後編<1>の続きです。
1785年、2人目の息子が誕生。ルイ・シャルルだ。
母親として、愛情を注ぐアントワネット。
専門家の話
この頃のアントワネットの服装は、ガラリと変わった。
1785年~87年の間の肖像画では、
より成熟したスタイルで描かれている、と。
自分自身、盛りが過ぎたことは認識していたようだが
派手に着飾らなくても、自信と王妃の品位が美しさを彩ることが
理解できるようになったようだ、と。
当時のアントワネットの肖像画を複数紹介しています。
また子供と一緒の絵も。
王妃の村里は、子育ての場にもなった。
それは、アントワネット自身の子供時代
つまり・・・フランス式よりも家庭的な雰囲気の中での子育てを
実践していた、と。
またアントワネット自身には、自分の人気回復の意図も?と言っていますね。
未来のフランス国王の教育は、王妃の責務。
それを果たしている、と。
専門家の話
アントワネットは、子育てについて書き残している(らしい)
それぞれの子供の特性や、子育ての注意点。
また子育ての指針となるようなこと、など。
当時から考えると、近代的な子育てとも言える。
自分は読書嫌いで、勉強嫌いだったが
子供には本を選び、教育についても真剣に向き合っていた、と。
ドラマでは、王女に卵を取らせる姿が。
しかし世間は・・・・遊び半分の村の生活を送り
本当の庶民の生活を理解しないようでは・・・と批判が続くようになる。
専門家の話
アントワネットが望む幸せは、日常の些細なこと。
その些細なことから幸せを感じられること。
これはルソーの考えに通じるものがある。
しかし問題は・・・・
幸せの追求は、王妃が果たすべき義務のリストに載っていないこと。
村での幸せは、世間に対して背を向けることになってしまっていた。
専門家の話
気の弱いルイ16世のもとで、王室は崩壊の危機に直面していた。
宮廷人や王族達は、ルイ16世とアントワネットを退け
もっと力のある国王を求めていた。
村に引きこもるアントワネット。
でも劇場の閉鎖は決めた。
最後の演目は、『セビリアの理髪師』
作者は反体制派であることは、有名。
それを王妃の劇場で?
数ヶ月の嘆願の末、国王も了承する。
(この『セビリアの理髪師』の上演騒動は、有名です。
知りたかったら、調べてね)
『セビリアの理髪師』には、アントワネットも村娘を演じている。
ところが!
リハーサルの最中に、歴史に残る大トラブルが!!
「首飾り事件」」・・・・・
はい、『ベルばら』でも描かれていましたね。有名です。
Wiki情報 首飾り事件
専門家の話がありますが
このWikiの「社会的影響」を読んで頂くと、その通りの話です。
アントワネットは、むしろ被害者と言うべきなのに
世間は、アントワネットを有罪と見なす。
アントワネットの素行が事件を引き起こしたのだ、と。
事件はセンセーショナルに受け止められた。
当時のメディアは挙って、この事件を取りあげた。
多くはアントワネットに対する批判的な論調だ。
(当時のイラスト=アントワネットが何か企てている?ような)
また、ちょっと下品を通り越して、侮辱的なイラストも紹介されます。
また批判は、ますます過激に。
アントワネットが、プチ・トリアノンに引きこもって
男女問わず、性的関係を結んでいるとの噂が、もう当たり前に。
またまた、扇情的なイラストが紹介されます。
もう猥褻画、ですね。
中には多分アントワネットが、股間を顕にして(陰毛も見えます)
男性を誘っているイラストも・・・・
専門家の話
メディアは、中継役であった。
実は宮廷内=貴族や王族から、こういう非難があったのだ。
ルイ16世の兄弟姉妹も、この非難を行っていた。
「オーストリア女」
「子供たちは、本当にルイ16世の子なのか?」などなど。
貴族や王族達は、王妃の評判を落とそうと懸命だった。
しかしこの中傷が、王制そのものを終わらすまでに至るなどとは
考えてはいなかった・・・・
1786年7月、アントワネットは、2番目の女の子を出産。
しかし自身の人気は、どん底であった。
そして、この女児は11ヵ月後に死亡してしまう。
ここで、アントワネットと子供たちの肖像画が紹介される。
3人の子供と空のゆりかご。
