のしてんてん ハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

感性と思考 5

2017-04-30 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

 

 
 
なんだか笑い声がまだ続いているんです

心をあるがままに
素直にすると

あちこちから笑い声が聞こえてくる

8歳の
お嬢さんに教えられた
しあわせは大きすぎるよ
 
(2006/2 もみじ君の笑い声)
 
 
 
10年以上も前の話しですので、詳細はよく覚えていません。
ただ、もみじ葉の赤い光の下で、
小学生の笑顔と笑い声が忘れられなかったのでしょう。
 
なぜここまで奔放に笑えるのでしょうか。
 
無垢なるものの心は
 
実はまだ、感性チャンネルがしっかり開いているのですね。
 
8歳と言えども、まだ赤ん坊のように笑える心を残している
そんな子供と出逢った印象がその日の記事になったのだと思います。
 
 
 
ところで、
「私たちの心は、2つのチャンネルを受信するテレビと同じだ」というフレーズを使って、感性と思考の統合について考え、その可能性を探っているのですが、今回は感性と思考の歴史を振り返ってみたいのです。
 
と言いますのも、
意識して子供の心を眺めますと、私たちは必ず、忘れていたものを思い出すことができるからです。
 
 
よく考えてみますと、思考チャンネルは、生まれたばかりだということ、
 
そしていつ生まれたのかと言いますと、「何」という問いかけが芽生えて、学習を始める理念思考が出来上がったときと言えるかもしれません。
 
 
上の図は、私たちが人として生まれた瞬間から、思考が成長していく過程を図示したものです。理念思考は中央の赤丸に位置しますが、黄色の線をたどって、宇宙の意識から自己意識を分離させ、一人前に成長していきます。そして、理念思考に至って、私たちは心の中に独自の思考チャンネル放送を始める訳です。
 
ですから、私たちは間違いなく、表題の無垢なる笑いを体験してきましたし、今もその当時の感性チャンネル放送は続いている訳ですね。
 
宇宙意識とは感性が生まれている領域だと考えられますから、理念思考が支配するまでは、つまり赤ん坊から子供の世界は感性のかたまりであった訳です。
 
子供の絵を見ると、それは一目瞭然ですよね。
 
 
残念ながら私たちは、この思考を逆行させるわけにはいきません。子供に戻ることは出来ないのです。
 
華やかな、いたるところでCMの流れる思考チャンネルに目を奪われながら、地味で当たり前の感性チャンネルに見向きもしない時期を過ぎると、自然に感性チャンネルに目が向くようになってきます。
 
当たり前のことに目を向けず、自分とはかかわりのない情報に翻弄されて虚ろな自分を演じる思考チャンネルのドラマに疲れた心は、自然に宗教に向いたり、芸術の中に、素のままの自分を探そうと動き始めるのですね。
 
宗教は真理を示してくれますし、
芸術は感性の存在に再び気付かせてくれます。
もちろん科学は、理念思考を先鋭化して、宇宙の摂理を解き明かそうとして、直接宇宙に飛び込んでいこうとします。
 
思考チャンネルは、こうして、宗教放送局、感性放送局、科学放送局という3局に分かれて心を賑やかにしていきます。
 
しかしどの道であれ、正しく進むなら、この思考チャンネルは、再び緑の矢印に向かって、宇宙の実在を目指していくことでしょう。
 
それは人として生まれた私たちの心の、いわば進化のシナリオなのだと思うのです。
 
三次元に生まれ、四次元の住人となり、五次元に帰っていく。
 
それを約束するかのような、子供の笑い声なのですね。
 
 
若い思考は、自我が幅を利かせ、自分以外を認めようとしません。そんな傾向を強く持っています。
 
わたしは科学派、自分は宗教派、いや芸術派・・・と。
 
しかしそれは実は、本当の意味で己を受け入れない、思考の暴走であることが多いいのですね。
 
今、必要なことは、当たり前のこと、変わり映えしない空気のような存在に目を向けること、その不思議さに金銀財宝以上の価値を見出すこと、
 
とりわけ己のこの存在に対して感謝する心を育てるこのなのでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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感性と思考 4

2017-04-29 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

 

  人生を体験させてくれてありがとう

  世界を見せてくれてありがとう

  命を感じさせてくれてありがとう

  これはみな

  自分に対してのありがとうだ

  自分に感謝する

  それが究極の幸せだ

 

(2010/11)

 

 

感謝の効用は計り知れません。

2010年の私の記事ながら、「自分に感謝する」とはどこか違和感を感じてしまいます。利己主義を増長するのではと。

 

しかし、あらためて今、感性と思考という2チャンネルの心の構図からそれを眺めてみますと、よく分かることがあります。

 

それは、感性と思考を統合させるためのヒントがあるということです。

 

感性と思考を統合させるということは、具体的にどういうことかと申しますと、思考が感性の存在に気付き、その主役の座を感性に譲るということです。

双方が譲り合って中間点で手を結ぶというようなものではありません。

 

なぜなら感性は、この今に存在するもの、スケール軸をひとつの全体として存在としてある実在から生まれるものであり、

その一方、思考はその実在のヒトのスケールという小さな部分に生まれる仮想空間と言ってもいいでしょう。

 

感性はゆるぎない実在を背景にしていますが、思考は常に揺れ動きます。

ですから、

感性と思考の統合というのは、思考を改革するという以外にはないわけですね。

 

で、どのように改革するのかと申しますと、この自我が思考を操っているという思い込みをすてて、感性の生まれている巨大な実在に思考をまかせるということです。

宗教では「あけわたし」という表現によく出会いますが、おそらく同じことを指しているのではないかと思われます。

 

さて、そう考えますと、私たちの究極の目標は、自我を超越して、五次元で観る実在に身をまかせること。ということになるのですが、

実のところ、それがうまくいかないのです。

 

思考の中にある自我は、そんな理屈で納得して、「はい分かりました」と簡単に明日から明け渡しますなんてことにはなりません。

そればかりか、己が消されるという思い込みから強い抵抗をするようになります。

 

