真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

道と教(宗教)とはどうちがうのか

2023-10-21 18:01:55 | 道すなわち真理

孔子・中庸:天の命ずるこれ性と謂い、性の率いるこれ道と謂い、道を修めるこれ教えと謂う。道は須臾も離れるべからざるなり。離れるべきは道にあらざるなり。

道は性理の本体で真理です。これを人に与えれば性(霊)となります。故に「性理」または「良心」とも言います。

この性理は私たちの先天的(生まれる前からのもの)根本で、生命の大本です。人は誰でも皆これを受けてこの世に生まれ、またそれぞれの因果や性理に応じて死にいたります。

このように生と死は必ず経由する路であり、古来最も神秘的なこの「性理真伝」を文字で書や経典などには書きあらわさず、口頭で授けられ「以心伝心」のうちに伝えられてきました。

そして、唯一絶対の造物主の天命により、この世に降りてこの道を伝えるために来た者は、たとえ仙佛、聖人といえども、この機密をもらすことは決して許されませんでした。

そして、儒教の四書五経、仏教の金剛経、老子五千言の道徳経・清浄経・黄庭経などのところどころにこの証を秘蔵し、それとなく読む者に暗示を与えてきました。
時の実りによって、老子には元始(ゲンシ)、孔子には項屣(コウモ)、釈迦には燃燈佛(ネントウブツ)が法灯を伝授しました。このように天命を受けた明師が降臨して、この道を伝えてきました。

それに対し教は、道の伝授により、道より発生したところの法と行事によって人々を教化する行為です。道が主体で教は功用になります。樹木にたとえればその根元が道、枝葉が教です。いわゆる五教(仏教・儒教・道教・キリスト教・回教)は皆この道から発生したものです。

儒 教 存心養性 執中貫一  (一を貫く)       忠恕    聖(ひじり)

仏 教 明心見性 万法帰一(一に帰す) 慈悲  仏(ほとけ)

道 教 修心煉性 抱元守一  (一を守る)  感応 神仙(せんぶつ)

耶蘇教    洗心移性  黙祷親一  (一に親しむ)博愛 神(かみ)

回 教 堅心定性 清真返一 (一に返す)   清真 僕(しもべ)

※日本伝承の 一厘の仕組み、〇チョンも同じ道の心印です。

このように五教の起源と宗旨は同一です。この「一」は、「道」であり「真理」であり、孔子はこれを「吾が道は一をもって之を貫く」と言われました。

教は善行を奨励し、修養して徳を積み、出世(社会を離れ)して修行を極め、道を得るための準備をする段階です。道は教の真髄で、道を得ることより師の指示・伝導を直接得ることができ真の人として進化に万全の備えをすることができます。

孔子の弟子の子貢が「孔先生の文章や学問は学ぶことができましたが、先生の性と道に関して学ぶことができなかった」と謂っています。前者は教であり、後者は道のことです。

これが道と教の相違点であり、教は何時でも授けられますが、道は非常時(歴史的な節目)でなければ授けられません。

道は時には隠れ、時には顕現するものです。それは、道は時に応じ世にくだり(興り)人を選んで伝授するからです。

教はどんな時代でもあります。道が伝えられない時でも教は存在し、道が盛んに興るときでも教はやはり存在しています。

その理由は、教は人道の基本を強化するものであり、なるがゆえに道は教を離れることはなく、教もまた道を離れることはありません。

なぜなら道がもし教を離れれば、教が道から離脱し、異端邪説に走ってしまうからです。

道を信奉すれば、生死を超越して、輪廻を離脱し、西方極楽に登り、あらゆる災難を避け、恨仇を解消し、罪を消滅し、運命を改善して果報が得られます。

故に古人が「天上天下を通じ唯一道のみ最も尊し」と言われたのも決して虚言ではありません。

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弥勒真経~四、天心収圓(てんしんしゅうえん)にして聖号(せいごう)を掛(かか)げ 時到りて神兵を点ずるを待つ