亡くなった女児は、この空のゆりかごで表現されている、と。
しかし宮廷では、アントワネットの悲しみに共感は無かった。
その代わりに、王太子ルイ・ジョセフが話題となる。
健康問題だ。
専門家の話
長男の健康容態が、悪くなっていく。悲しみが続く。
骨結核で、成長が止まっていた。
またコルセットなどで身体を支えていたが、痛みが激しい。
1788年 プチ・トリアノンで夏をすごす王妃と家族。
革命はもう直ぐ・・・・
しかしアントワネットには、庶民の不満、啓蒙思想は届いてこない。
窓から見える、偽りの自然しか。
王室の財政は破綻状態。
アントワネットは、離宮にこもっているので、以前のような散財は無い。
しかし、世間はアントワネットが原因だと決め付ける。
「赤字夫人」と呼ばれていた。
日常の支出を減らすため、自分なりに節約を。
しかし「今更」感だし、まず世間には伝わっていなかった。
ルイ16世は何とか持ち直そうとするが、うまくいかない。
アントワネットも、ヴェルサイユにいるようになった。
実際彼女は、ルイ16世よりも責めを負っていたのだ。
財務長官ネッケルを呼び戻す。
財政再建のため。自分の周囲、そして自分の評判の凋落・・・・
三部会の開催。革命への助走が始まる。
更なる悲劇が。王太子の死。
悲しみの国王夫妻に、三部会は容赦しない。
・・・・・・またドラマに。
窓から外を見るアントワネット。
もう少し未来の自分の姿を見る。
そこに国王がやって来る。
やっと・・・・同じ運命だと悟る2人。
1789年10月5日
アントワネットにとってヴェルサイユ最後の日
(前編の冒頭に繋がります・・・・)
村を出て、王宮に向かうアントワネット。
大勢が死んだ・・・・
革命の動乱後に家族で生き残ったのは、長女だけ・・・・
そして、美しいプチ・トリアノンの映像が。
王妃の輝きを残したような離宮。
修復の様子が、またまた登場。丹念に丹念に。
素晴らしい調度品の数々。溜息が出るほど。
アントワネットとヴェルサイユの物語に、終わりは無い・・・と・・・・
ふ~ドキュメンタリー、終了!で御座います(ペコリペコリ)
1785年、2人目の息子が誕生。ルイ・シャルルだ。
母親として、愛情を注ぐアントワネット。
専門家の話
この頃のアントワネットの服装は、ガラリと変わった。
1785年~87年の間の肖像画では、
より成熟したスタイルで描かれている、と。
自分自身、盛りが過ぎたことは認識していたようだが
派手に着飾らなくても、自信と王妃の品位が美しさを彩ることが
理解できるようになったようだ、と。
当時のアントワネットの肖像画を複数紹介しています。
また子供と一緒の絵も。
王妃の村里は、子育ての場にもなった。
それは、アントワネット自身の子供時代
つまり・・・フランス式よりも家庭的な雰囲気の中での子育てを
実践していた、と。
またアントワネット自身には、自分の人気回復の意図も?と言っていますね。
未来のフランス国王の教育は、王妃の責務。
それを果たしている、と。
専門家の話
アントワネットは、子育てについて書き残している(らしい)
それぞれの子供の特性や、子育ての注意点。
また子育ての指針となるようなこと、など。
当時から考えると、近代的な子育てとも言える。
自分は読書嫌いで、勉強嫌いだったが
子供には本を選び、教育についても真剣に向き合っていた、と。
ドラマでは、王女に卵を取らせる姿が。
しかし世間は・・・・遊び半分の村の生活を送り
本当の庶民の生活を理解しないようでは・・・と批判が続くようになる。
専門家の話
アントワネットが望む幸せは、日常の些細なこと。
その些細なことから幸せを感じられること。
これはルソーの考えに通じるものがある。
しかし問題は・・・・
幸せの追求は、王妃が果たすべき義務のリストに載っていないこと。
村での幸せは、世間に対して背を向けることになってしまっていた。
専門家の話
気の弱いルイ16世のもとで、王室は崩壊の危機に直面していた。
宮廷人や王族達は、ルイ16世とアントワネットを退け
もっと力のある国王を求めていた。
村に引きこもるアントワネット。
でも劇場の閉鎖は決めた。
最後の演目は、『セビリアの理髪師』
作者は反体制派であることは、有名。
それを王妃の劇場で?
