真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

Rayの呟き~聖徳太子が敬えという「三宝」とは、仏・法・僧?

2023-10-03 18:15:55 | Rayの呟き

一般に、聖徳太子の十七条憲法の第二条の「三宝」について、「仏・法・僧」という解釈に留まっていることに疑問を持っていましたが、以下の本格的な訳文で納得できました。

十七条の各条が関連していて、釈迦の六時経(釈尊が三十五歳で覚りを開いてから八十歳で亡くなるまでを、五つの時期に分ける。華厳時(華厳経を説いた)→鹿苑時(阿含経を説いた)→方等時(維摩経、勝鬘経を説いた)→般若時(般若経を説いた)→法華涅槃時(法華経、涅槃経を説いた)、そして、最後の時期に説いたのが法華経)にも劣らない極めて崇高な律令理念でした。

四天王寺編「聖徳太子と四天王寺」の訳文

聖徳太子の十七条憲法 http://kjs.nagaokaut.ac.jp/mikami/slide/17joukenpou.htm

抜粋:二に曰わく、篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧となり。即ち四生の終帰、万国の極宗なり。いずれの世、いずれの人か、この法を貴ばざる。人、はなはだ、悪しきものすくなし。よく教うれば従う。それ三宝によらずんば、何を以てかまがれるを直さん。

万国も治まり、輪廻を脱します。

弥勒浄土は、この「三宝」を伝えることが核心です。

「三宝とは仏と法と僧となり」とは、修道し仏に成る(成就)するには、僧となり法(三宝)を敬う、道があるという意味です。

和を以て尊しも「三宝」によって極めることができるわけです。

聖徳太子は「道:三宝」を得て、悟りの境地に達していました。

「三宝」が、達摩の四諦句「不立文字(文字で表さない)、教外別伝(経典など教えの外に別に伝える)、直指人心(心の在り処を直に指す)、見性成仏(本来の性を見て仏と成る)」である故に、歴史的に謎が多いわけです。

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【Rayの呟き:悟り(解脱・超生了死)に至るには、三宝(天命)を授記しなければなりません!】「悟りとは何か?悟るために必要なこと」(5min)

2023-10-03 18:13:26 | Rayの呟き

悟りへの至宝(三宝)は、聖人から聖人(単伝独授)に伝えられていました。

弥勒の世は、縁が熟してすべての人に「三宝」を得る機会が与えられます。

私も「三宝」を得ることができましたが、先に「三宝」を得て後に修道することなるのは、天に対する認識が極めて浅いからです。

世間のお話のように、仮の大円境地になることが重要ではなく、人生そのもの、生活そのものが修道で、行くところ、会う人、聞く内容、話すこと・・・全てが学び高めて行く軌道上にあります。

佳い機会を得るために、謹慎し心穏やかにすることを心掛けています。

自分で感じた事を天意と確信することができるのは、春分・秋分に開かれる班会で必ずその答えが得られるからです。

今までに仙仏の降臨によって、世界で数十万の聖訓が降ろされています。

毎年、先天(天界)の易から始まって内省・外省について厳しい現実を諭されます。

その聖訓を常に卓上に置き、学ぶことが出来ますから、静けさの重要性が恒常的になります。

この世の役割も天から与えられ、無限に続く軌道上で「生死の境界」を超えることができます。

弥勒浄土では、誰もが「自己の尊厳に憧憬の境地」を得ることができます。

「悟りとは何か?悟るために必要なこと」(5min)


家人経(三)

2023-10-03 18:09:04 | 家人経(家族経)

家人経(三)

