のしてんてん ハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

身体と付き合う

2018-04-13 | 五次元宇宙に生きる(物質)

 

建仁寺石庭(腰痛にこの庭をイメージした話)

 

これは私が今体験しつつある腰痛を克服しそうな話である

 

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ついに私にもやってきました腰痛(発症)

意識し始めたのが数週間前、

床に直に坐って絵を描く姿勢を長年続けてきましたが、何気なく立ち上がったとき、骨盤と背骨のつながったあたりに何やら違和感があって、それが始まりでした。

その違和感が、次第に痛みに向かっていく気配を感じて、

動く際にはかなり気を使うようになりましたが、つい先日、じわーっとした痛みが取れなくなってきて、ようやくこれはいかんと思うようになったのです。危機意識が生まれたわけです。

 

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 これはいかんという意識の芽生え(危機感)

このままいったら、創作活動が出来なくなる。

危機感をあおる最大の理由。

キャンバス持てなくなったらどうしよう。

鉛筆が思うように動かせなくなったら、死ぬまでの間、あまりにも面白くなさすぎる。

 

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なんとかならないか、ネット検索(対処方)

それがあったのです。

腰痛はストレッチで治る。

それを試したら嘘のように快復しました。

感謝をこめて、紹介します。⇒ストレッチポール公式ブログ

 

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イタタタタ・・・・(ストレッチ実践)

体幹トレーニング50選!初心者〜上級者までレベル別一週間メニュー

 1.初心者向け一週間トレーニングプログラム

というのがありまして、それを利用させていただきました。

やってみると、

自分でも意外なほど、腹筋が出来ない。背筋がこんなに弱っているとはと、びっくりするほど惨憺たる自分の身体に気付かされました。

 

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そうだったんだ!一日で腰痛がなくなった!(気付き)

 とにかく自分の身体の弱体化にびっくりして、その筋肉を鍛える運動を上記トレーニングに従って30分、そしてプラス30分を勝手気ままな柔軟体操やりました。

たったそれだけで、腹回り、腰回りの筋肉痛。半端じゃありません。

しかし!

私の感じていた腰の違和感と痛みが消えたのです。

イメージとしてはこんな感じ ↑

斜線部分は肺とかじゃなく、筋肉の感じを現しただけ。私の身体は左のように筋肉がだらりと垂れさがり、それが骨盤と背骨の接点を圧迫していたのだと、これ学術的ではなく、体感として理解できました。

でストレッチで筋肉の力が目覚めてくれました。右のようなイメージを身体に感じます。

 具体的には、背筋を伸ばして、背骨を常に骨盤の上にまっすぐ立てる。

神棚に三拝三礼する感じ

座禅を組んで瞑想している姿勢など、

体感が空に向かって伸びている感じで過ごすと、腰から違和感が消えるのです。

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知らず知らずのだらけ生活(猛反省)

いつも、

椅子に坐っては、上半身脱力状態

テレビ見るのは必ずゴロゴロ。

歩く姿はいつも、肩を落として猫背歩き

創作時には坐ったまま、移動するのも、にじりながら基本ゴロゴロ

唯一褒められるのは、5年以上早朝草引き、往復4キロのウォーキング

(これがなかったらもっと早く症状が出ていただろう)

 

胸を引き揚げ、姿勢を正して日常生活を送る。

ストレッチと、その絶大な効果を体験して、そのことの大切な意味を、反面教師的に理解いたしました。

 

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創作のここにつながるのか!(理解と昇華)

苦悩が心の痛みなら、腰痛は体の痛み。

どちらもこれは、よき道を指示してくれている。そう思ってこの腰痛を考えると、意識的に体と共に生きなさいと言われているのがわかる。

心と違って身体はより具体的に自分の誤りを教えてくれる。

ストレッチしながら、身体の声に心を添わせる。

もう無理と、ぎりぎり腹筋に耐えながら龍の姿を思い浮かべる。

するとその龍は、私の腹の痙攣に合わせて気流を吐き出す。

これこそ、心身の調和した絵の方向を教えてくれているのではないか。

身体を天に向かって釣り上げるような力を意識すると、

いつの間にか天に向かう意欲が 生まれている。

 

これ良いんではないの?

冒頭の建仁寺の石庭が骨盤と背骨

常にその姿を意識して、まっすぐ立つ

坐っても立つ

 

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威勢はいいけれど (ホントかね?)

なんせ今日で3日目。

とりあえず一月続けてよかったら、成功としましょう。

 

 

 

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心の方程式 物質から心へ(7)

2017-03-25 | 五次元宇宙に生きる(物質)

(CGによる心のデッサン 画)

 

認識というのは、私たちが知るすべてのものをさします。

 

詳しく言い直しますと、

論理的なことはもちろん、感覚やイメージ、予感や、不思議まで、およそ感じられ、想像され、意識される、一切のものがその対称となります。つまり目覚めて眠るまでの生活のすべて。

その中から認識するものを、自分との関係で理解していくのが認識ということになります。

 

たとえば、「パン」はよきものとして認識しますし、「ヘドロ」などは嫌なものとして認識します。「石ころ」は普通のもの、「未確認物体」は分からないものというように、常にそのものを自分の思いと共に認識しているということを押さえておいてください。

 私たちの認識は、コンピューターのように機械的に認証しているのではありませんね。

ですから、当然認識を記憶して知識としていく場合でも、コンピューターと違うのは、その知識にはすべて、(良い/悪い/普通/不明)という自分の評価がくっついている訳です。

その段階ですでに私たちは、認識と知識の個別性を見ておかなくてはなりません。同じものを認識しても、その認識は人によってみな違いますし、知識もまた同じことが言えるでしょう。

だからこそ、コミュニケーションの重要性が必要なのですね。

 

ところで。そのことを念頭に置きながら、前回の続きを旅することにしましょう。

この表でしたね。

宇宙意識から認識が芽を出すドラマをみてきましたが、今回はこの認識が知識となっていく様子を見ていきましょう。

 

 

それを表にまとめたのがこれです。

 左に認識、右に知識という柱を立てて、成長していく関係を示したものです。

 

その根本には意識があります。自己意識ですね。

意識は生まれたばかりの身体を内側から照らしだし、生命のリズムを「快・不快」という色付けで見始めます。この色付けは何度も繰り返されることによって、経験が蓄積され、記憶として残るようになるでしょう。それが知識の始まりだと思うのです。

一方、感覚は外界からの刺激を受けて、未分化だった外の世界を少しづつ分化させていきます。

何の区別もなくただ「これ」という認識で見ていた世界から、特定のものが区分され、世界から切り離して認識する力を身に付けて行きます。

「有る」という認識が生まれるのですね。

有無の理解が生まれると、記憶の働きによって、物の動きを認識するようになります。つまり空間や時間を意識できるようになるわけです。

物が動くということは、空間と時間の中で行われることですから、そのことに無意識であっても、動くという認識の中にすでに空間と時間の認識があるのです。

 

やがて赤ん坊は母親をまつようになります。それは身体的「快・不快」から精神的「快・不快」が生まれた証拠でもあるのです。

母を、身体的「快」を与えてくれる存在という意記憶が、母を見るだけで「快」を連想させてくれるようになるのですね。そして母親を「快」と認めるようになる。

それは「不快」の場合も同じことがいえます。

 

