真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

師尊老大人曰く:一即ち一切なり、一切即ち一なり

2023-10-09 20:43:51 | 師尊老大人・月慧師母

Ray:困難な時期ゆえに、弥勒浄土に入るには、あなたの言動一切は、全てに影響を与えることを認識しなけければならない、というお話です。

師尊老大人曰く:

団体と一体となろうと思うならば、先に自身が自性を 以て実践の起点とし、率性を以て創造の誘導としなくて はいけない。

個人の私が本来の状態に戻ることにより、はじめて大体 にとけ込むことができる、亦、私によって大体を復活さ せることができる。

人は団体方式で仕事することができるが、団体方式で思 考することはできない ゆえに曰く・ ・一つの偉大な考えは、団体から生まれるの ではなく、個人からくるのである。

彼は組織内の他の人々を激励し、すべての偉大な考えを その他の人と一緒に履行していく。

このような表現の仕方は、尊大であるかもしれないが、 しかしこれもまた事実である。

いかなる成功者も、自身の体悟から発見して他人に影響 を及ぼし、一緒になって奮闘するのである。

ゆえに万物の源となるには、この自性、率性を基礎とす る。

自性とは、本来自ら具足し、本々清浄で、本より生滅な く、万法の真如を生むことができる 率性とは、乃ち性に循 したが い行うことである、是を道の普現 と謂う。

この二者に分別なし、 両者とも円明な佛性にしたがいて、 法身を荘厳にしている。

古德云う・ ・即心即佛(心こそ即ち佛である)、 此の心は本來佛であり、 迷ったがために衆生となった。

つまり迷覚の変である。

我が人は日々に現前を用い、 一念覚れば即ち佛となり、 一念一念常に覚れば、その名を常住佛という、 覚らなければ則ち永遠に迷途に堕ちる。

それはまるで、目がありながら暗室にいるが如く、 何も見ることができない。

謂わば、佛魔は即ち此の心、此の性の変によって形を現 れただけである。

若し、此の心、此の性に乱れがなけれ ば、どうして佛魔の相が顕れようか?

一即ち一切、一切即ち一とは、つまり心が一切の 源であり、一切は心の反射であることを言っている。

その顛倒の処は、本々有ったことに因って假(偽り)を 作したのではなく、本々無い習気に染められたためにそ うなったのである。

理体の上に於いては、本性は一如として変わらないが、 事体の上に於いては、人心の干渉と邪魔により錯誤が生 じる。

精微な量子学説の中で示されている、 物質上の実物とは、 ただ、 人類の意念によって造り出されただけにすぎない。

本当の実体は人の思想意念である。執着と差別の想いに 因る主観でコントロールされたことにより変化し、エネ ルギー上において雑質反応が出るようになった。

人類の実験で、鼻にチューブを入れて深く息をし、その チューブを雪の中に十分間置いておく、もしチューブの 色に変化がなければ、あなたの心が穏やかで落ち着いて いることを表している。

白く濁れば、あなたの心の中に やましいことがあることを表している。紫色に変化すれ ば、あなたがとても怒っていることを表している。

また、 チューブの中の紫色の氷を1~2ミリリットルほど抽出 してネズミに注射すると、ネズミは1、2分程で死んで しまう。

この実験をある人はこのように分析している・ ・人の感情 と思想意念は、自身のエネルギー転換に直接作用して異 なるミクロ物質の活動を生じさせることだけではなく、 それと同時に自身以外の物質のエネルギー転換にも作用 を及ぼす。 同時にこれは、 非有情物質にもそれらの情報を受け取り、 保存し、伝達する機能があることを説明している。

またこれにより、華厳経に示された 『万法は唯心より現れ、唯識により変化する。応 まさに法界 の性を觀ずべし、一切は唯心より造られる』の偈の涵義 を理解することができる。

