「ノナの家」nonahouseは かつこ内親王、かつこ内親王2の続きのブログです。

神様達の名前は、沢山出てきますが、宗教とは全く関係ありません。
唯一無二の魂に感謝します。

坂本八幡宮の話 その2

2019-06-13 07:30:49 | 日記
5月19日に、Sさんから、朝早くにお電話がありましたが、きちんとお話しすることが出来ずにいて、改めてお電話で話したのは、彼女から📩が来てからでした。


Sさんの📩


M子様

今朝は朝早くお電話して失礼いたしました。
遅くなりましたが、坂本神社の写真とご報告です。

坂本神社は、狭い敷地にそぐわず、駐車場がとても広々としていました。
車を停めて見渡すと、梅の木が、生垣のようにズラリと四方を囲んでいて、「うわぁ、たしかに梅の木だらけだぁ」と叫んでしまいました。



そして、車を降りて神社に向かうと、駐車場の敷地を出る手前、神社から数メートルのところに、石で囲まれた結界を結んだようなところがあり、竹筒がぶら下げてあって、その中に、赤飯とか干し大根?のような、干からびた食べ物が入っていました。



まだ朝の7時で、御朱印の受付は9時からなのにもかかわらず、並んでいる人も4〜5人いました。
ちょっと人目が気になりましたが、ムースを置くなら、きっとここなかぁと。
私がゴソゴソと、クーラーボックスから、ムースを取り出し、夫の田舎から美味しい新茶を送ってもらったばかりだったので、お茶も添えてみました。
ムースだっら、コーヒーか紅茶が良かったですかね(笑)
ムースは、前日の夕方から探し始めたので、思うようなものがなく、結局、手作りすることにしました。
お菓子作りなんて、20年ぶりぐらいで、自信は全くなかったのですが、梅の精さんたちは、たくさんいらっしゃると伺っていたので、ドーンと作って、スプーンを多めにつけてみました^_^
ちなみに桃缶のムースです。



私がゴソゴソ並べていると近所のおじいさんが、「ここには何があるとね?」
と聞かれたので、「わ、わたしもわかりませんけど…」
としどろもどろで答えていると、「今までは、な〜んにもなかったけど、「令和」になって、急にこんなのができたんよねえ。」
と言って、神社へ向かわれました。
私は、自信はないものの、ここしかないよね〜と思い、小さな声で、唯一、ソラで唱えられるあわの歌を唱えて、そそくさとムースを片付けて、神社の敷地に入りました。

伽藍さまにも和菓子を供え、猿田彦さまの石には、お酒を撒いて、本殿でお参りし、しばらくいた後、車に戻りました。そして、車を出す直前、気がつきました。

ムース食べてなかった!と。

慌てて、車の中で、夫と二人で、窓を開けて食べましたが、そんなんで、良かったのでしょうか?
梅の精さん、失礼があったらごめんなさい。不慣れで、役不足なもので…

そして、帰り道にもう一つ石碑がありました。








大伴旅人さんは、太宰府に来てすぐ、奥様を亡くされたんですね。
酒壺になりたいと歌を詠んだくらいの酒好きだったとの記述がありましたが、さぞかし当時は寂しくて、きっと飲まずには、いられなかったんでしょうか。
最近は賑やかになってきて、喜ばれていらっしゃるのかな?

というわけで、すっかり長くなってしまいましたが、
梅の精さんたちにムースを届けるなどという素敵なお使いができて、本当に楽しい一日でした。
坂本神社は、とても素敵な場所で、20分かからないぐらいのところだったんです。
これからは、ちょくちょく、お参りに行こうと思います。M子さんに感謝です。
ありがとうこざいました。



大伴旅人を調べてみて、やっぱり驚いてしまいました。


🌟大伴 旅人(おおとも の たびと)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての公卿・歌人。
名は多比等とも記される。大納言・大伴安麻呂の長男。官位は従二位・大納言。

生誕 天智天皇4年(665年)
死没 天平3年7月25日(731年8月31日)

養老4年(720年)2月29日に大隅守・陽侯史麻呂の殺害に端を発した隼人の反乱の報告を受け、3月4日に征隼人持節大将軍に任命され反乱の鎮圧にあたる。
5月頃軍営を張り、6月中旬までには一定の成果を上げる。
その後、8月3日に右大臣・藤原不比等が亡くなったことから、8月12日に旅人は京に戻るよう勅を受ける。

神亀5年(728年)頃大宰帥として妻・大伴郎女を伴って大宰府に赴任する。
60歳を過ぎてからの二度目の九州下向であったが、この任官については、当時権力を握っていた左大臣・長屋王排斥に向けた藤原四兄弟による一種の左遷人事、あるいは、当時の国際情勢を踏まえた外交・防衛上の手腕を期待された人事の両説がある。


私が、驚いたのは、藤原四兄弟の中に、前回の四国の話の藤原房前(ふじわらのふささき)がいるからです。

『万葉集』には房前である藤原北卿とあり、大伴旅人への答歌等が見られるそうですよ。
年齢は違いますが、同じ時代を生きていた人達なのですね。


旅人が九州にいる間に、神亀6年(729年)に長屋王の変で左大臣・長屋王が自殺、天平2年(730年)9月には大納言・多治比池守が薨去と大官が次々と没したことから、旅人は太政官において臣下最高位となり(太政官の首班は知太政官事・舎人親王)、同年11月に大納言に任ぜられて帰京する。
翌天平3年(731年)正月に従二位に昇進するが、まもなく病を得て7月25日に薨去。享年67。


大変な時代だったのだと思いました。

そして、次の日に、梅の精が話してきました。


続きます。

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