思考の踏み込み

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

ふらりとー

2014-04-22 05:41:38 | グルメ
以前からわりと近所にあって、行きたいとは思っていたがなんとなくその機会がなかったBAR トゥー。

お店の近くまで寄る用があったのでその帰途、ついにお邪魔させて頂いた。



外観に特に目立った看板もなく、知らないとBARである事すら気付かずに素通りしてしまいそうな外観。

そして重厚そうな扉。

これぞBARっぽくて期待も高まる。

入店した時間は夕方六時半過ぎ。
本来なら開店と同時に入って、オーセンティックバー独特の、お店の口開けの時の清冽な空気感を味わいたいところだったが、この時間でも十分その新鮮な、どこかピリッとした雰囲気は漂っていた。



まずは多少喉が渇いていたのでジンフィズを注文。

ジンフィズを一見のお店でいきなり注文するのは、マナーとしてあまり美しくない気もしたが、飲みたかったのだから仕方ない。

意地の悪い客がその店の力量を図るために注文するような他意は全くない。

美味しい ー 。

しっかりと時間をかけて丁寧に作るスタイルは銀座の系譜か。

それに女性の作るカクテルだからなのか、味に全体的な優しさというか角の無さが感じられる。

これは気のせいだろうかー?






蟲師 続章13

2014-04-19 00:31:09 | 日記
どうやら随分と不毛な事をしてきたようだ ー 。

人の趣味嗜好を断片的に押し付けられても、他者にあっては理解し難く迷惑千万なだけである。

漆原友紀の "コトバ" の扱いの巧みさを浮かび上がらせたくて、いくつかの話の一部をそのまま載せてみたが、内容を知らない方々にはなんの事かよくわからないかもしれない。

そのことをひしひしと感じながらも、作品から受けた個人的な感動がまさってしまい、その感情を表現する快に引きずられて ー 随分と余分な投稿をしてしまったのではないかと反省している。



本来そんな七面倒なことをしなくても是非「蟲師」ご覧になってみて下さい、で済む所なのだが、ついつい語らずにはいられなくなるということはある種のファン心理として、可愛げのある行為だと思ってご容赦頂きたい。

ただそれだけの魅力がある作品であるということは間違いなくいえるだけの内容を「蟲師」は有しているとは思う。

けして大袈裟でなく、「蟲師」の世界観を表現する戯曲性は例えばシェークスピアのそれと同じ程に ー 核心をえぐり出してムダを省き、シンプルで物事の本質のきわめて近い所まで迫っていった後、詩的で鋭い表現にしばしば成功している。



それはやはり読者の心を揺さぶるだけの力を持っているし、本当はもっといろんな話について投稿してみたい衝動もあるが、この辺りで自重したほうがよさそうだ。

「蟲師」ー まだご覧になったことの無い方はお勧めします。



もう一点だけ。
アニメもいいが、作品によってはコミックの方が真価を発揮しているモノも当然多い。

12でも少し触れたが、なによりコミックの良いところの一つに、巻末の筆者のコメントや不思議な体験談などのコーナーがある。

作品が生まれるまでのきっかけや作後の感想などが書かれていて、個人的にすごく好きな部分ではある。

意外とこのコメント部分の言葉はごく普通のOLさんのような素朴な内容で、漆原友紀さんがどんな方なのか想像できて楽しいところでもある。



はじめの想定よりはるかに長くなってしまったが、この辺りで「蟲師」について終わりにしよう。


蟲師 続章12

2014-04-18 03:29:09 | 日記
ところで虹という漢字がなぜ虫篇なのか考えたことがお有りだろうか?



漢字を作ったいにしえの人々にとっては「蟲」とは "蠢く生き物" 全てを指すものだった。
つまり動物全般が蟲だったのである。
なんと「蟲師」の世界観に近いことだろうか。

むしろ昆虫の類を「虫」と分類していたようだが、ともかくも "虹" はそれら蠢く蟲たちのなかでも、"龍" を表しているという。

"工" は貫くという意であり、従って「虹」は蟲 (龍もしくは蛇) が天を貫くという意味を持つ。



ちなみに雄の竜が "虹"、雌の竜を "蜺 (ゲイ)" という。特に色の淡い虹を指して雌と見たようだ。

音に関しての "ムシ" は明確な日本語だが、この由来ははっきりしない。
六 (ム) 足 (シ) という説は弱い。いろいろ調べてもよくわからないが、個人的な想像をいうと、いわゆる "苔のムスまでー " のムスが転じたコトバと思われる。

それは生 (ム) す、蒸す、むしむしする、などのイメージを内包し、多湿な地帯が生命の宝庫である様に、湧き上がるような、命の生成の盛んなことを表す音である。



さらにその奥には "結ぶ" があって生命の本質というか仕組みが、男女や陰陽の結びや霊肉の結びとかいったところにあるという哲学的な問題まで遡る可能性がある。日本語の奥深さと面白さはこういう例からもよくわかる。


「蟲師」の世界観における "蟲" の印象は漢字のそれよりもやはりこうした日本語における "ムシ" の由来から派生しているように思う。


ついでにいえば西洋人は霊的盲人と言われたりするのはこの "ムス" によって理解できる。要するに湿度の問題であるが、乾燥した西洋圏からみればアジアは多湿であり、生命の宝庫であり、純粋な地球環境という意味からみれば圧倒的に豊かな土地である。

