のしてんてん ハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

勝ちきる頭脳 井山裕太九段

2018-07-08 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

幻冬舎 発行

 

図書館で借りた本ですが、とても興味深い言葉を見つけましたので紹介します。

 

囲碁に対する態度、勝負への覚悟を綴ったこの本の冒頭の言葉が私の心に深く突き刺さりました。

なぜ言葉が突き刺さったのかと言えば、私の半世紀をかけた絵画創作という道行きの最後に、どうしても必要だった誰かの後押しが感じられたからです。

平たく言えば絵を通して自分の心を悟りの境地に遊ばせたいという私の願いに対して、その扉を開けてくれる鍵をそこに見る思いがしたから。と言うことなのですね。

 

この本の中で、井山九段は、自らの勝負師としての一つの覚悟を語ります。(赤字は以下「勝ちきる頭脳」からの引用です。もちろん黒字は私の想いです。)

 

その覚悟と言うのが「自分に対しての決め事」ということで、紹介されているのです。その決め事とは次の一文です。


「あとで後悔するような手だけは打たない。常に自分が納得できる手だけを打つ。」

これだけではあたりまえの事のように思えますが、その覚悟に至った勝負師の意識には目を見張る自己洞察と決死の意志があったのです。では納得とはどんな心持なのか、井山九段は続けます。


「では納得できる手というのは具体的にどういう手を指すのか?説明が非常に難しく、適切な言葉が見つからないのですが、あえてひと言で表現するなら「今」と言う単語に集約できるでしょうか。」

この「今」とは、私の考えではナウイズムそのものです。

つまり、納得するという心は過去にも未来にもない。まさに「今、この瞬間」にある己の思いや閃き、あるいはこの瞬間に見えた勝利への道筋に100%の信頼を置くということだと言えるでしょう。

今この瞬間こそが最善であり、それ以外に真実はないというナウイズムの考え方ですね。

 

 さらに説明は詳細になっていきます。

「一手一手目の前にある局面で最善を尽くす」

大事なのは、まさにこの、今なのですね。勝敗に大して影響を与えないと思えるような場つなぎの一手であっても、けっして手を抜かずボーっとした石は打たない。一手一手に込められた最善手を打ち続けると言う表明です。(プロに場つなぎはない・・そこツッコまないでね^)^


最善と思って打つということは

「自分はこれがベストと思うのだから、この後どんな結果になろうとも、それを受け入れる」と言う覚悟を持つ ことだと井山九段は言います。


そしてここが最も厳しい、覚悟の表明と言えましょう。そしてその厳しさなくしては己の最善を保つことは出来ないのですね。

私が真実の絵と思い定めて描き続けている鉛筆画の世界にも100%重なる部分なのですが、私などは井山九段より半世紀近い前から生きてようやく見えてきた境地だと考えれば、一抹の恥ずかしさを覚えないわけにはいきません。

同時に真剣勝負の世界は20代の若者をして悟りの境地に至らせる厳しさがあるのだと思ったりもするのです。

 

今この瞬間、自分の思えるベストの手を打つ。そう決心すると、たとえ

一局の碁に敗れたとしても、「この一局に全力を尽くしたのだから後悔はない。」・・そして負けてもそう思えるだけの勉強と準備を怠らないこと。

井山九段のこの覚悟は壮絶です。そして私達凡人にしても、ナウイズムを生きるためにはけっして後悔しないという覚悟が必要だと教えられている訳です。自分の「今」の積み重ねである以上どんな失敗も受け入れる。これ以上の覚悟はないと私は思います。そしてこのことがナウイズムの真髄と言えるのですね。

失敗から顔をそむけず決して逃げないということ。この今に太い杭を打ち込み動かない決心を持ち続ける。そのためには徹底した勉強と研鑚が必要というのです。


・・・・・・・

しかしなぜ失敗を受け入れなければならないのか。

 

後悔すれば、マイナス思考が生まれ、この今を苦悩に変えてしまいます。とうていこの今を最善に生きることが出来ないのです。

つまり、失敗は失敗で取り返しはつかないのですが、しかしそれを次の成功に導く道筋と考えれば、全体として完全に自分を生き切ることになるということですね。

後悔とは過去を向いて、己の判断の甘さを悔いること。あの時こうしていればと思うと居ても立っても居られない悔しさと後悔。その後悔の間、私は苦悩にまみれて心を痛めているのですね。そのために、私の「今」は悲しい抜け殻となっている訳です。つまり心が過去にとらわれたままでは、完全に自分を生き切れないということですね。


後悔するのではなく、その失敗を受け入れ、参考にして今この瞬間の最善手を考える。

 つまり失敗はマイナスではなく、次の成功のためのステップだというのですね。この失敗は後悔すれば心を過去に置き去りにしたままマイナス思考となるけれど、失敗を受け入れて自分と共にあれば、その失敗は「今」に引き継がれる。それは次の最善手をつかむためにどうしても必要な失敗だったと分かるのです。たとえ失敗した手であっても、「今」にそれを受け入れるなら、その失敗が最善手を生む。つまり結果としてその失敗は最善手だったと言える訳ですね。

そこで井山九段は最善手とは何かを具体的に表明します。


その最善手と言うのは、結局自分の打ちたいと思う手ということ。

 徹底的に自分の感性を信じるということなのでしょう。


しかしこの自分の打ちたいと思う手を打ち続けることはけっして容易なことではないのです。そのことをこう説明しています。

自分の打ちたい手が、一般に悪手と思われていたり、他に良いとされる定石があった場合、それを押して自分の打ちたいと思う手を打つのは難しい

必ず自分の中に迷いが生まれてくるというのです。自分の思いが定石(一般常識)に反している場合に、それを押してまで自分の打ちたい手を貫く強い意志が常にあるわけではないでしょう。時にはその先で破滅する手かもしれないという疑いも生まれてくるでしょうし、失敗した風景を想像して身がすくむこともあるでしょう。

