桐生スバル☆☆☆座   

映画好きの座長がWEB劇場・桐生スバル座を始めましたが
東日本震災で故郷FUKUSHIMAが悲惨な状況で帰れないネ~

水戸偕楽園で歌う・・今月の謡uta「出て来い 打たれ杭」

2011年01月28日 | OZUの謡uta・・・今月
 さてさて、前日ブログで水戸偕楽園で謡いたいとブログしたが、その歌をOZUの声(←クリック)から
「出て来い 打たれ杭」を紹介しよう。

 座長の帰省ルートは、水戸駅経由の奥州ローカル水郡線(1、2時間に一本走る)が主であるが、
たまたま車中同席した高校生との話を披露すると、
 (A)彼は偶然にも・・座長母校の白川郡T高校生であった。   (基準50点に10点プラス!)
 (B)中学三年時に、矢祭町(←)の海外派遣(←)に参加。   (10点プラス!) 
 (C)話し方も考え方もシッカリしているが、特技は無い?     ( 5点プラス!)
 (D)しかしながら・・地方経済貧困で進学できない。        (10点 減点!)
 (E)介護ヘルパーとして老衰人間と道連れ就職ルート。       (10点 減点!)  :総合65点
車窓の中も外も人気の少ない山間列車内での会話は・・平成若者の暗い未来が予想され寂しく終わった。
  
 なぜなら、某S病院付属の介護施設に在籍経験がある座長が想像する将来の介護ヘルパー像は、
「福祉、人権、減税、平和、終身雇用」をスローガンとする彼ら団塊世代の糞尻ヌグイ介助だジョ!!
福祉は権利だとして、感謝もせず、不平タラタラ、そして、小遣い年金をセビる・・そんな介護予想像なのだ。
   幕末、明治期のサムライは「他人の為の・・」スローガンを挙げたのだが、
   平成鳩ポッポ団塊達は「自分の為の・・」スローガンを叫ぶ。
事実として、今週始めに・・東京巣鴨駅前で座長が目撃したのは、全国に140万会員数を誇る社会共有税=
消費税反対の署名運動で、あの若者の労働所得の略奪を当然とした運動である。
週末には・・その風潮を察してか、海外S&Pが日本国債1000兆円の格下げ(AA-)を発表したのである。
 
  H23/01/28  Utatteru#15   別サイト OZUの声(←クリック)から

       出てこい 出てこい 打たれ杭    元歌: 池の鯉

 出てこい 出てこい 打たれ杭 
  ・・・・・・・・
  若い力で 杭を打て 杭を打て


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水戸は梅が名物!・・?「竹」じゃないかと水戸天狗党。

2011年01月27日 | 天狗の田舎
 さてさて、年末に栃木・群馬の水戸天狗党西上路を輪行した座長の脳裏には、安木節メロデー(ブログ01/15)と
萩原朔太郎の詩「竹」が舞い踊っておりました。

                
 
 と言うのは、座長主宰の「桐生スバル座」からノンビリと上毛電気鉄道(←クリック)で前橋まで行くと、
詩集「月に吠える」で大正期に衝撃を与えた詩人萩原朔太郎の生誕の地に至ります。
 赤城山からのカラッ風が土煙を上げる厳しい土地、身体を縮めて部屋籠もりしたくなる土地で、詩人萩原は
  その土中でふるえる竹の繊毛を見、光る地上に鋭く立つ竹を呼んだのです。
    その土地前橋の西方10kmの平野を水戸天狗党が隊列を組んで横断したのは50年前。
    その有様は「まつしぐらに竹が生え、凍れる節節りんりんと、青空のもとに・・」であったろうと・・
                  ・・座長は詠みたい(盗作!)。

 それにしても、天狗党一行の一途な信念・行動にはタダタダ驚嘆するダケ!タケ!竹!
山本七平氏の談話では、戦国古武士の知的アクセサリーにすぎなかった朱子学の数行が、幕末には革命パンフレットの
行動指針・自己存在理由となった・・・とあります。
 具体化する組織論が欠けた中身空洞の「タケノコ行動論」とも思われて、本ブログ輪行編では思想転向を2度程ブログ
してしまったが、それは「サムライ」の心を喪失した平成団塊日本人のインチキ信念でもあるとも納得しております。 
                       (11/11ブログ「三島由起夫節」を参考に)
 そこで、座長実家の白川郡へ帰る時には、梅の名所である水戸偕楽園をノンビリと散策して・・
    水戸天狗党は 梅でなくーー維新時、多くの藩はユトリ化してホ~ホケキョ状態
              桜でもなくーー515事件は水戸男子、霞が浦兵隊が主導するコミカル革命
              「竹」の様な生き方ーーだったと再認識したい。

