思考の踏み込み

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運命論13

2014-01-13 00:30:30 | 
ある男がいた。

彼は常に強く有りたいと望んでいた。
周りの者は彼を強い人間で、己に厳しい男だと思っている。



しかし彼自身は知っている。
強くなりたいと願うのも、自己をいつも鍛えていないと不安なのもそれは弱いからに他ならない。
弱さをそのまま大肯定してその上にあぐらをかく様な強さはない。

そんな彼はいつも "何が起きても" 動じない自己を作り上げようとし、"どんなことにでも" 対応できる男になりたいと思っている。

そこにあるのは逆境の想定である。
ここで運、不運を考えて縁起をかついだりすることさえ、彼には弱さに感じてあえて遠ざけた。

だがあるときその男はどうもそういうことではないのではないか、と思い始める。

仮に "運" が自然現象のようなものであるとするならば、そもそも "運" は遠ざけたり闘ったりするような相手ではない。
向かい風にむかってことさらに勝負を挑む者などいないのと同じである。

陰陽神社の陰陽石

むしろ "運" の持つプラスの部分をいかに引き入れようかと考えることは、人間の行為としてごく自然のことであり、それを積極的に行ったとしても
そのこと自体に囚われてしまわなければ ー けしてそれは弱さであることにはならないのではないか。

彼が逆境を想定し、自己鍛錬してそなえる。
このとき己の内には「陰」の要素が生じ、その親和性によって "運" はマイナスの要素を近づける。

彼の想定した通りに "逆境" はやってきて、確かに彼はその都度鍛えられた。
だが、本当の強さとはそんな事を繰り返さなくては得られないのか?

その男は生きるということはもっと違うものではないかと考え出す。
そしてまた観念や空想が未来を作り出すという説の整合性を思わざるを得なかった。

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