それは後悔とは逆に、心が未来に向かって動く疑いと迷い。あるいは不安であり、恐れなのですね。

これはまさに私たちが日々体験するマイナス思考と同じですね。勝負師の世界ではより顕著に表れるけれど、それは「今」に生きようとする私たちの願いを阻む妄想(未来思考の不安や過去思考の後悔など)と全く同じ心の葛藤であるように思えるのです。


そんな時井山九段は、

あえて自分のなかで起こってくる感覚を信じて打ちたい手を打つ。

と言うのです。

結果それが失敗に見えても、けっして後悔しない。それはその時の最善手だったという思いを貫く覚悟が大事なのですね。

 

信じる道を選んで失敗し、逆転負けを喫しても、それは自分の実力不足。読みであったり判断であったりがまずかったことの証明ですから、その部分の力をさらにつければいいだけの話しです。打ちたいと思う手を選択し続けているうちに、いつしかそうした覚悟が持てるようになっていました。

それが井山を7冠に導いたという訳ですね。

 

 

失敗を恐れ安全策をとっていては自分の大きさを表現できない。

これでは絵にならない!

そう思って不安に駆られても、今引きたい線を引く。

そこに没我の世界があるというのですね。

 なんとなく分かるようになってきたかな~。

 

 しかしこうも言っています。

私は安全策に進むことをダメだと言っているのではありません 

 

実生活において安全策を取るのは賢明な生き方ですから、これはあくまで自分の心の問題として受け取りたいですね。

 

 

コメント (4)

身体と付き合う(2)

2018-05-22 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

 

4月13日身体と付き合う 記事のその後

 

はじめて腰痛を体験して、にわかトレーニングをはじめて、1か月たちました。

人から決められたことをやるのが苦手で、ネットで参考にしたトレーニングは一週間で自己流のものになってしまいましたが、とにかく今日まで続きました。

 

やっていることはストレッチと、腰回りの筋力の回復それだけですが、ひと月続けてみると、この筋力が体感できるくらいには強くなったように思います。バランスボールに坐ってロデオのように動いても不安感はありません。

 

最初感じた、今にも壊れそうなもろい腰の感覚が消え、腰回りにある筋肉を感じるようになって、腰痛も今のところありません。随分若返ったような実感があります。

 

今回の経験の中で特に興味深かった発見がありました。それはお年寄りに共通した姿勢についてでした。

いつの間にか腰が曲がったり、猫背になったりするのは、身体が縮み硬くなるためと思っていましたが、実はこの筋肉の衰えが原因ではないのかと思うようになったのです。何かの参考になればと思い以下その発見について書いてみたいと思います。

 

 ところで、このひと月、私が自分で体感した筋肉と体幹の関係をイメージ図にしてみました。↓

 

まず、私の腰痛を感じたころの姿勢が青い体型でした。

それが今は赤の体型に変わりました。

 

この違いに、自分なりに感じた体と老いと腰痛⇒曲がり腰の関係を書いてみます。

還暦が視野に入っている方、通り越した方、いえいえ働き盛りの方にこそ読んでいただきたい力作です。(ホンマかいな)

 

はっきり言って、年老いているか、若々しいか。見た目で分かるのが上の図のかですが、

実際は見た目以上に、筋力の差が生きる活力の差にかかわっていると実感したのです。

正しい姿勢は筋力の総合的な訓練になるという発見です。

 

医学的な話は論外。

いかに無知な人間でもどこまで自分をみることが出来るかこれが私のテーマですけれど、はからずも腰痛が、心身の老いにつながっているという理解に導いてくれました。

もちろん腰を酷使する職業病もまた論外

 

ストレッチを続ける中、私が真っ先に気付いたことは筋肉の衰えでした。若い筋肉は自然に力を持っていて赤い体型を維持出来ますが、その筋肉も老いと共に柔軟性を失い力を失って、徐々に硬直して青い体型に固まってしまいます。

 

あんなにかくしゃくとしていた父親が、いつか腰が曲がりどんな経験をして青色に固まったのか、この身を呈してやっと理解出来たわけですが、それは次のようなことです。

①腰痛は、筋肉の衰えにより、骨の関節に異常な力がかかってしまうこと。

②筋肉の衰えは、身体に対する意識がうすれてしまっていることにも一因がある。

③身体意識が薄れているのは、生きる目的がうすれていることとつながっている。

④筋肉が固まってしまってからでは遅いこと

 

①は、そもそも、筋肉は重力に逆らって体を維持するために発達した臓器だと考えられます。それが衰えて力が失われると、関節は直接(あれ、しゃれになってる)重力の力を受けて、必然腰痛を発症するわけですね。

②は身体意識のうすれ、つまり自分の体型姿勢に無関心となり、つい脱力した姿勢に慣れ親しむようになる。ゴロゴロ人生に無自覚な生活に陥る。

③はズバリ、やることがない。何をやっても意味が感じられずめんどくさい。精神的な目標を失うと、何も選ばない人生を送ることになり、結果身体は弛緩したまま、ゴロゴロ人生を余儀なくされる。

④は筋肉自体の機能が危険信号。ここまで行ったら引き返せない。腰の曲がったまま硬直した身体はどれだけさすってもほぐしても、回復困難。

 

さて私は一月前、①で危機感を覚えました。

身体と付き合う

で書きましたように、早速ストレッチをはじめ、筋力の回復を実感しておりますが、上記①~④を予防するもっとも効率的な運動を発見しましたので、是非試してみてください。先に書きました「姿勢を正す」運動がこれです。