つまり、実際の「快・不快」だけを感じていた時代から、

まだそれは起こっていないのに、記憶の力によって、母を見るだけで「快」を思い出したり、不安を与えた者に「不快」を覚えるようになる。

つまりそれが精神的「快・不快」という訳です。

 

この精神的「快・不快」は生まれた瞬間から成長しはじめます。

認識と記憶が互いに関係しあって大きくなっていくのに伴って、精神的「快・不快」は際限なく膨らんでいきます。

 

それはさらに、「何?」という問いかけが生まれることでと爆発的に拡がります。

知識は、学習=経験という手法を手に入れることで自己増殖して行く訳ですね。

 

この精神的「快・不快」は、もともと身体的「快・不快」から生まれたものなのに、やがてそれを忘れて、精神的「快」だけを求めようと動きはじめます。そこに人間の苦悩が生まれてくるのです。

 

身体的「快・不快」いのちの営みに応じて現れます。

しかし。精神的「快・不快」は、もともと記憶の働きで生まれたものですから、実体はありませんね。実体がないから、不快を快に変えることもできる。

当然のように、人は「不快」を嫌がり「快」だけを追い求めるようになりますし、

麻薬のように、自分の身体を害しても「快」を追い求めるということさえ起こるのですね。

 

このように、成長した精神的「快・不快」は、未熟さのために様々な苦悩を生みだすことになったのです。

 

人間はそこから成長しなければなりません。

苦悩から逃れる方法は宗教などいろいろあると思いますが、それらのものに共通に流れている方向性を私は感じます。

その方向性は、生まれた瞬間に向っているということです。

 

その意味で、

五次元(スケール思考)は、この生まれた瞬間を貫いて宇宙につながる世界をイメージすることが出来る概念ですから、

人間が次のステップに成長するための道具となりうる。そう思うのです。

 

時間を手に入れた人間は欲しいものを手に入れようと働いた。

スケールを手にいれた人間は、欲しいものはすでに手の中にあることを知るのです。

 

 

 

 

 

 

 

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心の方程式 物質から心へ(6)

2017-03-24 | 五次元宇宙に生きる(物質)

(CGによる心のデッサン 知)

 

前回の記事を、図で示してみましょう。

すべての根底には、宇宙(空間と物質)の世界があります。

そこから人は自分を確立していく。そのドラマのシナリオです。

 

その概要は上の図のように、宇宙意識を己の身体にとりこんで自己意識の領域が出来ます。この身体のことですね。

宇宙にできた泡のような存在です。

この自己意識は、完全に閉じているのではなく、不完全に外界と交渉を持っている。これが呼吸や食など、いのちの運動を保証しているのですね。

この自己意識の表層に感覚があって、外界と交渉を持ちます。視覚や聴覚のことです。

やがて、この自己意識と感覚が知性「何?」と結びついて大きな認識世界をつくりあげる。そこに精神的「快・不快」があるわけです。

 

下の図は意識と認識を並立して自己意識から認識が生まれていく過程を図示したものです。

 

図の下から上に向かって成長していきますが。左下の囲みが自己意識を表しています。

閉じた相関性と書いているのは、身体を造る素粒子同士は互いに関係を持って引きあい、その力で身体を保っているという意味です。

この閉じた相関性のもっとも安定した核意識を中心にして、いのちのリズムが生まれます。そのゆらぎを「快・不快」という色で受け留める認識の種がそこにあるのですね。

この色付けが、認識の最初の風景と言えるでしょう。

「これ」という形で、一切が未分化のまま、存在感だけがある。芽吹く前の認識の姿と考えることが出来るのです。

 

そこに感覚が形成されていきます。(図の中段にある囲み)

生まれたばかりの自己意識を、満たされた意識と考えると、感覚は外界から刺激を受けて波紋を広げていく破られた意識と考えることが出来ます。

外からの刺激で揺れる意識、これが認識の種に力を与えます。いわば蒔かれた種に与える水のような働きをしてくれるのです。

 

目が明いた赤ん坊に、柔らかな光があたる。闇の中に現れた光芒に身体的「快・不快」とは違う色を感じますよね。

冷えた体が母親の胸の温かさを体験する。その柔らかさ、まどろみ。

排泄物の不快に、柔らかい布をあてがわれる体験、空腹と授乳。

そんな育みから受ける体験を通して、赤ん坊は「これ」という風景から母親を「有る」という認識で見るようになるのですね。

種が頭をもたげて、地面から顔を出すのです。

「有る」という認識は、未分化の世界を区分しはじめます。手に触れるものを何でも体感しようとします。赤ん坊がなんでも口に入れようとするのは、食べようという意志より、そうして世界を体験しているのではないかと私には思えます。

あるいは、理解するという原型が食べるということなのも知れません。

 

いずれにしても、未分化の世界を、様々な感覚の刺激が、赤ん坊の「有る」という認識世界をひろげてゆくのです。

 

ではこの「有る」という認識が、「何?」という問いかけに成長するのはどんなタイミングなのでしょうか。

 

そこに私は、自我の種が動き出す瞬間を観るのです。

 

育みを受けて人は「有る」という認識で世界を見始めます。母を認めた赤ん坊は、あるときふと、母を待つ意識を自分と感じるのでしょう。それが何なのかは分からないが、その感じは、母を見つけたときの感情といないときの不安感の落差として知るようになるでしょう。

そのような経験から、赤ん坊は母を待つ意識を定着するようになります。それが自我の種となっていくのではないでしょうか。

その種が、母を通してやってくるもの、たとえば母乳から離乳食に切り替えられるとき、それを「何?」という問いかけとして認識するようになる。

自我の種が双葉になる瞬間ですね。

 

「何?」が芽を出すと、自我は爆発的に成長します。認識は認識を生み、言葉の世界が赤ん坊を人へと成長させるのです。

 

表の右上、認識の囲みの中に、私空間と書いていますが、認識の世界は、自我の中に生み出されたまさに私的空間なのですね。

 

この私空間については、機会があればお話ししますが、一言では言い尽くせません。

要は私たちが今、この瞬間に思い描いているこの自分と世界のことなのです。それはまさにこの認識の力が生み出した世界であって、真実から映し出された映像のような世界なのです。

 

人はこうして大人になっていくのだと思うのです。

 

 

次回は、この認識が知識となって蓄積され、私たちの今をつくり出してきた風景を見ていくことにしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

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心の方程式 物質から心へ(5)

2017-03-23 | 五次元宇宙に生きる(物質)

(CGによる心のデッサン 宝)

 

身体的「快・不快」から、精神的「快・不快」が生まれる過程とはどんなものなのでしょうか。

それを知るために、認識に焦点を当てて、その風景を見ていくことにしましょう。

 

① ここにコップがある。

これを見て、私たちはここにコップがあると言います。

つまりこの物体を、コップと認識している訳ですね。

この、コップという認識について考えてみましょうか。

 

私たちはどうしてコップという認識が出来るようになったのでしょうか?

