思考の踏み込み

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王貞治5

2014-01-25 01:09:04 | 
いずれにしても "集中力" というのは何も勝負の世界に生きる者に限らず大切なことである。

なぜなら人が何かに集中しているとき、その事自体が楽しく、それを身体は "快" と感じるからだ。

人間の正体を突き詰めていく。
すると心とか魂とか様々にいわれるものに突き当たるが、さらに踏み込んで観てみればそれはある種のエネルギーがあるだけである。

従って人生の課題自体も突き詰めればこの "エネルギー" とどう向き合うか、ということにつきる。

だとすれば、何かに集中するということはエネルギーに方向を与え、最も効率よく調和できるということの顕れである。
多くの者はこのエネルギーを持て余し、そのエネルギーの変形たる感情や性エネルギーに振り回され、周りとぶつかったり、自己を破壊し病気になったり悩んだりしているものだ。

"生きがい" を持つ者はこの意味で幸福であり、それが "仕事" であるものはなお恵まれているといえよう。

ともかくも集中するということは無方向に分散しがちな自己の正体を一つにまとめるということの謂いである。



それゆえに人は "快" を感じるし、無意識にそれを感じるからこそ誰もが集中している人をみるとつい、引き込まれたりする。それは "健" と繋がるものであり、"生" をたしかな実感をもって感じることのできる瞬間である。

そこには "美" を感じることすらあり、例えば優れた武人の演舞や名役者の舞いのように芸術にすらなり得る。
(能や歌舞伎などの日本の演芸が、演技におけるリアリティなどはなから無視してある "型" にこだわる理由はここにある。)

虚仮の一念岩をも通す、というが本当に研ぎ澄まされ、集中したときの人間の可能性というのは無限に近いものがあるのではないか。
王貞治という人はその事を我々に提示した偉大な人物であったといえる。


王貞治4

2014-01-23 08:50:24 | 
そもそも荒川博が巨人軍の打撃コーチとなったのも、かつて榎本喜八という天才打者を荒川が指導した、というその一点をもって川上哲治に招かれたそうだ。

榎本喜八。

伝説の天才打者である。
彼はメジャーリーグにはけしていないタイプの日本球界の誇るべき選手であろう。いや、個性のない選手ばかりになった現代NPBにも今や棲息できないタイプの選手である。

それは野村克也をして背筋を寒からしめた、というほどの打者である。



榎本について語りだすと主題がそれるのでやめるるが、いずれ「前田智徳」という主題で別に投稿してみたい。

要するに荒川という人は天才たちを見つけること、育てることの上手いコーチであって、指導するレベルが高過ぎて、平均的な選手を育てることには不向きだったのではないか?

その意味で、高校野球の監督が荒川批判を酒の席で冗談半分に言うことは全く見当違いともいえないが、これはそれだけ人を育てるということが難しいということの証でもある。

その荒川と同じ轍を王も巨人軍監督時代に踏んでしまう。
選手に要求するものが高く、そして厳し過ぎた。

王貞治はしかし、ホークススに移ってからは見事にこの点を修正し、監督としても優秀な成績をあげ、WBC初代優勝監督という栄光を手にした。

その類稀な努力と持ち合わせた運の強さ。王貞治が世界で尊敬されているのも当然であろう。


王貞治3

2014-01-23 08:07:30 | 
王の集中力の凄まじさを伝える話はまだある。

巨人軍の宿舎の一室であるとき王が素振りをしていた。
ある選手がその部屋に入ろうとしたが
王の気迫があまりに恐ろしくとても近づけなかった、というものだ。

たかだか素振りにおいてすでにこの気迫。やはり王は普通人ではない。



その王を育てたとして知られるのが荒川博。

知人の高校野球監督経験者がある時、酒の席で言っていた話をふと思い出す。

「一本足打法は王だからできた。
というより、一本足打法なんかやらなかったら王はもっと本塁打を打っていた。一本足はそれほど不合理な打ち方で事実その後、荒川の指導で大成した選手はいない。」

ー これは面白い意見だが、半分は当たっているかもしれない。

一本足が単純に理にかなった打撃フォームかどうか、野球経験者ならわかることである。
もっと打ちやすい形はいくらでもある。ではなぜ一本足なのか。

それはこの形はバットを振り、ボールを打つということが主眼のフォームではないことにある。

この形は明らかに集中力を高める "型"
である。やってみればわかる。
あえてバランスの悪い片足で立つことで重心が下に安定していなければその体勢が保てない。
そして王が完成させた型は見事に骨盤が引き締まる姿をしている。

骨盤の開閉は人間の集中力を生み出す本である。しかしこれは身体技術としては高度な範疇のものであるが、王の体には合っていたのだろう。

一本足打法の本質と王の真髄の関係性はここにこそある。

王貞治2

2014-01-22 08:49:29 | 
王が本塁打世界記録を残せたのはなぜか ー ?

一本足打法を完成させたことによるとか、当時の日本の投手のレベルがそれほど高くなかったとか、球場も狭かったとかいろいろな意見があるだろう。

だが彼の真髄はそんなことではない。

王が王であった所以は "集中力" にある。
それも尋常なものではない。

これはある試合で逆転打を打たれた山田久志の証言によってよくわかる。

その日絶好調だった山田は最終回、王と向かい合ったときその集中力の凄まじさに恐怖すら感じたという。



集中力の高い者と接するとそれに引き込まれるようなことはよくある。
それによって多くの名勝負なども生まれてくるのだが、相手が恐怖するような集中力とは一体どれほどのものか?

それはもはやスポーツ選手の次元ではなく武道家の放つ殺気と同じ様なものだろう。

集中力とは心の持ち様だけでどうにかできるものではないが、王は思想として意識してその事を行う作業をしていた。

彼の分厚いメモ帳の中に、"この一球は二度とこない" という言葉がある。

年間百試合以上の試合をこなし、毎日四打席はあるとして、プロの一軍打者がこの言葉を本気で実践できるだろうか?

しかし王は事実失投を必ず逃さなかった。
彼の圧倒的な本塁打記録の大本はこの辺りにありそうだ。

王貞治

2014-01-20 09:06:05 | 
王貞治という人物がいる。



思えば子供の頃、一番初めに憧れの対象とした人物だったような気がする。

だが私は現役時代など知らないから、それは世界記録保持者であるということへの憧れだけであり、彼がどういう人間なのかを知っていたわけではない。

彼の評価は選手としても監督としても今や揺るぎないものであるし、人間的にも人格者として素晴らしい人物だと思う。

長嶋と対比されると "記録の人" で片付けられがちだが、この対比をはずして王という人物を見ると彼の凄さが鮮明になってくる。

(それにしても王、長嶋という異なる強烈な個性のスターが二人、一つの時代に中軸としていたというのは今の時代から考えると凄いことに思う。
私はカープファンだが、あの時代を観ていたら皆が巨人ファンになってしまうのも止むを得ないのかと思ってしまう。それほどにこの二人は、過去の映像としてみていても他の選手と "華"が違うことがわかる。)

しかし王の身体を見る限り、それほど体格に恵まれているようにはみえない。
身長は177㎝程でありけして大きくはない。
その彼がなぜ868本もの本塁打を打つことができたのか?

ハンク・アーロンは183㎝。ベーブ・ルースは188㎝もある。
長距離打者にとって体格は大きな要素である。
はたして王貞治とはどういう選手だったのか?