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 桐生スバル☆☆☆座   

映画好きの座長がWEB劇場・桐生スバル座を始めましたが
東日本震災で故郷FUKUSHIMAが悲惨な状況で帰れないネ~

天狗の輪行:非正規ヤクザ=半かぶち・本座村為五郎の芝居を変えるのか?座長

2014年10月21日 | 天狗の輪行
 さてさて、今日の天狗輪行は静岡県の清水港である。
しかしながら(原発被災地・富岡町、避難場所・福島市、二本松市)の3日目となれば、12kgの折り畳み自転車が老体に喰い込んで苦しくて・・・当初に予定してた「都鳥吉兵衛一家と助っ人・本座村為五郎が殺された江尻宿探訪」は止めて、清水港だけノンビリ行こう・・と決めた。

 ナゼ3日連続強行して?と思われるだろうが、その理由は若い座員が譲ってくれた「青春18切符・9月10日期限」の為である。
 当初は乗り気では無かったが、その夜5日にNHKテレビで常磐線竜田駅まで常磐線開通のドキュメンタリー放映があり、「座長は、原発被災県民として汚染地を実際に見てきた!」とブログ豪語すれば御喝采頂けるとのゲス根性が湧きあがって・・・出かける気が出た。

 思い返せば、3年前には同じゲス根性で管直人元首相は震災翌日に現場視察を強硬し「俺は爆発現場を見てるんだ!」と霞が関官僚達を怒鳴り付けたのだろうし、20年前の阪神大地震時の村山富市首相は早朝のテレビで地震災害の実況を見てるのに「官僚から正式な連絡が無いから!」と午後までノンビリと何の対策もしなかったのだ。 座長は30年内に起こる東京震災で時の日本首相がどんな対応するか楽しみである。
   
 まず清水次郎長の生誕の家(写真19)を訪ねると、こんな小さな家では乱暴者の次郎長を持て余す家庭事情だろうと理解できたし、裏手の巴川対岸にある船宿・末廣(次郎長晩年の住まい・日本初の英語塾・写真20)では名産桜エビ・シラス料理を出したのだろうと推察した。
 しかしながら、現在は清水港といえども沿岸漁業の衰退が噂されるし、それは同時に座長田舎の山間農業の没落を連想させるのだ。
         
 そこでノーベル平和賞を貰ったグラミン銀行の途上国マイクロファイナンスを謡った替え歌童謡を紹介します。

H26/10/21 Utatteru #86  
 山村母チャン」ーyoutubeで公開  元歌「一寸法師」 
      作曲・田村虎蔵 作詞:巌谷小波 
 
お金が足りない 山村母チャン
 ・・・・・・・
 私も御輿を 担がせて

 田村虎蔵氏の作曲した童謡を老謡替え歌にしてしまった座長は、広沢虎蔵の浪曲も「奴は都鳥!」で芝居化しているのだが、その中で反響も評判も良いのは(半かぶちヤクザ・本座村為五郎)であった。
 そこで、芝居筋書きで(小松七五朗の女房・お民の嫉妬狂い)を軸に展開するよりも、どこの一家にも属さぬ非正規ヤクザ・本座村為五郎の生き様を描いた方が面白いかもしれない。

天狗の輪行:二本松城跡に立って「燕雀安くんぞの志・・」を再確認する座長

2014年10月15日 | 天狗の輪行
 さてさて、座長は折り畳み自転車を走らせて福島市内へ・・・そこで東京の霞が関官僚が施策した「原発引き揚げ者用仮設住宅」の群を目にするのだが、震災後3年ともなればスラム化しつつある状態だった。
 加えて、近くには巨大な郊外スーパー・イオンが隣接する立地でもあるので、震災所帯へ支給される多額の生活補助金が県外へと流出イオン化されて、地元商店街には何の利益にならずと推察され、それは福島原発の冷却水注入作業の如くに長々と続くだろうとも・・想像されるのだ。
 
 この避難状況は、福島県の民謡(新相馬節)に既に謡われている・・・と感じる座長。
 原発事故で被災した相馬市は鎌倉時代から続く相馬中村藩の支配地なのだが、その歴史伝統の長さが歌い出しの(ハア~ア~ア~ア~)という長い唄声で表わされる。
 ところが、次の歌詞(遥か彼方は相馬の空かヨ)で突然の震災避難で故郷遠くとなる想いが重なり、最後のお囃子の(ナンダコラヨト チョイチョイ)とは硬直した役人仕事に呆れた様を原発引き揚げ者が謡っているのだ。
        
 気が滅入ってきた座長は、福島市から下って二本松市へ。
駅北口から坂道を登り下れば・・・二本松城跡、更に背後の山を登れば四方を隈なく見渡せる山頂に至る。(写真18)
 そして斯様な高い所から一般庶民の住む市街地を見たのが刺激となったのか・・・座長は、高校時代に暗記させられた漢文「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんヤ」を思い出す。