正論は、自我を逆撫でして、実在を否定することだってあるのです。

 

その時、感謝は素晴らしい働きをしてくれるのです。

 

感謝とは、自我が、喜びと共に世界を受け入れることです。

つまり、自我と他我の確執に心を乱していた、まさにその自我が、他我を喜んで受け入れることなのですね。

 

その感謝を、感性を生み出している実在に向けることが出来たら、それこそ、それが究極の幸せとなるわけです。

 

己の感性に向かって、感謝する。

自分に感謝するというのは、

実在に消されてしまうという思い込みで反抗していた自我が、喜んでその実在を受け入れるということなのですね。

 

五次元の実在を感謝して受け入れることが出来たら、自我として働いていた思考から、苦悩が消えていくでしょう。

 

思考は少しずつ、自我を解き放ちます。

 

すると、自我はなくなるのではないと分かります。

自我は消えるのではなく、膨らむのです。

殻を破って生まれる雛のように

自我の殻を破って、実在として生きるものに進化する。

 

そこに感謝という思考のスイッチを見るのです。

 

ひとたび、実在=自我と気付いたら、

人は、

感性のチャンネルに周波数を合わせて、鳥の声をきき、風の音や、雲の流れに身をまかせる楽しみを最高のドラマとして観るようになります。

五月の新緑に踊る木漏れ日にさえ心ふるわせる感動を覚えます。

 

思考チャンネルで見るドラマの幸せは、一瞬で消えてなくなりますが、

感性のチャンネルで繰り広げられているドラマは、実在と共に永遠の幸せと解放があるのですね。

 

人間に与えられた思考。

そこに組み込まれた感謝こそ、

 

思考を実在につなぎ止める命綱だと、私には思えるのです。

 

 

 

 

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感性と思考 3

2017-04-28 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)
 

 

苦悩は理念思考が作り出す虚構の産物だ。

それははっきり分かるようになった。

すると、何か辛いことがあっても、そこから思考が連鎖して次々と苦悩を深めていくことはなくなった。その頃から考えると格段に成長したと確信する。

苦悩がやってくると、これは虚構で、自分の考え方次第でどんなものにも変るとまず思い定める。するとその苦悩の利点を考えるゆとりが出来る。その苦悩は自分にとってよい何かの理由があると思って探せば、必ずその理由は見つかる。

すると苦悩は生まれたまま成長しないでしばらく止まっているが、自然に消えていく。

それが出来なかった頃は、生まれた苦悩に対して、それが自分にとって悪い側面ばかりを見ようとしていた。すると苦悩は、それに輪をかけた苦悩となり、どんどん自分を暗闇に押し込んでいくというのがいつもの流れだった。

この違いは大きい。

苦悩は次々と生まれてくるが、それにかかわらないで居れるようになった。

苦悩は自分が作り出した虚構だと得心したからだ。

すると感性をクリアにすることが出来る。私は絵描きだから、これが何よりありがたい。

 

(2012/10)

 

 

5年前の記事ですが、今これを読み返すと、この考え方が正しかったという根拠を示すことが出来ます。

五次元の概念を通して見れば、それはすっきりと頭に収まるのです。

つまり、五次元を視覚的に理解出来るようになったことで、2012年からさらに進歩したことを知ることが出来る訳です。

 

私たちの心は2チャンネルからなっていると前回申しましたが、それを図で示しますと上の図のようになります。

 

チャンネル1は図の青い横線、時間軸で表されます。ヒトの場に流れる時間ですね。

「苦悩は理念思考が作り出す虚構の産物」五年前の記事ですが、これはまさに時間軸に沿って眺めた風景であることが分かります。

この苦悩は、チャンネル1で映し出されたドラマなのです。

 

苦悩はこの時間軸の上で起こっているのですね。

そして、虚構というのは、時間軸で動く思考の映し出すドラマ。真実はスケール軸が貫く今、この瞬間。そう考えると頭がすっきりします。

誰もが知っている通り、ドラマは台本次第で悲劇にも喜劇にも変わります。

そして台本をつくるのは、ほかでもない、自分のこの思考ですから、苦悩を感じたら、そこから逃げないで、悲劇の台本を喜劇の台本に変える努力をすればいいのです。

いずれにしても、チャンネル1で見る番組は、自作自演のドラマだと知ることです。

悲劇から逃げると、悲劇はさらに深刻になりばかりです。悲劇に同調してるのと同じことになりますので、取り合ってはいけないのです。そっとしておくことです。

 

そして苦悩を感じたら、チャンネル2に切り替える

すると悲劇を喜劇に書きかえるヒントがそこにあるのです。

 

チャンネル2に切り替えると、瞬間に私たちは、今、この瞬間に戻ります。そして宇宙のシンフォニーに包まれて、心を癒し、そこで喜劇の台本を見出すのです。

 

新しい台本を携えてチャンネル2に戻る。すると、私たちは少しづつ自分の感性を人のために使えるようになる。

 

こんな話があります。

なんでも「ありがたい、ありがたい」と言って暮らしているおばあさんがいました。

そのおばあさんの連れ添いが病気になったという話を聞いた村人は、

今度こそおばあさん、嘆き悲しんでいるに違いないと、おばあさんの家に行ったのです。

するとおばあさんはやっぱり「ありがたい、ありがたい」と手を合わせて感謝しているではありませんか。

村人はおばあさんを疑いましたが、やがて心を打たれるのです。

おばあさんは

「おじいさんにお世話ばかりかけていたが、今度は私がお世話出来る」

そう言って「ありがたい、ありがたい」と

感謝していたのです。

 

台本は誰一人例外なく。

己の思考がつくり出しているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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感性と思考 2

2017-04-27 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)
 
思うだけで手が動く
思うだけで足が自分をそこに連れて行く

なんという驚き
なんという精巧さ

思うだけで鶴を折るなんて

無心になって自分を眺めたら
その人間力の尊さに
感動する
 
 (2006/7)
 
 
 