        作: 萩原 朔太郎 

 光る地面に竹が生え、青竹が生え、
 地下には竹の根が生え、根がしだいにほそらみ、
 根の先より繊毛が生え、かすかにけぶる繊毛が生え、
 かすかにふるえ。

 かたき地面に竹が生え、地上にするどく竹が生え、
 まつしぐらに竹が生え、凍れる節節りんりんと、
 青空のもとに竹が生え、竹、竹、竹が生え。

 みよすべての罪はしるされたり、されどすべては我にあらざりき、
 まことにわれに現はれしは、かげなき青き炎の幻影のみ、
 雪の上に消えさる哀傷の幽霊のみ、ああかかる日のせつなる懺悔をも何かせむ、
 すべては青きほのほの幻影のみ。

             
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輪行自転車で水戸天狗党を追う・・総括編(北関東)

2011年01月19日 | 天狗の輪行
 さてさて、座長が水戸天狗党の西上進軍路を自転車で走破するとブログしたのが12月17日、
大晦日に宿場毎のテーマを七つ掲げてWEB始めたら・・8つのテーマとなりました。

(総括A)天狗党の路は忘却の道!  
     作家山田風太郎が『魔群の通過』にて毛沢東「長征」に喩えて著した程の強行進軍の2ヶ月!!
     20年後、更なる辛苦の進軍が「インパール作戦」にて3ヶ月間繰り返されましたが、
     7年後に「忘却とは忘れ去ることなり」というドラマ大流行で忘れ始められ・・
     今回の輪行ではいずれの宿場からも「知らない」と言われた心地でした。
 
 (総括B)水戸天狗党の朱子学書籍的な平面思想!
     八溝山の凸凹道でもシワ撚らず1/4・・八木節太鼓でも浮かれず1/15・・1000余名の進軍を
     支えたのは屈曲なき攘夷思想!!
     「詮議ー相互質問」という現実教育を設けていた薩摩藩は400日後には開国へと政策転向し、
     明治政権に逸材を輩出しました。しかし、20年後に牟田口軍司令官は士官教科書通りの
     「インパール作戦」を命令し、150年後の現在では民主党政権がマッカーサー憲法通りの
     政策を施行するのです。
           
  
 (総括C)ブログ8回内で座長は「鳩ポッポ」と6回!も咆哮!
     偶然にも、安全な東武電車内を1往復して「友愛外交」でエサをネだるハトポッポを
     写真しました。改めて、座長脳裏で渦巻くキーワード「鳩ポッポ」を実感しました。
      註)エサと住まいが保証される飼育鳩は「Pigeon」、山野で猛鳥に追われる
        野鳩は「Dove」。平成日本人が好きなハト派政治家を欧米では
        (a dove politician)と言い・・(飼われ従属する)Pigeonを使用しない。
 

  H23/01/19  Utatteru#14  別サイト OZUの声(←クリック)から

 仲良し参謀大本営
     元歌; 仲良しこよし 作詞:三苫やすし  作曲:河村光陽

 仲良し参謀大本営、玉砕頭脳は辻参謀
 ・・・・・・・・・・・
 人ごとみたいに意見して 読む人ー自治労・会社員
 
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天狗の輪行その10・・太田宿。哀れ瞽女唄→望郷遊女の木崎節→八木節

2011年01月15日 | 天狗の輪行
 さてさて、座長は梁田宿から太田宿へ至る例幣使街道の四つ角で自転車から転倒してしまった。
五分後に大型オートバイの老人?もブザマ転倒したので、この東武太田駅への左折角路には天狗党の因縁が
あるのでは想像してしまう。

        

 即ち、ココ角路に至る手前に「八木節←クリック」で有名な初代堀込源太の菩提寺があり、座長の脳裏には
哀れ瞽女唄の「新保広大寺節」→哀れ遊女の望郷「木崎節」→「八木節」へと辿った民衆太鼓のリズム
満ち溢れましたが、水戸天狗党の面々もサムライ進軍太鼓と異なる軽妙なリズムに・・戸惑って足下フラつき・・
底辺民衆の力強さに気づいて・・「この西上進軍はモシカしたら?・・」と躊躇させた・・のではなかろうか??
と想像しました。
   (座長は、時代の世相を遠慮なく謡い込んだ「八木節」替え歌創作に熱中し注意散漫・・転倒致しました。)