 その志をもって座長の芝居「OZAWA天狗党始末」の筋書きでは、二本松城下を東京へと震災怒りの行軍をする岩手の政治家・小沢一郎を描きたかったのだが、御当人が「放射能怖い!怖い!」と地元へ帰らずの不逞ザマな醜態、それに呆れた夫人との離婚騒ぎとなってしまって・・・遂に未完のままである。
 更にこの城跡北方に位置する会津地方出身の政治家・渡部恒三をしてオジサン宰相・KAN直を暗殺せんとする芝居「真夏の桜田門」も未完のまま・・・斯様な座長の不甲斐ない「燕雀ぶり」が露呈されてしまった。

 2日間も故郷フクシマに居ると、地元言葉の童謡替え歌を思い出したので書きます。

H26/10/15 Utatteru #85  
 でんでん・デバイド」=youtube 元歌「毬と殿様」作曲・中山晋平 作詞:西條八十 

でんでん・デバイド 何ダッペ~
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 知らんぷり~ 知らんぷり~ 


天狗の輪行:福島市内で見た反原発リレーは、水戸天狗党の行列ダナ~・・と座長

2014年10月02日 | 天狗の輪行
 さてさて、東北線下りの鈍行列車に乗って福島駅に着いたのは朝10時・・・その駅頭には我が郷土の作曲家・古関裕而の銅像があり、90年前の関東大震災の時には「大地の反逆」なるオーケストラ曲を創っている。
 座長も負けじと童謡替え歌を創ろうと頭をヒネっていたら、(平日の午前中なのに)スピーカーを大音響させての「反原発のリレー運動」(写真17)に出くわした。
         
 こんな事を正義面して出来るのは(仕事をしないで組合活動する専従ヤクニン達)だけだろうと座長は批判の眼差し・・・そこで昔創った「お手盛りジャーン」の民謡替え歌が脳裏に浮かんできた。

H26/10/01 Utatteru #84  
 「お手盛りジャーン」 元歌:熊本民謡 

お手盛りジャーン、あんたこの頃
 手取りが増えたジャないかいな
・・・・・・・・・・・・・・・・

 原発なくせ!とイガイガドン


 ココ福島市は原発事故当時には家屋内引き篭り令が出た位の高汚染地域なので、その恐怖感を煽る反原発運動は効果的と思える・・・座長はそれを幕末サムライが恐怖した黒船来航、その反動としての尊王攘夷運動=日本列島引き篭り運動を当てはめるノダ。
 即ち、座長の眼前で列を為す反原発リレー運動は、水戸天狗党が為した京都への攘夷請願行進如きの(攘夷とは反原発、尊王とは自然エネルギー回帰)なのである。

 もしも?日本国民が彼らの運動に従うとなれば、エネルギー自給率ゼロの日本では江戸鎖国時代時代の様に国内人口3000万人限定の自給生活を強いられ→→その国勢縮小の見せしめに、仕事をしないで組合運動する専従ヤクニン達を天狗党の最後同様に廃炉・首切りせねばならぬだろう。

 現実の歴史においては、福島原発を70Km南下した太平洋沿岸の水戸領大津村に異国船が現れた時(1824年)に立ち会った会沢正志斎。
 「後期水戸学」に属する会沢正志斎は、著書「新論」においては欧米諸国同様の国民国家設立の呼びかけ、その漢文読み下し書では「雄飛論」と改題されて当時の欧米列強イデオロギーの導入を訴え、幕末・明治維新へと続く国家思想としてサムライ達に絶対的な行動指針を与えたのである。(これらはNet聞き書きです・・・座長は漢文を読めない!)。

 そもそも、水戸市は座長の生まれ育ちの阿武隈・南郷地域から南下する事70Kmでもあるし、その地の大学に在学中においては水戸学を知らずに引き篭もっていた事でもあるし、座長の舞台名(おず安)が会沢正志斎の本名(会沢安)に通じる事でもあるし、これらを反省して書き加えた。


天狗の輪行:車窓越しに勿来海岸を見て映画「8月の濡れた砂」を思い出す老座長

2014年09月26日 | 天狗の輪行
 さてさて、福島原発隣接地区・楢原町町営の無料温泉(沸かし湯で鉄褐色、汚染除去作業中は無料ダッタ!!)に浸って・・・半世紀前の高校3年生だった頃に茨城県境の勿来海岸で友人達と遊んだ座長を振り返る。

 磯原駅を童謡メロデ~に送られて2駅北上すると勿来駅・・・古代においては蝦夷エミシ人の土地ゆえ勿来の関を設けて人の出入りを禁じた所である。「来るな!」と言われれば行きたくなるのが若かった頃の座長ら級友達で、この勿来海水浴場で楽しい1日を過ごした。
 その頃の座長は映画と写真に夢中であったので、カメラを覗くと浮かび上がるフレーム映像だけが重要・・・それ故に、その時に撮影した(写真16)には座長の姿は写っていない。  
     