何もしないで、コップという認識が自然に生まれるということはあり得ませんね。

「ここにコップがある」という認識は、「コップ」という言葉を知らなければできませんよね。

 

では「コップ」という言葉はどこから来たのか。

自分の中から勝手にやってくることはけっしてありませんから、答えは明白です。それは必ず他者からやってきますね。これを「教えと育み」と言いましょう。

つまり私たちは他者の「教え・育み」を受けて、初めてこの物がコップという名であることを知るのですね。つまり学習するということですね。

そこで初めて、私たちはこの物をコップと認識する知識を得るわけです。

 

 

 

 では、コップという言葉を知らない者が、このコップを見ると、どんな認識を示すのでしょうか。

② ここに丸い筒のようなものがある

コップという言葉を知らない者が、示す認識は、名前がわからないために、形状を見たまま認識して、ここに丸い筒のようなものがあると言うでしょう。

 

この認識には、「丸い」「筒」という言葉を知識として持っていることを示しています。

形状を表す抽象言語。これもまた、学習によって得た知識であることは明白ですね。コップという言葉を知らないために、知っている言葉で言い表した訳です。

つまり認識は知識の度合いによって変わってくるわけですね。

 

 

 

では、さらにこの認識から抽象言語を抜き取ったら、丸や筒という言葉も知らない者が認識したらどうなるでしょう。

 

 ③ ここに何かがある

「コップ」も「抽象言語」も知らないに者は、それを言い表す言葉がないのは分かりますよね。

 同じコップを見ている。しかしそれが何なのかわからない。そこにあることばが「何?」なのですね。

私はこの「何?」が知性(知識)の始まりではないかと思うのです。

つまり人は、「何?」という知性が芽生えることによって、他者から膨大な知識を習得するようになる。それが下の図です。

 

 

 

さらに遡って、「何?」という問いかけもない者がコップを見たらどうでしょう。

④ 「有る」

「何?」という問いかけのない者にとっては、言葉自体が知識としてあるわけではありませんね。

しかし、そこにものが有ることは認識できるわけです。コップがどんな役に立つのかそれは経験上理解するかもしれませんが、認識はそれ以上膨らむことはないでしょう。

しかし、見落としてならないのは、そこに有無の認識があるということです。この者にとっては、コップとその背景の区分が出来ているということです。

背景から、コップを認識して見ることが出来る。つまりコップを手に取ろうとすることも出来る訳ですね。

 

 

ではさらに、この者から、「有る」という知識も取り去ったらどうなるでしょうか。

⑤ 「これ」

「有無」を知らない者が、コップを見た場合どうなるか。この場合、コップさえ見ることは出来ません。

この者にとって、眼に映る風景は、見えるものすべてに対して「これ」という認識しかありません。

なぜなら、この者にとっての風景は、すべてが未分化のまま一つのものとして認識するしかないからです。コップとその背景は、つながった一つのもの、見たままの光景をただ「これ」という認識で見ているだけの状態だと考えられるのです。

「これ」を認識と呼べるかどうかは別っとして、

この者が体験している風景は、厳密に言えば、網膜に映った光の映像を、自己意識が「快・不快」に色付けしながら眺めているということです。

つまり、コップ(外界)を見ているというより、自分の内側にある身体的「快・不快」を見ているに過ぎない存在ということになるわけです。

言うまでもなく、この者とは、生まれたばかりの赤ん坊ということです。

 

この①~⑤の流れを逆から見れば、人が物質から心を生み出していく道筋が見えてくるのではないでしょうか。

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心の方程式 物質から心へ(4)

2017-03-22 | 五次元宇宙に生きる(物質)

(CGによる心のデッサン)

 

 

心とは何か、

それをあれこれ考えてしまうと収拾がつかなくなるかもしれませんので、

とりあえず、私たちは次のように考えて話を進めましょう。

 

つまり、心とは、身体から生まれる感覚と感性、および体験と知識の総体だと。

喜怒哀楽は感性に属し、様々な社会認識は知識に属する。

物質に対する概念として、心を考えてみたいのです。

 

ところで、心の根幹にあるもの、それは認識ですね。

どんなものであれ、それを心の中に出現させるものは認識です。

ですから、逆に言えば、認識しないもの、出来ないものは、たとえそこに何かが存在していても私たちの心には現れてこない。つまり「ない」のですね。

 

また一方で、実在しないもの、想像によって生み出されたものであっても、意識に昇るすべてのものは、私たちの認識である訳です。

 

得体の知れない不安や恐れもまた、認識ですし、予感や、予兆といった心理的な要素、感情にたるまで、私たちのなかに生まれる一切のものは認識の対象となるのです。

 

そしてその認識が私たちの心を色付けていく。

 

喜怒哀楽の現れは、まさにその認識に基づいていますね。

喜怒哀楽には原因がある。その原因となるのが認識に他ならないわけです。

 

誰かに服を破られたという事実があったとしましょう。

この時、

これで新しいものを買ってもらえるという認識に至れば 「喜」となり、

無理やり破られたと認識すれば 「弩」

古くなっていたからと思えば 「哀」

こんな服にこだわらなくてもと思い至れば 「楽」

 

というように、認識はその根幹にあって心を決定付けているのです。ものごとはすべて考え様という訳です。

 

 

では、この認識はどのようにして生まれるのか、下の図を見てください。

最も単純な、心の構造は、自・他の二つから成り立っているということですね。

そして自分に対する認識は、意識に照らし出されたものに向けられますし、

他分に対しては、光に照らし出されたものが認識の対象となっているという説明がこの図で示している意味なのです。

 

この図で示した意識とは、言うまでもなく、自分の体内を照らし出す意識、つまり自己意識に他なりません。

 

この自己意識に照らし出された、身体的「快・不快」を私たちは自分の体感として認識するわけですね。

 

眠い、速い、暗い、眩しい、重い、暑い・・・・

私たちの日常に起こるすべての感覚は、身体的「快・不快」を照らし出す自己意識が働いて認識しているのです。

 

この内面に起こるドラマは、自己意識という閉ざされた空間の中で認識される、まさに個人的体験というほかはありません。

このシルエットを自分だと思えば内面が見え、自己意識を認識しますが、

シルエットを他人と思えば、私たちはその外面を照らす光を使って認識するほかはありませんね。その内面はただ推し量るほかないことになります。

 

認識とはこの意味で、完全に閉ざされた自己空間の中から出ることはありませんし、他から誰かの認識が直接やってくることもない訳ですから、認識は永遠に孤独であるということをまず知らなければならないわけですね。

 

これは万人に等しく与えられた現実であり、私たちが物質存在であるということの宿命と言わざるをえません。

 

余談ですが、自分は孤独だと嘆いている諸子に一言、

孤独は当たり前で、万人のもの。だから孤独を嘆くあなたは全くの一人前です。立派な私たちの仲間。

有意義な孤独との付き合い方を

一緒に学ぼうではありません^か^。^

 

 

さて、このように、認識は心の根幹にあるわけですが、その認識の特性は何か分かりますか?

