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「ノナの家」nonahouseは かつこ内親王、かつこ内親王2の続きのブログです。

神様達の名前は、沢山出てきますが、宗教とは全く関係ありません。
mikunenona@gmail.com

志賀海神社の神様 その3

2024-01-16 07:30:00 | 日記
昨年10月に謎な神様から話があって、最近やっと阿曇磯良(あづみのいそら)だったらしいシカウミの神様だとわかりました。

また、話は昨年の10月に戻ります。

福岡在住のSご夫妻が、志賀海神社に11月1日に行かれるとのことで、ワタツミの神様は何か欲しい物があるか聞いて欲しいという📩がきたので、話してみました。


10月31日


ワタツミの神だ。

Sさんは、仲津宮(なかつぐう)・沖津宮(おきつぐう)に行っても大丈夫ですか?

友達は、大丈夫だと思うよ。
Iは、来ない方がいい。
元寇(げんこう)前からの戦場だからな。
Sが来てくれるのなら、ツナサンドが欲しい。
食べてくれればいいよ。

お酒は、必要ですか?

私はいらないよ。
眷属達は、酒がいいかな。

明日は、(神様達の)会議ですよね。

大丈夫だよ。
一瞬抜けるからね。


「元寇」は、歴史の教科書で少ししか見たことはないのですが、かなり激しい戦いだったようです。
「神風(かみかぜ)」が吹いて勝ったという話もありますが、相当な船が襲ってきたようですね。

🌟元寇(げんこう)は、日本の鎌倉時代中期の1274年・1281年に、モンゴル帝国(元朝)および属国の高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻である。
蒙古襲来とも呼ばれる。
1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。


その後に話してきたのは、イラタの神(天之御中主之神)でした。


イラタだ。
古代の戦場だから、沖津宮には行かない方がいいと言ってくれ。
私は鎮魂のために行っているのだからな。


コメントをよくいただく、あかりこさんも昨年志賀海神社に行かれて、写真をいくつか送ってくれました。
その中に、志賀海神社全体の地図があり、左側に「蒙古塚」があるのがわかりました。



そして、11月1日に、Sさんが志賀海神社に行かれて、写真と📩を送ってくれました。



仲津宮は古墳の上に建てられていました。
M子さんに、綿津見(ワタツミ)の神様にはツナサンド、お酒は眷属様はということをお伝えいただきましたので、ツナサンドは自分で作ってみました。
お酒は酒屋さんで、海つながりのお酒、「酔鯨」を選んでみました。





左が沖津島、右が表津宮、仲津宮のある半島でした。
1日だったこともあり、お参りの人もおられて、地元の人からも大切にされているようでした。
ツナサンド、食べていただけましたでしょうか?
自分で作ったものですが、ツナサンド美味しかったです!
穏やか快晴の中、お参りさせていただき、忘れられない日となりました。
綿津見の神様とM子さんのおかげです。
ありがとうございました。


あかりこさんから送っていただいた写真も入れておきます。





大変な戦場になっていたとは思えない、美しい写真ばかりですね。
いつかは、行ってみたいと思っています。


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志賀海神社の神様 その2

2024-01-13 07:30:00 | 日記
前回の記事で話したシカウミの神は、福岡県の志賀海神社にいると言っていました。

志賀海神社については、以前に記事にしましたが、それはワタツミの神の話でした。


🐶 志賀海神社



ワタツミの神が、「お潮井の砂」を取って来たらいいと言っていたので、それを読んだ福岡在住のSご夫妻が行ってくれて、私のところに送ってくれたのですね。

その砂を熱海の神棚に置いたので、シカウミの神が話してきたのだと思います。



私は記事にしたので、改めて志賀海神社について、調べてみました。


🌟志賀海神社(しかうみじんじゃ)は、福岡県福岡市東区志賀島にある神社。
式内社(名神大社)。
旧社格は官幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。