もちろん腹筋背筋を鍛える方法はいろいろあって、自分に合うものを続けるのも大事ですが、その前に普段の生活の中で自分の身体と向き合うのです。

食事中でも、仕事中でも、いつの間にか姿勢が青色になっている。

ふとそのことに気付くことがありますね。気が付いたらその時、必ずその場で赤色姿勢になる。

頭にひもが付けられて天に向かって引き上げられているような感覚で身体の線を引き上げ、10秒間程度その姿勢を維持する。

つぎにわざと脱力して青の姿勢になり、力を入れて赤の姿勢になる。

この運動を可能な限り繰り返すのです。

たとえば自分で10回と決めたら、自分の姿勢が青の姿勢になっていることに気付く度に赤になるように運動を繰り返す。

これはどんな時でも、自分の青に気付いたらその場で赤に修正するということです。その時自分の身体に言い聞かせるように伸縮を10回繰り返す訳です。大層な準備も何もいりません。その代り自分の身体に対する意識を日常の中に広げていくのです。

そのうちに自然姿勢が赤になっていることが多くなり、

「姿勢がよくなったね」と周りの人も気付くようになります。

こうなったら、心と身体がうまくつながったと喜びましょう。

次からは、

意識に自分の姿勢が浮かび上がってくるたびに、(姿勢のいい時にも浮かんできます。自分の身体に欲が出てきた証拠)

この運動を繰り返すようにします。

脱力して姿勢を正す⇒脱力して姿勢を正す⇒脱力して姿勢を正す・・・・

身体が引き締まってくる以上に、自分の身体に対する愛着がわいてきて、若々しい気分も生まれてきます。

何かしようという意欲がわいてきたらチャレンジ精神復活

これが老いから身を守る最善の方法と確信いたしました。

面白い連鎖反応ですが、姿勢がよくなると、いやだったストレッチや筋力トレーニングも楽しくなります。

つまり、トレーニングなんてめんどくさいと思う人でも、それは置いといてこの「姿勢を正す」運動だけをやる。するとそのうちに欲が出てきて、トレーニングが楽しめるようになる。すると心が若返ること請け合いです。

やることはからに姿勢を正す。これだけです。

だまされたと思って

ひと月続けてみませんか。

 

よかったら是非その効果を報告してください。

身体と心にどんな効果があるか、

いろんなところで、お試しください^ね^¥

 

 

ではまたひと月後、この身体通信を目標にしてトレーニングに励みます。

 

 今の今思いついたのですが、

お互いに1ヶ月続けてみて、その体験談を次の身体通信のコメント欄で、意見交換してみませんか?励みになって、若返るかも。

急に思いついたアイデアですが、よかったら一緒に自分体験してみましょう^よ^

 

 

 

 

コメント (8)

のしてんてん絵画新作展終了しました

2018-05-16 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

延長して開催していましたが、本日終了しました。

ありがとうございました。

畳に坐って見ていただくのは、好評でした。

事前予約ということで、こちらにも負担がなく、いいスタイルが出来ました。

おかげさまで瞑想空間の幅が広がりました。新作展や、冥想展など、今後定期的に開催してもいいかなと、思っております。

 

また、学生さんなど費用の面で展示機会の少ない方などの支援になればとも思っています。これも事前予約で、互いによき機会が出来ましたら無料で使用していただくことが出来ます。(一人500円程度の管理費は頂きます)

ユニークな利用を歓迎いたします。

ただし簡素な住宅街ですので、ドラムなどの音響はダメです。

瞑想空間からよき巡り合いがありましたら幸いです。

 

詳しいことを知りたい方はのしてんてんHPのメールから連絡お願いします。

 

 

 

 

コメント (7)

花と言い訳 のしてんてんの詩 (2)

2018-04-27 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

=花と言い訳=のしてんてんの詩=


(2)

言い訳の背後には不安がある。

 

 自分は不完全だという不安、

 人から認められないかもしれなという不安、

 世渡りが出来なかったらという不安、

 嫌われ、裏切られるかもしれないという不安。

 

 不安は避けようのないものと、

 あなたは考える。

 あたかも自分の外からやって来てあなたを悩ませているかのように、

 あなたは自分を捕らえている不安を、

 何か別のもののせいにしたがる。

 そこで

 言い訳があなたの中で正当化されるのだ。

 

  だが忘れてはならない。

 あなたを取り巻く不安はすべて、

 あなたが作り出したものだということを。

 大きな社会不安といわれるものですら、

 あなたの考えの中に作り出されたものなのだ。

 

  他人の不安はあなたのせいではない。

 しかしあなたの不安は何であれ、

 すべてあなた自身の責任といえる。

 あなたは不安を持たないことだってできるのだ。

 

  実際あなたが、

 真実の中に生きるならば、

 不安はどこにも生まれない。

 なぜなら真実は、

 それ以外にありようのないものだから。

 

 花が花であるように、

 鳥が鳥であるように、

 あなたがあなた自身であるならば、

 不安はどこから生まれて来るというのだろう。  

 

  他人の目を意識し始めると、

 あなたは、あなた自身から離れていく。

  スミレの花が蓮華になろうとするように、

 あなたは、

 自分の作り出した理想の姿になろうとして

 不安を生み出しはじめる。

 

  不安はあなたの思いであって、真実ではない。

  真実ではないからこそ言い訳が必要になって来るのだ。

 

 不安が生まれたら、

 それを頭の中で解決しようとしないで、

 その不安そのものを見つめてごらん。

 

 目を閉じて、

 自分の中のどこにその不安があるのか、探してごらん。

 ゆっくりと自分の中に入って行けば、

 不安など、どこにも見つけられない事にあなたは驚くだろう。

 

 やがてあなたは、

 枯れた花を幽霊と思い込んで怖がっていたように、

 なんでもないあなたの思考を、

 現実だと思い込んで不安を作り出していたことに気づく。

 

  不安は、

 あなたの頭の中で作り出された幻想だということに気づけば、

 あなたはいい訳人生から解放されるだろう。

 

  どんなことでも、

 いい訳をしたくなったら、

 一呼吸おいて自分の内側を眺めてみよう。

 するとそこに本当の自分が見えて来る。

 

 あなたが、しまったと思った瞬間に、

 そのしまったという思いそのものを見つめてごらん。

 するとそこに本当の自分が見えて来る。

 

  絶望的なその瞬間にも、あなたは生きている。

 わずかな食べ物と水、そして空気さえあれば、

 充足して生きているあなたがそこにある。

 それ以上に何が必要だろう。

 

 どんなときでも、

 あなたはゆったりと自然のままに生きている。

 その尊さが感じられれば、

 しまったと思うその瞬間でさえ、

 失ったものは何もない事にあなたは気づくだろう。

 

 そうなればどうしていい訳など必要になる?