例えば "気" という概念が彼らに存在しないように、あるいはまた彼らの神々が我々アジア人からみるとどうにも人工的な虚構に見えてしまうことも、こうした観点からみていくと少し見えてくる。

地理的豊かさに欠けた地域において暮らしを良くする為に、近代文明が興ったということはこの意味で自然なことだし、彼らがその後世界で支配的な影響を及ぼした事も歴史的段階としては必然性がある。

だが、これ以上その段階が続く事は危険性を孕んでいる。
なぜなら彼らの考え方の根底には以上の経緯からも "自然は征服するモノ" という思想が横たわるからで…

…いや、どうも脱線してそのまま止まらなくなりそうなのでこの辺でやめよう。



ともかくも、果たして作者は上記の虹蛇の由来をどこまでイメージしてこの虹の一話を書いたかどうかは知らない。

巻末の作者あとがきはその辺りをまるではぐらかすかの様なのん気な内容で、とても本編における鋭い表現とは趣を異にしているが、面白いのでご紹介。



"周りには絶不評だった虹郎だが、私は描いている当時大変好きでした。が、見返してみると何でこんな奴を…?という。何。これは。恋?"

蟲師 続章11

2014-04-18 03:18:21 | 日記
もうひとつ、少し異色というか主題が蟲や命であるよりも一人の男という面が強い内容の「雨がくる虹がたつ」。

その男は過去を引きずり、運命と闘おうともしないまま、自己に言い訳をするように奇妙な旅をしていた。

それは虹を捕まえるため、というなんともメルヘンな旅。

だがメルヘンな旅をするのはオッサン二人。
ギンコと知り合い、その男虹郎 (コウロウ) と虹を追いかける珍道中が始まる。



彼が追いかける虹は、実は彼の父が "この世でみた一番美しいモノ" と言った "虹蛇 (コウダ) " という蟲であり、実際の虹とは色の並びが逆だという。

旅の道すがら、虹郎はギンコに生き方の後ろ向きなことを指摘され、ようやく自己と向き合い始める ー

そんな矢先ついに ー 虹蛇が現れた。



虹蛇を目の当たりにし、直接対峙した虹郎はその迫力に圧倒され、同時にその存在の淀みのない在り方に ー 自らの悩みのちっぽけである事を思い知り、迷いの晴れた様な顔をする。


「おそらく虹蛇を作り出したものは
光と… 光酒を含む雨だ」

「発生する理由はあれど ー 目的はない」

「ただ流れるためだけに生じ ー
何からも 干渉を受けず 影響だけを及ぼし ー 去ってゆく」



「…俺の
自由になる相手じゃなかったか」

「ー 体に穴の空いたようだ」

「いっそ
清々しいくらいだ ー 」


"発生する理由はあれど目的はない"
我々人間もこの点で虹蛇と何が違おうか?

違うとすればその発生の理由そのままに澄み切って存在している力強さとでも言おうか、ともかくも人間には迷いが多すぎる。

蟲師 続章10

2014-04-17 00:23:24 | 日記
蟲師の中での重要なテーマとなる "光脈" について「天辺の糸」。

天辺草という蟲に触れてしまったことで、強い蟲の気を帯びてしまった少女フキ。

山で人の世界に戻る事が出来ずにいる所をギンコに助けられる。
その晩 ー

「…?」

「…何か 地面の底で光ってる… 」



「…ああ 今のお前にはさぞ良くみえるだろ」

「何が光ってるの?」

「光酒 (コウキ) っつってな 蟲が生まれる前の姿のモノが 群れをなして 泳いでる」

「きれい……」

「…あまり見るんじゃない
あの光は目の毒だ ー 慣れすぎると
陽の光が見れなくなる」

「……光の河なら空にもある
あれは夜にも ー 陽の光を浴びて光ってるものだ」

「わぁ ほんとだ…」
「まるで鏡に映っているみたい…」



「…似て非なるものだ
見誤らんよう 気を付けろ ー 」







続いて、原作を読んだ段階からアニメ化したときにどういう音の表現になるのか楽しみだった「錆の鳴く聲」。

生まれつき "野錆" という蟲を寄せてしまう特殊な声を出す少女シゲ。

野錆が湧くと人々の体に錆の様に食いつき健康を蝕んでゆく。

彼女はやがてそれが自分のせいだと気付き、声を封印した。



ギンコによってその蟲の払い方を教わる、それは彼女の声そのものをある場所で使うというもの。

しかし、町の者たちにシゲが病の原因だと悟られてしまう。

「シゲを出せ!」
「詫びさせろ!」

「シゲはただ 普通の子と同じように
話し 笑い 唄っていただけー 」

「…詫なら十年間 ー シゲはずっと
してきたはずだ」

我々はどこまで想像できるだろうか?
一人孤独に耐え、ひたすらに耐え、背負ういわれのない罪の意識にさいなまされ続けた少女の叫びの、その哀しみを ー 。

そして抑えに抑えた感情を解き放つ瞬間 ー



" ー それは 太く かすれた けれど
甘く 渋みのある残響を持つ 不思議な響きの 声だった ー "


色彩の美しさと音、この二話はどうしてもアニメーションで観るべきものといえるが、原作においても高い表現力で描写されている。
単純に "漫画家" としての能力も容易な力量ではないといえるだろう。

ちなみに錆声のイメージは当初、UAだったと作者コメントにある。