以前に創価仏法研鑽掲示板でも話題に上ったことがあるが、戦前、戦後の創価学会に矢島周平という人物がいた。
この矢島氏はなかなか謎の多い人物であり、資料的にもあまり残されていないようである。
大雑把に略歴を記すと、戦前からの学会員であり、戦時中の弾圧の際に逮捕・投獄されている。また、戦後、戸田先生が事業の苦境から理事長を辞任された際、矢島氏が次の理事長となっている。
しかし、いつの間にか第一線からは退いていたようで、後に日蓮正宗の僧侶として出家している。
私は西野辰吉氏による「戸田城聖伝」という本を持っており、実はそこに書かれた内容と創価学会で学習した内容が異なり、それについての真偽を自分なりに調べたことがある。
それは何かというと、矢島氏は戸田先生と同じ日に逮捕されているが、結局牢獄で退転することなく、戸田先生に先立つこと3ヶ月前の昭和20年4月、保釈となっているのである。
現在の教学試験で習う「創価学会の歴史」では、「退転しなかったのは、牧口先生と戸田先生の二人だけでした」というようになっていて、矢島氏のことには触れていない。
しかし、実際には矢島氏も退転していないのである。
そんな矢島氏であるが、今年に入ってから聖教新聞に連載されていた「若き指導者は勝った」のなかで、その名前を目にした。
いろいろと詳しいことが書かれており、「そうだったのか」と思うような部分も多かった。
しかし、同時にやはり不鮮明としかいえないような部分もあり、それについて少々書いておきたい。
特に気になる記述がある。1月10日付けの連載にはこうある。
『しかし、これほど世話になったというのに、矢島は軍部政府の弾圧に屈した。共産主義を捨て、さらに恩師の牧口をも捨て去ったのである』
これは、何のことを指しているのだろうか。
矢島氏は退転しなかったはずではなかったか。
…じつは、この部分に妙な胡散臭さを感じるのである。
この文章には、「矢島は退転した」とは書かれていない。しかし、普通に読めば「軍部政府の弾圧により、退転した」と理解してしまう。いわゆる「未必の故意」である。
また、その後にはこんな記述もある。
『これだけの変節を繰り返してなお、混乱のすきを突いて理事長になるとは、相当に抜け目のない人物といわざるをえない』
混乱とはなんだろうか。当時混乱していたのは戸田先生の事業であり、創価学会が何らかの混乱状態にあったとは思えない。しかも理事長の指名は戸田先生によるものだったはずである。
また、矢島氏は戦後間もなくから戸田先生とともに創価学会の中心軸にいたはずで、当時はどの座談会にも戸田先生が入られたが、日程が重なってそれが果たせない場合は、片方を矢島氏が担当することになっていたほどである。
ただ、最終的に出家したというところから見ても、「学会の中で生き抜く」という人ではなかったようだ。
同じ日の新聞には、矢島氏の「悪行」も種々記されている。
私は、決して矢島氏を弁護したいわけではない。
しかし、事実は事実である。
たとえ、矢島氏の本質がどれほど酷いものであったとしても、戦時中は退転せずに保釈となったのである。
その点については、絶対に誤魔化すべきではない。
さらにいえば、「退転しなかった矢島氏でさえ、結局は純粋な信心を貫けなかった」と書いたほうが、ストレートでよいようにも思う。
いずれにせよ、細かい誤魔化しは命取りになるとだけ記しておきたい。
この矢島氏はなかなか謎の多い人物であり、資料的にもあまり残されていないようである。
大雑把に略歴を記すと、戦前からの学会員であり、戦時中の弾圧の際に逮捕・投獄されている。また、戦後、戸田先生が事業の苦境から理事長を辞任された際、矢島氏が次の理事長となっている。
しかし、いつの間にか第一線からは退いていたようで、後に日蓮正宗の僧侶として出家している。
私は西野辰吉氏による「戸田城聖伝」という本を持っており、実はそこに書かれた内容と創価学会で学習した内容が異なり、それについての真偽を自分なりに調べたことがある。
それは何かというと、矢島氏は戸田先生と同じ日に逮捕されているが、結局牢獄で退転することなく、戸田先生に先立つこと3ヶ月前の昭和20年4月、保釈となっているのである。
現在の教学試験で習う「創価学会の歴史」では、「退転しなかったのは、牧口先生と戸田先生の二人だけでした」というようになっていて、矢島氏のことには触れていない。
しかし、実際には矢島氏も退転していないのである。
そんな矢島氏であるが、今年に入ってから聖教新聞に連載されていた「若き指導者は勝った」のなかで、その名前を目にした。
いろいろと詳しいことが書かれており、「そうだったのか」と思うような部分も多かった。
しかし、同時にやはり不鮮明としかいえないような部分もあり、それについて少々書いておきたい。
特に気になる記述がある。1月10日付けの連載にはこうある。
『しかし、これほど世話になったというのに、矢島は軍部政府の弾圧に屈した。共産主義を捨て、さらに恩師の牧口をも捨て去ったのである』
これは、何のことを指しているのだろうか。
矢島氏は退転しなかったはずではなかったか。
…じつは、この部分に妙な胡散臭さを感じるのである。
この文章には、「矢島は退転した」とは書かれていない。しかし、普通に読めば「軍部政府の弾圧により、退転した」と理解してしまう。いわゆる「未必の故意」である。
また、その後にはこんな記述もある。
『これだけの変節を繰り返してなお、混乱のすきを突いて理事長になるとは、相当に抜け目のない人物といわざるをえない』
混乱とはなんだろうか。当時混乱していたのは戸田先生の事業であり、創価学会が何らかの混乱状態にあったとは思えない。しかも理事長の指名は戸田先生によるものだったはずである。
また、矢島氏は戦後間もなくから戸田先生とともに創価学会の中心軸にいたはずで、当時はどの座談会にも戸田先生が入られたが、日程が重なってそれが果たせない場合は、片方を矢島氏が担当することになっていたほどである。
ただ、最終的に出家したというところから見ても、「学会の中で生き抜く」という人ではなかったようだ。
同じ日の新聞には、矢島氏の「悪行」も種々記されている。
私は、決して矢島氏を弁護したいわけではない。
しかし、事実は事実である。
たとえ、矢島氏の本質がどれほど酷いものであったとしても、戦時中は退転せずに保釈となったのである。
その点については、絶対に誤魔化すべきではない。
さらにいえば、「退転しなかった矢島氏でさえ、結局は純粋な信心を貫けなかった」と書いたほうが、ストレートでよいようにも思う。
いずれにせよ、細かい誤魔化しは命取りになるとだけ記しておきたい。
学会幹部の逮捕者21人の中に「戸田城聖伝」で名前がなく、「宗学要集」に出てくる本間直四郎氏は学会の恩人である元中外日報社社長の故本間昭之助氏と関係あるのでしょうか?