  どうして人目を気にして取り繕う必要がある?

 自分が間違っているかどうかなんて、どうして気にする必要がある?

  堂々と生きていればいい。

 いつも胸を張っていればいい。

 伸びやかにただ自分自身であればいい。

 

 無理をして、

 自分ではないものになろうと努力する必要はどこにもない。

  まるでこの世に自分一人しかいない時のように、

 自分自身であり続けなてごらん。

 そこに本当のくつろぎがある。

 

 しまったという思いから、

 ただ徒に思考を走らせてしまえば、

 またもやいい訳が始まるだろう。

  うまくいい訳をしてその場を取り繕っても、

 問題は少しも解決していない事を見抜かなければならない。

 

  いい訳をした瞬間から、

 あなたは自分ではない自分の世界に生き始める。

 そうなったら、

 あなたは常に自分を作り続けなければならなくなる。

 むなしいままに自分を描き続けなければならなくなる。

 虚構の自分を本物らしく見せるために、

 あなたは絶えず緊張していなければならなくなる。

  人に誇れる自分を作るために、

 常にあなたは自分を飾り立てなくてはならなくなる。

 

  そして、

 自分で作り上げた虚構の自分を失うことが、

 死ぬよりも苦しく怖いもののように思い始める。

 あなたはますます、強固な鎧を自分に着せなくてはならなくなる。

 あなたはストレスで凝り固まってしまうだろう。

  ストレスは自分を見失った時から生まれる。

 本当の自分から離れれば離れるだけ、ストレスは大きくなる。

 

  いい訳をしたくなったら、

 そこが人生の分岐点と思えばいい。

 くつろぎの人生か、ストレスの人生か。

  真実の人生か、虚構の人生か。

  充足した人生か、不安の人生か。

 

  あなたはどちらをとる?

 

 

 

 

コメント (4)

花と言い訳 のしてんてんの詩 (1)

2018-04-25 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

2003年に、ホームページ上で発表したのしてんてんの詩です。(2016年に当ブロブでも掲載しました)

あれから15年、自分を実験(感)台にして検証してまいりましたが、今回一つの境地を新たに感じるところがあり、再々掲するととにしました。長いですので、二回に分けて掲載いたします。何かを感じて頂ければ幸いです。

 

=花と言い訳=のしてんてんの詩=

(1)

 野の花が、ひそやかに咲くように、

 人もまたひそやかに生きている。

 だれにも知られず、

 また知られようとも思わない。

 あなたの内面の奥底には、ゆったりと流れる自然があるのだ。

 あるがままに。

 

 人もまた自然のままに生きている。

 まさに、この肉体は自然そのものである。

 心臓が鼓動し、血液は体内をくまなく巡っている。

 呼吸は自然に繰り返され、

 食物は体内で消化されている。

 

 この身体の営みに、人為的なものは何もない。

 あなたは、

 自分の身体を、

 自分の思い通りにすることは出来ないだろう。

 胃は勝手に食物を消化している。

 心臓は血液を送り続ける。

 

  自然に肉体は成長し、年老いていく。

 眠りも目覚めも、自然にやってくる。

 

  あなたは、

 知らないうちにこの世に生まれて来た。

 そして死もまた知らないうちにやって来る。

 あなたは自分の死でさえ知り得ないのだ。

  自分の身体だといいながら、

 あなたは何一つとして、あなたの身体にかかわることが出来ない。

 

 あなたが何を考え、何を望もうが、

 身体はあなたの命令に従うのではなく

 自然の流れに従っている。

 あなたのことなどまるで気にする事なく、

 ただあるがままに、自然の、宇宙の摂理に従って生きているのだ。

 

 野に咲く花のように、

 何も求めず、今ここにあるそのことに満ち足りている。

 そこに永遠の充足と安らぎがある。

  この身体の安らかな自然の流れに、

 何一つかかわれないあなたは一体何だろう。

 

  あなたは、

 あなた自身の身体から切り離されているのだ。

  身体はこんなにも自然で、豊かに流れているのに、

 あなたは不自然なままだ。

  身体はこんなにも充足しているのに、

 あなたは不満をもち続ける。

 

  身体は無心で息づいているのに、

 あなたはたくさんのことを考え続ける。

 あなたは何なんだろう。

 

  あなたは毎日、他人から非難されることを恐れている。

 あなたは毎日、正しい自分を演じようとしている。

 あなたは毎日、あるべき自分の姿を追い求めている。

 

 それなのにあなたは、

 時として、必要なことを忘れてしまったり、

 思い違いをしたり、

 間違ったことをする。

 その度に、

 あなたは、失敗した様々な事柄にいい訳を考える。

 

 他人から、

 いつも自分は有能だと思ってもらいたい。

 自分は正しいと認めてもらいたい。

 自分の力を評価してもらいたい。

 たとえ失敗しても、

 それは仕方なかったのだと知ってもらいたい。

 

 こうしてあなたは、

 失敗する度にいい訳を考えなくてはいけなくなる。

 

 あなたは1日として、のんびりしてはいられない。

  あなたは、他人の目ばかりを気にして、

 毎日を緊張して暮らしている。

 

 

 うまくやれるだろうか、

 失敗しないだろうか、

 あなたはまだ失敗もしていないのに、

 びくびくしていなければならないのだ。

 

  あなたは、

 言い訳をするために、

 少しもゆっくりしていられない。

 