 それに加えて引き籠もり気味でもあったので、座長アルバムを見ると「主人公として写真の中央に立つ」行事写真なぞが無い期間がズ~~と続いた。 (そんな座長が50歳で社畜サラリーマンを辞めてWEB芝居興行の主人公となるのだから可笑しなものだ。)

 この若者写真を見ると、これから何かを為す様な強力な活力と可能性を感じる!。
実際1960年代は高度成長期であり!東京オリンピックがあり!ベトナム戦争が始まり!ビートルズに熱中する!という社会気分高揚の時代で、更には隣国中国の文化大革命を真似て団塊世代が日本に大きな変革を与える筈?の時代だった。
 されど!サレド?半世紀経ってみれば、学費値下げと新教育体制要求でゲバ棒闘争した団塊世代は保守化・沈潜化し・・・かってのゲバ棒教育現場は、貧困若者は塾に通わねばバカになるユトリ教育となり、生徒同士がイジメする学校体質(2012年07月15日 大学紛争を経験した大津市沢村教育長65歳のフヌケざま←クリック)となってしまった。
 
 それでも座長は毎月田舎の実家に電話すると「団塊世代は人数が多いのだから、誰か有名になった人はいるか?」と聞かずにはいられない。
その動機は「我ら世代は会社の社畜と化して何も社会を変えずに過し、定年後はマイホームでウロウロするだけの巨大な消費者集団だったとは・・・思いたくない」の気持ちからなのだが、電話の返事は「何もネ~!何もネ~!」なのだ。

H26/09/25 Utatteru #83  
 「邪魔ジャマ更紗」 元歌「スカンボの咲く頃」
    作曲・山田耕作 作詞:北原白秋 

ウチの旦那は 邪魔ジャマ更紗 
 ・・・・・・・・・・・・・
 独立しなよと ドレミファソ

               
 座長はこの勿来海岸で遊びんでから10年後位に日活映画「8月の濡れた砂」を見たのだが、「ア~~もしかしてコノ映画の主人公みたいに為れたなら!」と思ったものだ。
 しかし「湘南海岸と福島の浜辺じゃ、ゼンゼン比較にならネ~ベ!」の厭戦気分が座長を社畜生活へと再び追い込んだ。
(日本の伝統的な映画業界もこの映画を最後にして瓦解してしまう)。

 そうだ!明日は福島中通りの福島市、二本松市を自転車探訪して若返ろう・・・と、湯船を飛び出した座長。

天狗の輪行:磯原駅ホームに流れる野口雨情童謡に触発されて「原発シャボン玉」替え歌

2014年09月25日 | 天狗の輪行
 さてさて、栃木・茨城・福島の3県に跨る八溝山を源流とする久慈川は、座長母校・棚倉高校(現在は統合されて廃校となった)の側を流れ下って太平洋へと至るのだが、その流れ中途の茨城県大宮町に88,8テラベクレルという高放射線育種場(写真12)が設立されたのは1960年。
         
 更に62年には久慈川河口近くの東海村で国産原子炉の臨界実験も成功したのだから見学に行こうと学友から誘われたのだが・・・引き籠もり気味の座長は遠慮した。
 (この久慈川と並行する阿武隈山系の浜通りに福島原発1号機が稼動したのは71年3月であるから、原子力と関連深い河川である。)
 
 それから50年経って・・・福島原発に隣接する富岡町で2μシーベルトの放射線を浴びれば少しはボケの防止になるだろうと、輪行自転車にて町内探訪する座長ではあったが、国道6号線検問所で神奈川県警の長い職務質問を経験して気分を害し・・・早々と帰る事にした。
         
 その県警ヤクニンは1ヶ月交代だが、常磐線竜田駅(写真13)の駅員の交代時期は不明だそうで昔の動労・鉄労の過激労働組合の面影は無い。
 その駅員さんから昨年10月から600円の入浴料がタダになったという「天神原遺跡公園」内の豪華温泉施設(写真14)を紹介された。
          
利用者は原発跡処理労働者だから、費用は東京電力持ちなのだろう。
 
 湯船に浸かりながら・・・北上途中の常磐線磯原駅のホームに流れた野口雨情作詞「7つの子」の童謡を思い出してた。 
 この童謡替え歌はイジメを題材としてたのだが、新たに福島県民イジメの原発童謡替え歌として、野口雨情作詞「シャボン玉」を考えた。

H26/09/25 Utatteru #82  
 「原発シャボン玉」 元歌「シャボン玉」                       作曲・中山晋平 作詞:野口雨情 

原発玉飛んだ 4ツも飛んだ
 ・・・・・・・・・・・・・・
風カ~ゼ吹いて 全てを流せ

        
 常磐線下り仙台行きの列車の姿を映す事の無い竜田駅ホームのテレビ(写真15)

天狗の輪行:税金を埋め流す有り様の除洗作業。 田中角栄ならど~スル!ど~スル!