師母様曰

乾坤男女は分別があります。

それは性理的な仕組みが異なることによって考え方の方式が異なることによって、プラス歴史・文化の加えるものがある為に、人類が両性別の戦争を生み出すのも仕方ない。

聖書によると以前、上帝は、楽園の中でアダムを創りだしました。

上帝はアダムが淋し過ぎないようアダムの体の中から一つの骨を取り出してイブを創り出しました。

ヘブライ文章によると、イブの元の意味は生命という意味です。

その中からわかった事は、上帝がイブを創ったのは生命を続けさせるためである。

生命

上帝の一番素晴らしい創作です。

そして生活はすなわち人類自体の芸術の創作です。

両性別を考え、思考の創作によってまるで互いに補うようにできています。

あなたの欠陥は丁度相手の長所であり、長所は丁度相手の欠陥です。

両方の凸凹の異なる物体は丁度素晴らしい組み合わせになっています。

歴史文化から社会現象まで、皆さんに覚醒してほしい事は、いかに互いに尊重すること、互いに補うこと、圧迫しすぎると必ず強烈な反発を生み出すことになります。

乾であろう坤であろうが、にもかかわらずみな強気の姿勢ではいけません。

あるいは相手をコントロールする、あるいは圧迫する態度を取ってはいけません。

陰陽互いに契合する剛柔は並用する。

結局人間性の中にこの両面を持っている。

まるで坤道の母親を例に挙げると、人に想像つかない位の勇気を発揮することがあります。

乾道の父親としては、意外な細やかさを持っていることがあります。

あなたの一番光明な一面を発揮しなさい。

あなたはすなわち一群の中でとても昭和の雰囲気をもたらす人になります。

皆さんは人類がいかに戦争が好きかわかりますか。

このような議論があります。

イブはアダムの助骨から創り出されたものです。

そのためアダムはイブよりも大きい。

アダムは荒っぽくイブは細やかな芸術品である。

その為にイブはもっと知恵をもっている。

理屈はあるけれど、そのようなことは言葉を使った論争に過ぎない。

乾道は、このように女性は才能がなければ得であるというが、人をコントロールする、誰をコントロールするというような考え方は正しくない。

いかに異なる中で互いに続けて扶け合う事を努力することです。

それは皆が続けて努力することです。

自分に照らして考えたことがありますか。

良い所があれば励ましとして、悪い所は反省して、強い人、弱い人と考える必要はない。

中和の道として考えます。

生活を担当する時に担当する。譲る時に譲る。

すなわち一件はとても良い点で完成します。

まだ道場(生活の場)に男尊女卑が残りますか。自分の理念から調整しましょう。

自分の家人から調整しましょう。

正しくない習慣、正しくないやり方、時に合わない文化、それも転じて中庸の道にしましょう。

不正確な他人に対する観点から改変する。

続く


第三章 天性の変化と修法 (十)五元五徳に中和・還源した状態

2023-10-03 18:06:44 | 天道の淵源

(十)五元五徳に中和・還源した状態

老〇様(ラウム)から賦与された当初の霊性は純善無悪であり、平等に具わって、絢爛(けんらん)たる霊光を放っていましたが、歴年の輪廻の中に汚され、傷つき神通力を失ってしまいました。

もし心を鏡に映すことができるならば、恐らく真面(まとも)に自分の姿を見られないはずです。

誰しも醜い自分の心を見て気絶すると思います。

当初は美しい菩薩性を有していても、塵がかかればきれいに拭うべきです。

天は、いかに慈悲があっても、自分で曇らした心は淘汰を免れることはできません。

汚れた水を再度利用するには、一応、濾過槽(ろかそう)で濾(こ)して真水にしなければなりません。

人智の極みで発明された電気計算器以上に精巧な電子計算器をもって、神様は我々百世の功罪を瞬間にして割り出すことができます。

地獄というと迷信に思われますが、天理は厳しく正しい処置法を講じられて人々の善と悪を審判されるのです。

肉体の三食の食事以上に心の糧を求めて満足し潤すべきであります。

法を受けるのはそのためです。

正法に遇り会えば真の面目に帰られ、上天に返れます。

罪業を重ね悪徳を行った人はいよいよ残霊と化して輪廻転生の道に入らねばなりません。

全く一人一人の思考の違いによって苦の因果を受ける人もあり、楽の因果を受ける人もあります。

六万年前、例え仏聖の器として人界に降ったとしても、それを修める人と修めない人の差に差に従って万世の衆生から敬仰(けいごう)を受けられる人もあり、罵(ののし)られる人もあるのです。