全国の綿津見神社、海神社の総本社を称する。
「龍の都」と称えられ、古代氏族の阿曇(あづみ)氏(安曇氏)ゆかり地として知られる。

創建は不詳。
社伝では、古くは志賀島の北側、勝馬浜において表津宮(うわつぐう)・仲津宮(なかつぐう)・沖津宮(おきつぐう)の3宮から成っていたが、阿曇磯良(あづみのいそら:阿曇氏祖)により、そのうち表津宮が志賀島南側に遷座して現境内となったという。
仲津宮・沖津宮は現在は摂社となっている。
その阿曇磯良は、神功皇后の新羅(しらぎ)出征において舵取りを務めたとも伝えられる。

古代の九州北部では、海人を司る阿曇氏(安曇氏)が海上を支配したとされる。
志賀島は海上交通の要衝であり、その志賀島と海の中道を含めた一帯が阿曇氏の本拠地であったとされており、志賀海神社は阿曇氏の中心地であったと考えられている。
現在も志賀島の全域は神域とされ、現在の神主家も阿曇氏の後裔を称している。

なお阿曇氏の活動は日本全国に展開したといわれ、長野県安曇野市、石川県羽咋郡志賀町、滋賀県安曇川、愛知県渥美半島といった「しか」・「あつみ」という地名は、その遺称地と伝えられる。


私は、調べて出てきた「阿曇磯良(あずみいそら)が気になったのと、1月1日に起きた能登半島地震で、被害が大きかった志賀町(しかまち)にも注目しました。


🌟石清水八幡宮の縁起である『八幡愚童訓』には「安曇磯良と申す志賀海大明神」とあり、当時は志賀海神社(福岡市)の祭神であったということになる(現在は綿津見三神を祀る)。

海人族安雲氏の本拠である福岡県の志賀海神社の社伝でも、「神功皇后が三韓出兵の際に海路の安全を願って阿曇磯良に協力を求め、阿曇磯良は熟考の上で承諾して皇后を庇護した」とある。
北九州市の関門海峡に面する和布刈(めかり)神社は、三韓出兵からの帰途、阿曇磯良の奇魂・幸魂を速門に鎮めたのに始まると伝えられる。

海神が干滿の珠を神功皇后に献じたという伝説は広く見られ、京都祇園祭の船鉾もこの物語を人形で表わしている。


私はここまで調べて、シカウミの神は、「阿曇磯良」なのではないか?と思い、聞いてみると、


そうだよ。
わかってくれて、ありがとう。


と言ったので、次の日(1月10日)に話してみました。


シカウミの神だ。

昨日、阿曇磯良(あづみのいそら)だと言いましたよね。

言ったよ。
私は、志賀海神社には祭られてない感じだけど、いるよ。

どこにいるのですか?

海の底にいるので、大体は仲津宮と沖津宮の間にいたりする。

和布刈(めかり)神社には?

和布刈神社にはいるよ。
Sが送ってくれたからな。
だから、話せるようになったのだと思う。
私も就いていいか?

はい。

よろしく頼むよ。

能登半島の志賀町が、大変なことになっていますね。

そうだな。
私の子孫は、全国にいるから心配しているよ。


シカウミの神は、私の273番目の神様になりました。

質問の中の和布刈(めかり)神社は、調べた中に出てきて、私はビックリしていたのです。

昨年、Sさんのお父様が亡くなって、海洋散骨をしたいとのことで、探していた時にこの神社で行っていることがわかり、儀式をしてご家族皆様での写真を送っていただいていたのですが、私はこの時まで結びつかなかったからですね。

この神社での縁起物の「切火」をSさんが送って下さって、ミクネの神(天之常立之神)に言われた通り熱海の部屋に持って行ったことで、繋がりが深くなったようです。


熱海も、安曇氏と関係が深い場所のようなので、持って行って良かったですね。


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志賀海神社の神様

2024-01-09 07:30:00 | 日記
10月18日に、いきなり話してきた神様がいました。


疑いがないからいいのだろうな。

どなたですか?