 しかし、

 あなたを疲れさせるこのいい訳の正体は、

 真実を自分の都合のいいように見せようとする、

 あなた自身の努力に外ならない。

 

  言い訳は真実ではない。

  言い訳は真実を隠そうとする、ありもしない幻想だ。

 身体の真実に関われない、あなたに似ている。

 

 実際のところ、

あなたは言い訳そのものなのだ。

  あなたは言い訳そのものから成り立っている。

  その言い訳が、あなたを真実から遠ざけている。

  あなたがのんびりと、くつろいでいられないのはそのためだ。

 

 ストレスはそこからやって来る。

 あなたが言い訳を考え、自分の人生を繕おうとすれば、

 あなたの身体は自然な流れを歪められ、調和を乱される。

 

 あなたは、

 野の花のような自分の存在に関われない代わりに、

 自分で作り出した不安といい訳によって、

 自然のままの身体を狂わせて行くのだ。

 

 

 

次を読む

 

コメント (8)

自分を好きになる

2017-09-05 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

奈良の小路で見つけた手水鉢

苔むした鉢と水。

それだけなのですけれど、是非、時間のあるお方は、小さな画像をクリックして大画面の画像を眺めてみてください。可愛い小さな命を発見できるでしょうか。

100人いれば。100の風景が見えてくる。

不思議な手水鉢です。

 

よかったらあなたの風景を残してください^ね^

 

 

 

コメント (8)

心と魂

2017-05-21 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

2012年作品(心のかたち)

 

先日、田村慶子陶展8th「よりしろ」に出逢ったことが、私の心に変革をもたらしたと書きましたが、その状況は今も続いています。

心の状態は水物、明日何が起こるか分かりませんので、あくまで私の一人旅通信として、お付き合いください。

 

「よりしろ」の表現しがたい形と出逢ったとき、私は5年前に描いた心の世界を思い出しました。

表題の写真もそうですが、

他に、例えばこんな絵です。

 

「よりしろ」と形が似ているということではなく、

心のレベルが違うという、しいて言えば嫉妬心に近い感情だったのです。

私の作品はすべて「のしてんてん」と呼びます。これは心を意味する造語ですが、そのことが示しているように、私の創作は心を描くということに終始しておりましたし、このブログ自体が、文字による心の探求であるわけです。

 

心とは何なのか。

40年その問いを続けてまいりましたが、「よりしろ」はそれをはるかに超えていると思わされたのです。

その一つの具体的な答えが、ハル先生に教えられた「魂」でした。

 

私の創作に魂という視野がないと思わされた一瞬でした。実際に私の追求は心に焦点があてられており、魂を意識することは一度もなかったように思われます。無論魂という言葉を何度も使ったことはありますが、それはいづれも心という範疇で使ったもののように思えるのです。

 

「心」と「魂」その違いを問えば様々な答えが飛び交います。それほど曖昧模糊とした言葉ですが、誰もがうなずくだろうことは。「魂」>「心」でしょう。

心は、私たちが実際に感じ、思う範囲の中にありますが、魂は、その心を生み出す母体であり、しいて言えばそれは私の提唱する五次元の螺旋そのものを意味すると考えられます。

「よりしろ」が私の作品をはるかに超えているという私の感覚を分かって頂けるでしょうか。

嫉妬はそこから来たわけですね。

 

なぜお前は、魂に気付かなかったのか!

そう思うと、自分の作品が上滑りする駄作の経験をいくつも思い出します。

しかし反面、私は充足感を感じてもおりました。

 

自分の根本をこんなふうに見つめることは今までなかったことでした。

そう思うと、「よりしろ」を紹介していただいたガットネロ・松浦さんの洞察の深さに感謝するしかありません。

そんな考えと共に、私の心の探求は、実はこのためにあったのだと思えるようになったのです。

心を探求しなければ、人として在りながら、魂に触れることは出来ない。そう思い至ったのです。

魂に同化するのではなく、人間として魂に向かう。

そのために私たちは、どうしても心を知り尽くさなければならない。人としての能力を100%ひきだすことで魂との統合を果たす。

私のもくろみは、そこにあったのだと、ようやく気付いた訳なのです。

 

そしてそれは、この4月来「感性と思考」というテーマで書いてきた記事、つまり感性と思考の統合こそ究極の目標だと考えたことと同じなのだと思い至りました。

 

機が熟していたのかも知れません。

正直に言えば、「よりしろ」の嫉妬心がエネルギーとなって、私の思考が一気に感性を認めたのです。それは心の変革ですね。

つまり、心が魂を受け入れたわけです。その実感が今の私にはあります。

 

さらにこの、一人旅通信で発信していきたいと思います。

 

 田村慶子 陶展8th「よりしろ」は、大坂 楓ギャラリーで、本日まで

 

 

 

 

コメント (4)

「よりしろ」再び

2017-05-20 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

田村慶子 「よりしろ」

 

案内状に、

ささげるうつわ ー やどすかたち

 

という言葉が添えられている。

 

評論家のハル先生に紹介すると、こんな感想が返ってきました。
 
>不思議な作品ですね。
>陶器というよりは魂とか目に見えないものが形となったような。
>実物を見るともっとはっきりすると思います。
 
 

なるほどと思いました。

私には思いつかなかった、「魂」という言葉がとても新鮮です。

 

魂を形にする

それは私の創作人生の中で、一度も意識しなかったことだけに、「よりしろ」は私に大きなインパクトを与えたのでしょう。

 

ハル先生のおかげで、何か心持ちがすっきりした気がいたしました。

 