 

認識には、評価がついてくるということです。

「よい」「わるい」「普通」「わからない」・・・この評価が認識によって心の色が変わる原因なのですね。

冒頭で紹介した、服破られ事件で生まれる様々な心の色は、認識した事実を評価している現れです。

 

このことは、あとでゆっくり話すこともありますので、これ以上いいませんが、

いいたいのは、この認識の生み出す評価の最も原初的なものが、身体的「快・不快」だという訳なのです。

 

この部分で認識は物質とつながっているということを強調したいのですね。

やがて人は成長して、この身体的「快・不快」から精神的「快・不快」を生み出し、物質とは縁の切れた世界をつくりあげますが、

そこに生まれる苦悩に対して、私たちは回帰して癒される場を見失ってはならないということを真っ先に示したかったわけです。

 

心は認識を通して、物質=実在から、様々な偶像を生み出します。

その必要性を認めながら、しかしその反作用で生まれる苦悩を、私たちは時間の概念がつくる四次元の世界に見ないわけにはいかないのです。

 

次回、この精神的「快・不不快」が生み出す認識の世界に旅立つことにしましょう。

どんな風景が見えてくるのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

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心の方程式 物質から心へ(3)

2017-03-21 | 五次元宇宙に生きる(物質)

銀河宇宙ワタシハイツモシンピヲカンジル

 

サッカーボールの宇宙モデルが示すように、この世界は、空間に物資が浮かんでいる。

これは、何度も取り上げていますが、私たちそのものも例外ではないのですね。

 

私たちの実感は、この現実世界でそんな馬鹿なことないということになりますね。

実際、この地上で浮かぶことは出来ませんし、窓から飛び降りたら、それは自殺行為です。

 

しかし私たちの認識は、文明の発達とともに地上という小さな領域を超えて、宇宙を視野に入れました。その視野から見ると、私たちは地上にいながら、空間に浮かんでいることを知るのです。

地上に立っていると思うのは、実は地球の重力が私たちを引きつけているだけだったという理解は、天動説が信じられていた時代には考えられないことだったでしょう。

 

私たちは立っているのではなく、釘が磁石に引き寄せられるように、地球に引きつけられているのです。そう思って。地球の裏側の人の姿を想像すると、ユーモラスにさえ思います。

 

当然、足と地面の接点は、ミクロのスケールで見れば地球の素粒子と、ヒトの素粒子の間に宇宙に匹敵する空間がありますし、私たちの身体そのものが、ミクロ宇宙に浮かぶ人型素粒子銀河なのですね。

人間の身体を作っている基本的な原素は炭素だそうです。

呼吸によって酸素を取り込み、二酸化炭素を排出する。身体の内外を結ぶ新陳代謝の根幹にある元素だと言えば、だれもが納得できることだと思います。

その炭素Cは、見事なサッカーボールをつくるそうです。

  有機化学美術館 にある サッカーボール分子・バックミンスターフラーレン にもその図が紹介されています。

 この炭素分子が集まってヒト型銀河をつくり、酸素分子をとりこみながらエネルギーを生み出していのちの営みを繰り返しているわけですね。

 

ここで、当ブログの記事(物質から心へ)につながるわけですが、そこで積み木に例えて、物質がいのちを生み出し、やがて心に向かう構図を描きました。

 

あらためて、その積み木を、炭素のサッカーボールに置き換えてイメージしていただけたらと思います。

 

さて、この(物質から心へ)で書きました記事の中で、いのちが生まれるメカニズムの柱として考えたのが、組み立てられた身体の不安定性でした。

常時酸素を供給しなければ維持できない飽和状態の構造物。これがいのちの物質的な側面なのですが、このシーソーのようなエネルギーのバランス運動が、「快・不快」として色付けられることで、こころの芽生えを見ることが出来ると言いたかったのです。

 

しかし、

この「快・不快」は、まだ身体という物質から離れることはありません。

心が私たち人間のものとなるには、ここから成長しなければならないのです。

 

つまり、

いのちを維持しようとして生まれる「快・不快」を身体的「快・不快」と呼ぶなら、

心とは結局、身体的「快・不快」が精神的「快・不快」に成長して行く風景を見ていかねばならないということなのです。

 

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心の方程式 物質から心へ(2)

2017-03-20 | 五次元宇宙に生きる(物質)

 

ところで、サッカーボールの続きです。

サッカーボールは、見てのとおり、五角形と六角形でできた球体ですね。

 

この五角形と六角形の各辺を交わるまでのばして行くと、星型が出来ますね。これが二つの星型、いわゆる五芒星、六芒星というものです。

 

五角形から出来る五芒星は一筆書きが出来る形で知れれていますし、

六芒星は二つの三角形が重なってできた形ですね。

 

あらためて、下記サイトを見て頂ければ、この形の歴史と、特殊性は分かって頂けると思います。

【魔法】六芒星と五芒星の意味を探求する

 

そこから得られるイメージは次のとおりでした。

つまり、

五角形は、五次元宇宙の物質の在り方を表しているということ、

この宇宙モデルは、いわば、物質を説明する形なのですね。

これを五角形=物質といたしましょう。

 

すると、六角形は空間を説明する形だということが出来るのです。

それは、この六角形が宇宙の根源をイメージさせてくれる、相対性を含んでいるからです。この相対性は、物理学でいう超相対性につながって行くように思われ、それは振動するひも理論の出現で、私のような凡人にでも、空間から物質が生まれていく様子をイメージさせてくれる訳です。

つまり六角形=空間ということです。

 

 

そこで、サッカーボールをもう一度見ていただくと、

五角形と、六角形の配列に、あらためて気づかされることがあるのです。

つまりこういうことです。

物質である五角形をご覧ください。

この五角形=物質に隣接する形は、すべて六角形=空間であることが分かりますね。

つまり、空間に浮かんでいる訳です。

 

そして六角形はどうでしょう。

一つおきに各辺は、五角形と六角形につながっていますね。

つまり、六角形は、五角形を包み込みながら、自らは互いにつながって一つの存在となっている、これが空間なのですね。

 

サッカーボールはその意味で、とてもよい、五次元宇宙の立体モデルなのです。

 

五角形の宇宙モデルで作った、正十二面体です。

ここにに現れてくる円形の白地が分かりますか。

観方によっては、大小さまざまな円が、五角形を取り囲むように見えますね。

つまり、この白地が、六芒星に相当すると考えられるというわけです。

 

単なるモデル上の話しですが、宇宙の不思議を形にして理解したような気分になりますね。

正しいとは言いません。

 

このモデルが絶対だと考えた瞬間に、私たちは真実を逃すことになりますから、念のために言っておきますが、

これは私たちの、心とは何かという探索に必要な宇宙の一つのイメージとして理解していただきたいと思うのです。

 

 

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心の方程式 物質から心へ(1)

2017-03-19 | 五次元宇宙に生きる(物質)

2012年個展 Waa Concept(キャンバス・サッカーボール・鉛筆)

 

 

せん先日の記事で、自閑さんから頂きました言葉が忘れられません。

「心の方程式」

 

「物質から心へ」をテーマに書こうとしていた矢先のことでしたが、仕切り直して、あらためてここから初めてみたいと思います。

 

表題の展示風景は、2012年の個展ですが、言うまでもなく宇宙を表現した組作品です。

この作品には、ある偶然がありました。

子供が小学生時代にやっていたサッカーボールが、創作熱に浮されている最中に出てきたのです。

何のためらいもなく、ボールに下地を施し、サッカーボールを絵にとりこみました。それがこんな作品になったのですね。

 

ところが最近、このサッカーボールが、心の中に再びやってきました。

今度は実体のない、単なるイメージとしてですが、

 

その発端は、私の考案した五次元宇宙のモデルを公開したときでした。

物質とは何か(8)

この正五角形を見て、

まかこさんから、五芒星・六芒星 を指摘して頂きました。

そして教えていただいた雪の結晶の不思議な六角形。

そんな経緯から、次のようなサイトを知り、ました。

【魔法】六芒星と五芒星の意味を探求す

 

要するに、

六芒星は▽と△を重ねた形であり、これは宇宙の根源を表した形として理解できるというものでした。

そして、五芒星は、五次元宇宙の、物質の配列を表した、私の宇宙イメージであり、上記サイトによれば、阿部清明の陰陽道にもつながるという。

 

さて、サッカーボールに戻りますが、ご覧ください。

この見事な五芒星と六芒星の結合。

 

宇宙の根源である、六芒星の形と、宇宙の成り立ちを表す五芒星が結合知ると球体になるのです。

 

そして心。

 

「私」を中心に広がる心の世界を思い描けばどうですか。

「私」から一番遠い場所にある点を思い描いて行くと、それはどんな形になります?