相撲は、取ってないが強いよ。

え?相撲ですか?

相撲だよ。
今は(力士に)日本人が減ってしまったな。

そうですね。

元々は、タケミカズチとタケミナカタが取ったところから、始まったよ。

そうでしたっけ?

巨人だったからな。
石投げもしたしな。

では、あなたも巨人ですか?

巨人ではないが、強いのだよ。
しーーーーかーーーーうーーーーみにいる神だ。

しかうみの神様ですか?

わたのはら(海)の神のワタツミの神と一緒にいるよ。
M子のところの砂が、「潮井の砂」になったので、来れるようになったのだよ。

志賀海神社の神様ですか?

シカウミの神でいいよ。


私は何となく相撲の起源の話は、聞いたことはありましたが、いきなり言われると、そうだったのかな?と思い、改めて調べてみました。

私の過去記事には、タケミカズチとタケミナカタが巨人で、ほぼ互角の戦いをしていたことは出てきていました。
石投げの話もあったなぁと思って振り子の文字を読んでいました。

石投げの話は、「かつこ内親王」の2017,3,8の記事にありました。
稲佐の浜にいると言っていたサナの神が話していた記事ですね。
少し、抜粋します。


タケミカズチだ。

この前、私達が稲佐の浜にいた時に、来ましたか?

稲佐の浜に行ったよ。
Iは、気がついたようだな。
私がピースサインしたのを。。。
稲佐の浜で、かつて、タケミナカタと力比べをしたのだよ。
リードしたのは私だと思ったら、タケミナカタが連投したので、負けてしまったよ。
まぁ、五分五分の戦いだったからな。
苦痛だったからだよ。
大きいからな。
会議は、苦痛なのだよ。。。


タケミカズチは、昨年も会議から早々に帰っていたのは、大きくて苦痛だったのか?と思いました。

Iさんはその時に、ピースサインしてくれたと、言っていましたが、やっぱりそうだったようですね。(笑)



🌟つぶて岩は、稲佐の浜から日御碕に向かっていくと見えてくる。
建御名方神(タケミナカタ)が国譲りの使者武甕槌神(タケミカズチ)と力くらべをし、稲佐の浜から海に向って投げられた岩であるといわれる。


🐶 稲佐の浜の話



そして、相撲の起源については、wikipediaにありました。

日本における相撲の記録の最古は、『古事記』の葦原中国平定の件で、建御雷神(タケミカヅチ)の派遣に対して、出雲の建御名方神(タケミナカタ)が、「然欲爲力競」と言った後、タケミカヅチの腕を掴んで投げようとした描写がある。
その際タケミカヅチが手を氷柱へ、また氷柱から剣(つるぎ)に変えたため掴めなかった。
逆にタケミカヅチはタケミナカタの手を葦のように握り潰してしまい、勝負にならなかったとあり、これが相撲の起源とされている。


手を剣にしてしまうとか、相撲とは違う気がしますが、日本神話ではやっぱりシカウミの神が言っていたように起源となっているようです。


丁度この頃、Iさんと志賀海神社について、話していた時に、Iさんは行ったことはあるけど、奥の方に向かって行く森の道は近づけない話をしていました。

彼は、いろいろ感じるタイプなので、昔から戦いがあった場所に行くと具合が悪くなるのですね。
だから、お城とか古戦場とかはなるべく避けてきたので、奥の方は行かないと言っていました。

それを聞いていたのか、シカウミの神が続きを話していました。


志賀海の辺りは戦(いくさ)が多くて、海の向こうは朝鮮半島だからな。
だから、迂闊に裏に行かない方がいいと、Iが言っていただろう。

はい。言っていました。

M子は、記憶力のお陰で、まだまだいけそうだな。
脳は、使うことが大事だよ。
使わないと何でも錆びてしまうからな。
話が出来て良かったよ。

何階層の神様ですか?

