桐生スバル☆☆☆座   

映画好きの座長がWEB劇場・桐生スバル座を始めましたが
東日本震災で故郷FUKUSHIMAが悲惨な状況で帰れないネ~

毛沢東は次郎長生れ代りA:中国の母は東方の輝きを求めた

2012年04月13日 | 次郎長
 さてさて、先日まで次郎長の悪行芝居を連続ブログしていたので、お詫びとして・・熱心な次郎長ファンの為に「毛沢東に生れ代わった次郎長」というスケールの大きな話を提供しよう!
      似てる?
 ユン・チアン著の「マオ」をネタ本にしたこの話を舞台に載せるのは困難なので、幕間の座長口上の如きモノと思ってください。

(A)清水の次郎長は1893年6月12日に大往生したー74歳。
 「軒雄山義海居士」という博徒の戒名にしては上等なものを頂いて西方へと旅立ったのだが、生前の悪行が災いしたのか?米屋稼業をもう一度やらせたいという養父の遺志なのか・・中国中央に位置する湖南省付近で次郎長は迷ってしまった。
 (故白川静博士によれば)その湖南省は稲作・養蚕による村落作りの発生地なのだから米屋稼業だった次郎長に関連する土地だし、あるいは明治維新後に清水港を拠点に廻船業を振興した次郎長自身が、外国船が河川を航行する湖南省の進歩的で刺激的な雰囲気に興味を持った為かも知れない。

(B)ヤレヤレ・・と耳を澄ますと次郎長を呼ぶ女の声がする。
 それは湖南省シャオシャンチョン村に住む毛族男性・毛イーチャンに嫁いだ女が「今度生まれ出る赤子が日本人の生まれ変わりなら・・!」と願っている声だった。(中国の風習でその女には名前が無いのだが、実家文家の7番目の女児という意味の文7妹と呼ばれていた。)
 「なんでヤクザな日本人のオレを?」と疑問に思ったのだが、両足の骨を砕かれた不自由な纏足で寺に通って願をかける必死な仏教徒姿に同情して・・次郎長は生れ代る事にした。

(C)中国の男児の名前には、出世栄達を望む中国農民の強い願望と期待が込められている。
 母親・文7妹は生まれ出た赤子に、族譜名・毛に「輝気を与える」沢という字排、それに東方の日本を意味する「東」を加えて「東方から毛族に光輝きを与える児」という意味の毛沢東という名前にした。
  毛沢東=同年12月26日生まれ(022頁)。

(D)そういう経過で半年ぶりに娑婆に生まれ戻った次郎長・・その柔肌に感じる異国中国の風に驚いた。
「アレアレ、俺たち無法博徒が跋扈した幕末時代の雰囲気と似てるジャないか!」と赤子の次郎長は呟く。
 そうなのだ!!次郎長が生まれ育った徳川250年の末期の如くに、清国王朝250年の末期の中国は衰退混乱の状態であった。1840年のアヘン戦争で大英帝国に立ち向かった林則除という英雄を排除してしまった中国、1856年のアロー戦争で英仏露に完全屈服して半植民地化されてしまった中国、そんな中国の実務を長年担ってきたのが科挙試験で採用された宦官カンガン達であったのだが、その悪弊が露呈されてしまっていた。更には、毛沢東が生まれた翌年の1894年には島国日本との戦争に負けて、北方の属国朝鮮を手放さねばならなくなった。

(E)「そんな文官ヤロ~達に国政を任せたから・・清国がこのザマだ!」と中国の立場で呟くと同時に、次郎長が心配するのは明治維新政府がこの科挙制度を全面的に取り入れて国造りする姿だった。
 実際、この官僚制度の恩恵により、明治大正期の日本は有色人種で唯一の独立発展の道を歩む事は出来たものの・・その悪弊が出た昭和期には戦争による国家破滅を招き・・平成期に至っては軽薄隷属の日本が造られる事になる。
 「中国にはサムライは居ない様だから、ヤクザ稼業だった俺でも「中華の華」を咲かせる事が出来るかも知れない!」と紅顔の赤子は手足をバタバタさせて母親を喜ばせたが、後に革命紅軍の総大将となって7000万有余の人間を死地へ追いやる人物だと知ったなら、トラが昼寝をすると名付けられた実家への峠道・虎歌坪に放置してきたであろう。

次回は、毛沢東は次郎長生れ代りB:放校四回と「間接的強姦」
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