 
無心になって自分を眺めるということは何を意味しているのでしょうか。
 
今の私に言えることは、
 
チャンネルを切り変えるということです。
 
五次元というのは、心に二つのチャンネルを持つということです。
 
一つは時間のチャンネル
そして
もう一つはスケールのチャンネル。
 
 
長いあいだ四次元の概念で生きてきた私たちは、
 
不動の1チャンネル(時間)だけで心を観ることに慣れ親しんでいますので、いきなり2チャンネルと言われても、戸惑って使い方が分からないというのが実情です。
 
 
しかしよく考えてみますと、ここまでは簡単に思い描くことが出来ますね。
 
1チャンネル=時間=思考
2チャンネル=スケール=感性
 
 
その上で、冒頭の考案を見てみますと、
私たちは普段、自分の能力をほとんど見ていないということです。
その理由を、私はこう考えます。
 
つまり私たちの日常は1チャンネルでものごとを見ているということです。そしてそれはなぜかと申しますと、
思考は感性を土台にして生まれたものだからです。
 
こんな例はどうでしょう。
 
テレビのない時代に生きたものは、テレビの力を身に染みて分かります。しかし生まれた時からテレビのあった子供たちには、その使い方には長けていても、その力を意識することは無いですよね。炊飯器だって、冷蔵庫、洗濯機。みなそれが当然と考えています。
 
それと同じことで、
思考が、生まれたときから当然のように感性がそこにあった訳ですから、いわば、思考にとって、感性は空気のようなものなのですね。
 
しっかりとその上に乗っかっているのに、
それが自分の本性だというのに、当たり前すぎて気付かないし、意識を向けようともしないわけです。
 
結局、私たちは思考オンリーと思い込み、思考につまずき、思考が否定されると、自分はもう存在価値のない人間だと考えてしまう訳です。
 
それが1チャンネル思考です。
 
 
しかし、真実は感性から思考は生まれたのです。
2チャンネルは私たちの生まれる前から、それこそいつ始まったのかも分からない時代からあり続けているものです。
 
 
冒頭の考案は、この2チャンネルに気付いた瞬間を書いたものです。
 
私の提唱する五次元、スケールの概念は、けっして未経験の新しい考え方ではありません。それはむしろ、太古から存在している、私たちそのもののことなのです。
 
1チャンネルはまだ生まれたばかりですが、2チャンネルは私=宇宙そのものであり、太古から存在している歴史を持っているのです。
 
私たちが1チャンネルで世界を見ている今、この瞬間にも、もの言わずその思考を支えている。それが2チャンネル、感性思考というものです。
 
 
五次元は、私たちにその2チャンネルの存在をイメージさせてくれるのです。
 
 
私たちはいわば、思考チャンネルと感性チャンネルという2局の放送を受けとる受信機、つまりテレビのようなものです。
 
思考チャンネルでは、世界から己だけを分ける。つまり自分を主人公にしたドラマが映し出されています。これ以上面白いドラマはないでしょうね。
 
一方感性チャンネルでは、太古からつながる宇宙のシンフォニーが流れています。いのちの営みが、回転する銀河の流れと重なって己の境界線はどこにもないのです。
 
 
私たちに必要なことは、気付くことです。
 
私たちは2局放送のテレビだということ。
 
チャンネルは自分で簡単に切り替えられるということ。
 
 
それが思考と感性の統合を目指す第一歩なのです。
 
 
 
 
 
 
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ナウイズム 二人展 ネット上プレ開催

2017-04-26 | 展覧会

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間﨑さんより作品画像が送られてきました。

ネットによる

 プレ ナウイズム二人展 間﨑学&北籔和 です。

 

今回の展示作品ではない作品もありますが、二人のナウイズム

そのリズムを感じて頂けたら幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二人の制作は順調に?進んでおります。

 

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感性と思考

2017-04-25 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

4月に入って、中村二柄先生の美術論を取り上げました。美術界の東洋と西洋の差異を研究された著作を読み解いて行くうちに行き着いた私たちの結論は、4月18日の記事のとおりです。

まずその記事にサッと目を通して頂ければと思います。(初めての方は、4月8日~18日の連載をお読み頂ければ入りやすいと思います)

その上で、その後の私の体験を一人旅通信として紹介したいと思います。

つまり、思考と感性の統合の実際を、体験として通信いたします。

 

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(ナウイズムの瞑想 五次元)4月18日記事

 

中村二柄「東西美術史」から、それを自分の心の問題に引き受けて考えると、思考と感性の統合ということに行き当たる。

そう前回書きました。

 

それに対するコメントもいただきましたので、この思考と感性の統合という考え方について私なりの考えを書いてみたいと思います。

 

ところで、感性とはなんでしょうか。

私はこう考えます。

上の五次元の図で、スケールの軸に沿って連なる世界は、今この瞬間に同時に存在している極大から極小の世界です。

同時に存在しているというのは、たとえば右手と左手のように、この身体の一部として存在して今、せっせとキーボードをたたいています。全体の中の一部分だというとこです。

つまり、このスケールの軸は、全体であり、今この瞬間の私は、その全体の一部だと理解できるわけですね。

 

そうすると、この全体が、宇宙空間の中で生きていることになります。

 

もう一度いいますが、この極小の世界から極大に向かう物資の連鎖は、

一つのいきものなのですね。

感性とは、この一つのいきものの全体から生まれているものなのです。

 

そして思考は、

上の図の中央にヒトの場所がありますが分かりますか。

このヒトのスケールから横に時間軸が伸びて、ヒトの時間が生まれ、そのスケールに構築された頭脳が働いて思考が生まれていると考えられるわけですね。

 

つまり思考は、全体の中の一部に流れる時間に左右されているのです。

そして感性は、全体から生まれるものであり、当然いのちの声と言っていいものですね。

 

そう考えますと、

感性が苦しむことは無いのです。

苦悩はどんなものであれ、頭脳がかかわっていると私は思うのです。

 