2014年09月20日 | 天狗の輪行
 さてさて、群馬県の富岡製紙工場が世界遺産になったのは今年6月、福島県の「富岡・生・死・場」が避難指示解除準備区域となったのは今年5月・・・座長は輪行自転車にて電車北上し、その富岡駅(写真6)に到着する。
      
 駅前には被災者慰霊碑があって視察観光バスも賑やかな「原発遺産の町」の雰囲気だが、隣町楢葉町の10倍・2μシーベルトとあれば乗客達はサッサと廃墟の街並みを帰り行くのだ。 
      
 しかし自宅を改修してコノ地で生きようとしてる人達(写真7)もいるし、富岡町北部へ行けば座長が立入り禁止となって追い返された境界(写真8)があり、住民達は将来をこの町で(生か?死か?)と迷う状況となっている。
      
 この自転車探訪でやたら目につくのが大掛かりな除洗作業(写真9、10)で、
      
      
これらの事業は、福島住民の帰郷願望を選挙投票率に換算しての税金バラマキ作業でもあるのだが、残念ながら隣接する阿武隈山系の山襞・ヒダからの放射能は(30年経って半減するものの)限り無く流れ込むのが現実(写真11)。 
  木戸川と汚染黒袋群、山系
 多くの人が判っているのに「住民の帰郷を!」の建前タテマエ先行の日本行政、その陰では住民達のコミュニテイは3年半経って壊れツツあるのだ。

 新潟県出身の田中角栄首相ならば「県境の石打・湯沢スキー場の空あきマンションを借り上げて、住民まとめてリゾートマンション暮らしだ!」と議員提案するだろうし、「日本全国に散在する耕作放棄田畑の所有権と使用権を分離させて再活用出来る農村改造計画を実現させれば、福島県の原発引き揚げ農民達の働く場が確保出来るゾ!」と訴えるだろう。

天狗の輪行:団塊オッサンの座長が「原発引揚げ者の楢葉町」を自転車探訪する!

2014年09月18日 | 天狗の輪行
 さてさて、還暦を遥に超えた桐生スバル座座長が敢えて強行するのが「折り畳み自転車での輪行探訪」である。
 前回は北関東を西上して極寒の北陸で果てた水戸天狗党の道筋(←クリック)を辿ったのだが、今回は生まれ故郷・福島南郷の山向う(阿武隈山系の浜通り側)で原発被災しちゃった楢葉町・富岡町での「懺悔?探訪」である。
   
 (写真1)折り畳み式輪行自転車のハンドルを懺悔のコスモスの花で飾って国道6号線を行けば、行き交う車は事故後処理の車ばかり。
 
 ジロジロと運転手から珍しがられた理由は、今年5月から避難指示解除準備区域となったとはいえ・・人影マバラの原発から20km圏内を自転車走行するアホな人は皆無だからか?!
 放置された田んぼにはコスモスが群生していた。
      
 この座長ブログで「原発引揚げ者」と書く理由は、3年半前に原発放射能が襲来するからと緊急避難した地元県民の姿と、約70年前にソ連軍が襲撃するからと満州国から脱出した開拓民の姿とが・・・重複するからである。
 
 座長一族で唯一の長・オサである南郷・釜淵の叔母は子供連れて満州国を脱出してきたのだが、その苦労は放射能ホットスポットの如く突然現れるマンジン(満州人の事、実際は清朝末期に毎年100万人も流入した漢民族)の恐怖!!原発仮宿泊施設如き日本人収容所では病気と闘い、更に本土に戻ればGHQ管理下の新聞が「満州侵略者たち」と非難する戦後の有様は・・・福島県人を「原発風評の標的」とする現代と同じである。
 (上記の本によれば、満州は漢人・モンゴル人の立入りが出来ない「封禁の地」であり、日本が溥儀皇帝を迎えて「王制復古」させた地域ゆえに、五族協和の満州合衆国という合理性があった。)
   
 (写真2)だけを見ればノドカな農家直売の風景、されどコノ地は0,2μSV地域なれば寝泊りして農作業も出来ず無人の屋敷内は略奪されて・・・と自転車を走らせると、太平洋に面した高台の遺跡公園に至る。
            
 その案内碑(写真3)には東日本最大の遺跡と記銘されているのだが、ア~ア!もしも吉田所長をはじめとする原発現場職員の奮闘が無ければ、平成時代のエネルギー遺跡となる広大な原発荒園が誕生してたのだ。
 その原発遺跡荒園には「無責任な原発所員達が逃亡して汚染被害が拡大した」との掲示板が(朝日新聞の捏造記事)を根拠に設置されるのだろうが、同じ様な状況が満州国引揚げ時にもあった。
 それは「終戦時に満州関東軍は日本人入植者を棄てて勝手に逃げ出した」との風評記事なのだが、WEBウイキペデアによれば(想定内であった)ソ連軍の対日参戦は8月9日~9月5日まで続き、その約1ヶ月間を関東軍兵士がゲリラ遊撃戦で戦い抜いたので・・・多くの日本人が「満州引揚げ者」の姿で帰還出来た。
       
 楢葉町役場まで来ると「エネルギー福祉都市」の看板があり、満州国同様に「王道楽土」を目指していたと思われ・・・涙!涙!(写真4)。
        
そして、役場前の解体間近の豪邸(写真5)

「ふれあいと対話」の下仁田町では水戸天狗党は名物ネギ蒟蒻以下だった!?