2023-10-21 17:59:57 | 弥勒真経 解釈

天真とは天然真人のことであり、弓長祖(ゆみながそ)の御号である。

収圓とは、諸々の佛仙神聖及び九十六億の原子、千門万教の諸霊共に法船に登り、龍華三会(りゅうげさんえ)に赴くことである。

聖号を掛(かか)ぐとは、凡(およ)そ龍華会に赴かんと欲する一切の縁者はすべて先に号を登録し、名前を列記しなければならない。

然る後に初めて龍華会に赴くことが許される。

神兵とは法力であり、一度、時至らば神兵を点ぜられ、法力を顕して収圓を守り助けるのである。

つまり、弓長祖が世に現れて万民を収圓されることを予言された一章である。

続く


天道推奨~(四)各神仏の天道証明 (3)観音菩薩(かんのんぼさつ)の證道(しょうどう)

2023-10-21 17:58:00 | 天道推奨

(3)観音菩薩(かんのんぼさつ)の證道(しょうどう)

昔から天命ある天道は単独のまゝ聖者の間で伝承されていた。

たとえ、王者、権力者であっても奥玄(おうげん)を慕い求める以上は、その身を捨てねばなるまい。

私も例外ではなかった。

明師を尋ね得ることは実に容易ではなく、種々雑多の苦や魔の鍛錬を受けるものである。

資性(しせい)が如何に優れていても、生死の関門となる一竅(いっきょう:秘宝の一つ)を点受されないと霊光は被(かぶ)られたままで闇然(あんぜん)たるものである。

若し一度(ひとたび)、その妙戸(みょうこ)を開かれ、更に内攻外功を修めたならば、自在の菩薩性を観じ得て聖賢に証することができよう。

道は貴(とうと)く、理は真にして法門は二つとなく、偉大なる天命は天地を貫徹(つらぬ)き、王者聖者の間だけに道統(道等)が継がれていた。

今日まで経過すること六万余年、白陽の時勢と変わり、普遍済度(ふへんさいど)の機会に恵まれたが、惜(おし)むらくは殆んど世の仮相に惑わされて真道を誤まり、魚の目玉を真珠と混同してしまったようである。

色声(しきしょう)は人を迷わすことが酷(ひ土)く、世道人倫を顚覆(てんぷく)し、道徳礼教を滅ぼす程である。

正に殺気が天を冲(ちゅう)しているが、この現象は人を加害して己に利した寃(あだ)の報いによる。

憐(あわ)れにも罪なき原子等(もとのこら)は恐惶(きょうこう)不安の状態である。

老〇(ラウム)は善悪・玉石(ぎょくせき)が共に焼却されるのを見るに忍びず、天道を降してすべての霊を苦厄から解いて浄土へ度(すく)い還そうとしていられるのである。

(詩)大いなる眠りに落ちている人々の中から賢良を呼び起こす。

   真なる宗旨は二つとなし。

   海の波浪(なみ)は風強きによりて起こり、劫(わざわ)い

   は貪恋(むさぼり)に由りて変わる。

   本性を観透(みとお)せば虚(むな)しき景色を識(し)

   れ。

   恰(あたか)も水に映(うつ)る月、鏡に映る花の如し、

   音韻(音韻)、調律(ちょうりつ)は人を苦の坑(あな)に

   顚(おと)すが道は理天へ引(みちび)いて回(かえ)る。

  (後略)


第九章 道親諸賢への信書  前半

2023-10-21 17:56:13 | 天道の淵源

第九章 道親諸賢への信書

各地の伝道・修行に精勤なされている道親各位に信書を呈し、心から御苦労をねぎらいます。

縁あって天道の門に入り、師授の至宝をいただいたお互いの幸運を喜び、共に歩調をあわせて師命を遂行し、三曹済度・万国普伝の栄えある聖業に共に尽瘁(じんすい)できる我が身の光栄を感謝せずにはおられません。