感性は、生きることを考えている。

正しい命の方向を美しいと感じ、おのれのいる場所と理解している。

 

だから苦悩が生まれたら、感性に聴けばいいのです。

それが瞑想という一つの形だと思うのです。

 

瞑想して全体に入っていけば、おのずと、苦悩している思考の姿が見えてきます。

思考のどこが行き詰って苦悩を生みだしているのかが見えてくる。

 

それが感性と思考の、正しい統合として表れる。

つまり、思考が正しく生まれるように、感性の声をきくと言えばいいでしょうか。

 

常に全体を意識する。

それはスケール軸を瞑想してつかめます。

 

苦悩が生まれたら、瞑想して感性の声をきく

するとつまずいている思考の姿が見えてくる。

つまずいた思考から、感性が喜ぶ思考を見出したら、それは愛だというのも、

あながち間違いではないと思います。

そんなイメージを持てば、

思考と感性の統合ということが理解しやすいかもしれません。

 

ナウイズムというのは、

この全体を意識し、そこから自分を考えるということでもあるのです。

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わたしと私

(体験をもとに 一人旅通信)

 

チュンと鋭い声が私を目覚めさせた

チュッ、チュッ、チュッ さらに声が広がっていく

わたしはまどろみの階段を登って、次第に鮮明な意識を感じ始める

朝が来たのだ

目覚め

薄く目を開けると柔らかな光がまつ毛の間からやってくる

チュン、チッチッチッチ、

鳥だ

私ははっきり目覚める

それは思考と共に始まる

 

チュン、チッチッチッチ、

それは寝床の中で、確かにわたし自身だった

まどろみはわたし一つだった

 

 

チュン、チッチッチッチ、

それが鳥になった

思考が働いて、

まどろみのわたし、一つだったわたしから鳥をつくり出した

それが思考の最初の作用なのだ

 

一つだったわたしは鳥と二つになった

鳥と私になった

 

わたしは、まだ見てもいない鳥の声をきいて、梢で朝餉を探す鳥を思い浮かべる

それは私ではない

思考はそう宣言する

 

日が登り

目覚めた思考は私をつくり始める

それはわたしから、次々と私ではないものを切り離していく

雲、山、川、母、父、友、敵、

 

最後に残った私

何てちっぽけなんだろう

 

これが私

何てさみしいのだろう

 

目覚めと共に

わたしから切り抜かれた私は奔走する

さみしさを紛らわせるために

地位と名誉を求め、友を求め、愛するものを求め

 

得た喜びと

失った悲しみを

切抜きの私は往復する

 

もう一度

わたしに帰る

その時まで

 

 

 

一人旅通信では

私と、わたし。思考と感性の風景を随時掲載していきます。

思考と感性の統合とは可能なのか

それはどんな形なのか、一緒に見ていきましょう。

 

 

 

 

 

 

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松浦由美子のシャンソン百物語 Vol.99

2017-04-24 | 日記

 

松浦由美子さんのシャンソン百物語、

100回続けたら本物が現れるという、日本の怪談スタイルを意識して初めたソロコンサートということですが、今回でナント99回目を迎えるといいます。

100回目は一体何が現れるのでしょうと、本人のトーク。

きっと、本物が現れるのではと私はカウンターの中で思っておりました。

 

お手伝いで、カウンターに入って、一日マスターと照明係。コーヒーもなかなか様になってきました。

 コーヒポットの背景に、本番前のリハーサル

ガットネロは、松浦さんのご厚意で、

私の作品の常設展示を10年も続けていただいています。

ありがたいことに、年中のしてんてん個展の、シャンソン喫茶室です。

 

本番、

 曲目
パリの空の下で、十字架、マリー・Aの思い出、マリー・サンダースのバラード、アコーディオン弾き、一本の鉛筆(など)ヨイトマケの唄

語るようなシャンソン。

ピアフを愛し、美輪明宏を歌う松浦さんの歌声に、今日はなぜか涙が出てしまいました。

やはり99回。

100回目は本物が出てくる。

 

内心そんなことを想った一日でした。

 

壁にかかった自分の作品をカウンターごしに見ながら、シャンソンを聴いていると、ふと今、自分のアトリエにいて、絵を描いているような錯覚を覚える瞬間があったりして、なんとなく、歌と絵の創作意欲が交わる交差点にいるような気分も味あわせていただきました。

 

積み上げる

百物語

99

百話を語る

五次元宇宙

 

(のしてんてん)

 

 

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地元自慢

2017-04-23 | 日記

 

今、旬の地元自慢をひとつ。

 

どこにでもあるふじ祭りのようですが、ここ泉南のふじは、ちょっとすごいのです。

何がすごいのかというと、

ポスターの住所で地図検索するとこんな画像を見ることが出来ます。大きな屋敷の屋根があって、画面下にL字型の緑が分かりますね。

これ、たった一本のふじの木なのです。

 

 

まず、ここは中庭です。

まさに今、ふじの花盛り。今年は開花が一週間遅れて、花祭りも会期を延長するそうです。

手前の小さなふじはこどもです。その周囲に咲くふじが話題の藤棚。

 

 

毎年、35000以上の花房をつけると書いています。

 

さっそくその大きさを体感してもらいましょう。

これがふじの根元。人間の胴体より太くて、抱きついても手がまわりません。毎年誰かが抱きついています。パワーがもらえるとか。

 

 

見上げていくと、何か縄文の模様のような幹が暑苦しいほどの生命力を感じさせてくれます。軒を壊しそうです。しめ縄がエプロンのようで、お尻の方から見ている感じですね。

 

さらに見上げますと、ふじ独特の蔓枝が怨念をこめたようなねじり方をして左右に枝をのばしていきます、中央にはいわくありげなまる。

 

左に伸びる枝をおっていくとメイン通り。左右の建物から何本も桟を渡し、完全なふじの屋根が出来ている。およそ幅6メートル奥行30メートル。まだまだ伸びています。

今年は花が遅く、花房がまだ下に垂れ下がっていませんが。満開になるとこんな感じ。

 

