「ノナの家」nonahouseは かつこ内親王、かつこ内親王2の続きのブログです。

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殺生石 その2

2022-03-14 07:30:00 | 日記
3月2日のNHKの歴史探偵「天下統一 秀吉の一夜城」では、小田原城がなぜ難攻不落と言われていたかの検証をしていて、小田原城は城下町をかなり広く堀で取り囲んでいたので、食糧が自給自足出来ていたそうです。

そして、その堀がかなり深く切り立って作られていたので、城内に侵入することは至難の技で実際ミニチュアの堀を作って検証していました。
関東ローム層で出来た堀は、ツルツルと滑って登れなかったようですよ。

当時、ほぼ天下統一をしていた豊臣秀吉にとって、北条氏を倒せば全国統一になるということで、一夜城を建てたのですね。

一夜城は、1日で作った訳ではなく、約3ヶ月の間に建てられた城ですが、出来上がった時に一斉に回りにあった木を切り倒したので、小田原城から見たら、いつの間にあのような立派な城が建てられたのかということで、北条氏は戦意喪失したそうです。

私は、記事にした通り、1月に小田原城の天守閣から一夜城のあったであろう山を見ていました。
天守閣の西側の箱根方面の手前に見える山が、石垣山一夜城です。



今は、石垣の一部しか残っていない城跡ですが、作られた時はかなり広い城で天守閣もあり、当時の人達は本当にスゴい技術を持っていたのでしょうね。

一夜城のお陰で天下統一をした豊臣秀吉は、ここで止めておけば良かったのだと思いますが、この後に朝鮮出兵をしてしまいます。

やっぱり、過去記事の通り、魂を乗っ取られてしまったのでしょうか。

九州から朝鮮半島に出兵する兵士に対して威信を示すために建てられたのが、唐津の肥前名護屋城(ひぜんなごやじょう)だったそうで、小田原の一夜城は予行練習になっていた話もありました。

肥前名護屋城も、たった8ヶ月で建てられた城だったそうです。
それを見ながら船で沢山の兵士が朝鮮半島に向かって行きましたが、豊臣秀吉が途中病気で死んでしまったので、戦意は無くなり戦いは終わりとなりました。
とは言え、7年も続いていたそうで、武将達も九州の肥前名護屋城に集められていたので、国内も混乱していたようです。


さて、私達5人(みこちゃん、いくちゃん、Sさん、Iさん、私)が、一夜城のあった石垣山に行ったのは、2016年4月16日のことだったので、もう6年前の話です。

大島に行こうとして暴風雨のために船が欠航してしまったので、急遽行った場所でした。

その時に、本丸跡のところにあった祠に挨拶したら話してきた神様がいました。

ツルガの神という、福井県の敦賀にある気比神宮に普段はいるという神様でした。
その時に話したことを抜粋します。


ツルガの神です。
敦賀にいるのに、なぜ木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に就いていたかですよね。
木下藤吉郎は、ニギハヤヒの分け御霊でした。
Iは、豊臣秀吉だった時があると言われていましたね。
カラミのない木下藤吉郎は、素晴らしい働きをしていました。
だから、天下統一が出来たのです。
敦賀にもいた時はあるのです。
だから、私は憑いていました。
(小田原の)一夜城を建てた時も素晴らしかったですよ。
誰にも知られずに、沢山の人を集めたというのは、それまでの人間関係ですからね。
だから、Iも同じように動いているのです。
時代は違えども、人を動かすのは、選ばれし人だから出来るのですよ。
(木下藤吉郎は)豊臣秀吉になって、回りの人のお陰を忘れてしまいました。
変わってしまうのです。
欲にかられるとね。
だから、IにはM子さんの存在は大きいのですよ。
魂が繋がれているので、このまま一緒に私達の言葉を伝えていってくださいね。


神様達がよく言うことで、守っている神様も離れてしまうことはよくあるとのことです。

なぜ、離れてしまうのかは感謝の気持ちが無くなるというのが、一番だと思います。
生きていることは、自分の力だけではなく、回りのお陰様だという気持ちを忘れてしまうと、もういいやと、いなくなってしまう感じですね。

一夜城に行った時に話してきたツルガの神も、木下藤吉郎の時には、気に入って守ってきたけれど、九尾の狐に操られてしまった晩年の豊臣秀吉からは離れてしまったようです。

豊臣秀吉の年表を見ると、織田信長が死んでしまった「本能寺の変」は、46才の時です。

鶴松(淀殿との子)が生まれ後継にしたのは、53才。結局、鶴松は2才で死んでしまいます。

北条氏を倒したのは、54才。

千利休に切腹を命じたのは、55才。

そして、伏見で亡くなったのは、62才とのことです。

どうも、神様達が言っていたことを考えると、淀殿(茶々)との出会いが狂わせてしまったような気がしますね。
淀殿は、鶴松を生んだ時はまだ20才くらいなので、おじいさんにしか見えない秀吉のことは嫌だっただろうと思いました。

それほど、豊臣秀吉には織田信長に対する執着があったのかですけど。。。
守っていた神様が離れてしまったので、九尾の狐に取り憑かれてしまったのかもしれませんね。


下の記事は、私達が小田原の一夜城に行った時の話です。
懐かしいことですね。
この日は、大島行きの船が欠航していまう、暴風が吹いていました。
雨はそれほどではなかったですが、私の傘が壊れてしまったくらいだったのだと、改めて思いました。


🐶 小田原へ その2




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