一番遠いところにある点。

それが無数に広がると、それは球体ですね。

 

これはけっして偶然の一致ではないと私は思います。

 

心は明らかに、この宇宙と密接に関係を持っている。

もっと言えば、

心とは宇宙そのものという私の直観。

 

それを形で示してくれるサッカーボールに出逢った喜び。

これはすべて、

私の思考に付き合って下さる方々の発案のたまものであり、

そこにこそ、サッカーボールのような心の結合を感じるのです。

 

皆様と共に、心の方程式を探す旅に出ていくことにいたしましょう。

引き続きよろしくお願いいたします。

 

 

 

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コメントに触発されて 心の方程式

2017-03-17 | 五次元宇宙に生きる(物質)

 

 

先日、Xさんから、とても深い質問を受けて、お答えする記事を書きましたが、そこにいただいたコメントには、言下に励ましの心を感じましてありがたく、心温まる思いをいたしました。御礼申し上げます。

そして何より、真摯に疑問を呈していただきましたXさんに対して、あらためて御礼申し上げます。私自身、そのことで再確認することがたくさんありましたし、とりわけ、当然と思っている事に対しては意識を向けない自分がいることに気付かせて頂きました。

 

さて、そんな中、アッと驚く考え方をコメントにして届けていただいたことに、触れないわけにはまいりません。

是非皆様と共有させて下さい。

それは自閑様から頂きました次のようなコメントです。

(全文そのまま掲載します)

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神の想像への理解(自閑)

神の想像への理解は、物理学者、数学者は神の数式に依って顕れると言うのが宗教
哲学者は、存在への問に因り人の行き方を答を求め神を理解しようと言うのが宗教
宗教学者は、信仰により神の存在と神の想像を理解しようとしている。
では、画家は?
神の想像を表現しようとした時に、その物の本質を知りたいと願う。美しさも神の想像の一部だから。それが宗教
レオナルド・ダ・ヴィンチは、生きた人を美しく描くために、その本質を知るために死体を解剖して教会から迫害された。
所がどんな4つの力の方程式を求めても、心の方程式が無い。次元を増やしても、時間軸を加えても。対称性を解明しても。
と生意気に思っております。
計算式で出来た絵をのしてんてん様の心は、怒りとともに消し去り、心の形を表現したとblogに書かれていましたね。
これからも心の方程式ののしてんてん様の表現を楽しみにしております。

(文字色は私の操作です)

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このコメントで、「宗教」の言葉が多いので、おや?と思いましたが、読み返して気付きました。

赤色で示した「宗教」は、「信念・心情」、あるいは単に「信じること・信仰」という意味でつかわれていることが分かったのですが、

そのとたん、私は、自閑さんの観ている風景が突然目の前に現れたという感じで引き込まれてしまいました。

自閑さんのコメントを、私の言葉に置き換えさせて頂きますと、

 

神(宇宙)に対する理解の道筋はいくつかある。

 

科学者は、数式(法則)の中に神の意志があると信じ、

哲学者は、存在の理を論理で解明しようと道を探る。

宗教者は、信仰によって神に近づこうとし、

画家(芸術)は神の本質を求めて美を追求する。

 

しかしこの四つの道のどこを探しても、心の本質は見えてこない。

宇宙を論じても、新たな次元(五次元)を見つけても、それはすべて心の中にある問題に過ぎない。

この四つの道には、心の方程式は無いのだと。自閑さんはいいます。

 

のしてんてん=心

私が絵を描き、思索を続けていることは、まさにこの、心の方程式を求めてやってきたことだったと、電気ショックを受けたように理解しました。

 

私ですら、言葉にして気付きもしなかったことを、それを自閑さんが、見抜いてくださった。

 

ありがたいことです。

 

「心の方程式」

それは物質から始まるのです。

物質から心へ  

の記事を書きはじめた、このタイミングで頂いたこのことばに、えにしを感じます。

 

計算式でできた絵を怒りと共に消し去った後に、私に残ったのは、今この瞬間に、延々と運動を繰り返している呼吸だったのです。

 

失望のどん底で、うずくまっていたこともありました。

その時、全てを失ったと思う絶望の中で、さりげなく細々と身体を打ち続ける脈動に気付いたのですね。

 

いつも最後に返ってくるところがそこにある

漠然とした、存在感

透明の心が、眼をそらすと見えてくる

そんな感じで、私は心と出逢ったのです。

 

 

 

 

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物質とは何か Q&A

2017-03-15 | 五次元宇宙に生きる(物質)

秋のはな カノコソウ

 

手厳しい質問がまいりました。今日はその質問にお答えします。

 

{問}---------------------------------------------------

物質とは何か、物質から心へ等、内容はもっともらしい気がしますが、所々であなたは学者ではない旨の記述をしています。

これは、反論を避けるためとしか思えないのだが、如何?

 

あるいは、それを認めるとして、

ではあなたは、何に基づいて記事を書かれているのか、それがわからなければ、賛同も反論も出来ない、無責任な散文ということになります。

一体あなたは何者ですか? 

                       -X-

 

 

{答}------------------------------------------------------

心にサンドバックを投げ込まれたような質問ですね。

しかしXさんの質問は、まったくその通りでした。公開して論理を書く以上、それは基本中の基本なのでしょう。私にも分かります。

私としては、絵描きによる自己追求という思いをそのまま記述してきたのですが、それは私の勝手な思い込みというものですよね。

その思いに気付かせて頂きまして、ありがとうございました。

まずは御礼申しあげます。

 

まず、学者ではないというとこですが、

これは私の凡人的発想です。

つまり学者の話しということになりますと、専門的に研究された権威から賜るという感じがあって、つい自分の考えを止めて受け留めてしまうというイメージが私にはあるのです。

ですので、私としては、そういう感じて受け取るのではなく、これを契機に自分で考える、思考体験をしていただきたいという思いが一点。

そして私自身が、学問の体系から外れた気軽さで、自己追求しているものだという表明が、二点目です。

 

反論を避けるためと言われれば、半分は否定できません。

と申しますのも、これは学術を論じているのではなく、心を描いているものですので、いわゆる学術的な反論は意味がありませんし、私にはそれに応ずる能力もありません。

私はただ、

心とは何かという己の疑問に対して、出来るだけ論理的に、己に分かるように、己に応えようとしているのです。

 

それはマスターベーションだ。そんなものを人に見せるのか

 

Xさんの反論が聞えるようです。

しかしそこに私の信念があります。

つまり人はみな同じだということです。

 

人は個性を持って生きています。一人ひとり違うのが人だというのも私は受け入れますが、心の深い部分で私たち人は同じだという。信念です。

 

つまり、マスターベーションと言われるかもしれませんが、それを投げかけることで、人の心にも同じ波紋が起こると考えたいのです。

私は自分の心の確信出来たものだけをを、同じと思える人の心の深いところに届けることで、なにがしかの波紋が生まれると信じているのです。

 

それは私が絵描きだということと全く同じ感性からきています。

 

絵を見ていただくことで、心の深いところに訴えかける。

五次元思考は、言葉で、心の深いところに届ける。

 

何を?