修行者は、この時、必ずや天の性理に回帰し、ここから 新たに開拓する。


天道推奨~(一)天道降世の由来と御利益

2023-10-09 17:20:17 | 天道推奨

人間は孤独である

我々は過去に長い因果の輪廻を繰り返し続けて参りました。

行(ぎょう)、住(じゅ)、坐(ざ)、臥(が)、視覚(̻しかく)、聴覚(ちょうかく)等を通じて邪でないものはなく、言うことも行うこともすべて良心に愧(は)じることばかりであります。

今や世における犯罪と過失は日を追うて激化の一途を辿って行くのみであります。

それぞれの異なった行動は違った性格を作り、やがては別々の運命を生むに至ることは当然であります。

相互に搦(から)見あい縺(もつ)れ合った運命は宿命因業(しゅくめいいんごう)となって今生を左右し、行動を歪め間違った方向に導いていくものであります。

従って同じ人間であっても同一的に似たものはなく、つまるところ、孤独であり偏狭的(へんきょうてき)であります。

それは、輪廻の受け方に相違があり、従って表れた現象が千差万別に変化していくのは避けられない法則であります。

所が物質に迷わされた人々は同じでないものを場合により、時に応じて軽々しく自分の心の定規で勝手に同じだと信じたり、思いこんだりしています。

そしてやがて真実の姿にぶつかって始めて、相違を見出し、慌(あわ)てたり、酷(ひど)く憤怒(ふんぬ)、憎悪(ぞうお)したりして短い人生の貴重な時間を浪費しているのであります。

眞諦(しんたい)を理解していないから「諸行(しょぎょう)は無常(むじょう)なり、是れ生滅(しょうめつ)の法なり、生滅(しょうめつ)、滅し己(おわ)って寂滅(じゃくめつ)を楽と為す。」の理に徹せられずに妄想(もうそう)し、顛倒(てんとう)してゆくだけであります。

人間の平等は、共に神様から霊(たましい)を授けてもらったことと、同じ天下に住む人類同志であることのみに限って云えるだけで、因果の道から見て、その過程に於(おい)て決して一元的でなかったし、そうもできない有様になって居ります。

始めから自己の心を尺度として、萬有(ばんゆう)に当て嵌(は)めていこうとする所に誤解や曲解が生じて参ります。

だから常に期待はずれになって悩み苦しみ、嫉妬(しっと)や怨恨(えんこん)に身心を焦がしている哀れな存在であります。

眞諦(しんたい)を得た人は夙(つと)に無常の理を悟り、俗塵(ぞくじん)に染まった本性の還元に勤め、霊の覚(めざ)めを得、正しいものに合わせて凡(あら)ゆるものの差異を無くすべく、修錬して行くものであります。

そうすれば自然的にすべての面の真の在り方を観じ得て無理なく多方面に和し、対立を無くした徳の力は大いなる調和を広く確立できるのであります。

そして毎日が法悦(ほうえつ)と幸福であり満足に送られるものであります。

更に上(かみ)に天道(てんどう)を仰ぎ、下(しも)は衆生を救う聖なる道に身を委(ゆだ)ね、心を傾(かた無)けられることができるのであります。

淵源(えんげん)六万余年の歴史を有する天道は、只今、三期の世に至りまして普(あまね)く人類全般の霊魂と生命を救う天命を帯びて佈伝(ふでん)されました。

この驚くべき事実は正に世界への一大福音であります。

新たなる時代に応じた聖賢を選抜する時に、われわれは数多い人類の中から特に縁あって至宝の授記(じゅき)を得受(とくじゅ)する機会に恵まれました。

人間に生れてこれに勝る歓喜(よろこび)と幸運はありません。

続く


離苦求樂(苦を離れ樂を求める)その三

2023-10-09 17:16:53 | 離苦求樂(苦を離れ樂を求める)

十悪業の要点だけを申し上げます。

先ず身の業から考えて見ましょう。

殺(せつ)とは、生き物を殺して自分の為にすることです。

これは殺生養身(せっしょうようしん)と申し一番恐ろしい業であり、大きな罪です。

又殺生には直接殺生と間接殺生があります。

ある人は生き物を買ってきて自分で料理を作りました。

これは直接殺生です。

又、別の人はすでに殺したものを買ってきて料理を作りました。

これを間接殺生と申します。

直接殺生も間接殺生も同じ罪です。

盗(とう)とは

孟子曰く

非其有而取之者盗也。(其の有〈もつ〉に非ずして之を取る者は盗なり。)

