今日の天気もきのうどうよう全体に薄曇り、時に明るくなるも長続きせず、また薄曇り。今は空全体が雲に覆われている感じです。ラジオ(NHKFM)ではモーツアルトのバイオリン曲が流れています。”アイネクライネナハトムジーク”が今終わりました。
今日の目下のところの最高気温は19.3度で、午後0時37分の記録です。
NHKの朝ドラ「エール」、見ていますか。いま目を離せません。今は長崎にて、曲づくりに苦悩しています。この苦悩の果てに完成したのが「長崎の鐘」ですか。
きのうの時点では、戦災孤児を励ますための曲、「鐘の鳴る丘」の完成までの苦悩を描いていました。何しろ戦時歌謡をいっぱい作って、それで若い国民を戦争に駆り立ててしまったという深い自責の念にとらわれて、そこから抜け出せませんでした。
どん底からの再出発が「鐘の鳴る丘」でした。この曲が流れたNHKのドラマは、昭和22年7月5日から昭和25年12月29日まで放送されたということです。私はこのドラマを聞いた記憶は全くございません。
昭和22年11月生まれですので、生まれたときにはもうすでに放送されていたことになっていますが、ラジオがなかったのか、そもそも小さかったので聞いていなかったのか、わかりません。
昭和25年の12月はちょうど3歳と1か月の頃です。放送のことは知りませんが、なぜかこの曲については知っています。一番は覚えていますし、ちゃんと歌えます。
NHKの放送が終わってからも、この曲はずーと流れていたということなのでしょうか。そうでしょうね、そうでなければなんで知っているのか説明がつきません。小学校の音楽の授業で歌ったということはなかったと思います。
大きな真空管式のラジオがあったのは覚えています。家族全員の貴重な宝物みたいなものでしたね。そうそう、そのうちステレオ放送がはじまりましたが、その時はラジオを2台並べて、一台はNHK第1放送に合わせ、もう一つはNHK第2放送に合わせて聞くステレオ放送でした。
脱線ついでに、ラジオで今もって記憶しているのは「探し人の時間」(⇒尋ね人の時間、ですね)かなあ。あさと夕方やっていたような気がしますが・・・。戦地に行った身内の兵隊の消息や満州からの引き上げ、朝鮮や樺太からの引き上げ者の消息についても流れていました。
子ども心にも大変なことだなあと思ったのを記憶しています。そうそう、街を歩いていても流れてきたような気がします。みんなに聞いてほしいからか、いろんなところで聞きたい情報を流したのでしょうね。
「鐘の鳴る丘」あらためて歌詞を見てみました。4番まであるなんて知りませんでした。鐘の鳴る丘は、作詞した菊田一夫が、家族を岩手県の今は奥州市に疎開させていたときに見た、実際にあったものだそうです。
「鐘の鳴る丘」
緑の丘の 赤い屋根
とんがり帽子の 時計台
鐘が鳴ります キンコンカン
メイメイ仔山羊(こやぎ)も 鳴いてます
風がそよそよ 丘の家
黄色いお窓は おいらの家よ
緑の丘の 麦畑
おいらが一人で いる時に
鐘が鳴ります キンコンカン
鳴る鳴る鐘は 父母(ちちはは)の
元気でいろよと いう声よ
口笛吹いて おいらは元気
とんがり帽子の 時計台
夜になったら 星が出る
鐘が鳴ります キンコンカン
おいらはかえる 屋根の下
父さん母さん いないけど
丘のあの窓 おいらの家よ
おやすみなさい 空の星
おやすみなさい 仲間たち
鐘が鳴ります キンコンカン
昨日にまさる 今日よりも
あしたはもっと しあわせに
みんな仲よく おやすみなさい
戦争孤児の悲劇と言えば、何といっても「火垂るの墓」が真っ先に思い浮かびますが、きょうはそれはちょっと置いておいて、この新書をみなさんにお勧めしたいと思います。 戦災孤児・戦争孤児について少しでも知りたいとお思いの方はぜひとも本屋で手に取ってご覧いただきたいですね。
「「駅の子」の闘い」 幻冬舎新書 本体価格880円+税 初版:2020年1月30日
もう亡くなりましたが、「火垂るの墓」を書いた野坂昭如は生前よく言っていたと思います。『飢えた子供の顔は見たくない』と。国政選挙の時なんかはよく言っていたように記憶しているのですが。本人が食料で苦労したし、そのことは小説でもそうですね。
”「駅の子」の闘い” で知ったことです。
戦争孤児の保護方針については、昭和20年9月20日の厚生省の「戦災孤児等保護対策要綱」に基づき対応したようです。そこでは、「個人家庭への保護委託」「養子縁組の斡旋」「集団保護」という3つの方針が示されたとのことですが、「当時、預かった子どもたちに応じて、財政的な支援があったという資料は何も見つからない。」
この要綱のたたき台ともいうべき要綱が戦時中に作られていたのです。「戦災遺児保護保護対策要綱案」①です。敗戦間際の要綱で、昭和20年6月28日に厚生省で作成されたもので、3つの方針も盛り込まれている、とのこと。
①の「方針」には次のように書かれています。「戦災に依り、親権者その他の直接保護者を失いたる乳幼児、学童および青少年に対し国家に於て之が保護育成の方途を講じ、殉国者の遺児たる矜持を永遠に保持せしむると共に、宿敵撃滅への旺盛なる闘魂を不断に涵養し、強く正しく之の育成を図り、以て子女を有する父兄をして後顧の憂い無く、案じて本土決戦に敢闘せしめんとす」
①の要綱の具体的な施策を列挙した「要領」の中では、「孤児等の名称を廃し爾今『国児』と呼称せしむること」を提案、さらに、「遺児は総べて市町村において国児台帳に登録せしむる」、登録した遺児については当該市町村長の責任に於いて保護に当たる、としている。
そして、筆者は書きます。
戦時体制の維持、強化を目指した軍国主義的な枠組みの中でではあるが、子どもたちを「国児」と呼ぶなど、国が責任をもって面倒を見るという発想があった。しかし、終戦後に発表された対策要綱では、軍国主義的な要素だけでなく、それに付随していた、国家の責任で親を失った子どもの見ていこうという発想も、併せて消えていたのだ。 と。