2013年12月31日 | 天狗の輪行
 実は、座長は巣鴨の出稼ぎ先から直接桐生スバル座へ戻ったわけではない・・・・幕末に水戸天狗党が高崎藩兵と戦った群馬県下仁田町へ寄り道しての帰路だったのだ。
 3年前の今頃、座長は寒風を引き裂いて輪行用折り畳み自転車で北関東平野の天狗党西上横断路を辿っていた←クリック)のだが、関東平野の西側・熊谷に至りて遙か遠方に連なる信州の雪山を見て・・・・タメ息と共に、西上進軍を中断したままだった。
       
(A)偶然にも!雇い主の御贔屓さんが高崎まで商用で行くとの話を聞いた座長は、「新しい芝居のネタとして天狗党の下仁田戦争を考えてまして・・・」という同行売り込みを行い、所謂・イワユル江戸五街道の一つである中山道を北上する機会を得たのである。
 
 初めて走る中山道!。車窓から見る街道沿いの景色で驚くのは、熊谷市に至るまでビッシリと商家・民家が連なっている事で、座長が田舎・福島へ帰るときに走る6号線・水戸脇往還道の田園風景の連なりとは異なる事だ・・・それは大動脈血管にコビリ付くコレステロール如き(失礼!)状態で、人間の欲望・生活感が流れ満ち溢れた状態なのだ。
 江戸時代に幕府役人の天下り土地が数多くあった関八州の土地柄ゆえ、ヤクザが暗躍出来る活力の為か・・・それと対照的に厳格な水戸藩統治政治が及んだ6号線沿いは、好い加減が全く無い純農村風景なのだ。

(B)コビリ付くコレステロールと書いたが、それは江戸女郎達の媚びコビリの道でもある。
 そもそも街道起点に近い板橋宿自体が幕府から特別認可された売春四宿(品川、千住、新宿、板橋)の一つで150人もの女郎を抱えていたのだから、北上する街道沿いに(浦和・お女郎地蔵、上尾・遊女お玉の墓、桶川・女郎買い地蔵)と悲しき貧農娘の脂粉アブラで満ちるのも当然の成り行きだ。
 (この街道と交差する日光例幣使脇街道で最大の宿場町「木崎宿」には「色地蔵」という地蔵様が260人以上の飯盛女達の慰め場があった。←クリック)

(C)熊谷市に至って遠くに北方の越後山系を目にした時から、座長は子供の頃から好きだった美空ひばりの謡う「越後獅子」を口ぶさむ。
 この街道を行き来した人達の中に「越後の角兵衛獅子」芸人一座があったのだろうが、作詞家西条八十は「♪逆立ちすれば 山が見えます・・」とか、「♪撥バチで打たれて、空を見上げ・・」とかをと謡い込み、作曲家万城目正は哀愁を込めてメロデ~化したのだ。
       
(D)中山道を離れて下仁田町へ走る・・・これが上州姫街道。
峡谷のような町内に入ると・・・ネギとコンニャクの看板と地下資源ジオパーク観光案内ばかりで、水戸天狗党の戦跡案内が乏しいのだ。役場へ行ってパンフレットを頂いて下仁田戦争の概要が判ったのだが、戦争嫌いの風潮は役場に掲げられたノボリ「ふれあいと対話ー上記写真」で了解出来た。
 120年前の歴史記憶はネギの如く細くなり、時代精神はコンニャクの様に柔ヤワになってしまっていたのだ。

輪行自転車で水戸天狗党を追う・・総括編(北関東)

2011年01月19日 | 天狗の輪行
 さてさて、座長が水戸天狗党の西上進軍路を自転車で走破するとブログしたのが12月17日、
大晦日に宿場毎のテーマを七つ掲げてWEB始めたら・・8つのテーマとなりました。

(総括A)天狗党の路は忘却の道!  
     作家山田風太郎が『魔群の通過』にて毛沢東「長征」に喩えて著した程の強行進軍の2ヶ月!!
     20年後、更なる辛苦の進軍が「インパール作戦」にて3ヶ月間繰り返されましたが、
     7年後に「忘却とは忘れ去ることなり」というドラマ大流行で忘れ始められ・・
     今回の輪行ではいずれの宿場からも「知らない」と言われた心地でした。
 
 (総括B)水戸天狗党の朱子学書籍的な平面思想!
     八溝山の凸凹道でもシワ撚らず1/4・・八木節太鼓でも浮かれず1/15・・1000余名の進軍を
     支えたのは屈曲なき攘夷思想!!
     「詮議ー相互質問」という現実教育を設けていた薩摩藩は400日後には開国へと政策転向し、
     明治政権に逸材を輩出しました。しかし、20年後に牟田口軍司令官は士官教科書通りの
     「インパール作戦」を命令し、150年後の現在では民主党政権がマッカーサー憲法通りの
     政策を施行するのです。
           