 さて「木崎宿の色地蔵」という命名が気になり、工業化した太田宿をソコソコにして西上、260人以上の飯盛女を抱える日光例幣使街道最大の宿場町「木崎宿」に至る。この様なギリギリ庶民生活の場は映画産業と上手に連携して時代観光地するのも一案・・・現実はMyHomeタウンでしたが。
        新田郷     赤地蔵       
反対にサムライ徳川家発祥の地として整備され、座長の膝転倒キズと歴史心を安息せしめたのが隣町世良田の歴史公園 「新田郷」で、利根川を渡ると深谷市「渋沢栄一記念館」に至ります。



H23/01/15  Utatteru#13     別サイト OZUの声(←クリック)から

    鳩ポッポ節       元歌: 八木節   群馬県民謡
 
ア~~ア~~ア~~
 チョイト出ました鳩ポッポ野郎が
 ・・・・・・・・・・・・・・・
 受け取りまするは団塊世代のジジとババ
 

 註)この歌詞の最後が未完成状態で元歌(MP3←クリック)と合いません。
    以前はホトばしる程に替え歌元気でしたが、座長も老化してチョロチョロ放尿作詞です。


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天狗の輪行その9・・小林宿にて幕末三大行軍(天狗・相楽・榎本)を想う

2011年01月13日 | 天狗の輪行
 さてさて、座長は東武鉄道を北上して再び今市に至り、二宮尊徳神社を再び参拝して、
ソ~ダ!!替え歌「二親金治郎」を今月の謡uta(←クリック)としてWEBしようと決めた(後記)。

             

 さて、元治元年11月6日、日光鬼怒川を渡河した水戸天狗党は今市市小林宿に宿泊する。翌日は日光廟をはるか
遠くから参拝して鹿沼宿へと旅立つのであるが、如何なる気持ちでこの山並み(写真)を拝したしたのであろうか・・・と
冷たい風に身をさらして想像する。
 天子様への誓願で満ち満ちた状態であった彼らの胸中に、疑うことなく水戸家出身の鳩ポッポ慶喜(当時、天子の
禁裏御守衛総督)への甘え心を浸透させてしまった事が・・・・この行軍をより悲劇的にしてしまったようだ。

 座長が悲劇的とする幕末行軍は下記の三つ! である。
  (A)水戸天狗党西上の路:幕府のハラワタを横断切腹したかの如き自滅行軍
  (B)相楽総三ら赤報隊の中仙路:陰湿公家が策した欺瞞マニュフェストに翻弄され、
  (C)榎本武揚ら幕府海軍の蝦夷海路:第三の政権可能性を慶喜がつぶす。

 この時代に活動的であったのは、制約が少ない脱藩浪士と経済的に恵まれた郷士であるが、
     藩内抗争に憑かれた天狗党は脱藩扱いになっても徳川慶喜に望みを託して破滅し、
     江戸有数の富豪郷士であった小島四郎左衛門将満が起こした赤報隊争乱は結局薩摩藩・公家の掌中の
       将棋の駒でしかなかった。(実家が郷士であった映画監督はクロサワ・・・など多い!)
     もし、オランダ留学の開明サムライの榎本武揚が、鳩ポッポ慶喜の大阪城裏切り宣言を信ぜずに新鋭の
        幕府海軍を指揮し、LOOPY慶喜の(水戸~銚子~清水港)のワガママ移送に関与せずに
        新政府設立を早急に着手していたら・・・薩長の盗幕運動は別方向へと展開したのである。


H23/01/13  Utatteru#12    別サイト OZUの声(←クリック)から


   二親金次郎      元歌:二宮 金治郎   
                尋常小学唱歌  明治44年6月


  カラダを清めて 歯磨きさせて 
  ・・・・・・・・・・・・
    手本は二親金治郎
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天狗の輪行その8・・梁田宿。ヤダ!ヤンナッタと徳川旗モット八万騎。

2011年01月08日 | 天狗の輪行
 さてさて、例幣使街道七番目の梁田宿は幕末に梁田戦争(写真)が起きた所です。

            

慶応4年3月陸軍総裁・勝海舟の命で編成された徳川旗本歩兵第六連隊500名+脱走兵300名が女郎部屋で
エロ寝している時に、熊谷から夜を徹して進軍してきた先鋒総督軍200名余りに撃破されたという・・・
250年江戸平穏の間に武芸貧弱化して戦闘に耐えられない旗モット8万騎でありました。
 
