桐生スバル☆☆☆座   

映画好きの座長がWEB劇場・桐生スバル座を始めましたが
東日本震災で故郷FUKUSHIMAが悲惨な状況で帰れないネ~

老人施設という「善意と福祉の奈落=地獄」

2020年08月07日 | イジメ!いじめ!
 さてさて、我が「桐生スバル座」を御支援の皆ミナ様・・・5年間の休演にも拘らず、毎日50人以上のアクセス(御声援)を頂き、誠に有難うございます。
 座長が御当地での「桐生スバル座」開演10周年記念公演を目指して「東京での絶望的タコ部屋稼ぎ」を脱出したのが昨年3月・・・されど、演劇ネタ探しで過去の座長ブログを再読し始めたら、内容が全く理解が出来ない状態・・・そこで座長はグチ酒!ヤケ酒!!深酒!!!を為してしまった。
 挙句の果てには、ションベン(小便)しようとフラフラと舞台の奥へと引き籠る筈が・・・ナント!老朽化した「奈落」へ落ちてしまった。幸い、2日後に訪れた東京の友人二人に助けられて骨折治療の長期入院、リハビリの日々となりました。
 注1:当劇場の開園日は(2010年9月17日)。東日本311震災の半年前で、我が故郷「FUKUSHIMA」の原発被災は世界的ニュースになりました。
 注2:「奈落」とは仏教用語で「地獄」の事で、「」と卑下された江戸時代の演劇者は華やかな表舞台を支える裏方仕事場を慈悲のココロ無く、サゲスミ・蔑すんで・・・「奈落」と蔑称した。

 さて、休演期間の当初4年間は東京巣鴨の御贔屓様での出稼ぎ稼業だった。そこは社会福祉法人**老人施設という「善意と福祉の表舞台」の筈だったのだが、現実は「平成の奈落」の世界・・・そこで働く若者達は劣悪で無意味な労働の日々だった。
 更に「令和」の時代になると、若者達の労働環境はますます悪化する・・・その理由は「人権福祉は平和憲法に定められた権利」と過信する団塊老人たちが入所してワガママするからである。その環境は「人権、福祉は大事」と妄信した若者が「死に逝く老人」に仕える奴隷社会なのだ。

尾木ママ「絶対評価が無くなり、相対評価による良い子症候群が増加」に賛意の座長

2012年07月21日 | イジメ!いじめ!
 さてさて、団塊世代である大津市教育長65歳はいじめ自殺放任でブザマ状態となっているが、同じ団塊世代の教育評論家尾木直樹も65歳でTVで尾木ママ奇行で話題となっている。(前国税長官大武健一郎65歳は脱税隠匿・重婚サギ・年金不払い・消費税増額、等の実践者として話題になった。)
        65歳団塊の輩・ヤカラ
 大津市沢村教育長、 尾木直樹、 元国税庁長官・大武健一郎

 そんな尾木ママであるが、現在の教育問題として「絶対評価による厳しさが無くなり、相対評価による良い子症候群が増加」を指摘した事は評価すべきである。
 即ち、メダカが住むような小さな学校の中で、先生メダカの好評価を得ようとして生徒メダカが良い子ぶって、生徒みたいな先生メダカに媚びるのである。
 「若者は時代のカナリア」と言われるが、そんなメダカ卒業生がグローバル社会の厳しさに触れると(メモ不正確だが?2200社中65%の新入社員が)新型ウツ病を発症してしまうのは、独尊独歩の教育が衰退した為であろう。

 座長が中学生の頃は全国的な絶対評価の時代で、田舎ではあっても旺文社「中学時代」の応募テストに挑戦し続け、遂に全国ランクで万年筆を送呈される名誉を1回(恥!)だけ得たことがあるし、父親と同じ教職に就く時期にはガクエン闘争最盛期で「田舎の生徒から自己批判されてまで教壇に立ちたくない!」と・・・・別の職業へ転向したものだ。
 それから40年、大衆芝居小屋の興行主となった座長は、楽屋で独り、童謡替え歌「メダカ学校のイジメ歌」を謡う日々であります。




 H24/07/21 Utatteru #61  OZUの謡←クリック 
  「メダカ学校のイジメ歌」  元歌:「メダカの学校」 作曲:中田義直 作詞;茶木 滋
        YOUTUBE映像で聞けます←クリック
 メダカの学校はイジメ合い
   ・・・・・・・・・・・・・・・
  所業無常と悟ろうヨ

大学紛争を経験した大津市沢村教育長65歳のフヌケざま!