  
 (総括C)ブログ8回内で座長は「鳩ポッポ」と6回!も咆哮!
     偶然にも、安全な東武電車内を1往復して「友愛外交」でエサをネだるハトポッポを
     写真しました。改めて、座長脳裏で渦巻くキーワード「鳩ポッポ」を実感しました。
      註)エサと住まいが保証される飼育鳩は「Pigeon」、山野で猛鳥に追われる
        野鳩は「Dove」。平成日本人が好きなハト派政治家を欧米では
        (a dove politician)と言い・・(飼われ従属する)Pigeonを使用しない。
 

  H23/01/19  Utatteru#14  別サイト OZUの声(←クリック)から

 仲良し参謀大本営     元歌; 仲良しこよし 作詞:三苫やすし  作曲:河村光陽

 仲良し参謀大本営、玉砕頭脳は辻参謀
 ・・・・・・・・・・・
 人ごとみたいに意見して 読む人ー自治労・会社員
 

天狗の輪行その10・・太田宿。哀れ瞽女唄→望郷遊女の木崎節→八木節

2011年01月15日 | 天狗の輪行
 さてさて、座長は梁田宿から太田宿へ至る例幣使街道の四つ角で自転車から転倒してしまった。
五分後に大型オートバイの老人?もブザマ転倒したので、この東武太田駅への左折角路には天狗党の因縁が
あるのでは想像してしまう。

        

 即ち、ココ角路に至る手前に「八木節←クリック」で有名な初代堀込源太の菩提寺があり、座長の脳裏には
哀れ瞽女唄の「新保広大寺節」→哀れ遊女の望郷「木崎節」→「八木節」へと辿った民衆太鼓のリズム
満ち溢れましたが、水戸天狗党の面々もサムライ進軍太鼓と異なる軽妙なリズムに・・戸惑って足下フラつき・・
底辺民衆の力強さに気づいて・・「この西上進軍はモシカしたら?・・」と躊躇させた・・のではなかろうか??
と想像しました。
   (座長は、時代の世相を遠慮なく謡い込んだ「八木節」替え歌創作に熱中し注意散漫・・転倒致しました。)

 さて「木崎宿の色地蔵」という命名が気になり、工業化した太田宿をソコソコにして西上、260人以上の飯盛女を抱える日光例幣使街道最大の宿場町「木崎宿」に至る。この様なギリギリ庶民生活の場は映画産業と上手に連携して時代観光地するのも一案・・・現実はMyHomeタウンでしたが。
        新田郷     赤地蔵       
反対にサムライ徳川家発祥の地として整備され、座長の膝転倒キズと歴史心を安息せしめたのが隣町世良田の歴史公園 「新田郷」で、利根川を渡ると深谷市「渋沢栄一記念館」に至ります。



H23/01/15  Utatteru#13     別サイト OZUの声(←クリック)から

    鳩ポッポ節       元歌: 八木節   群馬県民謡
 
ア~~ア~~ア~~
 チョイト出ました鳩ポッポ野郎が
 ・・・・・・・・・・・・・・・
 受け取りまするは団塊世代のジジとババ
 

 註)この歌詞の最後が未完成状態で元歌(MP3←クリック)と合いません。
    以前はホトばしる程に替え歌元気でしたが、座長も老化してチョロチョロ放尿作詞です。



天狗の輪行その9・・小林宿にて幕末三大行軍(天狗・相楽・榎本)を想う

2011年01月13日 | 天狗の輪行
 さてさて、座長は東武鉄道を北上して再び今市に至り、二宮尊徳神社を再び参拝して、
ソ~ダ!!替え歌「二親金治郎」を今月の謡uta(←クリック)としてWEBしようと決めた(後記)。

             

 さて、元治元年11月6日、日光鬼怒川を渡河した水戸天狗党は今市市小林宿に宿泊する。翌日は日光廟をはるか
遠くから参拝して鹿沼宿へと旅立つのであるが、如何なる気持ちでこの山並み(写真)を拝したしたのであろうか・・・と
冷たい風に身をさらして想像する。
 天子様への誓願で満ち満ちた状態であった彼らの胸中に、疑うことなく水戸家出身の鳩ポッポ慶喜(当時、天子の
禁裏御守衛総督)への甘え心を浸透させてしまった事が・・・・この行軍をより悲劇的にしてしまったようだ。

 座長が悲劇的とする幕末行軍は下記の三つ! である。
  (A)水戸天狗党西上の路:幕府のハラワタを横断切腹したかの如き自滅行軍
  (B)相楽総三ら赤報隊の中仙路:陰湿公家が策した欺瞞マニュフェストに翻弄され、
  (C)榎本武揚ら幕府海軍の蝦夷海路:第三の政権可能性を慶喜がつぶす。