 

 

さて根元に戻って、右手に行くと、

屋敷の外壁と軒の間に花房が垂れ、

屋敷二軒分の屋根を覆っている。

これ一本のふじの木なのです。

数年前まで、屋根に昇って展望を楽しめました。

屋根から見る風景は、ふじの海といったところ。

あまりに見学客が増えたので、近年、屋上の展望はやっていません。

 

花の香りを吸い込んで、五次元瞑想をしていますと、

まるで天国にいるような気分です。

 

脳みそに

釘打ち込める

紫房垂れ

五次元宇宙

香る陽射しに

 

のしてんてん

 

 

 

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アートフェスティバル KG+ KYOTO に行ってきました

2017-04-22 | 展覧会

京都タワー:実は京都の瓦を波に見立てて、海を照らす灯台をイメージしたもの。海のない京都の街を照らす発想だそうだが、当の京都人はこれをローソクを模した塔と思っている人が多いいそうな。

 

AG+はKYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭と連携し、同時期に開催している。各地でサテライト会場があって、写真家のアートフェスティバル。


廃校になった淳風小学校校舎の会場を覗いてきました。


上二点は、日光写真の原理で作品をつくり続けているこだわりの作品。(北山恵子)

日光だけを使って感光させる。仕上がりはその日のお日さま次第、そこに自然とのつながりを意識するという。

他に、

など、教室の方に目が行く作品もありましたが、私が気に入った作品はこれ

好きというのは、どうも自分の感覚に近いからだと気付きましたが、印象に残る作品でした。

 

帰り道、見事なボタン桜に引きつけられ、

立ち寄った公園の芝、

幼稚園の遠足なのか、弁当を食べ終えてお遊戯らしい。草原の宴の跡。

 

どこからか、シャボン玉も飛んできた。

 

ベンチにすわって、コンビニ弁当を頂きました。

 

 

 

 

 

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ナウイズム 二人展 間﨑学&北籔和 (12)

2017-04-21 | 展覧会

石切の風景 間﨑 学   

 

間﨑さんの絵を一言でいえば、精緻でリアルな風景画。

もちろんこんな言葉だけでは足りませんが、その細部にわたって意識が澄み渡っているのです。

この絵は、前回の二人展で展示した小品。はがき大の作品ですが、

思わずかってしまいました。 

私の所蔵作品です。

 

間﨑さんのナウイズムは、今この時、この場所を愛すること。

本人がじかにそんな話をするわけではありませんが、絵に接すると分かります。

 

石切の中腹に居を構え、その場所の瞬間を絵にしていくのです。

その風景にこだわる姿に不純なものはありません。

風景を描く絵画コンクールで何度も受賞を重ねているのもうなずけます。

 

私の驚く精緻さは、

 この絵を見て頂けば分かります。

125㎝×65㎝、

ご覧になっているPCの画面によっては、実物より大きく表示されているかも分かりませんが、葉っぱの落たケヤキの枝の一本は、髪の毛より細いでしょう。

その枝の形に迷いはありません。

二柄先生の言葉を借りて言えば、心の思いがそのまま線になって現れている。書に近い描写のように思えます。

菜の花もその一輪一輪が見えるようです。

 

一転してこんな絵もあります。

石切から見た大阪平野の夕暮れ 中央は阿倍野ハルカス

光の一点一点を描き分けたような絵を見ていると、自分の心が、温かい粒子となって漂って行く気がします。

 

外の風景を内側に引きこんでいく作品に魅力を感じます。

 

私の作品との対比は、作風の内外に及んで、面白い対話となる

そんな気がいたします。

 

 

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皿洗い つかの間の戯れ

2017-04-20 | 日記

上の写真ですが、さて何のことか分かります^か^

 

台所の洗い場の一風景なのですが、昨日のことです。

 

話しは飛んで、ドライアイス。

冷凍食品を買ったら、袋に入れてくれますね。あれ、持ち帰ったらみなさんどうしてます?

 

私はどうしても、そのまま捨てるのがもったいなくて、つい遊んでしまいます。

と言ってもやるのはいつも、水の中に入れて、煙を発生させて喜んでいるだけなのですが・・・。

ドライアイスの煙は重くて、地を這いますので、水槽の中でやると、水槽に煙が充満して、洗い物の皿や茶碗などが、まるで霧に隠れた廃墟のように見えるのです。

霧の中に手を入れて、洗い物をすると、新鮮なドラマが始まります。

 

で、昨日も、ドライアイスのかけらがあったもので、洗い物のコップに水を入れて霧発生装置をつくって機嫌よく洗い物をしていたわけです。

 

ところが気が付いたら、こんな写真の風景が出現、拡散するはずの煙がシャボン玉の中に閉じ込められて、水槽の中の霧はすっかり消えてしまったのです。

シャボン玉の中で、煙が生き物のように動いています。

 

しばらく何のことか分かりませんでした。丸いものがなんだか得体のしれないキノコのようにも思えました。それがコップの上に出来たシャボン玉とわかるまで時間がかかりましたし、するとまた次のなぜ?が生まれてきます。

そのうちに、洗い桶から洗剤が飛んで、コップに入ったのだろうと得心しまして、皿洗いはそっちのけにしてカメラを取に走り、撮影したのが冒頭の写真です。

 

そして、

水槽から取り上げ横からの撮影。このワクワク感、分かってもらえるでしょうか。

 

そのうち、大きなシャボン玉がはじけ、何度も煙を吐き出す光景をながめているうちに、泡が小さく、細かくなってこんな泡がぶくぶくコップから盛り上がってあふれてきます。

 

ドライアイスが消えるまで、つい遊んでしましました。

こんな動画も撮りましたので、見てください。面白いです^よ^

 

https://youtu.be/MOOcDUfFIFA (ドライアイスのシャボン玉)

 

 

そんなわけで偶然でしたが、新しい遊びかたを発見しました。

 

