思索の海辺

壮年部・那由他楽人の個人的思索を書き付けておくブログです。
主に創価学会関係。*今更ながらTwitter開始。

沖浦氏との「対話」

2008-10-25 03:11:46 | 思索の断片
*今回の記事は、ある掲示板での出来事をまとめたものです。その掲示板のことを知らなかったり、興味のない方には意味不明な部分が出てくることと思いますが、どうかご了承ください。*


ここをご覧の方はおそらくご存知だと思われるが、創価学会員に沖浦さんという人がいる。
氏はネットで実名を公表し、様々な体験や構想を語り、その強烈な個性で多くの学会員に支持を受けてきた。

その沖浦氏であるが、最近あちこちの掲示板で学会員と「衝突」し始めた。

その理由としては様々なものがあるが、いくつかの点について私も掲示板上ではあるが氏と直接やり取りをし、「対話」をしようと試みた。

しかし、結果としては対話にならず、平行線のまま打ち切られたような状態となっている。

別の掲示板で起こったことであり、それをブログにまとめる事については少々躊躇する部分もあったが、はっきりと記録として残しておく意味からも掲載することにした。

なお、私は直接言葉を(文字を?)交わした立場なので、私の主観が入り込むことは避けられない。その点はご了承いただきたい。

【経緯】

事の起こりは、沖浦氏が「一大秘法は本門の題目と習った」と言い始めたことに起因する。
そこから様々な変転を経て、沖浦氏は「曼荼羅(註:日蓮大聖人御図顕の文字曼荼羅)が迹で、衆生が本」と、「曼荼羅」と「衆生」を『本迹』で立て分けはじめた。

それについて、異論が噴出。
ところが氏は、「曼荼羅が迹で衆生が本」に対して異議を唱えた人々に対し、「あの人達は曼荼羅が本で衆生が迹だと主張している」と規定。

私がそれに対して、異議を申し立てたところからやり取りが始まった。

【沖浦氏の立場】

まず、推測となるが沖浦氏の「位置」について言及しておきたい。
沖浦氏は「戒壇御本尊は日蓮大聖人出世の本懐ではない」という主張である。
それに伴い、おそらく「物質」ではなく「衆生」こそが大事だということを訴えたいのだと理解している。

その故に、上記のような説を唱えるに至ったのだと思う。

それは理解できるのだが、それにしてもあまりにも際どい説なのである。

【「対話」の展開】

(★=私、☆=沖浦氏の発言。それぞれ要旨)

★『誰か「衆生は迹」と言った人はいるのか?』

それに対して氏は

☆『ご自分で調べてください』
 『あらゆることに本迹勝劣があり、対立した概念は本迹に立て分けられる』と主張。

私が

★『私が調べた限りではそのような発言はなかった』
 『それと、曼荼羅と衆生は対立した概念でしょうか?』と問うと、

☆『対立した概念ではない。しかし、どちらが本でどちらが迹かと問えば対立する。』との返事。
さらに後の書き込みで、私はどう思うのかを問われる。

★『本迹で立て分けることは不適切』とし、その理由としては
 『本迹は対立した概念に対して用いるもので、対立した概念ではない曼荼羅と衆生に対して用いるのは不適切』と主張。

☆『では、この件は平行線ですね』と言われる。

【私的解説】

まず、これは掲示板でも指摘したが、批判があったのは「曼荼羅が迹」に対してであり、「衆生が本」に関しては問題視した人はいなかった。
しかし沖浦氏は「曼荼羅が迹」の否定を「曼荼羅が本」、そして即ち「衆生が迹」と認識したのである。

しかし、これは否定の論理に反している。

記号に置き換えるとよく判る。
「A=BでC=D」である時、「A=B」を否定してもそれが即ち「C=B」とはならない。何故なら、「A=B」の否定はAとBにのみ影響するからである。

さらには、私が「本迹で立て分けるのは不適切」とした理由。

読んでいただければ判る通り、その「理由」は沖浦氏の言葉をそのまま使っている。
しかし、氏はそれに対して「平行線」だと言ったのだ。
これは取りも直さず、沖浦氏が自分の意見に対して「平行線だ」と言ったことになる。

また、この論理もおかしい。

『対立した概念には本迹がある』
『曼荼羅と衆生は対立した概念ではない』
『だが、対立させることが出来る』
『どちらが本でどちらが迹かを問えば対立する』

そもそも対立した概念ではない「曼荼羅」と「衆生」を、わざわざ対立させる必要など、まったくない。
もし必要があるとすれば、それは沖浦氏が自説を貫くためだけである。

【結論】

沖浦氏も認めている通り、曼荼羅と衆生を「本迹」で立て分けるのは不適切なことなのである。

氏は現在も、様々なところで自説を繰り返し主張している。
しかし、論理的に言って氏の主張は根拠を失っているのである。

ここをご覧の皆様に、このことをよくご理解いただきたい。

なお、反論や質問などがあれば、コメント欄へどうぞ。

10/29追記:この記事をご覧になった「恋さん」より、『創価仏法研鑽掲示板(http://jbbs.livedoor.jp/study/3764)』にて教学的な面についてご意見をいただきました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3764/1223375717/360
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3764/1223375717/361

併せてご覧いただければと思います。

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
よく、あそこまで対論されました。 (ひでき)
2008-10-25 05:01:51
小野さんが、一連の対論を褒められておりましたね。
私には、まだ自分の言葉で語れる力はございません。
2008年10月14日に貴方が感じておられた事を、私も実感致しました。
文字通り、今の自らの身の程を、限界を知りました。
明らかに論理が矛盾している事は、間違いないと私も思います。
相手の内証に迫るものがない影響からかも知れません。
それを探して参りたいと思います。
私も、もっと御書を拝し、指導を拝して自己を磨いて参りたいと思います。
いえいえ、とんでもございません。 (那由他 楽人)
2008-10-26 20:21:14
ひできさん、こんばんは。

対論、というほどのものでもなく、しかもよく読むと教学力が一切不要な「対話」だったように思います。
お褒めいただくなんて、恐縮してしまいます。

仏教全般でよく言われることですが、「判ったと思うことが実は判っていないということであり、判っていないと思うことが実は判っていることなのである」というのは、言いえて妙なのかもしれませんね。

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