ところで、田村様が「よりしろ」に巡り合った経緯を、又聞きとして紹介しましたが、ご本人様からその経緯をメールでいただきました。

こういう話でした。

「かたしろ」に巡り合ったきっかけは陶芸のお師匠さんが亡くなったとき、荼毘に付す前に奥様が手に土を握らせたら、それが陶となって現れたという話からだったそうです。

又聞きで紹介した内容は、実はこういうことだったそうです。

----------------------------------------------------------------
以下に、画廊の方からお聞きになったことについて少し詳しく説明させて頂きます。
先生(陶芸教室の主宰者でしたが、陶芸家ではなく詩人であり女学校の国語教師でもありました)が亡くなられたのは1992年で、この時に、先生の掌の中の粘土が焼かれて返ってきたのを見るという経験をしました。
この6年後に、地方都市のジュウリ-展の主催者から「陶器でジュウリ-を作ってみませんか、象の首飾りでもいいですから」と誘われ、1999年「追悼のジュウリ-」と題して5点出品しました。
陶器の装身具は重いのですが、亡くなった方のためのものなら、少し重くても大丈夫かと思い、なかば副葬品のつもりで作ったものです。
この制作過程で、先生の送葬の折の掌の粘土を思い出し、亡骸は灰になっても陶器はそのまま帰ってくることに思い至りました。
ただ、こううものを「作品」として発表することに強いためらいがあり、10年間封印していました。
2009年にやっと制作と発表を再開し、この時初めて「よりしろ」という言葉を選んだ次第です。
「よりしろ」という言葉は、若い頃民俗学系の本を読んだ時のおぼろな記憶にあったものかと思います。
 
このように、とても永い時間を経てあのような作品を作るに至った次第です。
ご参考として頂ければ幸いです。
 
田村慶子  (メール抜粋)
 
----------------------------------------------------------
 
私には、この10年のためらいが真に迫って理解できるように思います。
 
火の中から還る器の、その最初の体験。
それは自分の意志だけでは、そのまま表には出ることがなかったでしょう。
 
「追悼のジュウリ-」という力がその扉を開けたのですね。
 
それは人として、創作者として、
 なにものかに導かれている思いが如実にあるという
一つのエピソードではないでしょうか。
 
封印という意志
そしてそれを開示する意志
 
やがてそれが統合されて作品に結び付く。
 
この形は
私の提唱する、思考と感性の統合そのものではないのかと思えるのです。
 

 

 田村様の作品を何度も取り上げていますのは、実は理由があります。

それは

「かたしろ」をきっかけに、私の心にある変革があったからです。

それについては、

「私に必要だから」と言って、わざわざお電話で、同展を紹介して頂いたガットネロ・松浦さんの優れた洞察のおかげだということを申し上げておかなければなりません。

 

私は皆様から生かされている。

そう思い至ることばかりです。

 

 

 

 

コメント (6)

宇宙につながる思考

2017-05-19 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

 

先日書きました田村慶子さんの作陶は私の心に大きな波紋を投げかけてくれたように思います。

 

正直、そのひたむきな、形の追求に動かされました。

人の生死観と心の流れが、自然に生まれてくるような、

それでいて、火に焼かれる激しさを内に秘めている覚悟がある。

そんな造形に嫉妬を感じたほどです。

 

眼で焼き物の表面をさわっていくと、

自分の心の中に、心のかたちが生まれていくのが分かります。

その時、私の心に写し取られた形は、全く違和感がない私の心だということがわかるのです。

受容によって作者の表現が自分のものとなって動き出す。

伝わるというのは

心から心へ波紋を呼ぶということ。

それぞれの閉ざされた心の空間に、受容者が己の形を創っていくということなのでしょう。

 

優れた作品は、何の抵抗もなく観るものに波紋を受け渡すということなのかもしれません。

 

そのもっとも大きな特徴は

「私はこうだ!」という力みがなく、自然体を実現していることでしょうか。

 

それを、私の言葉に翻訳しますと。

「宇宙につながる思考」が体現しているということなのかもしれません。

 

冒頭で嫉妬と書きましたが、

私が自分で気付かないところから、嫉妬が生まれたようです。それは、自作に対しての心の乱れから自覚出来ました。

 

その乱れというのは、いつまでたってもうだつの上がらない自分というような思いにつながる雑念です。

 

そしてその心の流れのまま身をまかせていると、その雑念が苦悩を生みだしているのをリアルタイムで観ることが出来ました。

 

そしてその雑念をたどっていくと、すべてが己につながって行くのです。

つまり、それは己につながる思考そのものだったのです。

 

己を見つめると

自然に答えが見えてくる。

 

その答えは。

作品そのものにありました。

無心でそれを眺めたら、

作品が私を宇宙に連れて行ってくれる。

 

すると不思議なことに

心の乱れが消えている。

 

私の思考が、宇宙につながる思考に切り替わったのです。

すると嫉妬は微塵もない

私は私の自然を生きたらいいのだと、思えるのです。

 

心が伝わるというのは

こういうことなのだろうかと。

 

 

さえずりや

立体空に

拡がりぬ

 

 

コメント

感性の喜ぶ空間

2017-05-12 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

何のために絵を描くのか

そう考えたとき

私は、感性の喜ぶ空間を創るという答えに行き着きます。

 

今回の私の体験は、

そんな道筋の中で動いたことでした。

 

つまり感性に向かうということが私の創作の常なのですが、

それが極度に、思考が感性の側に入り込んでしまったのではないかと思います。

 

作品は駄作で終わりましたが、

それは大した打撃ではありませんし、むしろ次の道を教えてくれる教材となりました。

 

何のために絵を描くのか

その答えは

なぜこの絵は駄作なのかという理解の中にあったのです。

 

何枚も絵を描いておりますと、中には感性が喜ぶ絵に出逢うことがあります。

そんな絵は、

いつまで眺めていても、心が絵の空間に入って自由にのびのび動いてくれます。そののびやかさ、あるいはドラマが深く宇宙のかなたまで続いて行くのです。見ているだけで心が落ち着き、静かに至福の世界に連れて行ってくれるのです。

 

ところが、頭脳(思考)で描いた絵は、その思考がまず己をごまかそうとするのです。「これは良い絵だ」と思い込んだら、気付かないままに、思考が絵を修正してよく見せるようになるのです。

