思索の海辺

壮年部・那由他楽人の個人的思索を書き付けておくブログです。
主に創価学会関係。*今更ながらTwitter開始。

僧俗一致

2007-09-11 23:57:56 | 書籍引用
むかしから、僧俗一致ということが、わが宗内では叫ばれている。ところが、僧俗一致していたような寺はなかった。
なぜないかという理由は、この信者側も悪い。坊さん側にもある。なぜかというと、お坊さん側では、信者を子分か家来のようにして使おうという頭がある。信者側では、坊さんを養っているという頭がある。
ある御尊師がいうたことばですが「どうも、旧信者は、金を出さないで文句ばかりいっている。困ったものだ」というおことばをうけたまわったことがありますが、これは冗談であるか、うそであるか、ほんとうであるか、私は知りません。この点を直さなければならんのです。
ただ、お坊さんのなかでも、人格が高く、学問の深い方は、なんにも問題は起こっておらない。ことばでも不快気分を与えないだけの気持ちを、信者に起こさせる。
自分に力がなく、また、いいかげんだというと、信者の実力あるもののきげんをとって、そうして、その、自分の地位を安定せしめようとする坊さんがある。そういう坊さんにきげんとられた信者は、かならず退転して、ろくな目にあわない。
いつも、夕張だけは、ほかもまた行きますけれど、ここで最初に注意しておくことは、お坊さんに、おのれは、おせじをつかわないで、そして、どこまでも尊敬する。尊敬とおせじは違います。
ここは紙一重の差がついている。尊敬する。そうして、できるだけこのお寺の御僧侶が、不自由のないようにすることを心がける。
そのかわり、御尊師にもしまちがいがあるならば、陰口なんてきかずに、正々堂々と忠告すること。これは罰になりません。陰口は罰になります。だが、面とむかって堂々と話すことは、けっして罰にはなりません。しっかりやりなさい。

《戸田城聖全集 第四巻 P.559》

…………………………

昭和32年8月20日、夕張の興隆寺での戸田先生の指導。

「無条件で僧侶を尊敬せよ」とは仰ってないのである。
あくまでも、広宣流布のために我が身を投げ打たれたからこそ、尊敬せよと仰せなのだ。