 この時代に活動的であったのは、制約が少ない脱藩浪士と経済的に恵まれた郷士であるが、
     藩内抗争に憑かれた天狗党は脱藩扱いになっても徳川慶喜に望みを託して破滅し、
     江戸有数の富豪郷士であった小島四郎左衛門将満が起こした赤報隊争乱は結局薩摩藩・公家の掌中の
       将棋の駒でしかなかった。(実家が郷士であった映画監督はクロサワ・・・など多い!)
     もし、オランダ留学の開明サムライの榎本武揚が、鳩ポッポ慶喜の大阪城裏切り宣言を信ぜずに新鋭の
        幕府海軍を指揮し、LOOPY慶喜の(水戸~銚子~清水港)のワガママ移送に関与せずに
        新政府設立を早急に着手していたら・・・薩長の盗幕運動は別方向へと展開したのである。


H23/01/13  Utatteru#12    別サイト OZUの声(←クリック)から


   二親金次郎      元歌:二宮 金治郎   
                尋常小学唱歌  明治44年6月


  カラダを清めて 歯磨きさせて 
  ・・・・・・・・・・・・
    手本は二親金治郎

天狗の輪行その8・・梁田宿。ヤダ!ヤンナッタと徳川旗モット八万騎。

2011年01月08日 | 天狗の輪行
 さてさて、例幣使街道七番目の梁田宿は幕末に梁田戦争(写真)が起きた所です。

            

慶応4年3月陸軍総裁・勝海舟の命で編成された徳川旗本歩兵第六連隊500名+脱走兵300名が女郎部屋で
エロ寝している時に、熊谷から夜を徹して進軍してきた先鋒総督軍200名余りに撃破されたという・・・
250年江戸平穏の間に武芸貧弱化して戦闘に耐えられない旗モット8万騎でありました。
 
 加えて、彼らの生活は「サンピン藩士・・俸禄3両+1.5人コメ代で年収八〇万円!?」の貧困を極めており、
学習塾にも行けず文字読み書きも不十分な状態で現代のユトリ子貧困層世代と同じ。そして前者旗モット達
は戦後鳩ポッポ団塊達の精神構造と類似します。

 今正月TV番組はアホ芸人とスポ魂人とホウ食人、でウンザリする中、ケイ財人財政破綻が五年後に起こり
徳川幕府如く崩壊すると明言しました。これに天候不順・鎌倉沖大地震が加われば、
郷士とヤクザが活躍した幕末=ヤクニンとマフィア元気な平成、に成ると・・「正月恒例予測」致します。

 さて、あの膨大な諸藩・サムライの借金、維新政府の新財源はどうしたのでしょうか?
座長は経済学苦手でありますが、列挙すれば下記の如し。
  (A)江戸時代は課税免責だった商人が損をした。(=国債購入の現銀行が損をする!)
  (B)インフレとなって全国民が平等負担をした。(=白川日銀総裁のデフレ無策!!)
  (C)全国民が低賃金・高税負担をした。(=福祉策↓、消費税UP!)
       栃木・群馬の山沿いに「姥捨て福祉施設」が目立ちました。
  (D)諸藩、藩士を解散した。(高給議員・ヤクニンをリストラ!)
       座長郷里の矢祭町(←クリック) では議員日当制を初導入 
  (E)外国からカネを借りた。(第一WAR景気まで債権国だった!)  
  (F)隠し財源は無かった!!(国内の産業・鉱業を発掘した!渋沢栄一は偉い!)
  (G)アジア的科挙教育の導入。(ユトリ教育は辞める!) 
  (H)西欧的に海外収奪路線へ。(イヤなら全員震えて我慢する!) 
      不況の時、戦前の肉食若者は「戦争になれば景気が・・」と考えた。 
           その時代、公共事業ならぬ「国共事業」が世界潮流だった。
       平成4人組の「誤算」となるか?

天狗の輪行その7・・矢板大宮宿は「仙谷減点」を加えて80点減点。

2011年01月07日 | 天狗の輪行
 さてさて、東武無料定期券を利用して今市まで電車行、鬼怒川対岸の矢板大宮宿まで自転車行、
と難行実施しましたが・・・落胆の旅となりました。

                

 水戸天狗党通過の大宮宿にはナンの痕跡もなく、加えて、町内の大宮神社(写真)では「日清、日露戦争
従軍兵顕彰碑」2基(写真左側)の裏側に便所を隣接させる無神経ぶりに呆れて早々と帰宅した次第。
 その夜12/26、NHK第2放送「文化講演会ー関川夏央氏」にて
「1904年日露WARにおける外国人従軍記者の役割は裁判官如きであり、日々報道する戦時情勢は
世界に大きな影響と評価材料を与えた・」との論説を傾聴した結果、「仙谷ゲバ棒減点」を加えて
「80点減点の町」としました。

