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仁左衛門日記

The Diary of Nizaemon

二つの山道

2005年05月15日 | 新増毛町史
『新増毛町史』の【第三章/交通運輸編】の導入部は、かつての山道について記述するつもりでいたのだが、原稿枚数が多くなり過ぎたことから、【増毛山道】と【雄冬山道】については削除し、道道のところで【仁奈良(ニナラ)山道】に触れるだけとした。
以下が削除した箇所の一部分である。
↓ここから
一.二つの山道
増毛と浜益の境には暑寒別火山群があり、海にはかつて蝦夷三険岬の一つに数えられた雄冬岬がある。
この沖では行き交う船の遭難も多く、マシケ・ハママシケ両場所請負人の伊達林右衛門は、安政四(一八五七)年五月十八日に山道の開削工事に着手し、翌五年七月に開通させた。
この【増毛山道】は、ポロ(旧浜益村大字群別字幌)から浜益御殿(標高一〇三八.六メートル)に登り、そこから雄冬山(一一九七.六メートル)の東側を下ってポンナイ(旧別苅村字本内)に達した延長九里半(一里=三.三キロメートル)の人工道であったが、明治七(一八七四)年十月十一日にこの道を通った御雇外国人技師ライマンは、「今日経過シタル径路ハ、大抵鹿ノ作リシモノナラン。(中略)人間ノ建築トハ思ハレ難シ」(『ケプロン報文』来曼北海道記事)と酷評している。
一方、アイヌ達が利用した【雄冬山道】は、登り口のポロから別れ、海岸沿いにトコタン(近代群別村に包含)・チヨシベツ(近代群別村に包含)を通り、タンパケ岬の上を周って旧雄冬灯台の近くに抜け、雄冬の浜に下る。
これは点在した番屋間を結ぶ自然道(踏み分け道)であったが、明治二十六(一八九三)年から翌二十七年にかけて浜益村を事業主体とした整備が行われた結果、【雄冬山道】の交通が容易になり、【増毛山道】は廃れていったのである。
↑ここまで
しかし、これも書いていく途中で随分と短くした文章であった。
例えば、「かつて蝦夷三険岬の一つに数えられた雄冬岬がある」という部分は、「かつて神威岬・茂津多岬と並んで蝦夷三険岬の一つに数えられた雄冬岬がある」と書いていた。
最初のうちは語尾を見直したりして文章を短くしていたのだが、それではほとんど短くならないので、文章をドンドン間引きしていった。
結果、低価格の薄っぺらな辞書にありがちな不親切な記載に近づいていったような気がするのである。
つづく

『新増毛町史』予告編の予告

2005年04月04日 | 新増毛町史
『新増毛町史』のうち仁左衛門が担当の第三編は、当初30の節で構成する予定にしていたのだが、変更に次ぐ変更の挙句、最終的には25の節で構成することにした。
この町史第二巻は、昭和45(1970)年以降現在までの増毛町の歴史を記録する。
しかし、いきなり昭和45年から書き出すよりもそれまでの経過を書いておいたほうが親切であろうと思い、浜益~増毛間の山道のこと、深川~留萌間の鉄道が先に開通することになって雨竜~増毛間が中止になったこと、激しい誘致合戦の末に国費での港湾修築が増毛港ではなく留萌港に決まったことなどにも触れたのだが、これは『増毛町史』(昭和49年)にも記述されていることなので、そちらを読めばいいことであるし、第一に原稿の枚数が増えすぎたことから、これらの記載は削除することにしてしまった。
というのも、仁左衛門の場合も原稿枚数の超過は結構深刻で、せっかく借りられたにもかかわらずページ数の関係で使うことができない写真が結構あるくらいなのだ。
上の画像は、増毛町役場町民課で発行している『広報ましけ』の使用済写真からのもので、【昭和40年代(たぶん)の増毛郵便局での電話交換手の様子】。
通話が自動化されるまでは電話の交換手はとても重要な仕事だったのであるが、ボタンを押せばすぐに電話がつながる今となっては一般的には存在しない職種になってしまったわけで、こういった風景を見ることはまず有り得ない。
それだけに貴重ではあるのだが、この本で採用されないことは何とも致し方ないのである。
で、考えてみるとこういった写真もそうなのだが、せっかく書いた原稿がもったいないので、削除した部分を今後ちょこちょことココに書き込んでいくことにしようと思う。
『増毛町史』は昭和49(1974)年に定価6,000円で販売されたものの、今となっては入手は困難であり、当時購入した町民以外はほぼ読むことはできないからである。
そして、あらかじめ断っておくが、ここに書くことは『新増毛町史』には記載されないし、『増毛町史』から書き写したものでもない仁左衛門のオリジナルである。
『新増毛町史』の予告編と考えていただきたい。
では、次回から(?)。

