思索の海辺

壮年部・那由他楽人の個人的思索を書き付けておくブログです。
主に創価学会関係。*今更ながらTwitter開始。

思索の現状

2009-02-11 00:31:09 | 思索の断片
週に一度は更新を…と思っていながら、それすらも果たせていない当ブログである…。

現在、思索を深めるためにいろいろな資料・文献に当たっているのだが、では何を思索しているのか。
今回は、カテゴリーの名前どおり、『思索の断片』を記しておきたい。

1.『「仏性内在」と「仏とは生命である」は、意味において同じなのか、それとも違うのか?』

…一切衆生には、悉く仏性がある(ちなみにこれは涅槃経)とされているが、ではそれと戸田先生の「仏とは生命である」という獄中の悟達は、同じ意味なのだろうか?


2.『鳩摩羅什の仏法(仏教)観はどのようなものであったのか?』

…なぜ鳩摩羅什なのかというと、それはやはり妙法蓮華経を著したから、ということになる。
これはもう知られていることと思うが、一般的に竺法護が訳した「正法華経」は、サンスクリット語の経典に忠実に逐語訳されているといわれている。
それに対して「妙法蓮華経」はどちらかというと意訳が多いらしい。確かに法華経を通読した時に、私も感じた。
特に偈の部分になると、サンスクリット語の和訳と対比するのが煩雑なほどであったのだ。

では、そのように訳した鳩摩羅什は、一体どのような仏法観を持っていたのだろうか?
それを知る手がかりとして、慧遠と鳩摩羅什の質疑応答をまとめた「大乗大義章」を読みたいと思っている(読んで理解できるかどうかは判らないが)。

というのも、私が鳩摩羅什について教わった時、「鳩摩羅什は『自分が死んで火葬されても、私の舌は焼け残るであろう』と言って死んだ。そして、その通り舌は焼け残ったのだ」というふうに聞いた。
それを聞いた私の認識は、「そうかあ。鳩摩羅什は法華経を正しく訳したからそのようになったのか」というようなものだったが、鳩摩羅什は何も法華経だけを訳したわけではなかったのだ。般若経も、無量寿経も訳しているのである。
これが、私にとっては意外であった。そこから鳩摩羅什に対して興味を持ったのである。


概ね、以上の2点である。
まだまだ何らの結論も出ない状態であるが、少しずつでも研鑽を進めていきたい。

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