この関川氏の論拠を展開すれば、
  (A)有色日本人は、欧米基準の戦争展開が可能な事を白人記者の前戦招待で見せつけた。
    →仙谷ゲバ棒長官は尖閣映像を非公開として欧米基準の解決法を喪失させ、混迷を残した。
  (B)司馬遼太郎が酷評する乃木将軍の戦術に対して白人記者は異議を唱えなかった。
    →2年前のボーア戦争でも「英国軍を含めて、当時の世界の正規な軍隊では、歩兵が密集
    して横隊陣形を組んで攻撃前進するというのが普通のスタイルであった・・」。
       第1WARでも白兵戦が頻繁だったが、仙谷ゲバ棒長官は海保ビデオ員の捨て身の
       白兵行動を非難した。
  (C)その白兵戦闘スタイルが濃厚だった第2WARの極東裁判は「カンガルー裁判」であったが、
       その後のマスコミ操作で頑強に正当化された。
     →「カンガルー裁判kangaroo court」とはピヨンピヨンと都合良い事実の積み上げで
      黒人リンチを正当化した
      アメリカ流奴隷裁判。仙谷ゲバ棒長官は、自らを日露戦争講和大使の小村壽太郎だと
      都合良く弁解した。
  (D)慢心したアメリカは、ベトナム戦争では自国マスコミの「報道裁判」で自壊してしまった。
     →日マスコミは、民主党基盤の自治労支持・大企業お客様・CHINAブン屋協定、に
      拘束されて民主党への「報道裁判」が出来ず、仙谷ゲバ棒長官ニンマリ。
  (E)鳩ポッポ団塊世代が亡き後、若者達は「パンダ裁判」で苦しめられる。
     →「パンダ裁判」とは東アジア特有の白黒確定済の見せしめ裁判で世界の観客には大好評!!
      反論事実の蓄積が少ない日本の若者達は、その苛酷な量刑に目を白黒させるだけ。
      加えて、仙谷ゲバ棒長官は「賠償問題はマダ未解決と・・」発言。

尊徳翁曰く 人、生まれて学ばざれば生まれざると同じ

2011年01月06日 | 天狗の輪行
 さてさて、前日ブログで小太りサムライ達(田中正造・渋沢栄一)の話をしたので、輪行初日の今市駅
近くの二宮神社で購入した「尊徳遺訓」写真を載せて、小太り?庶民・二宮尊徳を記憶する。
    
 平成時代はヤサ男の時代で、個性が大事とユトリ教育にした日教組センセイ達の影響で、子供の脳が
外来植物セイタカアワダチ草が茂る不耕地状態となり、実行力も欠如してしまった。

          

H23/01/05  Utatteru#11  別サイト OZUの声(←クリック)から

      痴呆のホタル      元歌:ホタル   
                       作詞;井上 赳 作曲;下総かんいち

  セイタカアワダチソウ 田圃に茂る 
  ・・・・・・・・・・・・・・・・
  ・・・・・・・・・・ホ~ホ~ 痴呆の声がする

天狗の輪行その6・・天狗党田中源蔵を知らずとも、足尾鉱毒田中正造を知る。

2011年01月05日 | 天狗の輪行
 さてさて、昨年8月に死去したオランダ人アントン・ヘーシンクが東京オリンピック無差別級決勝戦で
日本代表の神永昭夫を袈裟固一本で下して金メダルを獲得した時には、日本中が驚きで沈黙したものの、
まもなく身長198cmの外人体格の為と納得したモノだった。
 
 ところが、もしオランダ西欧諸国がアジアを植民地としなかったならば、彼ら西欧人の体格は小柄な状態であろうと
いう話がある。  それほどにアジア地域からの経済搾取が彼ら生活環境を向上させ、民権主義などというサロン談義を
楽しむほどにユトリせしめた・・との話なのだ。
それは250年間自給自足鎖国体制の3000万日本人が小柄であった事からも十分納得できる。

              

 
 そこで、座長は佐野市葛生町を南下して田中正造生家を見学致しました結果、
        彼が身長155cmの小太りの男である事、
        深谷市の経済人渋沢栄一も小太りの男であった事、そして、
        座長初の就職先社長の木村迪夫氏も小太りでエネルギッシュな商業人であった事、
     などに想いが至るのであります。

 そんな小太り維新サムライ達の活躍がなければ、日本は植民地化されて小人国ガリバー物語ゴトキの
侮属状態が続き、昨今の維新ドラマで演じる長身醤油顔のサムライ男優なぞ想像も出来ない国柄となるのです。

 さて、田中正造が24歳の時 (元治元年1864年12月09日)。彼は葛生宿から梁田宿へと進軍する水戸天狗党の太鼓を聞き、そして目前に天皇誓願をする1000人の一人ヒトリを見たのです。
それから37年後、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に、田中正造は天狗行軍の太鼓の響きを胸に秘め
単独で直訴を行うのであります。

 水戸学の精神は 田中正造 渋沢栄一 に継承された?!