 

駄作を前にしても、感性に違和感があっても、良い絵だと必死で思い込もうとします。そしてそれが自分では気づかない。

 

私はまだその程度の作家なのですね。

 

今回の駄作騒動は、私が自分で尺度と考えている作品が、会場で展示中だったことにあります。

 

つまり、作品を仕上げた今、私は自分の作品が良い仕上がりだと思っている。しかしその思いが、感性によるものか、思考によるものか判然としないのです。

もちろん駄作は、時間をおけばメッキがはがれてきますが、創作意欲が冷めやらないこの瞬間には、分からない。

 

本物の作品と並べてみる必要がどうしてもあったわけですね。

 

感性と思考は、私の創作に関する限り、非常に見分けにくいものなのです。

それは思考が自分を主張しようと、巧妙に働きかけて来るからです。

 

今回私がうれしかったのは、

思考が興奮して、作品を良しと眺めている、いわゆる至福の時間に、ふと違和感を感じたことです。

普段はその違和感を、思考がおさえつけて、とにかく満足しようとして、絵の良いところだけを見ようとするのですが、

今回はその違和感に対して、思考が反応したのです。

一瞬でも感性との違和感が出て、ダメと感じたものは駄作というフレーズがわずかですが思考の中にできたのではないかと思えます。

 

その思考が、

自分をよく見ようとする思考に波紋を立てたのです。

しかしどちらが正しいのか、判断が付きません。自分の思考ながら、それが思考なのか感性なのか分からないのが情けないのですが、疑問が生まれただけでも成長です。

 

で、

作品を持って行って、私の本物の絵の横に置いた訳です。

判断は一瞬です。

「やっぱり」

違和感が正しかったのです。

今まで経験的に分かっておりましたが、自ら意識して理解につなげた初めての経験になりました。

 

駄作に一喜一憂しているわけではなく、むしろ駄作は作者の日常ですから、駄作は駄作で楽しめばいいのですが、

というのも、駄作なくして真作は生まれないと思うからです。

 

問題は、何のために描くのかです。

 

感性の中で人は癒されるように、そんな絵を描きたいのですが、

結局、そのためには駄作を経験しつくすしかないのだろうと思います。

 

そしてその中で幾多の気付きを得ることなのでしょう。

 

今回の駄作騒動は

そんな中の一つの気付きだった訳です。

 

コメントで、いろいろご心配をおかけしましたが、

無言もまたいいものだと思いました。

 

お気遣いありがとうございました。

御礼申し上げます。

 

 

 

 

 

 

コメント (15)

ナウイズム2人展後半始まりました。

2017-05-11 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

ナウイズム2人展、前半を終えて、

突然でしたが、言葉のない世界に引き込まれておりました。

 

波と呼吸を合わせる。

そんな試みを3日ほど続けておりましたら、思考が消える瞬間が現れてきたのです。

 

私は感覚だけになって、呼吸だか波なのか分からなくなりました。

私というものの内側を、何の装飾もなく眺めている感じがして、

それさえなくなりました。

 

そのうちに、絵の構図が生まれてきたのです。

それは

感覚の海に

小さな波動が無数にうごめくような空間が広がり

ひもがねじれて横たわっている

 

そんな光景でした。

 

スケッチブックにデッサンを落とす

急いでキャンバスを張り、

下地を施すと、それが乾くのももどかしく描きはじめました。

 

感覚だけを頼りに

よいと思う方向に線をひていく

言葉がない思考というのか、

言葉を使ったら消えていくというのか、

数日

そんな状態が続きました。

 

言葉ってなんだろう

今になってそう思います

 

呼吸の意識はありましたが、

海のイメージは完全になくなり

思い出そうとしても、再現できません。

 

ほぼ3日がかりで、10号の作品を仕上げました。

仕上げたと言っても

それ以上描きこめない気分になって

創作熱が納まりました。

 

しかし、どうも、悪い予感です。

100%の達成感がないのです。

未熟な作品の証拠。

 

10日から始まった2人展の後半、

その日会場に詰める予定ではなかったのですが、

新作を持って会場に行きました。

 

会場に並べる。一瞬で、駄作。

落胆より

やっぱりという思いで、

せっかくの、無言の行は

失敗に終わったという

顛末。

 

お粗末でした。

 

新作を並べて、たまたま来ていただいた作家さんと鑑賞会。

いろいろ感想を聴きながら、失敗作の展示も、案外役に立つという経験をいたしました。

 

10年ぶりの知人が来てくれて、駄作のおかげで、会うことが出来たと言えば、

それは良かったと笑顔。

 

駄作でしたが、

いい勉強になりました。

 

 

 

 

 

コメント (6)

月の裏側

2017-05-10 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)
 
 
今日の幸せは
ご飯を食べながらありがとうと
思えたこと。

口の中でお米の甘さが広がる。

お百姓さんからお日様と大地へ
気持ちがどんどん広がり、
なんだか宇宙と一体になるような
しあわせを見つけたよ
 
           (2005/11)
 
----------------------------------------------------------
 
深いところに
 
届くか
 
 
コメント (2)

月の裏側

2017-05-09 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

 

   自分を捨てると

   あなたを作っている大きな宇宙が動き出す

   心の線とは、

   その宇宙とつながる線のことだ。

-------------------------------------------------------

 

波と向き合って、波が消えた。

言葉のない世界を航海中。

絵が見えてきた。

しばらくごめんなさい。

 

コメント

感性と思考 8

2017-05-07 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

心をニュートラルにすると
布団の中

ゆっくりゆっくり
 
 
-------------------------------------------------------------
 

 

(海の波と息を合わせる)

(眠る前に)、(そして目覚めたときに)

 