人の者を盗ることだけが盗ではありません。

自分の物になるべき物でないものを受け取る、これも盗です。

淫(いん)とは、色情因縁のことです。

正式の夫婦以外の関係は皆淫です。

次は、口の業です。

悪口とは、人の悪口を言ったり、人をののしったり、人の是々非々を言うことです。

両舌とは、二枚舌のことです。口の中には舌は一枚しかないのに二枚舌ということは、人のありもしないことを言ったり、甲の是々非々を乙に言ったり、乙の是々非々を甲に言って喧嘩を引き起こしたりすることです。

綺語(きご)とは、事実でないことを、人の気持ちを引くように話して言いふらすことです。

妄語(もうご)とは、噓のことです。

この中でも、一番守らなければならないのは悪口です。

これは絶対修道する人は言ってはなりません。

清口の愿を立てたが、もし悪口を言ったならば、もう既に清口ではなく、汚れた口になってしまうのです。

お釈迦様は五分律経(ごぶりっきょう)の中で、悪口を言うことは身を傷つけることと全く同じだ、と申されました。

昔も今も修道者には切磋琢磨(さっさたくま)があるわけですが、釈尊の弟子達も袈裟を着た修行者でありながら、お互いに悪口を言い合っていたので、お釈迦様は、次の物語をなさいました。