私は四階層の神だよ。


その後に話してきたのは、ミクネの神(天之常立之神)でした。


ミクネだ。
利他の心でいてくれて、ありがとう。
理解はしていなくても、ここまできたのだからな。
理解するのは難しいよ。
良いものは良いし、悪いものは悪い。
そのくらいで、いいのだよ。
金の執着が悪くしていくよ。
だから、騙す人がいるのだ。
自分も老いるのが、わからないのかな?
苦労しないで金を手に入れても、身に付かないけどね。


銀行に行って、振り込みをしようとすると、ATMの画面に注意喚起の文字が、何回も出てきますね。

私は銀行の女性に、

こんなに沢山言ってても、詐欺は減らないのですか?

と、聞いたことがあります。

そうなんです。

と、その方はおっしゃっていました。


能登半島の地震があって、そういう時を狙う悪い人もいそうで、本当に悲しくなりますね。

被害に会われた方々のお悔やみとお見舞いを申し上げます。


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雲見浅間神社 その2

2024-01-07 07:30:00 | 日記
前回の記事は、1月2日で「能登半島地震」については、まだわからないことばかりでしたが、今はだんだんと様子がニュースで伝えられて、亡くなられた方々も126人、行方不明の方々もまだ多数のようで、本当に大変な年の始めとなってしまいました。

心からのお悔やみとお見舞い申し上げます。



さて、前々回の雲見浅間神社の話の続きです。

傾斜の厳しい階段を昇り中之宮に着きました。


中之宮の右手の海ですが、美しい色でした。



この後は、看板に書いてあった約10分間の山道になり、石がゴロゴロしている道を慎重に登って行きました。





本当に、KIKOさんはよくピンヒールで登ったものだと思うような道でした。

そして、本殿に到着しました。



途中で岩がせりだしている細い道で、男性何人かとスレ違いました。
駐車場にバイクが何台か停まっていたので、その人達だとわかりました。
ですので、私達が本殿にいた時は誰も来ない時間となりました。

本殿を開けて、持って来たリンドウを飾り、アルパカ赤ワインを供えました。




Iさんは、アマテラス祝詞を三回しっかり挙げることが出来て良かったです。


リンドウをペットボトルの蓋を開けて、差し入れてくれたので、しばらくは持ちそうでした。

本殿のところから、金属で出来た階段を昇ったところが、展望台となっていました。
そもそも、ここは烏帽子山(えぼしやま)というらしく、途中の看板にその図が出ていました。


展望台から見る景色は、まさに絶景で、遠くの富士山は雲から頭の先が出ているだけでしたが、見られて良かったです。
しばらく、絶景を堪能しました。






山道は、上りより下りの方が怖いので、ゴロゴロ石の道もゆっくり降りて下まで行くと、行きには気付きませんでしたが、鳥居は横浜そごうさんの奉納だったようですね。



KIKOさんにとっては、思い出の地にやっと来れたということでしたし、Iさんと私は初めての絶景の場所でした。


イワナガヒメは、しばらくして話してきて、KIKOさんはマチュ・ピチュで巫女だったと言っていて、烏帽子山は確かにマチュ・ピチュっぽいなと思いました。

Iさんも記事にしていました。
彼の写真も少しお借りしています。


🐷 雲見徒然 2



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年末と年始に

2024-01-03 07:30:00 | 日記
2024年が明けました。
私は喪中につき、ご挨拶は控えております。
「雲見浅間神社」の続きの話は次の記事にしようと思います。


まさか、年明けの1月1日に大きな地震がくるとは思いませんでした。
1日経って、被害の様子が報道でわかってきて、今の時点で亡くなった方が57人もいらっしゃるようですし、寒い中を避難所で過ごしている方もいらして大変なお正月になってしまい、お悔やみとお見舞い申し上げます。

