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複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

凡人の語る宇宙論( アインシュタイン讃歌E=mc2)2

2020-03-03 | 般若心経を読み解く(五次元)

(6)五次元について 

五次元とは、世界を認識する方法のことである。物質の世界を知るには三次元でこと足りる。三次元人間とは三方向に向かう方位の概念を持った人間のことである。しかし彼には物質の変化が認識できない。それを知るためには時間の概念を必要とするのである。

かくして人間は時間の概念を習得した。四次元人間の誕生である。しかしこの四次元人間には空間の本質である空を認識できないのだ。空間の広がりは理解できてもその中身がどうなっているのかを認識することは出来ないのである。空間の中身を知るためには、その中に存在する物質と波の世界を統一的に理解する概念が必要なのである。それがスケールの概念なのだ。

スケールの概念を習得した五次元人間はまだこの世にはいないかも知れない。しかしそれを収得する可能性は大きいのだ。なぜなら、人間はすでに五次元の感覚に触れている。ジョナサン・スウィフトの「ガリバー旅行記」や先に紹介したSF映画「ミクロの決死圏」などの感性にはすでにスケールの概念が入っているのである。あるいは宗教的な世界では、五次元を模索する思考が数多くみられると思えるのだ。

いずれにしてもこの「時間」と「スケール」という二つの次元は、共に心の中で成立する概念である。三次元に現れる物質を心の中で認識するための座標を作るのである。

「時間」をX軸とするなら、「スケール」はY軸となる、これは心のXY座標と言っていいだろう。(次頁図参照)X軸に沿って時間が流れる。しかしY軸に沿って目を向けると、時間の流れは止まる。面白いのは数学で厄介者にされているゼノンのパラドックスだが、スケールのY軸を眺めれば見事に解決するのである。ゼノンの説は誤っていない。パラドックスや詭弁ではなくそれ自体が正論と言えるのだ。ゼノンは五次元を予言していたのだ。つまり五次元は古代ギリシャの時代から論争されてきた問題を解決して、ゼノンとアリストテレスの手を結ばせることが出来るのかも知れないのである。

(時間とスケールがつくるXY座標)

 

 

(7)物質と時間 

物質は三次元の存在である。それは物質が空間の中で、一つの場所を占める存在だからである。これを1なる存在と呼ぼう。1なる存在とは、数えることが出来る独立した存在という意味であって、素粒子も、花も、地球や銀河なども1なる存在だということが出来る。この宇宙も、最も大きな1なる存在と考えていいのである。

空間の中にある1なる存在は、高さ・横行・奥行きの三方向を知ることで立体的に知ることができる。つまり物質は三次元の概念で理解できると言えるのだ。

ところが私達のこの世界は、三次元で説明することは出来ないのである。物質は空間に位置を占めていても、永遠に存在することは出来ない。つまり動いているのである。

花は咲き、散って実をなし、その実が次の世代を生み出す。変化し続けている。これが物質の世界なのである。この物質の変化は当然ながら三次元の概念だけでは理解することが出来ないだろう。その物質が刻々と変化していても、その変化を段階的に比較して理解する能力は三次元にはないのだ。

物質の変化を知るためには、「変化」を理解するための新たな概念が必要となる。それが「時間」なのである。

変化は物質ではない。エネルギーの本質が体現したものだと言えるだろう。エネルギーとは物を動かす力であり、その力が世界を変化させているのだ。

 つぼみが色づき、花が咲く。そして果実が実る。この事実を理解するためには、つぼみ(過去)⇒花(現在)⇒果実(未来)というエネルギーの流れを理解する必要があるのだ。人はこのエネルギーの本質を見て「時間」と名付けた。時間の概念はまさにエネルギーの本質を理解し認識するための道具だったのである。

物質に現れる(過去⇒現在⇒未来)というエネルギーの流れを認識するために、記憶と空想の能力が使われた。この人間の能力を利用して生み出されたのが時間の概念だったと考えることが出来るのである。

  結局、時間とはエネルギーの本質を裏付ける言葉であり、物質世界の変化を認識するために取得した概念である。この概念が私達の頭の中に時間の流れとその世界を描きだしてくれるのである。

重要なことは、時間そのものに、つぼみから果実をつくる直接の力がある訳ではないということである。この世に時間という、何ものかが存在するのではない。ただ物質のエネルギーが存在する。時間は動的なエネルギーを変化として視覚化したものなのである。

これは、自然の営みを三次元では認識することが出来ないということを意味している。三次元人間にとって世界は、今という瞬間が静止した一枚の映画のフィルムのようにしか認識できないだろう。動きを想像することが出来ないのである。