 

己がしあわせを感じるもの。

本物の幸せと思うものをです。

 

ですので、Xさんの後段の質問ですが、

私の一連の記事は、学術体系に基づいているのではなく、もっぱら、私自身の自己探求によって見えてくる風景の記述だと言えば、ご理解頂けるでしょうか。

 

ですから、反論や賛同ということではなく、Xさん自身の心の風景を私は共有したいのです。

どうか、私のこの記述(風景)に接して頂いたこのご縁に、Xさんご自身のお心がどんなふうに共振しているのかを観察していただきたいのです。

そしてできればそれを皆様と共に共有させていただいて、ともに心のさらに深いところに進んでいきたいと願うのです。

 

私の論理に惑わされす、それが何に基づいていて正しいのか過っているのかという思いを巡らす前に、Xさんの心が何を感じ、どんな風景を見ているのかを検証していただきたいのですね。

そして、それだけが、私の記事の中にある真実なのです。

 

繰り返しになりますが、

真実は私の書いた文字にあるのではありません。それによって広がったXさん自身の心の波紋です。

それが共振か、反発か、Xさんにしかわからない心の真実ですし、人はみなそれどれの心にある、その真実にしたがって生きていくしかない。

その先に至福があると私などは信じている訳ですね。

 

質問に答えられたのかどうか、心もとないのですが、私の正直な思いです。

 

その上で、お前は何者かという問いにお答えしますと、

 

私はおそらくXさんと同じ、ヒトという他はありません。

どこかで、私は探求者と答えた覚えもありますが、

同じ意味です。

 

 

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物質から心へ

2017-03-14 | 五次元宇宙に生きる(物質)

 

物質とは何かから少し間があきましたが、ここから私たちは心に向かって視点を変えていきたいと思います。

 

私たちの身体は、確かに物質からできている。これは疑いようもない事実ですね。

しかしそれで私たちが満足できるはずがありません。

 

なぜなら私たちの日常は、ほとんど心によって動いているからです。

そして心は、物質とは言い難い。これも疑いようもない事実ですよね。

 

心は物質ではない。

すると私たちの今までの考え方からすれば、心は空間に属するということになります。

 

単純に考えればこういうことになります。

 

つまり、

空間から物質が生まれ、素粒子が互いに引きあって集団をつくる。

空間に素粒子の人型銀河が出来上がる。

素粒子を一個の積み木に例えれば、いくつもの積み木が構造物をつくり、いのちが生まれ、これ以上積み上げられない物質の限界にヒトが出現した。

しかし物質は高度になれば、逆に不安定度が高くなる。

鉱物などは、永久に安定して変化しないのに対して、ヒトは、数分間呼吸出来ないだけで崩壊してしまう。

いのちは、この不安定性から来る新陳代謝だと考えられます。

 

さらに進む物質の進化は、脳をつくり出します。

高度に進化した脳は、物質の制約からさらにステップを上げて、エネルギーそのものを加工できるようになる。

 

身体の生理的現象は、物が物を変化させるに留まるのに対して、

身体の心理現象は、頭脳という物質が空間を変化させ、空間が空間を連動させると考えられます。


物質は最終的に頭脳をつくり出すことで、空間を加工する力を得るようになった。それが心の根源だと私は考えます。

 

空間とはエネルギーですから、

人間は頭脳を得ることで、己のいのち、つまり身体の生態系に生まれる命のリズムや変遷を、エネルギーの色として理解できるようになった。それが身体に生まれる「快・不快」なのです。

つまり、

「快」とは、いのちを保存する方向に生まれるエネルギーです。

これは宇宙と共鳴する身体エネルギーともいえ、自己意識が宇宙意とシンクロする状態と言えます。

 

「不快」は、逆にいのちを破壊する方向に生まれるエネルギーと考えられます。つまり「快」とは真逆の、自己意識と宇宙意識の対立、混乱と言えるでしょう。

いのちは、宇宙との共生を至福とする運動であり、「快・不快」はその道しるべとなっているのですね。

 

至福に至れば、私たちは物質と空間を対立概念で観ることはなくなり、まさにそこに、色即是空の世界が実現するわけです。

思考によって、私たちは初めて、自己意識と宇宙意識の壁を越える。

 

しかし無論これは今だ、訪れているわけではありません。

その線路に乗って、今物質は、初めていのちを与えられた訳です。

 

「快・不快」はそのための最初の第一歩ということなのですね。

するとたとえば呼吸を例にとればこんなふうに説明できます。

① 体内に酸素を取り入れる。するとこれは、身体にとって「快」のエネルギーに他なりませんね。

②炭素と反応して新しい力が生まれますが、
出来た二酸化炭素は体を阻害するため、それは身体にとって「不快」エネルギーとなるわけです。
 
③必然的にその二酸化炭素を排出する運動が起こります。言うまでもなくそれは「快」感として色分けされますね。
 
④しかし今度は、身体が酸素を要求します。それは体内の酸素不足という「不快」感が頭脳に働きかけるからなのでしょう。
 
こうして、再び①の運動が起こり、④に至って①に返る。「快・不快」のエネルギーが交互に現れることで命がつながって行く。
 
この身体的「快・不快」が物質から離れて、心をつくる根源となっていくのですね。

 

さらに、「快・不快」から生と死のメカニズムを考えると、

 

図のように、

体内に起こる「快・不快」は、眠りによって癒されますが、目覚めて活動しはじめると、「快・不快」のふり幅が大きくなっていくと考えられますね。いのちのシーソーが大きく揺れ動くようになる訳ですね。

 つまり、命の不安定性が一日の活動で最大になり、それを眠りで癒すというリズムを繰り返しながら生きていくわけです。

この生命活動を、私たち人間は、「快・不快」のエネルギーという形で認識し、これをベースにして心をつくりあげていくのです。これがいわゆる思考とつながって行くのですね。

 

目を閉じて、身体に起こる快不快を体験してください。

呼吸がその最も顕著な例です。

というより、私たちは最も身近に、それこそ呼吸それ自身として生きており、「快・不快」の色を見て生きているのです。

呼吸こそ、物質の最先端。不安定性の中で、宇宙とシンクロしようとしている赤裸々な姿なのですね。

 

当然、死は、生態系そのものの崩壊ですから、身体は安定した物質に変わり、当然そこには、たとえ自己意識はあっても「快・不快」は現れないことになります。

 

 

 

 

 

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物質とは何か(9)

2017-03-11 | 五次元宇宙に生きる(物質)

(物即是空・空即是物)

 

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物質即是空間!