 加えて、彼らの生活は「サンピン藩士・・俸禄3両+1.5人コメ代で年収八〇万円!?」の貧困を極めており、
学習塾にも行けず文字読み書きも不十分な状態で現代のユトリ子貧困層世代と同じ。そして前者旗モット達
は戦後鳩ポッポ団塊達の精神構造と類似します。

 今正月TV番組はアホ芸人とスポ魂人とホウ食人、でウンザリする中、ケイ財人財政破綻が五年後に起こり
徳川幕府如く崩壊すると明言しました。これに天候不順・鎌倉沖大地震が加われば、
郷士とヤクザが活躍した幕末=ヤクニンとマフィア元気な平成、に成ると・・「正月恒例予測」致します。

 さて、あの膨大な諸藩・サムライの借金、維新政府の新財源はどうしたのでしょうか?
座長は経済学苦手でありますが、列挙すれば下記の如し。
  (A)江戸時代は課税免責だった商人が損をした。(=国債購入の現銀行が損をする!)
  (B)インフレとなって全国民が平等負担をした。(=白川日銀総裁のデフレ無策!!)
  (C)全国民が低賃金・高税負担をした。(=福祉策↓、消費税UP!)
       栃木・群馬の山沿いに「姥捨て福祉施設」が目立ちました。
  (D)諸藩、藩士を解散した。(高給議員・ヤクニンをリストラ!)
       座長郷里の矢祭町(←クリック) では議員日当制を初導入 
  (E)外国からカネを借りた。(第一WAR景気まで債権国だった!)  
  (F)隠し財源は無かった!!(国内の産業・鉱業を発掘した!渋沢栄一は偉い!)
  (G)アジア的科挙教育の導入。(ユトリ教育は辞める!) 
  (H)西欧的に海外収奪路線へ。(イヤなら全員震えて我慢する!) 
      不況の時、戦前の肉食若者は「戦争になれば景気が・・」と考えた。 
           その時代、公共事業ならぬ「国共事業」が世界潮流だった。
       平成4人組の「誤算」となるか?
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天狗の輪行その7・・矢板大宮宿は「仙谷減点」を加えて80点減点。

2011年01月07日 | 天狗の輪行
 さてさて、東武無料定期券を利用して今市まで電車行、鬼怒川対岸の矢板大宮宿まで自転車行、
と難行実施しましたが・・・落胆の旅となりました。

                

 水戸天狗党通過の大宮宿にはナンの痕跡もなく、加えて、町内の大宮神社(写真)では「日清、日露戦争
従軍兵顕彰碑」2基(写真左側)の裏側に便所を隣接させる無神経ぶりに呆れて早々と帰宅した次第。
 その夜12/26、NHK第2放送「文化講演会ー関川夏央氏」にて
「1904年日露WARにおける外国人従軍記者の役割は裁判官如きであり、日々報道する戦時情勢は
世界に大きな影響と評価材料を与えた・」との論説を傾聴した結果、「仙谷ゲバ棒減点」を加えて
「80点減点の町」としました。

この関川氏の論拠を展開すれば、
  (A)有色日本人は、欧米基準の戦争展開が可能な事を白人記者の前戦招待で見せつけた。
    →仙谷ゲバ棒長官は尖閣映像を非公開として欧米基準の解決法を喪失させ、混迷を残した。
  (B)司馬遼太郎が酷評する乃木将軍の戦術に対して白人記者は異議を唱えなかった。
    →2年前のボーア戦争でも「英国軍を含めて、当時の世界の正規な軍隊では、歩兵が密集
    して横隊陣形を組んで攻撃前進するというのが普通のスタイルであった・・」。
       第1WARでも白兵戦が頻繁だったが、仙谷ゲバ棒長官は海保ビデオ員の捨て身の
       白兵行動を非難した。
  (C)その白兵戦闘スタイルが濃厚だった第2WARの極東裁判は「カンガルー裁判」であったが、
       その後のマスコミ操作で頑強に正当化された。
     →「カンガルー裁判kangaroo court」とはピヨンピヨンと都合良い事実の積み上げで
      黒人リンチを正当化した
      アメリカ流奴隷裁判。仙谷ゲバ棒長官は、自らを日露戦争講和大使の小村壽太郎だと
      都合良く弁解した。
  (D)慢心したアメリカは、ベトナム戦争では自国マスコミの「報道裁判」で自壊してしまった。
     →日マスコミは、民主党基盤の自治労支持・大企業お客様・CHINAブン屋協定、に
      拘束されて民主党への「報道裁判」が出来ず、仙谷ゲバ棒長官ニンマリ。
  (E)鳩ポッポ団塊世代が亡き後、若者達は「パンダ裁判」で苦しめられる。
     →「パンダ裁判」とは東アジア特有の白黒確定済の見せしめ裁判で世界の観客には大好評!!
      反論事実の蓄積が少ない日本の若者達は、その苛酷な量刑に目を白黒させるだけ。
      加えて、仙谷ゲバ棒長官は「賠償問題はマダ未解決と・・」発言。
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尊徳翁曰く 人、生まれて学ばざれば生まれざると同じ

