時間があるにも関わらず更新が少ないのには、一応理由がある。
簡単に言ってしまうと、「思索がまとまらない」のである。
そんなわけで、これからしばらくまとまりのない本当の意味で「思索の【断片】」となるかもしれないが、ご容赦願いたい。
…………………………
先日の「名字の言」に、こんなくだりがあった。
【未来部歌として歌われていくことになった「正義の走者」。歌詞に「今強く 学べ尽くさん 正義の道をば」と。この夏、私たちも御書研鑚に、名著に、語学に挑みたい。創価の未来のために、世界の民衆のために――】
そこで、ふと思ったのである。「我々は『正義』を学んでいるのだろうか」と。
変な言い方になるが、「これが正義ですよ」といって教わることが本当に正義であるという保証は、いったい何処にあるのだろうか。
本当の「正義」なら、あらゆる批判に耐えうるものでなければならない。
それを無批判に受け入れ、そのまま信じてしまうということは、危険なのではないだろうか。
我々にとっての「学び」とは、そうであるべきだと思う。
簡単に言ってしまうと、「思索がまとまらない」のである。
そんなわけで、これからしばらくまとまりのない本当の意味で「思索の【断片】」となるかもしれないが、ご容赦願いたい。
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先日の「名字の言」に、こんなくだりがあった。
【未来部歌として歌われていくことになった「正義の走者」。歌詞に「今強く 学べ尽くさん 正義の道をば」と。この夏、私たちも御書研鑚に、名著に、語学に挑みたい。創価の未来のために、世界の民衆のために――】
そこで、ふと思ったのである。「我々は『正義』を学んでいるのだろうか」と。
変な言い方になるが、「これが正義ですよ」といって教わることが本当に正義であるという保証は、いったい何処にあるのだろうか。
本当の「正義」なら、あらゆる批判に耐えうるものでなければならない。
それを無批判に受け入れ、そのまま信じてしまうということは、危険なのではないだろうか。
我々にとっての「学び」とは、そうであるべきだと思う。
池田先生もこうおっしゃっています(創価学会学生部編『若き知性の君に贈る 池田名誉会長のスピーチ・指針集』より)↓
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信仰は、懐疑の試練を経ることによって、より深く、より強くなっていくものであります。デカルトは、いっさいを疑うことから出発し、疑って疑って疑いぬいて、最後になおかつ疑えないものが、疑っている自己自身であることに気づいた。理性に信をおいた近代合理主義がここから始まったわけであります。
私どもにおける信仰も、懐疑を排斥しているのではありません。懐疑のための懐疑に終わってはならないということであります。デカルトが真理を求めるために疑ったように、私どもの懐疑も、確固たる信仰を築くための懐疑であり、これを踏みはずしては成仏はありえないということを知ってほしい。
有名なドイツの作家ヘルマン・ヘッセは「信仰と懐疑とは互いに相応ずる、それは互いに補い合う、懐疑のないところに真の信仰はない」といっているが、懐疑に敗れるか、懐疑を起点として、より強固な信仰と偉大な人生を確立していくか、そこに重大な人生の勝敗の分かれ目があるのです。(1972.7.31)
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こんなに日をおいてからコメントしてしまいましたが、読んでいただけますようにと思いつつ…。
最近読んだ本から転記します。
みなさんが、何かの宗教に入ってゆくとき、あるいは吸い寄せられるとき、自分の全体をあげて信じていかなければわかり得ないという面と、そうしながらどこかで慎重かつ良心的に観察するという面の二つがないといけないと思います。それをやり抜かないと、本当の宗教性にならないというのが、ユングのいうところです。ものすごく難しいことですが、私も大賛成です。 河合隼雄「"日本人"という病」
ああこの通りだ、私がこうありたいと思うことがここに書いてある、と感激したのですが、共感してくれる人が身近にいないので、ここに投稿しました。