私のお知り合いの方で、石川県や新潟県在住の方にはご連絡しましたが、皆様ご無事なようで、少し安心しました。



私の夫が亡くなってから、私は元々の部屋で1人で過ごしていますが、食料品は夫がいた部屋にあるので、賞味期限を見ながらそれを消費する毎日を送っていました。
一応、朝昼夕三食は摂るようにして、野菜も食べようと工夫はしています。

いつも、夫と食事していたので、ご飯は炊いていましたが、今はその時冷凍したご飯を消費しながら食べているので、あまり炊くこともありません。

冷凍食品も夫のために冷凍庫を買って用意していた物を少しずつ減らしています。

妹家族や友人達も気にしてくれて、食事に誘ってくれるので、ありがたいことですね。

年末最後の31日は、夕方から熱海のマンションに行っていました。
温泉に入るのと、1月1日の初日の出を見るためでしたが、5年前に熱海のマンションを買ってから大晦日に行くのは、初めてのことでした。

熱海は、夕方が早くて商店街も5時を過ぎると閉まるお店が多いです。
途中で買った「かき揚げそば」を温めて夕食にして、NHKの「紅白歌合戦」を観ていました。

テレビの主導権はずっと夫だったので、「紅白歌合戦」を結婚してから観ることはほとんどなかったのです。
今年は旧ジャニーズの方々が出られなかったのもあったと思いますが、私が知らない韓国のグループが沢山出演していて、見分けがつかないでいました。

後半は逆に昔のヒット曲が流れていて、NHKさんも苦しかったのかと思いました。

伊藤蘭さんのキャンディーズメドレーは、変わらないスタイルでさすがと思いましたが、150人の親衛隊の姿がカオス状態でした。
多分、60才代と70才代の人達だと思いますが、まだまだ青春な感じで、それも楽しくていいのかと思えました。

今回勝利は「紅組」とのことでしたが、「ボーダーレス」を掲げていたので、男女で分けている感じはなく、最後に「あぁ、勝ち負けがあったのね」と思いました。

私としては、今流行っている人達なのかよくわかりませんでしたが、生放送で観られたのはまぁ良かったかという感じでした。


次の日の1月1日の初日の出は、5時くらいから明るくなる空を見ていました。

6:51

7-06

7:15


の感じで、初日の出はしっかり見ることが出来ました。

本当に晴れて穏やかな朝でした。

朝から温泉に入り、駅前のマックで「朝マック」を食べて、午後には妹の家に行きました。



横浜市に住む妹家族と、用意してくれた手巻き寿司を食べてテレビを観ていた時に、地震速報が入ってきて、横浜も少しゆらゆら揺れました。

震源地は能登半島の近くでしたが、津波の注意報が、日本海沿岸全てだったので、本当に年始初日から大変なことになったと思いました。

1月2日に何人かの方に連絡しましたが、遠い横浜でも少し揺れたくらいでしたのて、皆様生まれて初めてのスゴい揺れだったとおっしゃっていました。

お正月だったので、食料品も多目にあって良かったという話をしていて、こども園に勤めている方は、子供達と一緒じゃなくて、本当に良かったとのことで、確かに沢山の子供達がパニックになったら、大変なことになっていたと思いました。

12年前の東日本大震災の時は、平日の午後で、交通網が動かなくなり、関東でも通勤していた人達は歩いて家まで帰っていました。

1月1日は、そういう意味では大難が小難になったのかもしれませんが、帰省中に被害を受けた方もいらして、道路も寸断されたりして、本当にこれからしばらくが大変になりそうですね。

改めて、お見舞い申し上げます。

ミクネの神(天之常立之神)は、2016年の真脇遺跡と最近の彌彦神社に行ってくれたから、少し押さえられたと言ってくれましたが、やっぱり地震を無くすことは出来ないようです。


🐶 北陸の旅 その4



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