●コップに水を入れ、洗剤を数滴たらしてドライアイスを入れる。

ここのところ、数滴か一滴か、大球をつくる加減までは研究不足。どなたか受け継いで^く^だ^さ^い^な^

 

とにかく是非、子供にやって見せてあげてください。

目を輝かせて喜びます^よ^

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ナウイズム 二人展 間﨑学&北籔和 (11)

2017-04-19 | 展覧会
 
ナウイズム2人展オープンまで、もあと2週間あまりとなりました。今回は、気軽に買っていただけるよう、小品(名刺~はがき大の)作品を制作中です。
間﨑氏とのナウイズム競演、そろそろ具体的な形が見えてきました。
 
 
 
 
ところで、
 
とてもうれしいお便りをいただきました。「東西美術史」に関する記事の件です。
 
美術に憧憬の深いハル先生からのもので、私などは、よく教示を賜る先生です。
 
 
今回の「東西美術史」論を始めるにあたって、私なりに無謀感を感じておりました関係で、問題点があれば強く指摘していただきたいという思いがありまして、ハル先生に批判的な目で読んでいただきたく、お願いしておりました。
 
と申しますのも、こうした学問の世界を知らない私が、知らないゆえに二柄先生によきことをしていない。どこかに落とし穴がないかという思いがありましたし、その心を裏返せば、私の考えはどれ程の価値があるのかという思いでもありました。
 
その思いを託したいという気持ちで、ぶしつけなお願いをした訳です。
 
 
 
そんな経緯がありまして、
ありがたいことに、先生から、論の終結を見計らって、批評を寄せていただいたのです。
 
とてもありがたく、合掌して御礼申し上げます。
 
そして、先生の了解を得たうえで、ここに紹介させていただきます。
 
------------------------------------------------------------ 
 
ごぶさたしています。
ブログ拝読しました。
東西美術の違いを止揚する丁寧な論理に感心しました。
また普段知ることのない作り手の心の中をのぞかせていただいたことも興味深いことでした。
五次元論による東西美術の統一は参考となりました。
私がなぜ北藪さんの作品に魅かれると同時に井上有一や森田子龍の作品に魅力を感じるのかを説明してくれました。
労作完成おめでとうございます。
次の展開を楽しみにしています。
 
(ハル)
 
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ハル先生の評は、かつて二柄先生から頂いた「のしてんてん系宇宙」に対する評と同じくらいありがたい言葉でした。
 
二柄先生が、師ガントナー教授の西洋美術論研究から、それを乗り越え、東洋の絵画を発見して、根源現成と名付ける。「東西美術史」には、そんな学術的ドラマばかりではなく、哲学・宗教をとりこむ人間探究に対する潔さがあります。
 
私はそこに強く魅かれ、人としての在り方を学ばせて頂いたと思っています。
 
東西の論理は、まさにその二柄先生の受け売りだったのですが、
 
 
その世界に本当に近づきたいという思いが生まれた時、
 
ただひたすら作り手の立場から近づく以外に方法はないと気付かされたのです。
 
 
ハル先生の評は、その私の道筋にOKを出していただいた。そう思えることが何よりうれしいことです。
 
あらためて御礼申し上げます。
 
 
そして次なる展開とは何なのか、あらためて考えてみたいと思います。
 
 
皆様、
お付き合いいただきまして
 
ありがとうございました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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ナウイズム 二人展 間﨑学&北籔和 (10)

2017-04-18 | 展覧会

(ナウイズムの瞑想 五次元)

 

中村二柄「東西美術史」から、それを自分の心の問題に引き受けて考えると、思考と感性の統合ということに行き当たる。

そう前回書きました。

 

それに対するコメントもいただきましたので、この思考と感性の統合という考え方について私なりの考えを書いてみたいと思います。

 

ところで、感性とはなんでしょうか。

私はこう考えます。

上の五次元の図で、スケールの軸に沿って連なる世界は、今この瞬間に同時に存在している極大から極小の世界です。

同時に存在しているというのは、たとえば右手と左手のように、この身体の一部として存在して今、せっせとキーボードをたたいています。全体の中の一部分だというとこです。

つまり、このスケールの軸は、全体であり、今この瞬間の私は、その全体の一部だと理解できるわけですね。

 

そうすると、この全体が、宇宙空間の中で生きていることになります。

 

もう一度いいますが、この極小の世界から極大に向かう物資の連鎖は、

一つのいきものなのですね。

感性とは、この一つのいきものの全体から生まれているものなのです。

 

そして思考は、

上の図の中央にヒトの場所がありますが分かりますか。

このヒトのスケールから横に時間軸が伸びて、ヒトの時間が生まれ、そのスケールに構築された頭脳が働いて思考が生まれていると考えられるわけですね。

 

つまり思考は、全体の中の一部に流れる時間に左右されているのです。

そして感性は、全体から生まれるものであり、当然いのちの声と言っていいものですね。

 

そう考えますと、

感性が苦しむことは無いのです。

苦悩はどんなものであれ、頭脳がかかわっていると私は思うのです。

 

感性は、生きることを考えている。

正しい命の方向を美しいと感じ、おのれのいる場所と理解している。

 

だから苦悩が生まれたら、感性に聴けばいいのです。

それが瞑想という一つの形だと思うのです。

 

瞑想して全体に入っていけば、おのずと、苦悩している思考の姿が見えてきます。

思考のどこが行き詰って苦悩を生みだしているのかが見えてくる。

 

それが感性と思考の、正しい統合として表れる。

つまり、思考が正しく生まれるように、感性の声をきくと言えばいいでしょうか。

 

常に全体を意識する。

それはスケール軸を瞑想してつかめます。

 

苦悩が生まれたら、瞑想して感性の声をきく

するとつまずいている思考の姿が見えてくる。

つまずいた思考から、感性が喜ぶ思考を見出したら、それは愛だというのも、

あながち間違いではないと思います。

そんなイメージを持てば、

思考と感性の統合ということが理解しやすいかもしれません。

 

ナウイズムというのは、

この全体を意識し、そこから自分を考えるということでもあるのです。

 