例えば二人の息子に同額の資金を与えて商売をさせても、片方は数年後に巨万の富を得る場合もあれば、一年足らずして元金を損した挙句(あげく)、さらに多くの借金を背負う場合もあります。

散じた心霊を収め、集中・統一するのが聖賢の行であり、定まった心意を乱し、放蕩し、自棄するの凡夫の行です。

俗化して腐敗するのは丁度、水が流れに従うごとくに楽ですが、正道に就き、本性を輝くように磨くのはあたかも、逆水に船を漕ぐが如く、常に不抜の努力と忍耐がなければなりません。

人間出生と同時に後天の五行と先天の五行が一致して相影響しつつ生長してゆくものですが、五元と五物、五徳と五賊の主導権の握り具合によって、善悪正邪が転倒してしまいます。

精・神・魂・魄・意の五物が元精・元性・元気・元情の五元に統一でき、喜・怒・愛・楽・欲の五賊が仁・義・礼・智・信の五徳によって制御できるならば、五物・五賊は五元・五徳に還源できます。

そうなれば、自然に先天性が後天命を主宰します。

従って一切の行為はすべて中和・中節して最高の善に帰ることができます。

修行者は皆、円通無礙になることを求めています。ただし、中心の一点を得ずしては大円鏡智に至れません。

丸い円を画くのに分度器を使用しますが、真中の一点を確立してこそ付随して和(輪)が画けて欠ける所無く、余す所がありません。

一点は静の極みであり、輪は動の極みです。

動静相俟(あいま)てば成立しないものはありません。

我々の行為を多方面に和して行きたいと希(ねが)えば、常に静かなる時に霊門を守して離れないことです。

では、五元・五徳に還源した性命の状態を論述します。

仁は元性から出た働きで、至善至悪・純陽無陰の性質であります。

義は元情から出た働きで、公平無私、人我無差別の性質であります。

智は元精から出た働きで、声色不昧(せいしょくふまい)、円沢自在の性質であります。

礼は元神から出た働きで、心気平和、慇懃謙遜(いんぎんけんそん)の性質であります。

信は元気から出た働きで、性質不二、正確不変の性質であります。

静なればすなわち五元となり、動なれば五徳となります。

静は中であり、動は和です。

中心を確立すればその画かれる円は欠けず、乱雑にもなりません。

動静も中和も元は先天の主宰によるところで、五賊の喜怒哀楽欲も五物の精神魂魄意も究極は無の心、本性から流れ出たものですから、中に帰れば過不足なく適宜(てきぎ)に中和されます。

中を外れると節度が乱れて堕落してしまいます。

1.喜びが過ぎると慢心となります。中節すれば、いつまでも留まることなく、努力・奮励(ふんれい)と変じて いきます。

2.怒りが過ぎると乱暴となります。中節すれば、外面に遷り顕れることなく、反省・慎重と変じていきます。

3.哀しみが過ぎると痴保となります。中節すれば、心身をきずつけられることなく、希望・光明と変じていきます。

4.楽しみが過ぎると怠惰になります。中節すれば、放蕩に耽(ふけ)り溺れることなく、勤勉・礼譲と変じていきます。

5.欲望が過ぎると闘争になります。中節すれば、貪欲・妄想に流れることなく、施捨(せしゃ)・和合と変じていきます。

中の状態は全く、無欲恬淡(むよくてんたん:欲が無くあさりしている)・空寂の境地であり、和の状態は欲があっても限度を知り、弁え(わきま)えを持っております。

常に無欲恬淡であれば、五物五賊は各々その位を得て安んじられ、先天性の主宰と命令を素直に聞くことができ、有為を越えて無為の世界に入り、迷愚に落ちることがありません。

