い方向に

わたしさえも無い方向に向かって

今空間を歩いて行く

宇宙と一体である

宇宙今空間未知領域円相螺旋を

極微極小永遠体となって

どこまでも

永遠に歩いて行く





とわに続くスケールの旅

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空間考(6)

2016-12-22 | 心の旅

 

先日の記事で、

「光速度不変の法則により、時空が重力により変化する・・・・・・その重力変化を同じ速度の光で測定すると言う事が理解出来ません。」

というコメントを頂きました。

確かに、新聞記事を貼り付けたままで、説明できてなかったです。ごめんなさい。そしてご指摘ありがとうございます。

 

で、そのあたりの説明。

もちろん科学者の考えを理解しているわけではありませんので、理学的根拠のない芸術的解釈で^す^が^

このL形に置かれた2本のパイプ。

中は真空で、両端に鏡がついている。長さは同じ4km。

L形は、一方を南北とすれば、他方は東西の方角に置かれている訳ですね。

 

めんどくさいので、数字抜きで考えます(芸術思考)と、

この2本のパイプに、一瞬だけ光を放ったら、光はパイプの両端に付けられた鏡に反射して何度も往復します。その往復した回数が、光が走った距離ということになりますね。

2本のパイプは同じ長さですから。当然、往復する回数は同じです。

 

ところが今回は、光がこの2本のパイプを往復する回数に違いが観測されたというのですね。

上の図のように、本来は点線の〇に収まるところ、実践の楕円になってしまった。

 

光は、おなじ時間、おなじ距離を走りますから、

往復する回数が増えた南北のパイプは、縮んだことになり、

回数が減った東西のパイプは、逆に伸びたということになるわけですね。

 

20センチのスパゲティーを5センチの箱に入れるには4つに折らなければなりませんが、10センチの箱なら二つ折りで OK という訳です。

 

パイプが伸び縮みしたということは、この地球が伸び縮みしたということであり、時空が歪んだ証拠となる。

つまり、重力波は時空を歪めるという、アインシュタインの予言が、実証されたと言って、大きなニュースになりましたね。

 

※実際は、往復した数を数えるような原始的な方法で確認したわけではないですが、その方法を理解しようとしたら頭が痛くなりますのでパス。私には分かりません。

 

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前日の風景画像に対称性を与えると、こんな画像になります。

私たちが日常見ている風景は片側だけですが、もう片方を重ねあわせてみると、こんなふうに見えるのかもしれませんね。

 

 

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空間考(5)

2016-12-21 | 心の旅

 

⑰ 空間をイメージすると

私の場合総じて暗闇を思い浮かべることが多い

実のところ空間は、外に向かっては宇宙につながり
内に向っては体内の原子の空間に拡がる

その闇の中ではどこまでが自分なだという区別はどこにもないのだ
空間は大きなスケールから小さなスケールまで隔たりなく続く唯一つの広がりだ

それが闇を思い浮かべる原因の一つだろう


 

⑰ 重力波の観測成功と大きな見出し。

アインシュタインの最後の宿題が100年かかって完成したというドラマが人類に希望を与えてくれる。

 頭の中だけの研究が実際の宇宙観察で実証された。100年かかっても、頭を技術が追いつく。そのすごさだけはわかる。 

 

これは2月12日付読売新聞朝刊に掲載されたものです。

何がすごいのかを五次元思考からみてみましょう。

今まで世界を認識しようとする前に立ちはだかっていたのが観測問題でした。当ブログでもこの問題を取り上げましたが、簡単に言うとこういうことになります。

世界を認識するためには観測が必要です。これまで観測は、物を見ることで成り立ってきましたが、最小の世界の観測は、物を見る事では不可能とわかったのです。

ところが今回の観測は、空間を観ることで、成功に導いたのです。

アインシュタインの予言した重力波は、存在しても非常に小さい変化で観測不能だったのです。今回観測した重力波は、太陽の何十倍もの質量をもつブラックホールが合体(衝突?)するときに生じたものということですが、極大の物が衝突しても、現れる重力波は、原子一個分ほどの波だということです。

この観測不能の極小波をどんな方法で観測したのか。ここがすごいところです。空間が波打つということは、伸び縮みすることですから、その長さを測ることで観測に成功したというのです。

その施設は4km真空パイプの中で光を何往復も走らせることで、走った距離の差を測る。そんな方法でやっと見える小さな差異を確認して、100年も前にアインシュタインが提唱した重力波を観ることが出来たというのです。

事実を理論で観るだけではなく、現実にこの目で観る。一世紀をかけ、一国家の予算を丸ごと使うくらいの金をかけ、それ以外に使いようのない建造物をつくり・・・・たった一つの真実を観るということだけに、膨大な人知と金と時間をかける。

人間というものは、いかに真実を追い求めて生きる動物なのかとあらためて思いますね。人類の生きる目的は、己が何かという真実を知ることだと、私たちの頭にはそんなことが刷り込まれているのかもしれません。

とにかくこれで、空間を観るということの意味が、一気に、多くの人々に理解されるのではないでしょうか。

意識を物から空間に向けると、私たちの認識する世界は格段に大きなものになります。五次元思考はここから始まると言ってもいいような気がします。

何より興味深いのは、今回の空間観察は、新聞によりますと、13億年前のブラックホール衝突で生まれたものだと言います。

私たちが物として生まれて死ぬ時間の100万倍の時間を空間は振動し続けているのです。そして何より、この振動は私たちの素粒子を浮かべている空間をも動かしています。

何が真実かと問われれば、私たちは空間に目を向けるしかないのだと、答えたいのです。




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2017/2/8~2/26

  

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