空間でもある物質は、
想念では空間に観えるものの、

実際にはどうして、
物質は空間には見えないのだろう
意識のスケール変化によって、
変化するのだろうか、と言語化静止の句読点

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まかこさんから、上のような句を頂きました。

コメントの抜粋ですが、確かに、素朴な疑問ですよね。核心に向いた素朴な疑問は言葉を失うという実感を、私も体験いたしました。

布団の中で考えながら眠りまして、

目覚ましの音で目覚め、浜に向かう道すがら、ようやく頭に浮かんだ一筋がありましたので、それをまとめて見ます。

 

①低い意識の中で答えを見つけようとすると、

それは物質の間にある空間は小さすぎて見えないから。つまり素粒子を結び付けている空間は小さすぎて見えない。

けれど、そこに集まった素粒子は無数に集まっているので、見えないほど小さくても、一つのかたまりとしてに見える。

それが、空間は見えないのに物質だけがあるように見えるのだということでしょうね。おもしろくない説明です。

 

②これを見方をひろげて考えると、

物質の中の空間が見えないのは、物質である目 で見ているためだとも言えますね。

私の眼、これは明らかに物質ですね。

実際、物質のスケールは不変。私の身体のスケールは不変というのは常識ですね。

私たちの言うスケールの概念は、意識の中の話し(五次元)ですから、物質(三次元)とはまさに次元の違う話です。

自在にスケールを変えるという五次元世界から見ても、物質は三次元に留まったままで、大きさは不変だという訳です。だからこそ、スケール軸に沿って様々な物質の姿が見えてくるのですから。

 

つまり物質の目は、己の大きさを基準にしてしか見ることが出来ないわけですから、直に見ている物質の中にある空間は網膜に映らない。

そして映らないものは見えないということです。

ですから眼は、小魚の大群を一匹の大きな魚にしか見えない、スイミーの世界をつくり出すのですね。

 

③これを五次元の目で見たとき、

まかこさんがおっしゃるように、想念で観えるということになるのですね。

物質の中の空間は、この意味で、次元の高い空間だということが出来ます。

つまり物質の中の空間が見えないのは、その空間の次元が高いからだということが出来るのだと思います。

 

そして何より、

眼で見ることのできる、光に照らされた世界の認識と、

意識で観る世界の、どちらがより真実に近いかと問われれば、私たちは間違いなく意識で観る世界を取るでしょう。

 

目で見るのか、心眼で見るのかの違いですね。

 

真闇を体験できる施設が人気だと、最近新聞 記事にありましたが、何も見えない部屋に入れられると、最初は分からなかったものがだんだん観えてくるようになる。

視覚がなくなることで、かえって真実が見えてくるということが書かれていましたが、納得できます。

心眼で見ると、物質の中に無数の素粒子が見え、私たちをすべて受け入れてくれている空間が見えてくる。

それが五次元の力だと言えるのかもしれません。

 

 

 

 

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物質とは何か(8)

2017-03-09 | 五次元宇宙に生きる(物質)

(カノコソウのゆりかご)

 

宇宙に存在するものを区分すると、空間と物質ということになります。

そして最も単純にイメージすれば、空間に物質が浮かんでいるということですね。

 

それを視覚化すると、何度も紹介しますこれ、

このモデルは、スケール軸に沿って見られる物質の変遷を現したもので、一つの黒点をヒトとすると、全体の大きな五角形が神ひとに相当すると説明しましたね。

 

それを立体化すると、こんな正十二面体となります。

この形は、宇宙を立体的に把握するのに役立つかもしれません。

 

 

さらにこのモデルを、平面にひろげていきますと、

これはいくつの宇宙モデルが集まったと思いますか?

左下のまるでかこった部分が一枚の宇宙モデルです。ここまで大きくなると、五つある黒い点は一つにしか見えませんね。

この大きな宇宙は、スケール軸の1.5サイクルを表します。

一番小さな黒点をヒトとするなら、赤丸が神ひと、次の五角形が第二の神ヒトの細胞、そして組織に相当します。

 

では第二の神ひとはどんなモデルになるのか。 

 これで六畳の部屋いっぱいです。これが、モデルの黒点をヒトとしたときの、第二の神ひとの大きさという訳ですね。

自分でも頭がおかしくなってきて、どこかで間違っているかも知れないです。間違いがあったらご指摘をお願いします。

 

ところで気付いていただきたいのは、その大きさではなく、実はこの写真で言えば、畳の見えている部分です。

このひし形をした空間は、スケールの小さな部分にも表れていることに注目してほしいのです。

 

このひし形の白地の空間は実は、「1なる存在」と「1なる存在」の隙間であることが分かりますね。つまり、この空間は「1なる存在」の外側にある空間と考えられるのです。

そして実は、

数学的に、このフラクタルの空間をすべて足すと、最後には空間だけになるというのです。

つまり、物質と空間は、スケールの限界点で、内側と外側の空間が一つになるというのだそうです。

無論私にその正否は分かりませんが、

こうして実際にモデルをひろげて行きますと、なんとなくわかる気がいたします。

 

ところで、私たちの物質考はそこまで行くのではありません。ここに紹介したのは、物質の世界の大きさを、体感で味わっていただきたかっただけですので、寄り道をさせていただいた訳です。

 

ただ、物質はこのような世界をつくっているとイメージすると、人とは何かを考える大きな支えとなるのです。五次元の概念が見せてくれる世界と言えます。

 

次回は、そんな宇宙観を背景にして、私たちが実際体験する物質存在の内側に視点をあてて、見ることにします。

 

 

 

 

 

 

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物質とは何か(7)

2017-03-08 | 五次元宇宙に生きる(物質)

出典:図解入門よく分かる最新宇宙論の基本と仕組み(宇宙137億年を旅する)



 

2016年2月1日の記事に使用した宙宙の図解です。小さくて観にくいのですが、この一連の画像を、スケール号の窓から眺めていると考えると、スケールの概念を身体で体験していることになります。

タイムマシンで時間旅行するイメージでも、旅行する人間は今のまま変わりませんが、スケール号の旅行も、自分のスケールはそのままで、まわりが変化するのです。


ちなみにその時の記事はこんなものでした

五次元宇宙についてQ&A (5)-2

物質をスケールの概念から見た姿の変遷ですが、重要なことは、たった一つのもの「1なる存在」を内側に向かって旅したもので、これらの風景はみな一身同体を違ったスケールで見た風景なのですね。


さて、前回の記事に2本のコメントを頂きました。抜粋して紹介しながら考えてみたいと思います。

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(むっちゃんさんコメントより)


・・・・ざっと読んだら樹海に迷うような……そんな印象がわだかまります。

あなたは在る。私は在る。
あなたは宇宙。空。もっというなら、神。
これを信じれば救われる、という神ではない。外側に在る、依存する対象ではない。
あなたが神、私が神。自身の存在をただ認める。在る、と。

わかりません、私なりにつかんだナウイズム…5次元の概念ですが。
これも……ヘンな宗教っぽい、かもしれません(苦笑)。
間違っているかもしれませんし、歪んで解釈しているのかもしれませんけど。

スケールの概念、が出てくると、うーん、そうかもしれませんけど……となってしまいますね、私は個人的に。
何故でしょう?
わからなくはないし、スケールの概念によって時間の呪縛から(少しは)自由になるだろうとも思います。
おっしゃること、わかる…気がしますが(笑)、すとんと胸に落ちない、のです。おそらくかなり最初から。
じゃあどうゆーたら胸にすとんと落ちるねん、と言われても、さあ…?なのですが。

そのうち、木の実が熟するように、すとんと胸に落ちるのかもしれませんけど。

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むっちゃんさんの反応はとてもよくわかります。すとんと胸に落ちるのは、おそらく五次元の世界が写実として理解できた時だろうと思います。


「あなたは在る。私は在る。
あなたは宇宙。空。もっというなら、神。
これを信じれば救われる、という神ではない。外側に在る、依存する対象ではない。
あなたが神、私が神。自身の存在をただ認める。在る」