その映像が動いていると認識するためには、時間の概念を身に着けることが必要なのだ。時間の概念があって初めて、つぼみが花に結び付き、やがて果実へとつながる、一連の美しい世界だったということを認識させてくれるのである。

その意味で時間とは、世界をより深く認識するための道具だったのであり、その収得は心の革命だったと言えるであろう。

物質(三次元)に、時間の概念を重ねあわせて世界を見る能力が四次元である。つまり時間の概念によって三次元人間が、四次元人間に進化したということなのである。

四次元人間は、時間という概念によって心の世界を大きく変化させた。世界認識を新たにしてたくさんの文化を築きあげてきた。時間を手に入れることで、三次元を超える大きな世界を認識し想像の世界を広げることに成功したのである。

しかし一方、四次元は人間に悔悟(過去)、不安や恐れ(未来)という、今まで知らなかった副作用をも与えてしまった。時間の概念を身に着けることで、心の中に苦悩を持つようになったと考えられるのである。つまり苦悩もまた時間の作用と言えるのである。

四次元人間は、その意識革命によって、宇宙と拮抗するほどの知識を身に付けた。しかしその裏側で苦悩の歴史を深く刻むことにもなったのである。

四次元人間とは、すでに見てきたように物質に意識を向けることで世界を理解しようと試みる。これを「物質人間」と呼ぶことが出来るだろう。その裏で生まれた苦悩から人間を救う試みも当然起こってきた。それが宗教や哲学だと言えるだろう。様々な宗教や哲学が苦悩する人々に救いの手を差し伸べてきたのだ。概ねそれらは、人間と宇宙の本質を見極めることで救いを見出そうとする願いのように思えるのである。もちろん様々な過ちも認めなければならないが、そこには禅のように空間を見据えて四次元を越えようとする真摯な探求もあるように思えるのだ。それはつまり人間の次なる成長を見据えているのではないかとさえ考えられるのである。

 

(8)空間とスケール

  人類は四次元思考を操って、今ある文明を作りだしてきた。この文明を物質文明と呼ぶことも出来るだろう。私達は物質人間である。しかし人類はまだ空間を総合的に理解していない。そこに新たな世界を考え得る余地が残されているのである。空間を観る概念を持てば、空間人間として世界を見ることが出来る。そんな可能性が残されているという事なのだ。最後にこの観点から人間と空間のつながりを考えてみたい。

今、空間について私たちが持っているイメージは次のようなものであろう。

①空間とはどこまで行っても果てがない無限の広がりである。

②空間は物質と物質の間にある目に見えない隙間である。

③空間とは宇宙空間、あるいは自分のまわりにある空気。

④空間とは呼吸の出来る気の広がり、あるいは運動の出来る場所。

⑤空間とは上下左右を含め全方向に自由に進める場所。

私たちの足元は空間ではなく地面ではないかと、つい思ってしまう。しかしそれは違う。私達は地球の重力に引きつけられているだけで、誰一人例外なく空間の中に浮かんでいるのだ。地面と足の間に空間はないと思うのは、見た目だけのことで、ジャンプして飛び上がれるのは空間に浮かんでいる証拠なのだ。確かにその身は宙に浮かんでいるのである。地球の裏側の人間が空に落ちて行かないのもそれを証明している。

空間のイメージを総合すると、世界を包んでいる無限の広がりということになるだろう。この「無限の広がり」というイメージこそ、四次元人間の持っている最大の宇宙観といえる。四次元思考では空間は広がりとして認識されるのである。

私達が見ることの出来る最も遠い場所、それは天空の星達である。何億光年も離れている星の光は、空間の広がりを時間の概念で理解させてくれるのだ。 

四次元の私達は空間をそのように理解しているのである。しかしこの理解はさらにその先の空間を連想させる。A点を想像したら、必ずその外側にあるB点が思い浮かぶ。つまり私達の頭の中に、無限の時間をかけても到達できない広がりをイメージさせるのである。これが空間なのだ。私達の頭の中はそんな空間の広がりでいっぱいになっているのだ。

時間の概念は、このように空間の広がりを目いっぱいに認識させてくれる。しかしその中身は見せてはくれないのである。

たとえば水平の概念は横の広がりを認識させてくれるが、縦の広がりをイメージさせてはくれない。それと同じように時間の概念は空間の広がりをイメージさせるだけで、その中身に思いをはせることが出来ないのだ。

