鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

梅雨入りですか、

2021-06-19 14:21:04 | 思いつくまま

 

なんか東北地方はきょう”梅雨入り”したとみなされたようですね。普通は東北地方は南部と北部に分けられるのですが、南部も北部も一緒の梅雨入りのようです。まあそれでも南部(福島・山縣・宮城)は平年より7日の遅れ、北部(青森・秋田・岩手)は4日遅いようです。

 

そうですか、鮎釣り解禁ほぼ十日前の本格的な雨降りですか。そろそろ川に入って川底の石の様子を見てみようかなと思っていた矢先の雨降りとなりました。夕方のテレビでは5月頃には広瀬川への稚鮎の放流を必ず放送していたのですが、今年は見ていません。

 

ネットでの新聞報道で、名取川へ稚鮎を放流したとは知りました。デモ広瀬川に放流したのかどうか、どのくらい放流したのか分からないまま解禁日・7月1日を迎えることになりまそうです。こんなことは初めてではないかなあ~、もしかして。

 

きょう正午の観天望気;天気:雨、雲量:隙間無、気温:20.3度、湿度:93%、風速:3m/s、不快指数:69 となっています。 

いまFM東京というべきか、NHKではない民放のFM放送を聴いています。福山雅治のラジオですが、あしたが父の日なので、父親へ対する後悔の言葉、そしてその後の展開等についての聴取者からのお便りを読んでいました。

  

そうか、あしたが父の日か。我が家では13日に終わっていました。妻さんが13日の子どもの誕生日と父の日を一緒に祝うことにするからと言って、久しぶり、何カ月?何年?振りかの握り寿司をとって食べたのでした。だから、もうとっくに父の日は終わっていました。

  

福山雅治の番組で、最後に紹介したまだ若い女性からの話しは、聞いていて思わず涙が出てきました。思春期のこともあったようですが、自営業の父親がなぜか大嫌いで、避けてきて話もしていなかったそうです。

  

高校生の頃か、自転車がパンクしたので家に電話したところ、嫌いな(友達に見られたくなかった)父親が胸毛を見せる服装で、軽トラで迎えに来たそうです。そういう父親を見て思わず隠れてしまったとか。

 

そんなことはつゆ知らず、お父さんは周りの友達に娘を知らないかと聞いて回っていたので、しぶしぶ出て行ったもののそれをきっかけにますます嫌いになりすっかり口も利かなくなった。高校を卒業して他県の学校へ。

  

ある日、お母さんから電話が入り、入院中のお父さんの意識がなくなったと。それで飛んで行ったのですが、その時だけ一時的に意識が戻り、目を見開いて娘を見つめ、〇〇、がんばれ、〇〇、と声を絞るように言った父に涙ながらに謝り、頑張ると約束した、という内容でした。それ以来、謝るべきことは謝り、後悔を引きずることのないようにしているとか。

  

私もついつい若かりし頃の自分と父親のことを思い出してしまいました。小中の時代は正直肉体労働者(家大工、ひとり親方の大工で、それこそ年中働きづめでした。)の父親を快くは思っていませんでした。というか、友だちに見せるのが、知られるのが恥ずかしかったということでした。

というのも、周りの友達の父親は国家公務員、鹿島建設、西松建設とかで働く人で、みんな格好良く見えたものでした。父親がそうですから、母親もパリッとした生活をしていたわけです。つまりは自分の両親と比べて友だちの両親ともに眩しいくらいに見えてしまったというわけです。

朝から晩までよく働き、帰宅してからはあまり飲めないのに25度の焼酎を少しだけ飲んだりしていました。早寝早起きの仕事人生でした。一生懸命働いても暮らしは楽になることはなかったですが、その日のごはんにも事欠くとかいうことはなかったです。身なりでは常に引け目を感じていたかな。当時は麦ごはんだったなあ。

でも、高校生になったころからか、長期休みの日には一緒に働きに出掛けたりもして、もともと木工細工は好きでしたし(父の仕事の関係でしょうか)、ものをつくるというのは大好きでした。

そして、建築現場で働く父親を見ていて見直したわけです。すごいじゃないか!家を建てるということは何と素晴らしいことか!そして、一生懸命働いて建てた家はその後何十年も生活の拠点として存在し続けるわけです。

むかしの大工は今と違って分業体制ではあっても、ひとりでなんでもやっていました。セメントと砂を混ぜてコンクリートをつくったり、トタン板を切ったり加工したり、板金みたいなこともやっていました。

そして何よりも感心したのは、40センチ四方のベニヤ板に家屋の土台を墨壺(すみつぼ)を使って書いて、さらにその家用の長い定規みたいなものをつくります。10尺くらいの長さだったかな。それがその家の基本設計図となります。

それと、なくてはならない曲尺(かねじゃく)で材木(柱)にしるしをつけ、鑿(のみ)でほぞをつくり組み立てていきます。今思っても感心します。大したものだと思います。そういうことを経験したからか、職人が大好きになりました。そして何よりも父親の仕事に誇りを持てるようになりました。何とすごいことをやる仕事人、職人技なのだと。

今と違って昔の人はすべて力仕事です。自分の力で、腕で、肩で、腰で鋸(のこぎり)を使ったり、鑿(のみ)を使ったり、鉋(かんな)を使ったり、何種類もの玄能(げんのう・かなづち)を駆使します。

のこぎりは目研ぎが必要ですし、かんなやのみは3種類の砥石で研がないといい仕事ができません。その時は分からなかったのですが、のこぎりにしろ、のみにしろ、かんなにしろ、何十年も大切に研ぎながら使いますので形が当初とは違ってくるのですね。

お恥ずかしながら、最初はそういう形ののこぎりなり、かんななり、のみがあったのかと思っていました。何十年も使うと、鋸の歯も均等に減ってくるのです。鑿も歯のところが短くなってくるのです。鉋も同じです。

今はなんでも電動の道具です。本当に便利になったものです。3寸なり4寸の柱を切るのは大変だし、そういう柱にほぞをつくっていくのも本当に大変です。でも、昔の大工はみな手作業でやったのです。小さい穴をあけるもみぎりだって疲れますよ。

いまは5寸釘(くぎ)、15センチの釘は使っているのでしょうか。若かりし頃5寸釘を柱に打ち込む機会がありました。本当にいい経験でした。一筋縄ではいきません、15センチの釘は太いし長いし、当然柱は固くて抵抗もすごいですから、かなづち(ハンマー)を振るのも大変でした。でも、無事目的通りに5寸釘を打ち終わった時の達成感、やったー感はすごいものがありました。今は釘よりもネジが主流ですよね。

今は完全に誇りに思っている父親ですが、そんな父も亡くなって25年以上経ちます。明治42年生まれでした。亡くなったのが平成5年でした。

なんか福山雅治のラジオを聴いてしまったために思いもよらないことを書くことになってしまいました。ここまで読んでくれたみなさまはどう感じたでしょうか。今頃父は極楽で苦笑いしているかもしれません。 

私は毎朝と毎晩仏壇に線香をあげています。我が家の線香とマッチの消耗は激しいです。

G7のガースーのことを書きたかったのですが、ずーと書けないままに来てしまいました。

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