白寿を目指す抗衰老ライフへの誘い

慣れ親しんだ新容器野菜養液栽培に別れを告げ、新たに取組んだ老人の終末課題の経過発信を続けさせて頂きます。

―抵当解除トマトの逸話―

2014年04月18日 | トマト

“Mortgage lifter tomato” 直訳すれば=「抵当解除トマト」となりますが、何とも奇妙な名前の付いたトマトです。それがトマト好きなアメリカ人の間ではよく知られている話であり、最近、このエアルームトマトの味を知る人も多くなって、トマト栽培愛好家の間で人気が復活していると言います。

なにしろ1果の重さが最大で1.8kgにも成り、平均でも1果が500g以上になると言う巨大ビーフステーキトマト、アメリカ人でなくても、何方も一度は作って見たくなるのと思いますが如何でしょうか。

 

―この巨大トマトが抵当解除トマトです!―

今から遡る事70年以上前の1930年代の事であり、全くのトマト品種作出の経験も技術も持たない一介の自動修理工場のオジサンが始めたトマト品種作りであり、結果として生まれた優秀なトマトがそう呼ばれて知れ渡ったのです。

 其の話、自ら交配して育てたトマトから選別して得た巨大トマト、其の新品種のトマトの苗を、1本1ドルずつで売ってはお金を貯め、6年間掛けて自宅に掛かっていた6,000ドルの抵当権を解除したと言う逸話であり、今も残るその素晴らしい巨大エアールームトマト、当時は人呼んで 「ラジエーター屋のチャリーのトマト」と言ったそうですが、その後に「抵当解除トマト」と呼ばれるようになったと言うのです。

 

―“抵当解除”と呼ばれるビックトマトと作出者―

実はこのトマト、昨近、全米のトマト栽培愛好家を魅了して止まない「ブランデーワイントマト」 SSEの食味コンテストで2011年、2012年に1位、2位になった「デスタートマト」 それらと同じ系統種では無いかと思われる、 ドイツトマトの“German Johnson” と言う品種が片親であり、其の当時の1930年代に、食味に優れる大型トマトの評判が広がり、各地から苗を求めて人が集まった言う話、頷けるような気がします。

 

―German Johnson tomato-

其の「ドイツトマト」と言えば、以前にもブログで紹介しましたが、1970年代に設立されたSSE、在来固定種子の保存交換NPOの設立の発端は 「オットーお爺さんの朝顔とドイツピンクトマト」であり 遠く祖国のドイツ、ババリア地方から1870年代に、新大陸のアメリカ、アイオア洲のセントルーカスに移り住んだ曾祖父のOtt Whealyさんが大切に守って伝えてきたその種子の保存を孫である姉弟に託したのであり、そのトマトも亦、ポテトリーフのドイツトマトでありました。

 

―ドイツピンクトマトーSSEカタロクより

 

それではネット上に有りました、この「抵当解除トマト」の誕生の逸話、抄訳で一寸ご紹介させて頂きます。

抄訳

「エアルームトマトで抵当の払い出しをする?」 今では信じ難い話に聞こえますが、1930年代の初めに、Mr.Marshall Cletis Bylesは、西バージニア ローガンの町に在った自宅の抵当の解除をそれでやってのけたのです。

其のByles氏、トラックが急坂で良くオーバーヒートを起こす丘陵の麓で小さな自動車修理店を営んで居りました。坂を上るトラックがオーバーヒートを起こし、ラジエーターの修理に良く持ち込まれる、恰好な場所に店を構えていたお蔭で商売は繁盛し、其処での彼は 「ラジエーター屋のチャリー」の愛称で親しまれて居たと言います。 

しかし、そんな場所の良い所でのビズネスも、世界大恐慌の迫りくる不景気には勝てず、嵩む借金から逃れる方法を、チャリーさんやがて模索する羽目に成りました。

 

-1933年のフォードトラックの写真ー

そのチャリーさん、決して裕福な家庭に育った訳でなく、4歳でノースカロライナの綿農場で働き始めたと言い、ろくな教育も受けなかったのです。其れにも拘わらず、操縦士、レスラー、修理工を経て、終にその地方での最も人気の高いトマトを育てる事に成功したと言うのです。

 其のトマト誕生の経緯、全くトマトの品種作出や育成の経験も無いにも拘わらず、Byles氏は家族を養って行くのに、大きくて実の閉まったトマトを作出する事に決めたと言うのです。

 彼は、其の地域で手に入るトマトを探して歩き、自分なりの基準で4種類のトマト、ジャーマン ジョンソン、ビーフステーキトマト、名前不明のイタリアトマトとイギリストマトを入手し、品種開発を始めました。

 

―ウエストバージニア ローガンの町ーWebImagesより

彼は先ず、3つのグループに分け輪を作り、ビーフステーキトマト3本、イタリア品種3本、イギリス品種

3本をそれぞれ各輪に植え、其の中央にジャーマン ジョンソンを各1本植えたのです。

それからは、赤ちゃん用のスポイトを使って、各サークル毎に、3種類の花粉を採取して各其の中央のジャーマン ジョンソンに各々受粉させました。

翌年は、其の各々のジャーマン ジョンソンからを採取した種子を育て、その中で最良の苗を選んでは中央に植え、周りには他の実生苗を植え、同じように受粉を繰り返しました。

彼は同じ受粉作業を6年間続け、中央の最も丈夫な苗の花粉を取ってはそれを受粉させました。そして、独自の判断基準で安定して育つと満足したトマトを選んで、其の苗を1本1ドルで売りに出し、1940年代になって纏まった合計金額を得るようになったのです。

 

ラジエーターチャリーの抵当解除トマトーWebPhotesより

其のトマト、勿論の事 「ラジエターチャリートマト」と名付けられ、余りに人気が高く、人々が何百マイルも車を運転してはトマト苗の購入に駆け付けました。其の販売額の収益で、チャリーさんは、6,000ドルの抵当の解除の支払いを6年で済ます事が出来ました。

其のByles氏の伝説が、今日、「ラジエーターチャリーの抵当解除トマト」と呼ばれる話です。

 1980年代にラジエーターチャリーさん、抵当解除トマトの種子を、種子交換団体、Southern Exposure Seed Exchange,に解放し、品種の保存と種子配布の高い需要に貢献して居ます。

 

ラジエーターチャリーの抵当解除トマトー

尚亦、チャリーさん97歳の高齢で亡くなられたのですが、お孫さんが其のそばに座って記録した彼の人生と抵当解除トマトの種子について語った話が残って居ます。そのレコードの一部がアーカイブとしてラジオショーのLiving earthで聞くことが出来ます。

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