空間の中身を認識するためには別の概念がいる。これが、スケールの概念であり五次元の世界観がそこから生まれるのである。

五次元は空間の中身を認識することが出来る。つまり空間による新しい世界観を持つことが可能となるのだ。空間の中身に目を向けると、何億光年離れている星でさえ、同時に存在しているこの身の一部として実感することが出来るのである。

空間の中身とは何か。そう考えを転じたら、頭は空間の広がる無限ループから解放される。空間を外から見るのではなく、内側から見る。実はそこからスケールの概念が扉を開くのである。

空間の中身とは何か、まずそれを考えてみよう。意識を空間の中身に向けたら、つかみどころのないことに戸惑ってしまうだろう。どんなに目を凝らしてみても空間を認識することは出来ないのだ。これが四次元人間の限界なのである。

しかし目を向けたら、そもそも空間には大きさも形もないということに改めて気付かされるだろう。

ドアもない真っ白な壁だけの部屋に一人閉じ込められたら、見えるのは白色だけで形あるものは自分だけとなるだろう。するととたんに自分自身でさえどんな大きさをしているのか認識できなくなるのである。壁がどこにあるのか分からないし、空間の広がりさえ分からなくなる。なぜそんなことが起こるのか。それは時間と同じように大きさというものも、現実には存在しない一つの概念だからである。時間は物質の変化がなければ認識できないし、スケールは比較するものがなければ大きさを認識できないのである。

①「大きいものは小さなものの中に入れない。」

②「小さなものは大きなものの中に入れることが出来る。」

この①②が比較の概念と言えるものであるが、この概念によって私達はものの大きさを認識しているのである。

それゆえに、空間の中に物質が浮かんでいても、比較するものがなければ私たちはその物質の大きさを知ることは出来ないのである。

大きさは比較する対象があって初めて成り立つ。したがって空間の中で大きさが特定できないのは、空間そのものに比較できるものが存在しない事の証なのである。

(ここでは空間の本性である波のことは考えない。あくまで目に見えるものだけで空間を考えてみたいのだ。)

ところでこの比較の概念が、スケールの概念につながるのである。物質が作る極大から極小の世界を一本の軸として認識できるのはこの比較の概念があって初めて成り立つのである。この物質のスケール軸を思い描くことで、様々な物質を取り巻く空間が認識される。すると物質を包んでいるものとしての空間が重層的に見えてくるのである。それが空間の中身だと言えるのだ。

つまり空間の中身というのは、物質の世界をスケールの概念で認識する「場」として心の中に見えてくるのである。それは、無限大から無限小の物質を包み込んで浮かべている場として認識される空間なのである。

ところで空間の中身はないのではない。それは見えないだけなのである。見えないゆえに中心もなく大きさもないという事なのだ。それなら別の方法でその見えない中身を探ってみることは出来ないか。

空間を一個のスイカだと考えてみよう。そのスイカの中心に自分がいると想像してみるのだ。すると赤い中身は空間である。空間は私から全方向に広がり、スイカの皮に至る。そこが空間の果てになるだろう。スイカの中心にいてその皮を思い浮かべると、皮は空間の最果てになる。実際のスイカの実なら皮を思い浮かべればその先は空間であり、そこでスイカを丸ごと認識できるだろう。ところがスイカの実が空間だとしたら、どんなに皮を思いえがいてもその外には必ず空間がある。どこまで行っても皮の外に空間という中身が見えてくるのだ。皮を思い浮かべればその外にまた皮を想像しなければならなくなる。空間はそれだけで頭がパンクする。結局空間は無限の彼方に広がっていくしかないのである。

この時このスイカの中身に思いを転じたら、パンク寸前の頭が急にしぼんで意識は赤い実の甘さに誘われるだろう。

その中身に目を向けたら、このスイカを切り分けたくなる。さぞかし甘い実に違いないという訳である。

このスイカの空間をどこまで切り分けることが出来るのだろう。半分に割って、さらにその半分に割る。スイカをどこまでも半分に切り分けてみるとどうなるだろうか。

半分にするということは一つが二つになるということ。するとその片割れもまた半分にすることが出来る。つまり空間は無限に半分、半分と分割して行けるのである。

しかしこれが本物のスイカなら(つまりこれが物質なら)、いずれ包丁も使えない小さな欠片になるであろう。それでも半分に分割していけば、やがて一粒の素粒子になってしまうだろう。これ以上分割は無理ということになるのである。

