『新増毛町史』の【第三章/交通運輸編】の導入部は、かつての山道について記述するつもりでいたのだが、原稿枚数が多くなり過ぎたことから、【増毛山道】と【雄冬山道】については削除し、道道のところで【仁奈良(ニナラ)山道】に触れるだけとした。
以下が削除した箇所の一部分である。
↓ここから
一.二つの山道
増毛と浜益の境には暑寒別火山群があり、海にはかつて蝦夷三険岬の一つに数えられた雄冬岬がある。
この沖では行き交う船の遭難も多く、マシケ・ハママシケ両場所請負人の伊達林右衛門は、安政四(一八五七)年五月十八日に山道の開削工事に着手し、翌五年七月に開通させた。
この【増毛山道】は、ポロ(旧浜益村大字群別字幌)から浜益御殿(標高一〇三八.六メートル)に登り、そこから雄冬山(一一九七.六メートル)の東側を下ってポンナイ(旧別苅村字本内)に達した延長九里半(一里=三.三キロメートル)の人工道であったが、明治七(一八七四)年十月十一日にこの道を通った御雇外国人技師ライマンは、「今日経過シタル径路ハ、大抵鹿ノ作リシモノナラン。(中略)人間ノ建築トハ思ハレ難シ」(『ケプロン報文』来曼北海道記事)と酷評している。
一方、アイヌ達が利用した【雄冬山道】は、登り口のポロから別れ、海岸沿いにトコタン(近代群別村に包含)・チヨシベツ(近代群別村に包含)を通り、タンパケ岬の上を周って旧雄冬灯台の近くに抜け、雄冬の浜に下る。
これは点在した番屋間を結ぶ自然道(踏み分け道)であったが、明治二十六(一八九三)年から翌二十七年にかけて浜益村を事業主体とした整備が行われた結果、【雄冬山道】の交通が容易になり、【増毛山道】は廃れていったのである。
↑ここまで
しかし、これも書いていく途中で随分と短くした文章であった。
例えば、「かつて蝦夷三険岬の一つに数えられた雄冬岬がある」という部分は、「かつて神威岬・茂津多岬と並んで蝦夷三険岬の一つに数えられた雄冬岬がある」と書いていた。
最初のうちは語尾を見直したりして文章を短くしていたのだが、それではほとんど短くならないので、文章をドンドン間引きしていった。
結果、低価格の薄っぺらな辞書にありがちな不親切な記載に近づいていったような気がするのである。
つづく
以下が削除した箇所の一部分である。
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一.二つの山道
増毛と浜益の境には暑寒別火山群があり、海にはかつて蝦夷三険岬の一つに数えられた雄冬岬がある。
この沖では行き交う船の遭難も多く、マシケ・ハママシケ両場所請負人の伊達林右衛門は、安政四(一八五七)年五月十八日に山道の開削工事に着手し、翌五年七月に開通させた。
この【増毛山道】は、ポロ(旧浜益村大字群別字幌)から浜益御殿(標高一〇三八.六メートル)に登り、そこから雄冬山(一一九七.六メートル)の東側を下ってポンナイ(旧別苅村字本内)に達した延長九里半(一里=三.三キロメートル)の人工道であったが、明治七(一八七四)年十月十一日にこの道を通った御雇外国人技師ライマンは、「今日経過シタル径路ハ、大抵鹿ノ作リシモノナラン。(中略)人間ノ建築トハ思ハレ難シ」(『ケプロン報文』来曼北海道記事)と酷評している。
一方、アイヌ達が利用した【雄冬山道】は、登り口のポロから別れ、海岸沿いにトコタン(近代群別村に包含)・チヨシベツ(近代群別村に包含)を通り、タンパケ岬の上を周って旧雄冬灯台の近くに抜け、雄冬の浜に下る。
これは点在した番屋間を結ぶ自然道(踏み分け道)であったが、明治二十六(一八九三)年から翌二十七年にかけて浜益村を事業主体とした整備が行われた結果、【雄冬山道】の交通が容易になり、【増毛山道】は廃れていったのである。
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しかし、これも書いていく途中で随分と短くした文章であった。
例えば、「かつて蝦夷三険岬の一つに数えられた雄冬岬がある」という部分は、「かつて神威岬・茂津多岬と並んで蝦夷三険岬の一つに数えられた雄冬岬がある」と書いていた。
最初のうちは語尾を見直したりして文章を短くしていたのだが、それではほとんど短くならないので、文章をドンドン間引きしていった。
結果、低価格の薄っぺらな辞書にありがちな不親切な記載に近づいていったような気がするのである。
つづく