ここに使われた言葉が、すとんと胸に落ちるためには、イガイガを取らないとどうしてもひっかかるのですね。

 

私が思うに、そのイガイガは、宗教的な道義や感覚だったり、自分に対する情念だったり、いろいろでしょうけれど、私が云っているのは単純な写実です。

 

物質の世界はこうなっている。そう言っているだけなのですね。

 

ですから、いろいろと体験したうえで、そのイガイガが取れたとき、ストンと落ちるでしょう。それは物語の上にもきっとあらわれてきます^よ^。何せ私は、40年もかかったのですから。

むっちゃんさんが物語から発見した「虚ろ」は、きっとその写実に向かう窓なのかもしれませんね。

 

 

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(まかこさんコメントより)


今ふと閃いたんですけど 

色即是空 空即是色は
物質即是空間 空間即是物質と
同様ではありませんか

つまり、
 
色すなわちこれ空なり 空すなわちこれ色なり
物質すなわちこれ空間なり 空間すなわちこれ物質なり
色即是空 空即是色=物質即是空間 空間即是物質
 
仏教での宇宙真理=五次元宇宙スケール概念
宇宙今空間円相螺旋!究極的には同様ですよね

阿吽~☆♪
アッ!と言ってウン!とうなずきました^よ^;;

 

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まさに、おっしゃる通りです^ね^。

 

色即是空は仏教が伝える宇宙の真理だと私も思います。

そして驚くことに、科学もこの宇宙認識に近づいているということですね。

 

実際私は、この色即是空に興味を持ちながら、経典の壁に阻まれました。一つを理解しようとすれば、あれこれの経典が必要ですし、私などその以前に、読み解くことすらできないわけですから、真理を知る前にいのち尽きる訳ですね。

教えを乞うなら、これも教団に身を縛られる。それも耐えられない性ですので、仕方なく宇宙のことを、自分のわかる言葉で考えてきたわけです。

ちょうど宇宙論のイメージが夢うつつの中で見え、急いでメモしたのが1977年、今から40年前のことです。

宇宙論が本にまとまったのが20年前1997年のことです。

(宇宙論の概要はホームページに掲載しています)

それから現在までの20年間は、ひたすら、自分の中でその内容を反芻しておりました。私の創作活動はその糧であり、道場のようなものだったように思います。

 

そして、まかこさんの阿吽のごとく、五次元宇宙は、色即是空と科学を橋渡しする位置にいることに気付いた訳です。

つまり、

五次元は、その両者を受け入れることのできる、私たち一般人の土壌となるのではないかと思えたわけですね。

 

いずれにいたしましても、真実は私たち一般人にだって、真実なのですから、私たちの理解できる言葉で理解したらいいのだと思うのです。

 

そんなわけで、今日は、お二人のコメントに

感謝と、御礼をこめまして、書かせてもらいました。

ありがとうございます。

 

 

 



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物質とは何か(6)

2017-03-07 | 五次元宇宙に生きる(物質)

五次元宇宙モデル

 

上の図は、物質とは何か(4)で使用したものですが、物質がスケールの空間で見え方を変えていく仕組みを現したものです。

 

ヒトは素粒子(図の一つの黒い点)が集まって、細胞をつくり、細胞が集まって組織が生まれ、組織がつながってヒトの身体を作る。その過程を図で表したものです。

このヒトという複雑な体も、結局は素粒子の集団。真鹿子さん流に言いましたら、素粒子銀河なわけですね。

 

素ヒト⇒素粒子⇒細胞⇒組織⇒ヒト⇒地球⇒太陽系⇒銀河⇒神ヒト

これは五次元のスケール連鎖ですが、この連鎖を意識して、もう一度宇宙モデルを眺めてみてください。

この図の黒い点が一つの素粒子を表しているとすると、この全体の大きな五角形は地球に相当するのです。

そのスケール比は素粒子と地球を比較して計算できますが、私の計算で1の後ろに0が22個付く比率が考えられます。

(もとより、私は学者ではありませんので、その比率の正誤には無関心で、ただ大きさのイメージを数字で受け止めようとしただけの話しです)

 

いずれにしましても、この宇宙モデルは、スケール連鎖の1サイクルを表している訳です。点を素粒子とすれば、全体は地球ということになりますし、点をヒトと考えると、全体は神ヒトということになりますね。

 

 

ところで今回注目したいのはこのスケール連鎖と物質の内側の関係です。

 

 

下の図は、五次元宇宙のスケール連鎖を表にまとめたものです。

 

五次元のスケール連鎖は、同じ種類の姿が何度も現れてくる。つまり螺旋をえがいていると考えました。

 

この関係を表に現わしたのが8図という訳です。

物質はこの表のように、物質の最小単位である素粒子から始まって、ヒトに至る。この時大きく違っているのが、実はその内部に存在する空間(自己意識)なのです。

 

何が違っているのか。それを説明しますと、端的に言えば、収束する力が、素粒子からヒトに至る間に弱くなっているということなのです。

 

素粒子をつくりあげている内部の力は計り知れません。その一部は実際に科学の力で取り出されました。(実際には素粒子が収束して出来た原子レベルの話しですが)その力が真っ先に広島の20万のいのちを奪ったのは、あまりにも皮肉な話です。

この素粒子の内部に存在する空間(自己意識)は計り知れない収束力を持っている訳ですね。その力のために、物質の内部と外部は完全に遮断されていると考えられます。

つまりそこには生命の定義はあてはまりませんね。

 

それが細胞になり、組織になり、ヒトとなるうちに、収束の力は小さくなり、内部空間と外部空間の交流が始まるわけです。

 

そしてヒトに至って、物質の最高の形態が出来上がると、内部と外部の交流は常態化するようになります。呼吸がそのいい例と言えましょう。

 

物質の最高形態であるヒトは、ほとんど宇宙意識と同化する一歩手前で、己の体内に自己意識をひろげている訳です。

 

ところで、ヒトとしての構造物は、さらに特殊な進展を遂げます。それが頭脳だと私は考えるのですが、

ヒトの系が行き着く最高の建造物が私たちの脳だと思うのです。

 

頭脳は物質ではありますが、他の肉体と違う点はエネルギーを加工する力を手に入れたことです。

 

胃や腸、手足はどれも物質を処理するしかありませんが、頭脳は、物質でありながら、空間を処理する能力を持ったのです。

 

それが私たちの認識の力であり、思考力だと私は考えるのです。

そして当然ここまで物質が進化すれば、その内部意識は、ほとんど宇宙意識とシンクロ出来る状態であることは、想像に難くないと思います。

 

ヒトは私たちの頭脳を頂点にして、物質世界から認識世界に居住区を変えたのですね。

 

物質の進化は、人となって、物質世界から離れました。

長い歴史の中で、真実は逆転します。人間にとって真実は認識世界だということになってしまったのです。

そこに幾多の苦悩が生み出され、物質世界からは考えられない欲望をつくり出したのです。

そのために別の苦悩が生み出されるのですが、それはずっと後れて生まれてくるためにそれと気付かづに走り続けるのが人の姿と言えるかもしれません。

 

時間もまた、この頭脳がつくり出した認識世界の中心軸なのです。

私たちはこの進化のため、もはや物質世界に逆戻りは出来ませんし、手に入れた時間の概念を捨てることも出来ません。

 

私たちに出来ることは、さらなる進化をすることです。

それが五次元。

スケールの概念を手に入れることだと、私は思うのです。

 

 

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