続く


十大願~九、匿道不現:道を人に伝えず

2023-10-03 18:04:58 | 十大願

匿而不明怎参玄 匿(かく)して明らかにならず怎(いか)に参玄(さんげん)

道統萬善體四端 道は万善を統(おさ)め体は四端(したん)

不以良心存中正 良心を以て中正(ちゅうせい)を存(そん)せずば

現在現報実可憐 現在に報い現れ実(まこと)に可憐(かれん)

解:

天道が降された原因は、人々をしてもとの我が姿に還らせるよき道であるから、それを匿(かく)して人に伝えず(済渡:さいど)自分もそれで良いと思って明らかにさせないならば、どうしてその玄妙(げんみょう)を参(さと)ることが出来ましょうか。

道は万善を統一しているもので、その体は仁義礼智の四端(したん)を発揮している、それで良心を以て事にあたり、中正を保っていないとすれば、この現在の世ですぐにでも報いが現れ、それを受けるのは哀れな事です。故に、

一、自分が求道できたのも、紹介人の勧めによるもので、求道した後にどうしてこのよき道を匿して人に勧めないのでしょうか。

これでは他人(ひと)の仏縁を誤ってしまうのです。

天地は語らず、人類に頼って勧めるもので、これを宣べなければ、どこで眞道を聞けましょう。

故に自分が善(よ)ければ人にも善(よ)ろしく、大慈大悲の心で私は極楽浄土に帰りたいならば、衆人(ひとびと)にも勧めなくてよいのでしょうか。

故に己(おのれ)達して人をも達せさせ、天に代わって宣化し、共に覚(さと)りの岸に登るのです。

若しも自分一人善くして人を済度(さいど)しなければ、どうして誓願を全うする事ができましょう。

二、犯しやすい缺点(けってん)

1,慈しみの心無し:弥勒祖師は天運に応じて衆生を悉(ことごと)く済渡して理天にかえり龍華會(りゅうげかい)を慶(よろこ)ぶ期(とき)であるから、弥勒の世になったのです。

この三期末會(さんきまつえ)の際(さい)では、特別に衆生とは縁があるのです。弥勒は凡語でその意を譯(やく)したら慈です。

慈は楽を与える心で、衆生に快楽と幸福が無ければ方法を設けて彼に与えるのです。悲は悲憫(ひびん)の心で他人(ひと)の苦痛を救(たす)けることで、菩薩には皆この慈悲を具えています。

弥勒様は慈しみの心を修めることに重きを置き、心の発した時に、殺生せず。

衆生の肉を食べない誓いで、生を慈と為しています。

私達はこの点を理解して、弥勒祖師と同じように心を発(おこ)し、いついかなる時でも尽力を以て人を助け、他人(ひと)を安楽に導き、菜食(清口:せいこう)により殺生せずなどは、みな慈しみの心でこれによって弥勒祖師の慈悲心と相い応じ、将来、龍華大會(りゅうげたいかい)で佛陀(ぶつだ)に見(まみ)えて佛果を証(あか)すのです。

けっして只(ただ)空しく祖師の一日として早く現れるのを期待するのではなく、自己の功(いさお)を行いて愿を了(おわ)らし、天に代わって道を宣べ、己を度すと共に人を度し、自ら救い、自ら圓満(円満)にと、しなければどうして祖師だけを頼る事ができましょう。

2,善を擇(えら)ばずに度す:只(ただ)数量を求め品質を求めなければ、道に入った後にも毀謗(きぼう)の言

求道して眞理を研究せず道を修めなければ、その価値は知らないので道を匿(かく)して人に伝えず、善を擇(えら)ばずに度するも適中ではないのです。

三、衆を渡し道を伝えるも選擇の必要があるのです。

言うべきは時に言わなければ、その人を失い、言うべからざるの時に言えば、その言葉は惜しくも失います。

それで君子は人を失わず言も失わないよう注意し、済渡の量も必要であれば、その素質も養成する必要があり、両者を兼ねて行うならば道を人に伝えずということもないでしょう。

続く