思考の踏み込み

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

運命論15

2014-01-14 00:22:38 | 
だが腐ったモノなら吐き出せば済むのだが、"運" が悪いと感じたところで何を吐き出せば良いのか、中々見出すことは難しい。

逆に "運" という言葉そのもののせいにして、その原因を吐き出そうとすらしないかもしれない。

もし "運" が人の感覚によるものだとするなら、その感覚の訴えを素直に感じ取りその因を取り除くことが本当ではないだろうか。

「ー まず眉間をゆるめ、胸を開き、笑 みを浮かべよ ー 。」

という名医N先生の言葉はこうして考えるとより深くわかる。



己の内の中に "陽" の部分、プラスの要素を作っていくことが大切であるということだろう。

顔だけ無理に笑っても苦痛なだけである。眉間を緩めると鳩尾が緩む。
すると神経は楽になり、胸襟が自然と開く。呼吸器も楽になり、目線も上がり、視界まで明るくなる。そうすると人間は自然と笑顔が出るものだ。

そんな人間には幸運が寄ってきそうなことは誰も否定出来ないだろう。

眉間にシワを寄せ、逆境と闘おうとして自分で勝手に悲壮感に酔っている様な者には運も遠ざかる。

これは "運" の性質であって現実世界で起こる現象の因果論にも当てはまる。

人間がいかに生きるべきか、という課題もここからみえてくるとさえいえるのではないだろうか ー。




運命論14

2014-01-13 00:30:41 | 
その男はこう考えたという。

ー "運" の生まれる場所の一つは己が身心の内にこそあるのではないか。
それはまた未来を作る場所でさえあるのではないだろうか ー 。

空想や観念、潜在意識と未来の関連性については先に少し触れたが、この考えだと確かに人の未来は「意思」ではないところで、自らの思った方向へ進んでいるのかもしれない。

いずれにせよ、"運" の変転の多くを左右するものは実は己が中にこそある、という考えは面白い。

もちろん、それとは別に外界の変化というものも当然あるだろう。
月の満ち欠けと波、重力や磁力、、
女性の生理を出すまでもなく、男女関係なく明らかに人間は天体の動きやその動きの大本となる様々な "力" の影響下で生存している。



それらが我々の身にまとわりついている "運" にも影響を与えるのは当たり前のことだし、多くの占いはこの外界の変化を研究したものといえるだろう。

それが常に当たらないのは、外界の研究に留まっていて個人の内側を見ないからだとすれば、優れた占い師とそうでない者の差はそこにあるのだろうと思う。

例えば、味覚によって人が不味いと感じるものは食物として危険性を持っている可能性が高い。

この感覚がなければ当然、生存そのものに関わってくるであろう。

当たり前の事の様だが、もしかすると "運" の正体もこうした諸感覚と同じ様な、生物が生存のために必要とした感覚の一つなのではないか?



つまり "運" が悪い、と感じる。
そのことは違和感であり不快さである。
その状態を変えようと誰もが思う。

何か縁起の悪い場所には近づかない。
カーテンの色を変えてみる。
明るい音楽をできるだけ聞く、、

これらが不味いものは食べない、危険である、と感じる生存のための働きと似たような現象だとは考えられないだろうか。





運命論13

2014-01-13 00:30:30 | 
ある男がいた。

彼は常に強く有りたいと望んでいた。
周りの者は彼を強い人間で、己に厳しい男だと思っている。



しかし彼自身は知っている。
強くなりたいと願うのも、自己をいつも鍛えていないと不安なのもそれは弱いからに他ならない。
弱さをそのまま大肯定してその上にあぐらをかく様な強さはない。

そんな彼はいつも "何が起きても" 動じない自己を作り上げようとし、"どんなことにでも" 対応できる男になりたいと思っている。

そこにあるのは逆境の想定である。
ここで運、不運を考えて縁起をかついだりすることさえ、彼には弱さに感じてあえて遠ざけた。

だがあるときその男はどうもそういうことではないのではないか、と思い始める。

仮に "運" が自然現象のようなものであるとするならば、そもそも "運" は遠ざけたり闘ったりするような相手ではない。
向かい風にむかってことさらに勝負を挑む者などいないのと同じである。