けれども空間はそうではない。どこまで行っても半分に切った片割れは空間以外にありえないのだ。つまり素粒子よりもさらに小さな空間にも分割出来るのだ。空間は、無限分割が成り立つ存在なのである。しかもどんなに小さく切り分けられた空間であっても、それは元の空間と同じ等質の空間なのである。極大空間のエネルギー波と同じ相似のエネルギー波が極小空間にも存在出来るのである。

ここでエネルギー波に意識を向けてみよう。すると空間には何の変化もないが、その中に存在するエネルギーの波長は、見えないところで変化していることが分かってくる。無限分割することで空間はどこまでも小さく切り分けられる。その意味するのは、空間の中に存在するエネルギー波の波長そのものが無限分割されていたという事なのだ。切り分けられた空間の違いがここで初めて理解される。すなわち波長の違いがスケールなのだ。

空間の中身を見たら、極大から極小につながる一本のスケールの軸が見えてくる。エネルギーの波長が極大から極小に変化して宇宙の中心に向かっていると考えられる。それゆえに空間もまたスケールの概念が適用されるのだ。というよりも空間こそスケールの概念を支える核心であったのである。つまりスケールの場とは、物質を包む空間のエネルギー波(波長)のスケールを指していたのである。

極大のエネルギー波と極小のエネルギー波、その波形はただスケールが違うだけであって、同じ波だと言える。どんなスケールの空間を想定しても想定したスケールの波長は存在するのである。これは科学も認めているのではないだろうか。

これがエネルギーの正体であり、空間の存在する本質なのだと思えるのである。

エネルギーは波であるゆえに、どんな形態であっても存在できる。スケールの違う相似形の波が存在する。これが五次元宇宙の正当に成り立つ根拠なのである。

ところが、スケールの違う波は、同じ形をしているとはいえ、その中のエネルギー関係は全く違っている。先に見たように、エネルギー波は波長と力の関係が反比例しているのである。波長は宇宙の中心に向かうほど小さくなる。しかしその力は逆に大きくなるのである。それが宇宙を存在させる要因にもなっているのだ。力は中心に行くほど強くなる。この構造が、空間を存在させてくれるのである。仮に内よりも外の力が大きかったら、宇宙は一瞬で内に向かって潰れ、空間の存在しない物質だけの世界になるかもしれないだろう。

ところで、現実のスイカは無限に分割していくことは出来ない。その原因は、スイカが物質だからである。

無限分割は、いずれ物質の根本であるたった一つの素粒子になるまで分割されるだろう。しかしここまでで分割は終わる。一つの素粒子をこれ以上分けることは出来ないからである。

しかし、もしそれでも分割したらどうなるだろう。

E=mc2 ⇒ E/c2=m 

上の式はアインシュタインの公式を変形したもので、何度も見てきたとおりであるが、これは物質が光とエネルギーで現されるという表明であった。空間に物質が現れるのは、エネルギーが回転軸を持って空間に一つのかたまりをつくるからであったのである。

もしもこの「m」を半分に断ち割ったらどうなるだろう?

そのとたん回転運動がなくなり、重力は光に還る。物質は光とエネルギーだけになる。すなわち物質は空間に戻るのである。

このことを空間の側から眺めたら何が見えるのだろう。

スイカを際限なく分割していくと、そのかけらは限りなく小さくなっていく。大事なことは、この時どんなに小さくなったかけらであっても、それは必ず空間に取り巻かれているということである。その小片はどこまで行っても空間に包まれていると言ってもいいであろう。

①、まるごとスイカを取り巻く空間 ②、素粒子を取り巻く空間 ③、素粒子が回転軸を失って還る空間。

①②③と、どんなスケールの物質であっても、そのスケールに対応した空間が常に存在しているのである。

さらに空間の特質で重要なことは、これらの空間が別々に存在しているのではないということである。それはどこにも継ぎ目のない一つの存在なのだ。つまり空間は分割さえ出来ない存在だということである。

前回「空間は無限分割が成り立つ存在」だと書いたが、矛盾している訳ではない。

「空間は無限分割が成り立つ存在」というのは、空間自体を切り分けるという意味ではないのである。

先に書いたように、物質である素粒子が半分に解体されると空間に還る。するとこの素粒子のあった空間にも E=mc2 が成り立っているのだ。空間である以上、E/c2=mも成り立ち、つまり物質(m)も存在すると考えられるのである。どんな小さな世界であっても、エネルギーはその回転軸から物質をつくることが出来るのである。

こう考えると、極小空間の中にも回転するエネルギーが存在し、さらなる極小の物質をつくり出して行けるのである。つまりここにも空間の中に粒子の浮かんだ宇宙が見えてくるのだ。想像力がさらに深く宇宙に届くのである。