数ヶ月の嘆願の末、国王も了承する。
(この『セビリアの理髪師』の上演騒動は、有名です。
知りたかったら、調べてね)
『セビリアの理髪師』には、アントワネットも村娘を演じている。
ところが!
リハーサルの最中に、歴史に残る大トラブルが!!
「首飾り事件」」・・・・・
はい、『ベルばら』でも描かれていましたね。有名です。
Wiki情報 首飾り事件
専門家の話がありますが
このWikiの「社会的影響」を読んで頂くと、その通りの話です。
アントワネットは、むしろ被害者と言うべきなのに
世間は、アントワネットを有罪と見なす。
アントワネットの素行が事件を引き起こしたのだ、と。
事件はセンセーショナルに受け止められた。
当時のメディアは挙って、この事件を取りあげた。
多くはアントワネットに対する批判的な論調だ。
(当時のイラスト=アントワネットが何か企てている?ような)
また、ちょっと下品を通り越して、侮辱的なイラストも紹介されます。
また批判は、ますます過激に。
アントワネットが、プチ・トリアノンに引きこもって
男女問わず、性的関係を結んでいるとの噂が、もう当たり前に。
またまた、扇情的なイラストが紹介されます。
もう猥褻画、ですね。
中には多分アントワネットが、股間を顕にして(陰毛も見えます)
男性を誘っているイラストも・・・・
専門家の話
メディアは、中継役であった。
実は宮廷内=貴族や王族から、こういう非難があったのだ。
ルイ16世の兄弟姉妹も、この非難を行っていた。
「オーストリア女」
「子供たちは、本当にルイ16世の子なのか?」などなど。
貴族や王族達は、王妃の評判を落とそうと懸命だった。
しかしこの中傷が、王制そのものを終わらすまでに至るなどとは
考えてはいなかった・・・・
1786年7月、アントワネットは、2番目の女の子を出産。
しかし自身の人気は、どん底であった。
そして、この女児は11ヵ月後に死亡してしまう。
ここで、アントワネットと子供たちの肖像画が紹介される。
3人の子供と空のゆりかご。
亡くなった女児は、この空のゆりかごで表現されている、と。
しかし宮廷では、アントワネットの悲しみに共感は無かった。
その代わりに、王太子ルイ・ジョセフが話題となる。
健康問題だ。
専門家の話
長男の健康容態が、悪くなっていく。悲しみが続く。
骨結核で、成長が止まっていた。
またコルセットなどで身体を支えていたが、痛みが激しい。
1788年 プチ・トリアノンで夏をすごす王妃と家族。
革命はもう直ぐ・・・・
しかしアントワネットには、庶民の不満、啓蒙思想は届いてこない。
窓から見える、偽りの自然しか。
王室の財政は破綻状態。
アントワネットは、離宮にこもっているので、以前のような散財は無い。
しかし、世間はアントワネットが原因だと決め付ける。
「赤字夫人」と呼ばれていた。
日常の支出を減らすため、自分なりに節約を。
しかし「今更」感だし、まず世間には伝わっていなかった。
ルイ16世は何とか持ち直そうとするが、うまくいかない。
アントワネットも、ヴェルサイユにいるようになった。
実際彼女は、ルイ16世よりも責めを負っていたのだ。
財務長官ネッケルを呼び戻す。
財政再建のため。自分の周囲、そして自分の評判の凋落・・・・
三部会の開催。革命への助走が始まる。
更なる悲劇が。王太子の死。
悲しみの国王夫妻に、三部会は容赦しない。
・・・・・・またドラマに。
窓から外を見るアントワネット。
もう少し未来の自分の姿を見る。
そこに国王がやって来る。
やっと・・・・同じ運命だと悟る2人。
1789年10月5日
アントワネットにとってヴェルサイユ最後の日
(前編の冒頭に繋がります・・・・)
村を出て、王宮に向かうアントワネット。
大勢が死んだ・・・・
革命の動乱後に家族で生き残ったのは、長女だけ・・・・
そして、美しいプチ・トリアノンの映像が。
王妃の輝きを残したような離宮。
修復の様子が、またまた登場。丹念に丹念に。
素晴らしい調度品の数々。溜息が出るほど。
アントワネットとヴェルサイユの物語に、終わりは無い・・・と・・・・
ふ~ドキュメンタリー、終了!で御座います(ペコリペコリ)