2011年01月06日 | 天狗の輪行
 さてさて、前日ブログで小太りサムライ達(田中正造・渋沢栄一)の話をしたので、輪行初日の今市駅
近くの二宮神社で購入した「尊徳遺訓」写真を載せて、小太り?庶民・二宮尊徳を記憶する。
    
 平成時代はヤサ男の時代で、個性が大事とユトリ教育にした日教組センセイ達の影響で、子供の脳が
外来植物セイタカアワダチ草が茂る不耕地状態となり、実行力も欠如してしまった。

          

H23/01/05  Utatteru#11  別サイト OZUの声(←クリック)から

      痴呆のホタル      元歌:ホタル   
                       作詞;井上 赳 作曲;下総かんいち

  セイタカアワダチソウ 田圃に茂る 
  ・・・・・・・・・・・・・・・・
  ・・・・・・・・・・ホ~ホ~ 痴呆の声がする
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天狗の輪行その6・・天狗党田中源蔵を知らずとも、足尾鉱毒田中正造を知る。

2011年01月05日 | 天狗の輪行
 さてさて、昨年8月に死去したオランダ人アントン・ヘーシンクが東京オリンピック無差別級決勝戦で
日本代表の神永昭夫を袈裟固一本で下して金メダルを獲得した時には、日本中が驚きで沈黙したものの、
まもなく身長198cmの外人体格の為と納得したモノだった。
 
 ところが、もしオランダ西欧諸国がアジアを植民地としなかったならば、彼ら西欧人の体格は小柄な状態であろうと
いう話がある。  それほどにアジア地域からの経済搾取が彼ら生活環境を向上させ、民権主義などというサロン談義を
楽しむほどにユトリせしめた・・との話なのだ。
それは250年間自給自足鎖国体制の3000万日本人が小柄であった事からも十分納得できる。

              

 
 そこで、座長は佐野市葛生町を南下して田中正造生家を見学致しました結果、
        彼が身長155cmの小太りの男である事、
        深谷市の経済人渋沢栄一も小太りの男であった事、そして、
        座長初の就職先社長の木村迪夫氏も小太りでエネルギッシュな商業人であった事、
     などに想いが至るのであります。

 そんな小太り維新サムライ達の活躍がなければ、日本は植民地化されて小人国ガリバー物語ゴトキの
侮属状態が続き、昨今の維新ドラマで演じる長身醤油顔のサムライ男優なぞ想像も出来ない国柄となるのです。

 さて、田中正造が24歳の時 (元治元年1864年12月09日)。彼は葛生宿から梁田宿へと進軍する水戸天狗党の太鼓を聞き、そして目前に天皇誓願をする1000人の一人ヒトリを見たのです。
それから37年後、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に、田中正造は天狗行軍の太鼓の響きを胸に秘め
単独で直訴を行うのであります。

 水戸学の精神は 田中正造 渋沢栄一 に継承された?!
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天狗の輪行その5・・尖った精神vs鹿沼・気ままの街

2011年01月04日 | 天狗の輪行
 さてさて、八溝山の峠道を横断して平坦な関東平野縁辺の街・鹿沼に至った水戸天狗党一行の脳裏に、
八ッ「溝」とは言わないが、せめてもう一ッの思考的「溝」が刻まれたらと座長は思う。
 それは結果的には裏日本敦賀まで持続させた固く尖った水戸学精神に、「この西上進軍はモシカしたら?・・」
と躊躇させる溝を刻む事であります。

 既に後期水戸学の会沢正史斉は開国論へと「峠」転向し、水戸藩士を散々酷使した薩長サムライは後に
盗幕府転換し、「大菩薩峠」中里介山は著書で「人生は旅である・・峠があって、そこには回顧、低廻、希望、オアシス、
中心、要軸がある・・」と記述しと、「峠」区切り思考は日本人の陰なる思考形態であります。
 そもそも、座長自身が起伏の多い八溝山麓の窪み空間で育ちましたので、カールフッセ型の「山のアナタの空遠く~」と移り気、変化好きの思考タイプ・・・それ故、水戸天狗党の様な確固とした信念の持続は苦手であります。

