ニルヴァーナへの道

究極の悟りを求めて

宮崎正弘の国際ニュース・早読み(読者の声)より

2007-05-13 21:41:31 | 東京裁判
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成19年(2007年) 5月14日(月曜日)   
通巻第1796号より

(読者の声3) 村松剛氏の『大量殺人の思想』を遅ればせながら手に取りました。
昭和36年(1961年)刊行されたこの書は、村松氏が同年イスラエルへ出掛けて、そこで行われたアイヒマン裁判の傍聴記がメインとなっています。
最終章の「アイヒマンの人間像」の中に、アイヒマンについて次のように記されている次の箇所があります。
(引用開始)
「ドイツにはジークフリート以来の破滅のロマンティスムがある。ニヒリズムにいろどられた力への意志と陶酔がある。 これとプロイセン風の服従精神を結びつけたのがナチスだった、という分析を、まえに僕は読んだことがあった。 両者の結合の象徴的舞台は、いうまでもなくニュールンベルクの党大会だろう。 鉤十字の旗に飾られた、あの古代ローマ帝国式の舞台装置。 ナチスをひきいる凶暴なニヒリストたちは、鉄の規律を奉じる党員たちをまえに、ここでチュートン騎士団以来の光栄ある伝統を説いたのである。・・・ 共同体のロマンティスムへの憧れは彼(アイヒマン)の中につよかった。しかしその凶暴なロマンティスムが、服従精神の枠をこえるほどのものではなかったことは、法廷における弁解、言い逃れの態度をもってしてもわかるだろう。
彼にはヒトラー、ゲッペルス、ゲーリングの、あの決断と自信と倣岸さはない。彼は自分の情熱と行為との、責任をとることさえできない。
つまり・・・指導者たちの要求した二つの要素は、彼においてまさに要求どおり、過不足なく現れていたということができる。 アイヒマンをナチスの生んだ『代表作』と呼ぶゆえんなのである。」
(引用止め)

ドイツ民族のロマンティスム(ニヒリズムにいろどられた力への意志と陶酔)は日本の「たおやめぶり」と違いますし、プロイセン風の服従精神は「ますらおぶり」ともまったく異なります。
ドイツ民族と心性の大いに異なる日本民族に、「ナチス」のような集団が生まれる訳はなく、ホロコーストのような大虐殺が歴史上自国内で発生したことはなく、海外で他民族になしたこともありません。
近代に入って、欧米民族やシナ人との交わりを濃くして以降、彼らから日本民族も彼らと同様の所業をしたと云い募られるようになりました。
そう言い募られた体験の無い日本人はあまりに無防備でした。未だに対処の仕方を心得ていません。

組織性、違法性、大量性の3つの条件に鑑みれば、米の広島・長崎への原爆投下はナチスのホロコーストと同じ”大虐殺”で、爆心直下にいた者はコンマ以下の秒数で一瞬にして頭髪皮膚内蔵骨肉すべて蒸発揮化し灰化させられました。
米が投下した原爆は、ホロコーストの行われたアウシュビッツのガス室の”死体「生産」能力”をはるかに優る巨大な ”人間焼却炉” を広島・長崎に現出しました。
ならば日本はイスラエルのヒソミに倣い、まず『原爆投下者処罰法』という仮想遡及法をつくり、彼らがアルゼンチンからアイヒマンを拉致したように原爆投下決定の最高責任者米大統領トルーマンと国務長官バーンズを日本へ連行し、戦犯法廷を開きたいところです。しかしそれはもう叶いません。
残念ながら死んだ被告たちをアイヒマンのように吊すことはできませんが、被告死亡として、仮想戦犯法廷を開き、「平和への罪」(所謂A級戦犯)と人道への罪(C級戦犯)で裁き、罪科を厳しく問うことにします。
 第三国は日米離間とほくそ笑むでしょう。
しかし米国議員たちが慰安婦問題で日本政府に謝罪させようと、在米華僑やその背後にいる第三国の資金に後押しされて、しつこく決議案を繰り返し議会に上程し、その成立に蠢くなら、それを喜ぶ民度の低さを米国民が示すなら、これに対して反証を挙げ防御に努めるだけでなく、アメリカの原爆投下の罪を糾問するパンチを繰り出すべきでしょう。

判決は次のようにします。
「核、そのものは善でも悪でもない。これを自存自衛の為でなく、何が何でも日本に原爆を落とそうと決意し冷酷にも実行したトルーマンとバーンズには、由々しい罪と重大な道義的・反人類的の負うべき責めがあり、厳粛な罰が課されるべきである。しかしこの両者に今から罪を償わせることはできない。 日本人には死者の墓を暴き、鞭死の恥辱を与える習慣はない。 広島・長崎の原爆被害者は、自分らの子どもたち、子孫の日本人が同じ苦しみ同じ悲惨な目に遭うことを望んではいない。
 今後、日本に核を投下しようとする、公正も信義も無い、邪悪な国家又は集団から日本を守るために、日本民族は核を保有することを決意した。この決意が世界で唯一の原爆被害者への鎮魂となるとともに、今と将来の日本の自存自衛に資すると確信するものである。日本は自存自衛以外に核を行使しないことを世界に向け、ここに宣言する」
     (しなの六文銭)


(宮崎正弘のコメント) 是非、これも英訳してください。片っ端から米国に発信する必要がありますから。
ところで村松剛さんの当該書籍は昭和三十六年刊行ですか。どうやって入手されました?
小生は学生時代にたしかに持っていて読んだ記憶もありますが、その後、人に貸したり、事務所移転が重なる裡に本棚それ自体も行方不明となってしまいました。 最近は二年前、三年前の書籍を買おうとおもっても本屋さんにおいておりませんね。この流通の速さも驚きながら、古い本の流出スピードもまた劇的です。

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松本道弘氏は、「極東裁判無効論」(歴史読本臨時増刊)において、「まず極東裁判の判決を無効として、戦後のけじめをつけ、民族的プライドに支えられた健全な愛国意識を取り戻し、経済大国としての責任感を自覚することだ。」と述べられていますが、やはり、国際社会(インターナショナル・コミュニティー)では、攻撃こそ、最大の防御でしょう。過去の歴史認識でネチネチ難癖をつけられ続けるのは、気持ちが悪いことこの上ないですね。相手からの理不尽な攻撃に対しては、沈黙や謝罪ではなく、正当な攻撃で答えなければならない。上記のような、思い切った措置も、日本人のマインドコントロールを解き、相手の頭を冷やすためには、必要な時があるということですね。結局は、そのような行為を行うガッツがあるかないかの問題になるということでしょう。果たして、日本人にそのガッツが有るや無しや?
あるインド人は、なぜ日本は核を持たないのだ、核を持っていないから落とされたのは自明の理であるのに、核を持とうとしない日本人の考えが理解できない、と語ったそうですが、確かに、この日本人の心理は不可解でしょうね。三発目を落とされて、ようやく重い腰を上げようとするのだろうか?確かに、核にはリスクがつきものだが、そのリスクを恐れては、結局、最後は、相手の理不尽な要求も呑まなければならない、ということになってくる。それでもいいのだ、というのが国民のコンセンサスであるのならそれは仕方がない。
アメリカと中国の間には、日本に核を持たせない、という密約があるという説がある。この説は非常に信憑性が高いのではないかと思います。
さあ、どうする日本!?

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