「日本の漫画を変えた天才」。2日死去した赤塚不二夫さんについて、同時代を生きた漫画家らからは、偉大な才能を評価する声が上がった。
友人だった漫画家の里中満智子さんは「赤塚以前と以後で日本の漫画は変わった。100年先でも通用するセンスで、単なる『天才』という言葉では表現できない」と話す。
破天荒な言動でも注目を集めたが、「日常生活をもギャグにしようとしていたが、内心は照れ屋で、『気楽に描いている』というふりをしていた」と振り返った。
里中さんは、2002年に赤塚さんが倒れた後、見舞いを続けた。「最初はまばたき一つしなかったが、次第に髪の毛につやが出て、指先が動くようになってきた。奇跡を信じていたが」と声を落とした。
漫画家の黒鉄ヒロシさんは「笑いとはハッピーではなく、死に近いところにあるということを追求した。笑いの骨頂というものを理解しており、作品に投影されていた」と評価する。
漫画評論家の呉智英さんは「『こっけい話』だった日本漫画の笑いを、爆発的、断片的なものに変質させた。漫画だけでなく、演劇や音楽にも影響を与えた天才だった」とする。
アルコール依存症や食道がんなど闘病生活が続いたことについては、「まじめすぎる人で、私生活も面白おかしくすることを義務だと感じてしまった。そのストレスから酒に走り、死期を早めてしまった」と語った。(了)
(時事通信より引用)
赤塚さん がん闘病中も酒を手放さず…
数多くのギャグ漫画を産み出し、世の中を面白くすることに情熱を傾けてきた赤塚不二夫さん。98年に食道がんの手術をし、闘病中に車いす生活を余儀なくされても、なおテレビ番組に出演するなど精力的に活動を続けた。病床では新たな作品の創作に意欲を燃やすなど“生涯漫画家”を貫き通した人生だった。
「人間、死ぬときは死ぬんだよ。それまでは一生懸命仕事をしようと思ってね」「ギャグを徹底的に描いていきたい」。生前、笑顔でこう語っていた赤塚さん。ビデオで古今の喜劇映画を鑑賞するなど「本当の笑いとは何か」という哲学を終生追い求めていた。
食道がんが発見されてからも創作意欲が尽きることはなかった。手術から約2年後の00年9月、「目の見えない人にも楽しむ権利がある」と、点字の漫画絵本「赤塚不二夫のさわる絵本よーいどん!」(小学館)を発表。02年10月には、その第2弾「ニャロメをさがせ!」(小学館)を発売した。
02年に最後の闘病生活に入ったが、病床では新たな作品の創作にも意欲をみせていた。弥次さん喜多さんがアイヌ民族を訪ねるという珍道中のギャグ漫画の構想を温めていたという。
トキワ荘に集った漫画家仲間の中では一番の遅咲き。シュール、ナンセンス、ドタバタ、アドリブの利いたギャグ漫画に注目が集まるようになったのは60~70年代。世に残した作品やキャラクターはどれも自由な気分と解放感にあふれ、しかも優しさに満ちていた。
大の酒好きでも知られた。がんと診断されてからも酒を手放すことはなかった。がん闘病について取材が殺到すると「うちはね、今ちょっとした“がん景気”なんだ」と周囲を笑わせた。
ただ、アルコール依存症治療のため毎月のように入院して酒を抜く「ウオッシュアウト」の繰り返し。それでも、退院してはまた酒を飲み「ノーメル(飲める)賞だな」とユーモアたっぷりに話していた。笑いにまじめで破天荒、それが赤塚流の生き方だった。
(スポーツニッポンより引用)
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とうとう赤塚不二夫が逝ってしまった。小学校高学年、中学受験でしんどい時期、阪神電車の中で「天才バカボン」を読んで大笑いした。友達から借りた本だった。ご冥福をお祈りします。