原稿提出

2005年02月26日 | 新増毛町史
水曜の朝、株式会社Gの担当者K氏から「明日そちらに行くついでに原稿を受け取りたい」との電話があった。
仁左衛門担当の『第三編/交通運輸編』は、とりあえず執筆を終わらせていて、あとはプリントアウトをするだけになっていたのだが、前回の会議で早めに提出してほしいと言われていたものの、何となく先延ばしにしていた。
それは、専用原稿用紙(468文字)に合わせて文書の書式設定を変更しながらプリントをしなければならないのだが、データを細分してファイルしていたために作業を25回に分ける必要があり、時間がかかるだろうことが予想できたからだった。
まぁ軽い【逃避】だな。
しかし、その時がついにやって来たわけで、結局はその晩は徹夜になってしまった。
読み返しながらプリントしてしまうと、ついつい更に手を加えたくなってしまい、どんどん時間が経過してしまったのだ。
今回出した原稿は、本社に送られ添削されたあと、2〜3週間後に戻ってくることになっていて、その時に赤ペンで訂正された所を修正していくことになる。
その際には『第七編/地誌』の【第一章/地勢・地理・地質】と【第三章/大正から昭和にかけて=雄冬・岩尾・別苅・暑寒沢】の原稿を提出しなければならないので、まだ少し頑張らなければならないのだが、たくさん書いた文章をどんどん減らしていくのは大変なことである。
増毛の歴史を後世に遺していこうとする仕事なのに、「ハイ、ここ削除!」とボタンひとつで簡単に数十〜数百文字を消してしまうと、そのエピソードは誰にも知られることなくほぼ永遠に埋もれてしまうからだ。
何とも難しい作業だと思う。

第三編/交通運輸編

2004年12月24日 | 新増毛町史
『新増毛町史』の原稿書きはPCの【原稿用紙ウイザード】を使って作業をしていたので、仁左衛門の第一稿は400字詰になっていたが、実はこの『新増毛町史』には468文字となんともハンパな専用原稿用紙があって、今はこの様式に移しながら多少の書き直しや追加・削除をしている。
ところが、この作業を続けていくうちに「写真と表が占める割合をほとんど考慮していなかったこと」に気付き、真面目に計算し直した所、なんと無茶苦茶オーバーしていることが判明したのだった。
図・写真計30枚と表40個を合わせて原稿20枚分を占めるとすると、純粋に文字分として使えるのはたった100枚。
すでに書いていた161枚を100枚までに減らすというのは、大変な作業だ。
生半可なやり方ではどうしようもないので、どんどんぶった切っていった。
「テメー、こんちくしょー!!」とは言ったりはしなかったがね。
今回の町史は、昭和45(1970)年以降の話なので、基本的にはそこに至る過程の記載を削除していったということなのだが、返ってすっきりして読みやすくなったかもしれないか。
歴史の流れを詳しく知りたい人は、改めて昭和49(1974)年発行の『増毛町史』を読んでもらうしかない。
で、このあとは「第七編/地誌」。
こっちは・・・。

日方泊トンネル

2004年11月24日 | 新増毛町史
『新増毛町史』の原稿の手直し作業については最近チョット頑張っている。
昨日は鉄道の関係を見直していたのだが、どうも資料が不足しているように思い、今日は午後から道立図書館に行って来た。
元陣屋経由で本を借りてもいいのだが、手元に届くのは一週間も経った頃。
ちょっと時間がかかりすぎるのだ。
午後1時半からいろいろ資料を調べ始めて、必要な箇所のコピーを取り、午後5時に作業を終えた時には外はもう真っ暗。
腹が減ったので帰って来た。
と、いうか閉館時間が午後5時なのだ。
午後7時まではやっててほしいものである。
画像は、帰りに通った日方泊トンネルの中。
まだ工事中なので、片側一方通行である。

鳥獣戯画

2004年11月21日 | 新増毛町史
すでに先週の出来事になってしまったが、また北海道立図書館に行って来た。
目的は北方資料室での図書及び資料の閲覧。
もちろん『新増毛町史』に役立てるためである。
7月末に第一稿を提出した後も資料集めは続けていて、第二稿にそれらを反映させたいところなのだが、ページ数が限られているのでどの程度盛り込むことができるのか。
資料を収集しながらも不安はつのるのである。
さて、道立図書館では【日本の絵本・その歩み】という所蔵資料展をしていた。
このシリーズ化した展示は、なんと昭和55(1980)年から続けていて、ちっちゃなスペースなのだが101点の資料があるそうだ。
『鳥獣戯画』も絵本であるらしい。

新増毛町史

2004年10月10日 | 新増毛町史
10/6と10/7の2日間、『新増毛町史』の取材のため江別市と札幌市に出かけた。
『新増毛町史』は、昭和49(1974)年に発行された『増毛町史』の続きとして平成18(2006)年に発行される予定の本だ。
担当している「交通運輸編」「地誌/雄冬・岩老・別苅・暑寒沢」「地誌/地理・地勢・地質」の第一稿を今年7月に提出した仁左衛門だが、第一稿そのままの内容で製本されるわけではなく、追加や削除など相当な手直しを必要としている。
原稿提出の最終期限は平成17(2005)年3月だが、より良い内容で完成させるため今でも資料を集め続けているというのが現状である。
江別市にある北海道立図書館の蔵書は元陣屋の図書館を窓口として貸し出しを受けることができるが、【北方資料室】所蔵の本は貸し出し禁止のものもあり、直接行かなければ閲覧することが出来ないのだ。