過去前賢の払われた犠牲と心血の数々が現在の実績を築き、今の諸賢の労苦と努力がさらに大きな功徳となって、未来白陽の世に称賛され、満八百年間敬仰を受け続けることでありましょう。

三天の大事を果たすことは誰にでも出来ることではなく、その人を得て始めて完うできるのであります。

諸賢も選ばれて道を行ぜられる感激を深く抱き、比類なき任務を痛感し、誇り高い得道者に恥じないよう那挙止行動をなされることを望みます。

承け継いだ大任はさらに飛躍と拡張を計ると共に道務の充実に尽くして前進して頂きたいと存じます。

我々一人一人に十箇条の洪願があって始めて得道できたことを忘れてはなりません。

その願を深く自覚し、さらに人々に天人の理(ことわり)を明らかに説き、人々を地獄から理天へ、暗黒から希望へ向かわしめるよう、説論・勧化に精出すべき必要があります。

同じ時に得道をしても道義を悟って精進する者に加霊と進歩があり、迷執し怠惰する者は遅れて退嬰(たいえい:尻込み、引っ込みじあん)せざるを得ません。

天道には強制すべき戒律や掟(おきて)がなく、全く自由で無名・無位を誇りにしています。

形式に固執せず、ただ天性の発露に従って甘んじて法施に献身するだけです。

神様が全てを主宰し支配なさっておられますから、正しい行為ならば、人が知らず見えずとも周囲を意識すべきではありません。

人間は人間の善行・徳行に階級を定めて論功行賞を加えることはできません。

罪罰も然りであります。

被支配者が支配者的態度や立場になれないし、またなってはなりません。

すべてこの普度収円が終わり、三会竜華会(さんえりゅうげえ:三期収円の時老〇様の御前に於いて功徳に応じて、弥勒古仏によって論功行賞が行われ、封神せられる場所のこと)の時に至って過去二会(青陽・紅陽)の分も含めて、老〇様が弥勒祖師に命じて始めて総決算が致され、功罪の断定がなされるので弥勒祖師の出を待たなければ誰一人として口を開けて論ずる資格はありません。

人の至誠は必ず天に通じます。

むしろ功徳は形の上に顕れた面に少なく、深い信仰を持った人には意識感が全くないものであります。

ただ、得道者は伝道せねばなならないという使命感を強くすればよいと存じます。

人間本来の智能・実力に大差があるとは思えません。

自覚するや否や、やる気があるや否やにかかって物事が運ばれ、成就の遅速に繋がって来ます。

自分の心念がやらねばならないと自覚した時、またはそのような使命を感得した時は、実力の五倍も十倍も本願を発揮でき、逆にそれを忘却した時に半減し、成就できることすら失敗してしまいます。

どうか純粋な初志を貫いて天命に遵い、恩師が与えてくれた了願の機会に信頼を無にしないよう、強い自信を抱いて衆生の頑迷を打破し呼び起こしていただきたいのであります。

一人の人材として立派にその役割を果たすのに、自信と他信の二面性を心に刻む必要があります。

他信とは、自分の外の者が信じてくれることであります。

老〇様から信任され、恩師から信用され、人々から信頼される人であることです。

自信とは、自らが信じ、自らを信じることであります。

真理を探究し、妙玄を参悟して正しい信仰を確立することが肝腎です。

天命を信じ、天盤道盤の応運を疑わずに心深くに受け入れることが修行の基礎になります。

ただ、過信と不信、過大評価と過小評価の弊を避けるため、中を失わずに努力を続けるべきであると存じます。

己が道を深く悟れば別に道義を学ぶ必要はありませんが、人に説くのに他が知っている以上に知らなければ人を化せない不都合があります。

万人を感化するために万人の智慧を越す必要があり学ぶのであって、目的を忘れてはなりません。

なかんずく首要なのは至誠と熱心であります。

真心の伴なわない論理・論義は空虚の響きしかなく、天にも人にも通じません。

従って高邁(こうまい)な論理と説法のできる人であると共に、敬虔な信仰者・礼拝者であることが必要です。

老〇様を敬い尊び、師命を畏(おそ)れ従うと共に自らの脚下を固く踏まえて進むべきです。

自分に信ずる心が不足して一体誰が信じてくれましょう。

諸賢は今まで道務の宏展に少なからず奔走した以上に、今後も諸賢の立たれた足場を拠点として、それぞれの任務を展開し遂行されるでしょうが、特に同じ船に乗り同じ目的に向かっている道親間の団結を強く計ることに尽力して欲しいと思います。