 

 

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ナウイズム 二人展 間﨑学&北籔和 (9)

2017-04-17 | 展覧会

2017年4月15日の虹

二柄論をやっとの思いで書きあげて、ふと窓を見ると、外はいつの間にか春雨。

気分転換にベランダに出てびっくりしました。目の前に見事な虹がかかっているではありませんか。

ものごとはつい自分の都合の良いように解釈しがちですが、私としては、論理的にようやく東西の統合に折り合いをつけたその刹那の出来事ですので、それはまさに架け橋のように見えました。

よく見ると二重橋。

二柄先生の橋の上に、五次元橋がうっすらと見えている。二柄先先生からのプレゼントだと本気で思いました。

電線が残念ですが、今まで見たことがないような、見事な虹でした。

十数分で消えてしまいましたので、この時間に区切りが来なかったら見過ごしていたでしょう^ね^

 

 

一週間あまり、

私の敬愛する中村二柄先生の「東西美術史」を通り抜けてまいりました。

もちろんこの本は、西洋哲学と東洋思想をも紐解きながら構築された美術論であり、心に喰い込んで来る真実を解き明かした至宝だと私は思っております。

そんな論書に、私ごとき美術家が私見をさしはさむのは無謀かと思いましたが、晩年の数年間だけのお付き合いでした先生のお顔は、私の中で笑顔のままです。

 

喜んでおられるかは分かりませんが、笑って許してくれていることだけは確信出来るのです。

 

思えば、

着想から20年かけて書き上げた「のしてんてん系宇宙」

五次元宇宙の書ですが、

血気はやって、何人もの評論家に本書を紹介して、一読頂きたい旨の手紙を発送したことがあります。

その時、二柄先生おひとりだけ、興味を持っていただいて、読んでいただくことになりました。

一番最初の読者であり、そして唯一の理解者でもありました。

「矛盾はない」

先生がお住まいの京都に呼ばれて、初めてお会いしたとき、そう評していただいた言葉を今も忘れることが出来ません。

「このままではなかなか理解されないから、子供でも分かる童話を書きなさい」

そんなアドバイスのおかげで「スケール号の冒険」が生まれました。

 

そう言えば、先生に読んでもらっていなかったことに、今さらながら気付きました。

 

天国の先生に、今回の考察に「スケール号の冒険」を添えて、捧げたいと思います。

 

 

さて、今回の「東西美術史」の旅は、私にとりましては、かなり骨にこたえる労力となりました。

しかしそのおかげで、今まで全く見えなかったことが、見えてきたのです。

それはありがたいことですが、何より不思議なことでした。

 

なぜこんな無謀を思いついたのか、その経緯を思い出すことが出来ません。先が全く見えなかったのに、不安はありましたが、やめようと思ったことはありませんでした。

明日の記事は明日出て来る。なんとなくそう思って、創作の方に支障をきたすこともありませんでした。

何より、一日一日を書き終わって、「えっ、そうなの」と驚くばかりでした。

 

何より、私の提唱する五次元が、これほど見事に符合するなど思いもよらないことでした。

しかし、間違いなくそれは二柄先生の言葉に裏打ちされているのです。互いに知ることもなく、出来上がったそれどれの本が、こんなに重なっているという発見は、今、まさにこの時に起こったのです。

 

 

これらの絵は、二柄先生の理論に添わせようと描いた作品です。

こんな絵もありました。2009年の作品です。文字のような形は、即興で描いた筆の跡です。

西洋と東洋をどうすれば統合できるのか、それを形で理解しようとしていた時代だと、今になって思います。

 

そして今、結論として言えることは、

東西の統合とは、世界のことを言っているのではないということです。

東西世界の統合は結果として起こることであって、私たちが直に見て、感じているこの世界は当の私たち自身がつくり出している心の世界なのです。

 

つまり、ややこしい言い回しになりましたが、こういうことを言いたいのです。

東西の統合というのは、

私たち自身の、頭脳と感性の統合だと。

 

総じて、頭脳の働きは時間軸の中で行われます。

そして感性はスケール軸から生まれてくる。

そしてその統合とは、まさに五次元そのものだという訳です。

 

 

上の図は、時間とスケール軸の交わる原点(現在)を、人の中心(丹田)に持ってくると想定した図です。

スケール軸は、丹田を通って、無限に小さな世界に続いており、頭に向かって、極大の世界に広がっていく。

赤い渦巻はスケール軸の螺旋です。今この瞬間 心の風景 8 で紹介した五次元のイメージする風景と考えてください。

時間軸は、そのスケール軸に対応して、無限に存在しており、その感覚を正しく持つことが出来れば、私たちは簡単にカゲロウの時間や銀河の時間に生きることが出来るようになる。

心の中の東西の統合は、

このような心の広がりを実現させてくれるのです。

 

それはあたかも。

線の上だけを世界と思っている一次元の生きものが

もう一つの次元を得ることで、突然平面の上を自由に動ける生物になるような、

そんな進化と同等の意識を持つことが出来るようになる訳です。

 

スケールの概念を得ることで、時間とスケールの平面を自由に行き来できる生きものに進化する。

それが五次元の描く心の世界なのです。

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ナウイズム 二人展 間﨑学&北籔和 (8)

2017-04-16 | 展覧会

森田子龍 「道」

制約や拘束のない自由はない。それを避け、そこから逃げ出すのではなく、その矛盾対立の中で苦しみぬく。その極限において内からはじけ、底が抜けて、内と外とを分けていた枠組みが抜け落ちる。内もなく外もなく、内外一つになる(森田)