 ところで、座長が手にした鹿沼市パンフレットの表題は「鹿沼市・気まま」。
そこで日変わり気分のフリーター市民の街??との酷評されぬように弁護の写真を掲載します。


           
 鹿沼市から見える尖った山ー古賀志山        ここ鹿沼は二宮尊徳翁の気風が残る所
  尖った勤王精神を鼓舞したか?           次の例幣使街道今市宿にある碑文!
                            「翁曰く 人、生まれて学ばざれば生まれざると同じ
                                 学んで道を知らざれば学ばざると同じ
                                 知って行うこと能はざれば知らざると同じ・・略 」



   
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天狗の輪行その4・・・葛生町の会沢(正志斎)峠を越える。

2011年01月03日 | 天狗の輪行
 さてさて、前回ブログでは「ルビコン川」ならぬ利根川を越える座長決断にて、天狗党京都西行で初めての
戦死者2名を出した深谷市に至り、加えて明治維新を生活底辺から経済構築した「渋沢栄一記念館」を満喫しました。
 
 生活底辺からの明治民権運動・・と声高に定義する鳩ポッポ世代ですが、それはリストラ江戸士族が率先暴走した
就官運動にすぎず、国策ヤクニン事業用租税に寄生せずに一般庶民の小銭を集めて銀行業務ー私企業創立を推進した
渋沢栄一の成果は、「大正民権デモクラシー」となって実を結びます。
 
                  

 さて、水戸天狗党は源蔵火事の栃木町を避けて金崎宿から会沢峠を越えて葛生町へ抜けますが、
その後彼らを悩ます困難な「峠越え」の中でこの峠だけが愉快な走破でありました。
この「会沢峠」とは水戸斉昭ブレーンだった鎮派開国派の会沢正志斎を踏み越える事を意味したわけですから
            ・・・行軍太鼓の響きも高らかに!!

 会沢正志斎は文政7年(1824年)5月に水戸藩大津浜に上陸した英国人12人(大津浜事件)への尋問から
翌年『新論』を著わす事で後期水戸学の基を創りだしました。すると水戸城下には吉田松陰並びに真木和泉守、
西郷隆盛、など尊攘志士が修学に集まり、「水府の風」が全国の維新サムライ達に吹き荒び・・維新騒動へと至ります。

 座長が注目するのは、その後に開国論へと転向した会沢正志斎サムライの勇断であります。もし、「風」に流されない
独尊精神のこの「気風」が持続したならば、東条軍事内閣に追従する事も無かったのである。


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天狗の輪行その3・・・「年の瀬」でなく「時代の峠」を歩んだ水戸天狗党

2011年01月01日 | 天狗の輪行
 さてさて、1992年から続く不景気な「年の瀬」を無事に過ごされた皆様に、オメデトウ申し上げます。
しかしながら、セイゼイ人が渡れるほどの浅い「瀬」を渡る事に騒ぎ続け、遂には「失われた20年間」という
平成無策の歴史を創りだしてしまった鳩ポッポ団塊世代を座長は嫌悪するのです。

鳩ポッポ団塊世代達は、次世代を担う若者達に
     (A)豊かな団塊老人達が大量貯金する結果で資金流れが細くなった川の瀬で・・
     (B)ユトリ教育の結果で新技術や伝統の流れがチョロチョロ流れる川の瀬で・・・
     (C)子供減少の結果で日本固有DNAが途絶える川の瀬で・・・
     (D)わずかに残った若者用水流も福祉国債で吸い上げられた川の瀬で・・
小石、大石を積み上げる労苦を強いるのであります。(これを国債地獄コクサイの河原の責め苦という)。

 今回は雄大な利根川を渡って深谷市「渋沢栄一記念館」に至った時、維新明治期にサムライ達が行動した
時代の峠」越えを実感した訳です。そこで、せめて団塊世代の前の世代(戦中派)の方の苦労に報いるべく
「今月の謡uta」を贈ることと致しました。

               

H23/01/01  Utatteru#10   別サイト OZUの声(←クリック)から

      窓際の人形     元歌:青い目の人形  
                     作詞:本居 長世  作曲;本居 長世


  算盤(ソロバン)片手のおじさんは 昭和を支えた戦中派 
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    お客の顔見て やっとくれ




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