陰陽神社の陰陽石

むしろ "運" の持つプラスの部分をいかに引き入れようかと考えることは、人間の行為としてごく自然のことであり、それを積極的に行ったとしても
そのこと自体に囚われてしまわなければ ー けしてそれは弱さであることにはならないのではないか。

彼が逆境を想定し、自己鍛錬してそなえる。
このとき己の内には「陰」の要素が生じ、その親和性によって "運" はマイナスの要素を近づける。

彼の想定した通りに "逆境" はやってきて、確かに彼はその都度鍛えられた。
だが、本当の強さとはそんな事を繰り返さなくては得られないのか?

その男は生きるということはもっと違うものではないかと考え出す。
そしてまた観念や空想が未来を作り出すという説の整合性を思わざるを得なかった。

運命論12

2014-01-12 01:30:21 | 
さて、本題の"運" に戻ろう。

この正体不明の言葉の本質はまだ中々見えてこない。

だが "運" というものの力学的な影響はだれもが感じていることは間違いがない。

こうした不思議な "力" の類を神聖視して神格化し、「ヤオヨロズ」の神々を見出してきた我々の先祖たちでさえ、"運" そのものを司る神々というものは見出せなかった。



縁結びの神様、安産の神様、勝ち負けの神様、学問の神様、、、
しかし "運命" 全体の神様とは聞いた事がない。
これは不思議な気がする。

しかし、「信仰」とはその運全体に対する期待に発しているのかもしれないと考えると、特殊な専門運の神々がいることの方が例えば一神教の世界からみれば不思議なことなのだろう。

いずれにせよ、これほどだれもが身近に感じているものであるくせに "運" とはなんとその姿を捉え難いものであることか。

では逆に、誰もが感じているその "運"
の力の性質を分析してみることをしてみたらどうか。

まず一番に思いつくことは "運" の持つある種の親和性であろう。
明らかに "運" には陰陽の性質に似たものがあるが、あたかも磁石のようにプラスはプラスを、マイナスはマイナスを引きつける。

磁石のような ー というのは、磁石と違ってプラスとマイナスが引き合わない点である。
従って自然科学における磁場の力学とは別の現象?とみるべきである。



不幸の連鎖、とか笑門来福とかいったことはこの性質を表しているものであるし、多くの者が経験するところでもある。

運命論11

2014-01-12 01:26:43 | 
"運命" と "宿命" 。

もうひとつ "寿命" についてもふれてみよう。

不思議なことに人は死ぬ四日前に、必ず身体のある部分に特殊な硬結が出来るという。

それはごく小さなもので、専門家でなければわからないようなものだが、死を迎えるものには例外なく現れるものらしい。

しかし、不可思議なのはこの硬結は病死に限らないといわれる点である。
事故死や天災など、予測されるはずなく訪れる死であってもその四日前に硬結が出来るというが、どうだろうか ー

予知夢などの危険を未然に感じる能力が備わっていることは生命の生存に対する力強さとして理解できる。

大地震の跡に野生動物の死骸が少ないのは地震を感じ取る本能が人間よりも優れているからだろう。本来人間にもその能力はあるとされる。



だがしかし "危険" ではなく、"死" そのものを感じ取る能力が肉体の中にあるということはどういうことだろう?

それも明確に四日前であるのはどういうわけか。

死に臨むまでの気持ちの整理の時間として神が与えてくれた贈り物だろうか?

だが問題はそんなことではない。
本当に四日前からこの死の兆候が身体に現れるとすると、生命はその死をいつ迎えるか知っているということになる。

それはやはり "宿命" なのか?

あるいは本来、生きていること自体が実はそれだけで幸運なことで、その幸運によって "生" を我々が維持していると考えるならば、その "生" を支えていた "運" が離れて行く際のひとつの反応だろうか。



だとすれば "寿命" とは必ずしも時間的に "さだめ" られたものではないと言えるかもしれない。