「私が過去に修行していたお寺の横に大きな湖がありました。

その湖の中には、大きな亀がいました。

その大きな亀は大きな鷹(たか)と友達でした。

日照りが續(つづ)いたある年、その湖の水が全部乾いてしまい、亀は生きることが出来なくなってしまいました。

そこで亀は、鷹に

『湖に一滴も水が無くなって、私は今にも死にそうです。なんとか助けてください。』

と頼みました。

鷹は考えたあげく何とか助けようと思いました。

しかし、

『もう一日待ってください。明日、必ず来てあなたを助けましょう。』

と言ってそこを飛び去りました。

その次の日、二羽の鷹が木の枝を口にくわえて飛んできました。

そして、二羽の鷹は亀に

『この枝の丁度真中のところをしっかりくわえてぶら下がりなさい、我々が両橋を加えて飛ぶから‥‥。』

と言いました。

ところで、この亀はよくこの鷹の悪口をいう亀だったのです。

そこで鷹は

『今日こそお前は悪口を言えないぞ、もし、この枝をくわえているのに悪口を言ったら、口が開いて落ちてしまい、そして、死んでしまうだろう。』

と鷹は亀に言いました。

すると亀は、『助けてくれるなら、今日は絶対に口は開きません。』

と二羽の鷹に誓いました。

ある村の上を通りかかった時、村の子供たちが大きな声で

『あれ、今まで見たこともないものが空を渡って行く。』

というので村の人達が全部そこに集まり、手を叩きながらこの様子を見たわけです。

この様子を見た亀は、腹が立ち

『お前たちには何の関係もないのに、何を言っているのか。』

と大きな口を開けて喋ったところ、亀は落ちて死んでしまいました。

お前達も何時も人の是々非々を言い合い、お互いに切磋琢磨しているけれど、私達の一番大事なことは、生死の問題です。

この問題を解決する為に、我々は修道しているのであって、小さいことを引っぱり出して、是々非々を論じ合って何のいい結果があろうか。

以後は絶対に悪口を言って、自分の身を傷つけるようなことをしてはならない。』

と、この話を結ばれました。

続く


第五章 白陽の世界

2023-10-09 17:14:51 | 天道の淵源

第五章 白陽の世界

白陽の世とは如何なる世であるか述べてみたいと思います。

未来一万八百年の事であるので一言にして述べつくせませんが、種々の御聖訓・御神示によって判明した分を組み立てて論点を絞ってゆきたいと思います。

白陽とはすなわち大同世界であります。

大同とは争いのない美しき道徳世界のことです。

末劫を終えた後にそれが実現されます。

その時の人々はみな人間として生まれ合わせたことを歓喜するでしょう。

生まれ出でた源を知り、帰るべき宿を知った人々は始めて己の実相を知り、真善美の姿に接して限りなく鼓舞するでしょう。

今の我々の頭脳と考えでは、とても想像できないほどの素晴らしい世界です。

人生最高の幸福をしみじみと味わう楽しい日々を迎えて悩みや煩いはなく、ただ希望と光明だけに満ち溢れた生活です。

人々はひたすらに修練に励み、ひとり一人が天職を尽くし、神から喜ばれる資格者になれるでしょう。

周囲に気兼ねなく、全身全霊を傾けて自己を磨き、より一層向上してゆけます。

我々の知識・才能は存分に活用され、人々から認められ、善徳者は尊ばれます。

貧富・貴賤の差別なく平等に扱われます。

天地はあらゆる人類の所有となり、好きな土地に住み、好きな時に自由に往来し、自由に交易ができます。

民族愛・国家愛は変じて人類愛・世界愛・生命愛となり、悪い方面に財力を消費せず、良い方面の施設が発達します。

天下は公のものですから、総て大事にしなければならない義務があります。

有能賢徳の人は、真っ先に選ばれて審議の道を推行し、曲がった道徳観念は一掃され、正しい情操感が体得されて、侵略・征服の野望心は芽生えなくなります。

表面だけではなく、真の心の和睦が得られ、人々はみな心と心が通じ合います。

老人・年配者はすべて自分の親と見なされて、孝養を尽くされ、子供・幼児はみな自分の息子・娘ともなされて愛着を受けられます。

みな妙智慧の開悟を得ているから正しい判断力を持ち、善意は認められ、悪意の人も浄化されてしまいます。

間違った考えを抱く人がいない為に行動についても誤解されることはありません。

智慧が増すから正確な聴力や思考を得られ、聞き違いやいい違いが生じませんから極解されることもありません。

人々は礼儀を重んじますが、決して虚礼ではなく、媚び諂いは通用せず、追従的八方美人型は醜く見られます。

妄想邪念が生じませんから心気の平和が得られ、真の安心立命が得られます。

天然採食が励行され、自然に順応した睡眠が摂られ、寝食ともに十分体のためになります。

恐怖不安がないから陰険冷酷な人にならず、罪と罰の連環作用がなくなります。

施しをした人は数倍の報酬を受けられるから良い行為は自然に盛んになり、軍隊はなくなり、刀槍干戈(とうそうかんか:武器)は庫に納まります。

暴力は許されず、暴力者もなくなるから武力での解決を必要としません。

お互いの気持ちが理解されるために、言葉の弁解を必要としません。

我欲・貪欲・利己的な考えは恥となり、だんだんと消え、悪徳者によって巨富を握る
者もなく、財力・勢力を誇る人は全く見られない存在となります。

彼我の区別をする必要もなくなります。

年功者は優先的に労りを受け、働ける人はそれぞれの適役に任用され、失業者・無職者もなくなります。

皆こころから奉職しますから喜々として不平不満を起こすことはありません。

少年や幼児は温かい養育を受けられるので、素直・純心のままで成長します。

悪の元となる環境・文化・施設がないので不良にならず、暗い家庭がないから憂欝や陰気の性格が生まれず、明朗天真な生活が営なまれますから、狡猾や悪賢い子供はいません。

鰥(やもお)・寡(やもめ)や孤児には、それぞれ完全な扶助が施されます。

廃残者・疾病者には十分の治療と慰安が受けられ、男子にはおのおの適性の士農工商の職務があると同時に、女子にも尽く(ことご)く衣食住の帰宿があります。

老〇様(ラウム)は男女を同じく数に造られていますから、おのおの縁に合った配偶者が得られます。

心から和合しますから離縁をする人がなくなります。

物品は人類生活の要素ですから、不要の物は徒(いたずら)に捨てられず適当に処理され、有用な物は活用され、貴重なものは大事に保管され、世宝として取り扱い収蔵されます。

