桐生スバル☆☆☆座   

映画好きの座長がWEB劇場・桐生スバル座を始めましたが
東日本震災で故郷FUKUSHIMAが悲惨な状況で帰れないネ~

毛沢東は次郎長生れ代りE:二人とも28年目に2度目の結婚

2012年04月22日 | 次郎長
 さてさて、座長がネタ本としている「マオー誰も知らなかった毛沢東。上、下」はユン・チアン女史の著作であるので、敬意を表して毛沢東の女性関係を書いてみる。
 日本語版への挨拶文・本文145~159頁でも、彼女が初めて公表した2番目の妻・楊開慧夫人の自筆書類の事を強調してるので、興味深いノダ。
       
          賀子珍第三夫人              江青第四夫人
(A)毛沢東と次郎長、二人とも生まれて28年目に2度目の結婚をした。
次郎長は遊び仲間だった江尻の大熊の妹・お蝶(1829~1859)にゾッコン惚れ込んで所帯を持ったのは弘化4年春であったが、その生活は貧困を極めて、子分達は他の親分の賭場を手伝う「勝手つとめ」をしたりー「ネエゲエ」という追い剥ぎ内職をしたりの生き様、次郎長自身も出稼ぎ旅先でイカサマ博打の名手となる程だった。

 結婚して11年後の安政5年秋には、役人に追われて女房子分を連れての逃亡旅に出て、最愛のお蝶さんを名古屋で亡くすのである。次郎長は後添えの女房二人にもお蝶と呼ばせる程に熱愛していたのだ。 これらの若いときの人生経験は、毛沢東に生れ代ってからの過激分子への指導方法や共産党委員会での対応、延安に至る長征、などに生かされるのだが、女性関係は全く正反対であった。

(B)毛沢東青年は湖南省の共産党急進派指導者として北京を訪れた際に、後援者の北京大学倫理学教授楊昌済の娘・楊開慧と恋愛関係に陥った。日英独に留学した父が創る知的な家庭環境で育った楊開慧が、父親が亡くなるとオーム真理教の教祖の如き農村顔で粗暴な青年を頼るようになったのはナゾである。
 そして毛沢東青年が28歳にして校長をしていた長沙師範学校附属小学校に訪れた楊開慧は口説かれて一夜を過ごし・・結婚してしまった、1920年。

 それまでの毛沢東青年は「女性は労働的に平等ダとか44頁・・婚姻制度下の男女は強姦団に属す如きとか・・私は拒婚同盟を結成する・・」などと吹聴してた事に加え、3歳年下の未亡人教師陶スーヨンとの関係を継続していたのだから、彼の人生訓「我こそ最優先」が既に血肉化していた事を想像できる。
 
 北京から湖南省長沙に移り住んだ2代目夫人・楊開慧の悲劇はそれだけでは無い。
1927年には3人の子と共に毛沢東に捨てられたばかりか・・その3年後にはナント別の女性・賀子珍と結婚した毛沢東自身が、この長沙都市を長期攻撃してきたのだ。 斯くして、この長沙を守る反共国民軍の何鍵将軍は楊夫人に離婚を迫って彼女らへの危害を避けさせようとしたのだが、楊夫人は拒絶し・・1930年10月に処刑された。
 そして1982年になって発見された8編の遺書には「毛に捨てられた痛楚、子供達と共有する失望と恨み、共産主義への絶望」などが記されていたのだ。ネタ本の本文145~159頁で詳細に記されている。

(C)3人目の女房達(次郎長は2代目お蝶・毛沢東は賀子珍)は、更に悲劇的だった。
不可解な事件で斬り殺されたのが2代目お蝶さんだったし、6人も子供を産んだ賀子珍は毛沢東から「メンドリが卵を産むのと同じくらい易々と」子を産むと軽口を言われる程の扱いであった、1984年没。
 その賀子珍と毛沢東の出会いは、第2次ロシア革命でレーニン・ボリシェビキ政権が誕生して10年目の井岡山の山中だった。

 孫文も毛沢東もソビエト・コミンテルンの支配下でなければ中国の生存は有り得ぬと考えていたのだが、この年1927年4月12日に民族派の革命家・蒋介石が起こした孫文国民党クーデターによって追い出され、匪賊がタムロする井岡山へ逃げ込んだのだ。その時の地元語通訳だった18歳賀子珍は34歳の毛沢東は嫌いであったが「政治的保護の必要性」から結婚してしまい、その後に中国国内を転々とする中で子供を失っていった。

 戦後になってからだが、生後1ヶ月で地元の乳母に預けた長女・?と妹夫婦に預けた長男・小毛を探し出す事に賀子珍は全力集中するのに対して、毛沢東は延安で知り合った4回婚歴の上海女優・江青26歳を4度目の女房にして戦後を生きたのだ。
 ところが、次郎長の4度目の女房(1936~1916)は三州西尾藩士・篠崎東吉の娘だったので、結婚した時(50歳と34歳)から次郎長は尻に敷かれて生活していたという。

 次回は、毛沢東は次郎長生れ代りF;農民と決別し虐使した毛沢東・・・・なのだが、団塊世代にとって毛沢東は農民の味方!!農村から都市への闘争!!だと認識してるので、その驚きの内容には(月の家円鏡の落語の如く)屁をこいて座りションベンしてしまった座長なのだ。
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