白寿を目指す抗衰老ライフへの誘い

慣れ親しんだ新容器野菜養液栽培に別れを告げ、新たに取組んだ老人の終末課題の経過発信を続けさせて頂きます。

鎮守の杜を裸にする!-

2014年04月24日 | 日記

こんな事を言うのも近所の事で憚れるのですが、近くの神社の杜の樹木、武蔵野の代表的な樹種であるムクノ木やイヌシデ、欅や白樫等、樹齢100年を越え、幹回り3M以上もある大木を、毎年落ちる木の葉や枯れ枝の近所迷惑、剪定の管理費用が嵩むと言う理由から、次々と切り倒しては境内から殆ど無くし、昔からあった鎮守の杜」を裸にした話です。

 

―周りの樹木が無くなって裸になった神楽殿―

何と其れを事も無げにやって除けたのが、代変りして氏子総代となった当世の世話役達であり、昔から代々神社を支えて来た人達の子孫ですが、戦後教育を受け、高度成長期から先代が残した土地財産等を引き継いて、不動産貸付業等で生計を立てる一部の熟年世代の総代達、その仕業ですから驚く勿れです。

 

―切株だけが残る殺風景な裏境内―

その神社のある板橋区のこの地域、東京と埼玉県の堺に位置する武蔵野台地から削り出された丘陵地であり、50年程前までは、多くの自然が残り、誠に豊かな緑の生い茂る農業地域であったのです。

それが、古い道のままの旧道に沿って崖地や林地、畑地等、悪い場所から無秩序に次々と売られて宅地化され、消える緑に替わって建つ家は、狭い敷地いっぱいに建てられるミニ開発の密集住宅群であり、その極端な変貌ぶりは元の姿を知らない人には想像もできません。

 

―年輪を数えたら有に100年は越えている!ー

今も一部残る昔からの農家の広い屋敷林とは裏腹に、満足な庭木1本も中々植えられない程狭い住宅地域の自然環境の劣化は言うに及ばず、低い道路率に無秩序に宅地化されて変り果てるその姿、大変対象的であり、情けない事ですが、狭い日本で過密を招く悪い住宅事情、其の縮図を見るような気がします。

 

―神社境内に迫り来る住宅群ー

そんな所ですから、神社を囲む敷地や参道も亦、いっぱいに仕切られて押し寄せた住宅群に囲まれて仕舞い、先ずは参道沿いの樹木が日陰になると切り倒され、続いてそれならば、皆な同じとばかりに社を囲む樹木まで、不用の邪魔な存在と相成った仕儀であり、それが氏子総代等、関係当時者の当然の当世感覚で行われたのです。

 

―参道並木は消え、残るは切株のみー

情けない事に最早、彼ら氏子総代は、選ばれて村落の鎮守の神様を一時預かって、次世代に無事に譲り渡して行く務めの世襲感念すら薄れて仕舞い、「鎮守の杜」を守る事の大切さ、又今日では、緑の環境空間を唯一残して守れるのが寺社仏閣や神社等の境内の樹林であると言う時代常識共々忘れ、昔から神聖な神宿る社を囲む緑の自然環境を、罰当たりにも拘わらず、敢えて壊す事に疑義すら持ち合わせて居ない人達であったのかと言う事です。

 

―地元有志の談判で残ったと言うイヌシデー

こんな恥曝しな話を明らかにするのは心苦しいのですが、通りの角の 「東京世界一のポスター」が張られている目の前で起こっているこの姿に、知って知らぬ顔をする人達が多く居り、その殆どの方が、他所からこの地に移り住んで来た為か、本当の故郷は別なところにあり、「氏子に非ずば我もの言えぬ」とばかりに見過ごして、人口減少時代で唯一、人口が微増する東京の当然の姿と受け止めているかと思うとどうしても一言、言いたくなるのです。

 阿部内閣のポスターで言う 「日本を、取り戻す」の意味、人それぞれで受け取り方が違うのでしょうが 「常識を取り戻す」にすべきと言いたいのですが、周辺に住む大方の人が、そんな事を言う余裕すら無いのが実情では、申しようもありません。

 

―日本を、取り戻。自民党のポスター

扨て、私事を申して恐縮ですが、拙宅は其の神社から500メートル程の距離にあり、縁あって、戦後間もなく子供の頃に、この地に移り住むようになって60余年、親譲りの自宅には僅かばかりの庭があり、生来園芸好きであり、豊かな緑を大切にする事には人に遅れは取らないと自負していますが、若い頃から好きな花木を植えたいと、自宅の庭に選んで植えたのが、複数の花梅と日陰でも良く育つ花の種類の多い椿です。

 

   ―自宅2階から見る花梅―

その全て、自ら選んで苗木から育てたのですが、其の数が、今では梅だけでも17本もあり、其の中の主木の花梅の「見驚」は、亡父が小学校長であった当時、東京北区の梅木分校の開校記念に植える梅の苗木を買い求めた折に、序に植えた八重咲きの淡紅野梅であり、それが今では樹齢60年の大木となり 「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」の切込み選定に、手を焼いているも亦確かです。

 

ー林に囲まれた豪勢な作りの地元旧家の屋敷-

家内からは、そのジャングルのような庭の木々を 「何とかして‥‥」と良く言われるのですが、どれもこれも木が大きく成り過ぎて、寄る年波に勝てず、自らの手入れでは間に合わないのが実情です。

さりとて僅かな年金生活では、プロにお願い出来る程の余裕も無く、思えば神社の木の伐採も亦、判るような気もするから皮肉です。 

 

今尚続く地元農家の豪勢な屋敷―

言うなれば、この地に育った氏子総代の方々も亦、自ら持つ広い自宅屋敷内の樹木では、神社境内の大木の始末同様に、常に邪魔な存在との思いがあり、切り倒して片付ける事が唯一の選択肢であったとすれば、情けない事に公私混同と言えば其れまでですが、彼らは当然の伐採行為と思って居るかも知れません。「緑は大変結構ですが、唯、その当事者責任は誰が持つの?」と、多分彼らは言うでしょう。

 

―申し訳程度に数本の立木が残る神社の姿―

彼らは又、土地持ちの為に、自分たちが払っている高額な固定資産税、喩え保存樹木の指定を受けても僅かな補助額は知れて居り、鬱憤を晴らすような私情が先行したと言えば、亦其の通りとかも知れません。

最早、それを止める手立てと言えば、法による伐採禁止しかないのですが、この八方塞がりの特異な日本は何と惨めな国なのかと思わむばかりです。

拙宅の今年の梅の剪定、未だ半分も終わって居ません。気掛かりです。

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