みなさま、はじめまして。
どちらにしても、そのあたりの実際にあったことを明らかにしていく姿勢が大事ではないかと思います。
学会本部に「政治」に流されない論客がいることを期待しています。当時の資料はどこかに残されているはずでしょうから。
「下から上を動かせ」です。
こういう記事が、炎上するぐらいの勢いが必要なのかもしれません。
レスが遅くてすみません。
確かに正確な歴史を残すのは難しいですね。
しかし、そのためにはやはり様々な角度から検証するということが必要だと思っています。
本間直四郎氏の件は、存じ上げません。
機会があれば調べてみたいですね。
時折ですが、そちらのブログも拝見し、勉強させていただいております。
炎上、とまではいかないかもしれませんが、書き残しておくことは大事だと思っております。
もしご存知のことがありましたら、教えていただければ幸いです。
また、池田先生の会長勇退に関して一般会員――特に関西――は怒った(←学会の公式見解?)とされていますが、その当時、一般の会員は事情がよくわからず混乱していたというのが実情だったのではないでしょうか。
違いましたっけ?
私なりの考えを書かせていただきます。
>どちらかといえば側近連中を悪としていますが、
私としては、「側近を悪」としているのではなく、池田先生の会長辞任を「時流」としてしまう、その姿勢について種々表現されているのではないでしょうか。
決して「犯人探し」ではないと思います。
>その当時、一般の会員は事情がよくわからず混乱していたというのが実情だったのではないでしょうか。
残念ながら私は「当時」のことを覚えていません(まだ幼稚園児でした)。
ただ、推測ではありますが、やはり地域によって温度差のようなものはあったのではないかと思っています。関西が特に怒ったというのも、その地域性によるのでしょう。
私のような「当時」を知らない世代は、機関紙・誌や地元の壮年・婦人の方々の話を聞いて、学んでいかなければならないなあ、と思っています。
反論的になってしまいました。どうぞご容赦ください。
先生が勇退した当時、私は新宿で学生部一年生でした。
大幹部を多く輩出した大学で学内にも属しておりました。
おっしゃるように
>その当時、一般の会員は事情がよくわからず混乱していたというのが実情だったのではないでしょうか。
という雰囲気が大幹部(当時の区長や区男子部長、区学生部長<委員長という呼び名でしたが>も含めて一般的でした。
そしてさらに言うならば、
「先生にも間違いはあるのだ。しかし、例え命の恩人が泥棒だったとしても、恩人から受けた恩は変わらない」という指導をされていました。
それが今になって、
「あの時(会長勇退)ほど悔しい時はなかった。紅涙を絞るとはまさにこのことだ!」
という幹部が多いことに愕然とします。
大半の幹部が
「勇退するということは、きっとなにか後ろ暗い、行き過ぎがあったのだ。自分も(先生は)少しおかしいと感じていた」
という感情を抱いていたと思います。
これがうそ偽りのない、本部がある新宿での当時の中枢幹部の心情です。
中国が帝国だったころ、宦官という保身と出世欲の権化であった官吏がいましたが、まさに今の一部の幹部に「宦官」を見るような気がしてなりません。
当時をご存知であればこそのお言葉だと思います。
会長辞任当時は、宗門との混乱を収めることが最優先されていたように思うので、今とトーンが違う部分があるのは仕方がない部分もあると思います。
さらにいえば、本陣である新宿がそうであったとすれば、先生が関西を大切になさる理由もそこにあるのかもしれません。
ともあれ、私も「当時」のことを詳しく知りたいと思っております。ありがとうございました。
そんな昔のことがどうして気になるのか? 違和感の原因は?…よく考えてみると、91年のいわゆるC作戦以降に、学会と宗門の確執が表面化し内外に広く知られることになったわけで、更に後年になって先生がおっしゃられている「関西の同志は怒りにうち震えていた」というのは、(事実を知っていた)関西の幹部が特に怒っていたという理解の仕方が正しいのかな? と思います。
まぁ、あまり嘘(?)はつかない方が、いいことはいいですね。ホラ、十年ほど前はダイオキシンとか環境ホルモン(の恐怖)とかを主にニュースステーションなんかで騒いでましたけど、今はほとんど聞かないですもんね。某久米さんも最近は視聴率が取れないのも、「信頼性・信用性――さらには説得力」という大きなものを少しずつ失ってしまったからかも知れません。
少しスレ違い気味で、申し訳ありませんが、内外関係なくどこにおいても信頼・信用は大切ですから。