「阿弥陀胸割」新潟県民会館公演は、2日間とも満席、無事終了しました。御覧頂いた皆様方と新潟大学人文学部地域文化連携センターの皆様に厚くお礼申し上げます。
稽古場の外は雪。↑ 天寿、ていれい姉弟↓ 2月11日 佐藤政司氏 撮影
数々の財宝を持ち、老いることも出来ない長者夫婦は退屈しのぎに悪行を働き、釈迦に成敗される。両親と財宝を失った姉弟は乞食となり流浪するが、両親を供養する為、命と引き換えに阿弥陀堂を建てて貰う。姉・天寿は大萬長者の息子の難病を治す為に、生き肝を取られるが、阿弥陀が身替りとなって救われる。
今から400年前、仏教布教の為に作られた荒唐無稽な話しといってしまえばそれまでですが、延命治療、難病治療(臓器移植、iPS細胞)が話題になる昨今、生老病死ー「四苦」を如何に受け容れるか、上演する度に考えさせられます。観劇なさった皆様はどのように御覧になったのでしょう。
こじんまりとした芝居小屋のようなホールで、かつての古浄瑠璃の雰囲気をたっぷり味わいました。
話そのものが予想以上におもしろかったです。ストーリーの展開がテンポよく、また大夫さんの語りがわかりやすく、味がありました。
また、お人形の動きがいきいきとして、特に天寿は細やかで、生肝を差し出す場面では思わず涙が出ました。
説教節と浄瑠璃の違いや共通点もじぶんなりに感じ、ストレートにおもしろいなあと思いました。浄瑠璃ほど感情をこめない淡々とした語りが、古浄瑠璃の物語にはよく合ってるんですね。これは語りを聴いて初めてわかることでした。
特定の干支の年の人間の生き肝が、難病の特効薬になるというのは、いくつかの文楽のお話でも見聞きしたことがありますが、そのルーツのひとつなんでしょうか。「生写朝顔話」の深雪の目とか。
物語の根本にある、親が放蕩しすぎたら、子に仏罰がいくぞ、という考え方そのものは、実は21世紀になっても、たとえば占いなどの場面で言われますよね。ニューエイジ系の本でも、カルマの法則で、前世の悪い行いが現在の不幸を招いているとか、語り方を変えて。昔も今も宗教、あるいは宗教的なものの根本は共通してるのかも。
説教節がなぜ「説教」なのか、今回の公演で、改めて五感で体感できました。
確かに荒唐無稽でありえない話なんですけど、やっぱり正しく生きなければいけないなあ、なんてしみじみ思ったことでした。
佐渡の文弥人形でも、観光客向けの15分ほどの公演でも、思わず胸がいっぱいになって泣かされます。
ますます古浄瑠璃の世界に興味をひかれました。
今回出演の猿八座のみなさま全員が、地道にずっとお稽古なさってるのだろうなあ、と、感じる舞台でした。本当に頭が下がります。
次回の公演も楽しみにしております。
ご感想、有り難く拝見しました。
昨年に続いて、新潟大学人文学部の地域文化連携センターが企画して下さって、連日満席のお客様に御覧いただき、座員一同大いに励まされました。
説経浄瑠璃の演目は星の数ほど残っていますが、近松+義太夫の登場とともに廃れていくのも当然、17世紀末の作品には定型化した駄作も多いようです。ただし、舞台にかけると意外と面白いのです。おっしゃるように、ストーリー展開のテンポの良さ、それでいて何度も繰り返される同じ文句。語りを聞かねば解らない古浄瑠璃、古説経の魅力でしょうか。
「せっきょう」は説経と書きます。天寿は大萬長者の子息と目出度く結婚します。天寿の両親、かんし兵衛夫妻の過ちを繰り返す事は無いでしょうが、その末裔ともいえる現代の私たちは如何でしょうか。稽古していて、私たち自身が経典を説き聞かされているといつも感じています。
今後とも応援、よろしくお願いします。有難うございました。
研究者でもない限り、一般の者が、なかなかこういった古い本を読むことはないし、読んでもイメージができないですが、今回、猿八座さんが復活させてくださったおかげで、この演目を楽しく知ることができました。本当に感謝しています。ありがとうございました。
今回は誤字がないことを祈りつつ。そそっかしくてごめんなさい。
ご投稿有難うございました。
昨日、稽古場から戻りました。「山椒太夫」能楽堂公演には橋懸りや鏡板を活かした新演出でのぞみます。お楽しみに。
説経ものにはお寺の地獄絵さながら、火責め、水責めの折檻、竹鋸による悪人の斬首など残忍な場面がたくさん出てきます。猿八座の座付き太夫、渡部八太夫さんが説経正本を読み下してブログに連載していますのでご覧下さい。
http://satuma-sekkyo.blog.ocn.ne.jp/wakablog/