共同運命帯を締めている我々に一人は東に漕ぎ、一人は西に漕ぐようではいたずらに船を遅らせるだけであって、他を置き去りにして自分だけでは進められません。

むしろ大目標に皆の視線を集中させ、向きを同じくし、心を協(あわ)せて全力投球されることが必要で、そのために常に近く親しく、相互に誤解を生じないように認識を深め、交誼(こうぎ)を厚くすることを望みます。

人の差し延べる手を待たず、自ら接近して融和を求め、溝が生じないよう務めるべきであります。

個々の能力と智慧に限度・限界があっても多数の結集した働きは無限です。

一握りの砂を投げても痛くないが、半握りの砂を固く石にして投げれば人の肉を破り血を流します。

善悪に依らず団結は恐いものであります。

群集心理は、善い方にも悪い方にも、向け方によって働きも変わって来ます。

悪い要素が主導権を握れば強い破壊力となりますが、至善の道への牽引力が強ければ輝かしい霊光が宇宙・人界に充満しましょう。

同じ一つの心で働きを分散すれば成就も大きく、一人では支え切れないような重圧・障害であっても皆が手を借して力となれば、軽減し消滅しましょう。

何種類かの生野菜を盛り合わせにして食べれば個々の毒素が相克して消えるのと同じく偏執な習癖も埋め合っていければ自然に浄化されます。

お互いに霊気の交流を近く繁くすることを提唱します。交わり合って磨くうちに新しい智慧、強力な霊能が急増して未知の経験を体得することができます。

続く


月慧師母曰く・・弥勒仏の弘愿

2023-10-21 17:47:28 | 師尊老大人・月慧師母

月慧師母曰く・・ 

「かつて、補處佛(弥勒仏)は弘愿を発され 

未来に下生して成佛する前に 

分霊として輪迴し、放下することを学習された 

今世において苦難を生じ 

妻・子供・財産・身命をみな捨てても 

ただ衆生を遺うことはできない」 

【註釈】 

当初、彌勒佛は未来に下生する弘愿を発された‥ 

成佛する前に分霊としてこの世に輪廻し、この世のさまざまな名相を放下することを学習された。

ゆえに毎回、世の中に来てはじめて、多くの苦難に遇われ、妻子供、財産、身命などを含めて、犠牲し放下することを学習された。 

しかし人を感服させたことは・・祂(かれ)は何もかもすべて放下されたが、三曹の衆生を放下することはなかったことである。 

今、白陽の大開普渡にあたり、歴劫に輪廻して、いつも苦海に沈んでいる衆生が解脱し出離(迷いを離れて解脱の境地に達する)する機会を得た。

辦道人員は一家の生命や、妻への恩、子供への愛や、財産物品を犠牲奉献することができる。

しかし身物は捨てることができても、心物を捨てることができるか? 

衆生は修道人が成道する資糧であり、当然、蒼生(人民)を心に懸けて、全体を救い渡さなければならない。 

釋迦佛は彼の父親に話された‥「今の私は、ただあなたの子供であるだけではなく、ただ私達の国の皇太子であるだけでもありません。今の私はすでに三界の導師―天人の師です。衆生は皆、私が救い渡す必要があり、私が渡さなければ衆生は皆、輪廻から解脱して苦しみから離れ楽を得ることができないのです!」

これは大情衆生―佛の大慈の示現である。

了