この空想の中にある極小×極小の物質も例外なく空間に包まれているだろう。するとその中で再びこの物質を分割し続けることが出来るということになるのだ。

つまり無限分割を続ければ、スケールを極小に向かって物質が生まれては消えることを繰り返していくことになる。しかもこれはただ一つの空間の中で起こっていることなのである。

これが、「空間は無限分割が成り立つ存在」という意味なのである。

空間それ自体は 分割できない存在であるが、スケール軸に沿って物質を無限に分割していく場を提供しているということなのである。

空間の中身は、このように、スケール軸を思い浮かべることで見えてくる。つまり空間は玉ねぎを横半分に切ったときのように、無数の同心円をつくる物質の世界を宿しているということなのである。

このような空間の働きを理解するためには、エネルギーを波と考えるだけで充分なのである。空間は波である。空間の中には極大~極小の間のスケールの違う波が同時に存在している。波は空間の中で変幻自在に波形を変え、合成すことが出来るのだ。

正弦波にかぎって考えてみると、波はどんなスケールの空間にも相似形で存在するのが容易に分かる。空間はスケールの軸に沿って、相似形の波が無限に存在しうるのである。そう考えれば空間の中身は計り知れないスケールの世界である。

大きな空間では波長は長くなる。力はそれに反比例して小さくなる。逆に小さな空間では波長は短くなるだろう。短い波長は大きな力を意味する。

つまり宇宙の中心に向かって、スケールの軸は極小に向かう。波長は0に近づき、力は無限大に近づくのである。

逆に宇宙の外側に向かって、スケールの軸は極大に向かう。そこでは無限大の波長が空間となり、その力は無限に0に近づいて行くのである。

この時総量Eは、内側=(極小のスケール×最大の力)外側=(極大のスケール×最小の力)となっている。宇宙の総量Eは一定である。ゆえにこの内側と外側がイコール(=)で結ばれる。これが安定した宇宙の姿だと言えるのだろう。

E=mc2 はまさに宇宙が成り立つその根本にある素晴らしい数式だと言えるのである。

スケールの概念はアインシュタインの公式に基づいて、宇宙の構造を解き明かしてくれるのだ。空間をスケールの概念で観るということは、つまり宇宙の本質を観ることにつながるのだ。それは同時に、人とは何かという問題に対して革命的な働きをしてくれるのではないかと思えるのである。

 

終わりに

私が宇宙について考えた最初の記憶は、小学校高学年の時だ。4年生になると校舎が変わる。その校庭の裏庭から山が間近に見えた。いじめを受けていた時期だった。その前後の記憶はないが、私は一人で裏庭に立って山の稜線を眺めていた。

山は味方だと思った。その稜線の際が白めき、そのまま青空が続いていた。稜線の向こうから神様がやってくると思った。ふところに飛び込みたくなる優しさの塊のようなものだった。なぜそんなものを見ようとしたのか考えることもなかった。

「自然、自然、大自然・・・」夢の中で呟くように言葉が漏れていた。学友がそれを聴いていて、教室中に触れ回りはやしたてた。突然夢は破られた。

図書室に子供用の2冊の本が私の目を引いた。エキゾチックなイラストが添えられた旧約聖書の絵本と宇宙の写真集だった。

あの時山の向こうを眺めていたのは2冊の本から飛び出した精霊だったのかも知れない。

キリストの物語を描いたイラストと宇宙の写真は10歳前後の私の心に深い透明感を植えつけた。それは真理の色と、とけるような心のふるえだった。

夕暮れの屋根に寝転がって空を見るのが好きだった。茜色の空が深藍(ふかあい)に変るともう満天の星だった。その星に向かって落ちていく。そう思ってたじろいだとき屋根に押し付けられている自分の背中を感じた。私は地球に張り付いて宇宙に浮かんでいた。

この一文を書き終えた時、私はそんな昔を思い出した。

時は経ったが、それが過去の中に消えたのではなかったことを感じた。あの山端の境目に見た悠久の時は、今私のど真ん中にある五次元の感覚ではなかったのか。

あるいは稜線の白めいた空間に、純粋な神の姿をみていたのかも知れない。

この小論は、論理的ファンタジーである。私の感性から見た宇宙の姿であり五次元の概念から宇宙の視覚化を試みたものでもある。お読み頂けた皆様の中に、なにがしかの宇宙を感じて頂けたら幸いである。

                  

 

 

 のしてんてん鉛筆作家(北籔 和)

 


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