自己の利益や貪欲のためばかりを追求するような加害行為は許されません。

事業に対する熱意と労力は当然尽くすべきですが、決して個人的・家族的のためではなく、天下共有のため、大衆享受のため心からなされるでありましょう。

皆、兄弟同胞としてお互いに敬愛し、長幼に序あり、夫婦敬うこと賓客のごとく、皆一致協力して人類福利のために至誠忠勤に励むことになります。

風俗は違っても美しさに変わりはなく、おのおの異なった文化の形態が尊重されて栄え、奸邪の策謀をする人がいなくなるから、詐欺横行の悪事は絶滅されます。

増悪・怨恨がないから殺害や放火その他、罪を犯す者もありません。

遺失物は拾われる心配はなく遺失者に帰ってきます。

不足・不満・不平の人がいないから、盗賊・痴漢の跋扈する理由がなくなり、上下和気靄々として諸事を運営して、独裁者・権力者のために苦しむことはありません。

暴虐者がいないから、暗黒に処刑される政事は行われなくなります。

夜間の外出にも恐怖がなく、門戸に鍵をかける必要もなく、就寝中も門を閉める必要もありません。

人類愛だけではなく動物愛にまで及んで生物を食する者もなく、動物はそれぞれ共に群れをなして栄えてゆけます。

偸み殺しのない世、貪りや争いのない世となります。

以上が白陽の大同世界であります。

「五風十雨」と言って五日に一回のすがすがしい風が吹き、十日に一回の適量な雨が降り、昼間は晴天で夜間は潤いを満たすに必要な雨が降り、天災は全く起こって来ません。

それは、人禍による原因がないからです。

白陽一万八百年の間は、このような時代が続くと御聖訓に示されています。

我々は御聖訓を帯して、この最高理想に向かって努力せねばなりません。

目的に達するまで貢献を惜しまず、礎(いしずえ)となり、白陽の青史に掲(かか)げましょう。

最後に、「道脈図解(どうみゃくずかい)」に記された白陽八卦図の詳細を訳して添付します。

「白陽八卦は天地の正気であります。開闢混沌(かいびゃくこんとん)を呂祖(りょそ)は、

『天地開闢は地支(十二支)の名を以て系(みち)とする』と言われました。原(もと)は四古に分けられ、

『亥・子・丑』を太古となします。

 すなわちこれが混沌の分(世界が未だ成り立たずして天地の別がないこと)です。

『寅・卯・辰』を上古とします。

 すなわちこれが混沌の化(天地成立し事物の分化発展すること)です。

『巳・午・未』を中古となします。

 すなわちこれが混沌の関(天地万物が発育し純熟し事物が締め括(くく)られること)です。

『申・酉・戌』を下古となします。

 すなわちこれが混合の合(天地万物が究極に至り一に合すること)です。

分・化・関・合の四古の数が尽きると未(ひつじ)の会の初めであり、否極泰来(ひごくたいらい)の時です。

一元の内に大なる三陽の運があります。

青陽・紅陽・白陽です。三会(白陽)に至って収円普度されます。

先天・後天とも末期の一着の果を証せられるのです。

気運がここに至って卦位(けい)が復(また)移りました。

故に東は坤(こん)、西は乾(けん)、南は離(り)、北は坎(かん)と変わりました。

時が至れば自然に娑婆の世界が改められ、蓮華の国となり、花々しい世が改められ清静の世となります。

人は仏面仏心になり、家々は夜も戸を閉ざさず、天下は一家となり、万国は一理をもって通じます。

賢と能は選ばれ、信を講じ、睦を修め、老には終わる所があり、壮年などは用いられるところがあり、幼い子は培われて長ずる所があり、鰥(やもお:妻のない男)・寡(やもめ:夫のない女)・孤・独廃疾者(はいしつしゃ:障害者)は皆養われる所があります。

これを大同世界といい、そのような大順(だいじゅん:大いなる正当)の景象は漸次至ってきます。

続き