静かな波、青い空、温かな陽射し

布団の中で、眼を閉じると、そこは南洋の海岸でしょうか

波がまるで呼吸するように、やってきます

①息を吐きます。するとだんだんその力が弱まって、やがてもうこれ以上吐けないところまで来ます。

その体感は、波が打ち寄せて砂浜に拡がり、吸い込まれるように消えていく風景そのものです。

②息を吸い始めます。最初は穏やかな吸気ですが、肺に空気が満ちるにつれて大きなエネルギーに膨らんでいくのが分かります。

この体感は、砂浜に拡がった海水が砂に吸い込まれていく風景と重なります。吐く息が、吸気に変わる瞬間です。砂に拡がった波を吸い込むように吸気が始まります。

(息を吐き切ったら自然に任せます。無理に吸い込もうとせずに、吐く息を砂浜に拡がる水の姿に置き換えて広がるだけ広がらせます。やがて水が砂に吸い込まれるように吐く息が吸気に変わります。それは自然に起こっているのです)

③その吸気は肺に溜まるにつれて圧力が増していきます。そしてこれ以上吸えないところまで達します。

その力は、引き潮そのものです。リズミカルに波が引いて行き、やがて引き潮は満ち潮とぶつかって大きな波頭をつくるのです。吸う息が続かない所まで来ると、波頭が崩れ始めます。その瞬間が、吸気が吐く息に変わるポイントです。

④この時、吸気が止まる瞬間、意識を丹田から肛門周辺に向けると、より意識的な呼吸を実現できます。波頭が崩れる風景と重ねあわせて、吐く息がエネルギーを解放するのです。

この時、波頭がピークに達した瞬間、丹田を意識しないで自然に任せると、柔らかい波となります。でもまだ呼吸を強く感じたいときは、この時に息を丹田に向けるように意識するのです。すると吐き切った状態から、吐く息に変わる一瞬、イチ、ニイという感じで、吸う動作が生まれ、一気に空気を押し出すことになります。穏やかな波と荒々しい波の違いは、その意識の差となって現れるのです。)

⑤解放されたエネルギーは、寄せる波となって、浜に押し寄せます。吐く息が続く限り広がっていきます。そして①に戻るのです。

 

①~⑤を繰り返していると

意識は波そのものになります。自分の身体が波になって大海原に拡がります。いつの間にか眠りに入ります。それはごく自然に起こります。

・・・・・・

・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・

・・・・・・

眠りから覚めたら

目を開けずにイメージをそのまま続けます

①~⑤を静かに、繰り返します。

ニュートラルになった心に朝の音が聞えます

(鳥の声、新聞配達の音・・・)

(そう言えば今日は何があったっけ・・・)

自然に思考が動きはじめます。愛すべき思考の目覚めです。

生まれたての自分を感じながら、

人間社会に入っていきます。

新鮮な朝

「おはようございます!」

 

 

これだけで、あなたは人生の半分を感性の中で生きることになるのです。

 

 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
コメント

感性と思考 7

2017-05-06 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

 色彩は心を動かす
 ほのかな赤
 たったそれだけの色が
 意味を生み出す
 
 
 
さあ、今、この瞬間、間違いなくあなたはスマホかPCか、それは何でもいいのですが、この画面を見ていますね。
 
その自分を意識してください。
 
真っ先に灰色の画像を見て、この文字を見ていますよね。
 
波の回転運動をイメージして自分の呼吸を意識しながら、もう一度画像を見てください。
 
その瞬間、感性が動いていることがわかるでしょうか。
 
ドキッとするとか、うっとおしいとか、さわやかだとか、心地いいとか。
 
真っ先に感性が動いているのです。
 
 
その次に「これは何?」がやってきます。
それが思考の働きだした合図。
 
「訳が分からん・くだらない」と速攻離れていく人
「吸い込まれそう・なんだろう」と興味を持つ人
「昔見た岬の風景・・・」と具体的な記憶をひきだす人
「妖精が飛んでいる・・・」みたいに物語を紡ぐ人
 
いずれにしましても、この様々な、個性的な反応を見て、私たちは共通点を見出すことが出来ます。
 
それは思考が行動を引きおこしているということです。
 
 
 
私たちは宇宙そのものであり、感性のかたまりです。
 
瞑想して真実に入っていく。
 
それは感性の中心に座るということだと思います。
 
その究極は、己を感性の中に消すということなのでしょう。
 
しかしそれだけでは、人としての行動は起こらない。
 
思考が必要なのですね。
 
 
まず感性があって、思考が働く
これが人間の理想的な姿だと私は思うのです。
 
先に例示したように、絵に対する反応はまちまちですが、それはすべて素晴らしいものだと思うのです。
 
なぜなら、それはすべて、感性から生まれた思考だからです。
 
感性と思考の統合とは、実のところこのことを指しているのです。
 
 
 
なぜことさら、そんなことを取り上げるのかと言えば、
 
私たちの思考は、その大半が、思考が思考を生み出しているからなのですね。
 
 
心配事、恐れや不安、羨望や嫉妬、金銭名誉欲、心に不幸をもたらすあらゆる思考は、思考が生み出した思考なのです。
 
 
思考が思考を生み出す構図は、もちろん良い面も在ります。科学はそれなしには成り立ちませんね。しかし、洗脳されて恐ろしい事件を引き起こすテロや、国家間のあつれき。原爆をおもちゃにして、脅しの道具に使う子供のような愚かさに気付かない世界。
 
それは思考が思考を生み出し、その思考がさらに思考を生み出して、もはや感性のかけらもない妄想が世界の運命を左右していることなのです。
 
しかしそれでも、
その妄想の生まれている源泉には、感性が働いている。
その紛れもない事実に気付く人間は必ずいるでしょう。
 
人類が、この先幸せな社会を築いて繁栄するのか、滅亡するのかという問題の根幹に、感性と思考の関係があるのだと思います。
 
もちろんそんな大きな問題を抱えなくても、
 
私たちがひとり一人、感性を見失わない人生を送ればそれでいいわけですから、ナウイズムの必要性は大きいのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
コメント