 中村二柄監修「現代の書芸術ー墨象の世界」より


私の絵は、墨象とは対称的な作風を持つ。いわゆる西洋絵画に端を発しています。

森田子龍と同じタイトル「道」 

こうして比較してみても。東洋西洋の感しきりというところですね。

この絵を描く過程は、

発案⇒構想⇒下絵⇒鉛筆による描線⇒仕上げ⇒完成となります。


ちなみに森田子龍の場合は二柄先生風に言えば、

発案⇒無自我⇒(筆墨=完成)ということになる訳です。


ところで、わたくしごとですが、これまでの経験から、漠然と分かっていることがありました。

それはこんなことです。

構想の段階で、作品は実は心の中で出来上がっています。

その完成された世界に向かって作品を描き進めるのですが、何のトラブルもなく描き進めて完成した作品も少なくありません。

しかし決まってそんな絵は、駄作なのです。

駄作かそうでないかを判断するのはもちろん自分の感性なのですが、いい作品は、いつまでも作品の空間の中に自分がいて心地よいわけです。

ところが悪い作品は、どこにも自分の居場所がないのです。形だけの薄っぺらさを感じて、ギリギリと胸が痛くなります。

この判断は、自分で説明しようもありませんが、自然に起こる心の現象ですね。

良し悪しの判断、それは自分が安らかにいることが出来るかどうか、あるいは心に波紋を呼びながら、離れられない引力があるかどうか、そのような基準で起こっている心の現象のように思えます。人を好きになるのも同じような心の働きだと思いますが、このような心の現象を私は感性と呼びます。


話しが飛びましたが、「何の障害もなく最初の構想が実現した私の絵は、駄作である」という法則めいたものをなんとなく感じてきたわけです。

そんな折、私に修羅の絵がやってきたのです。

発案と同時に、頭の中に完成図が浮かびます、それは今までにない空間の表現でした。その空間にひもが一本横たわっている。それだけで宇宙の根源が画面の中に現れる。その空間の中で、私は至福感さえ覚えておりました。あくまで頭の中だけの話しです。

構想は自然に生まれ、私はその空間の中でいつまでも遊ぶことが出来たのです。下絵は、その心をさらに興奮させ、その時私は完ぺきな作品の中にいて、あとはそれを現実のものにするだけだったわけです。

鉛筆を動かすのは、一歩一歩その目標に近づくことでもありました。ところが、作品が9割を過ぎ、ほぼ完成に近づいたとき、反逆が起こりました。

私の至福の空間は、突然干からびた空間に変わったのです。画力不足と言えばそれまでなのですが、想定していた空間が生まれない。絵を見て「良し」と感じられなくなったのです。

そんなはずではないと頭は考え、何度も絵を見直しますが、そんな頭脳の操作など役に立つものではありません。私の感性が勝手にやって来て「否」を唱える。それだけで私の世界は簡単に崩壊するのです。

手元にナイフがあったら切り裂いていたかも知れない激情に駆られて、その時私は、筆やら布巾やら、手当たり次第でキャンバスに殴り掛かって、絵をめちゃめちゃにしたのでした。まるで子供の癇癪です。

激情がおさまって、メチャメチャになった絵を見たとき、その瓦礫の一部に目が引きつけられました。感性が「良し」という部分があったのです。

どう言えばいいのか、つまりチャップリンの映画の、戦後にたたずんでみる虹のような感覚と言えば近いでしょうか。

どこに向かって進んだらいいのか分からない、闇の中で、感性だけが導いてくれるような感じでした。具体的には「良し」という声だけに従って闇の中を進むというそんなイメージです。

私は半ば泣きながら、感性が「良し」という方向だけを見つめて進み始めました。

そしてトンネルを抜けたとき、私は初めて自分が描きたかったものがわかったのです。それは目の前にありました。

その時、ただ「これだ」という意識しかありませんでしたが、はっきり分かったのは、頭のつくり出した風景を飛び越してそれはあるということでした。

頭が「良し」というものと

感性が「良し」というものは明らかに違うのです。

その時、私は漠然と感じていた、「頭に描いた構図を100%実現したら駄作」という法則の意味をようやくつかんだと思いました。

するとにわかに、二柄先生の美術論が浮かんできて、私の五次元宇宙と結びついたのです。

私の実感する、

頭で描くということは、それは自我を主体にして描く西洋絵画の手法であり、感性のささやきに従って描く事が、東洋絵画の手法だと理解したとき、

同時に私は、二柄先生の美術論に小さな誤謬を見つけました。

その経緯は ナウイズム 二人展 間﨑学&北籔和 (5) で書いた通りです。

すると、その発見が、二柄先生と深く交わる入り口となったのです。


すべてのものの優位に立つもの、それは感性だということ。

作品に現れる精神性は、根源現成の代名詞ではなく、

それは実は、根源現成たる感性の発露であったわけです。


発案⇒無自我⇒(筆墨=完成)という東洋絵画の手法、特に書において顕著である筆墨の即自性は、確かに根源から現れる絵に違いありませんが、しかしそれでもなお、それを「良し」とする感性がなければ作品とはならないのですね。

もしそうでなければ、墨を塗った足で歩いた鳥の足跡が最高の美術品となってしまうでしょう。

結局のところ、芸術とは人間の感性の表明である訳です。

感性を高めていくことで、人間は真実に近づく。真実とは根源であり、その根源に達した感性が作品となって現成する。なかんずくそれが人間の精神性として現れるということなのですね。

するとそこには、西洋も東洋もない、一人の人間(感性)があるばかりなのです。

芸術は本来、人間と自然との統一である

(中村二柄:東西美術史 岩崎美術社 P586 14)

この二柄先生のことばを引用すれば、西洋は人間、東洋は自然という大まかな分類として見ることが出来ます。

感性とは、まさに人間の根源から湧き上がってくるものであり、その根源こそ自然の中核である訳ですから、つまり芸術は感性によって一つになる。

その姿は、自然としての人間。あるいはその覚醒なのです。


それは次の表とも重なります。

これは私が考案した思考地図(のしてんてん系宇宙論)ですが、感性とは、この地図を「無」から「覚醒」に向かって進化していく過程の中で現れてくる心の声であり、それはまた、根源現成に向けて成長していくものなのです。

(この表の説明はあえていたしません。ただ漠然と、人としての進化とそこに現れる感性の成長を視覚的に感じて頂ければ幸いです)



 











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