2012年07月15日 | イジメ!いじめ!
 さてさて、戦後の日本を占領したアメリカ軍GHQは(総務省と言論機関を除いて)全組織の改革撤廃を断行して日本の「民主化」を推進した・・とされ、その賛同推進の群れが「団塊世代」であった。
 破壊世代の彼らは「破壊する事が進歩的」だとして、最高学府である大学で「教育民主化」を叫び警察機動隊と投石ゲバ棒火炎瓶紛争を起こした位であるから、その後の教育界では民主化に全身全霊で尽力なされて・・とは為らずに、同じ教員仲間の権益確保の為に「マフィア化」してしまった。
      
      上写真はこのブログ
から←クリック
 40年経ってフヌケ状態となった年収1200万円の大津市教育委員会沢村教育長65歳を見れば、恥じ入るのは団塊世代の座長だけではあるまい。  かといって、ゲバ棒振り回す歳でもないので、童謡替え歌で許してもらおう。

 H24/07/15 Utatteru #58 
  「鎮魂イジメ謡」 元歌:「曼珠沙華」 作曲:山田耕筰 作詞:北原白秋
         YOUTUBE映像で謡が聞けます←クリック
  隆彦、江利子よ、なぜ泣くの
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ど~か死なずにいておくれ


          
 名前引用のイジメ事件(http://www.jca.apc.org/praca/takeda/ のページから)    
1980/9/16 大阪府高石市立高石中学校の中尾隆彦くん(中1・12)が、同級生ら6人からの暴行・恐喝を苦に、自宅近くの倉庫で首吊り自殺。
1985/1/21 茨城県水戸市の笠原中学校の村口江梨子さん(中2・13)が、「うそをついてごめんね」「もういじめないでね。好きなマンガの本を棺の中に入れて下さい」などと走り書きしたメモを残して、自宅脇の電柱で首吊り自殺。
1993/1/13 山形県新庄市立明倫中学校の体育館で、児玉有平(ゆうへい)くん(中1・13)が、用具室に立てて巻いてあったマットの中に逆さに突っ込まれた形で窒息死しているのが見つかった。
1989/12/15 福岡県福岡市東区の中学校の光安真由美さん(中3・14)が列車に飛び込み自殺。遺書には同級生数人の名前をあげて「学校で殴られたりいじめられた 体が痛い」「22日までに十万円を用意しろといわれた。おじいさんの財布から1万3千円を抜き取りました。ご免なさい」などと書かれていた。遺体からは、殴られた跡とみられる多数のあざが見つかった。
1986/2/1 東京都中野区立富士見中学校の鹿川裕史(ひろふみ)くん(中2・13)が、父親の実家に近い岩手県・JR盛岡駅構内のトイレで首吊り自殺。「このままじゃ生きジゴクになっちゃうよ」と書いた遺書があった。「葬式ごっこ」には4人の教師が署名していた。
1988/12/21 富山県富山市立奥田中学校の岩脇寛子さん(中1・13)が、いじめを苦に自宅ベランダから投身自殺。遺書に、同クラスの女子生徒6名の名前をあげて、「私はあなたたちを許さない」「もう、だれもいじめないで」などと記されていた。
1991/9/1 東京都町田市立つくし野中学校の前田晶子さん(中2・13)が、母親あてに電話で「明日、どうしてもつくし野中学へいかなきゃいけない?」と連絡した数10分後、自宅最寄り駅の線路に身を横たえて鉄道自殺。
1992/9/16 北海道恵庭市の小学校の大久保健二くん(小6・11)が、学校から帰宅後、外出し、自宅近くの雑木林の木の枝にロープをかけて首吊り自殺。「ぼくはみんなに、わるくちをいわれて、きらわれている。このはんとし、いじめられた。ちょっと、むこうにいってくる」などとノートの切れ端に遺書を残していた。

NHK花は咲く、花は、はなは、ハナワ・・連呼で座長故郷・塙町が!

2012年06月10日 | イジメ!いじめ!
 さてさて、二日前に座長故郷の塙町にある「小野田自然塾」をブログしたが、最近NHKテレビを見ると「花は、はなは、ハナワ・・塙??」と連呼する歌が流れてくるのだ。
 地方出身者が悩む事に生れ故郷が何処にあるか?の説明があるのだが、この放映歌に例えて「アノFUKUSHIMA原発の近くです」と言えばアフリカ人にも理解出来そうなのだが、サテ?喜んで良いものなのか・・・。
    
(A)ブランド地名なら容易だろうが、座長が若い頃は阿武隈山麓の片隅にある我が町を都会人に説明する事には難儀してきた。著名人も出ないし歴史的遺産もない土地なので近隣で名高い地名(例えば、白河、水戸)から辿って説明するか、何か事件発生に合わせて場所を推定させるのであるが、「吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人の生まれ地の隣隣り町で・・」と説明した時は、流石に後味が悪かった。
 そこで、改めてWikipediaにて1963年「吉展ちゃん誘拐殺人事件←クリック」を読んで見ると、色々と田舎心に響くモノが出てきた。

(B)桐生スバル座の隣町・前橋刑務所に入所していた犯人の本格的取り調べが始まったのは事件1年後の1964年・・・刑務所の外は東京オリンピックで大騒ぎだった。
 彼が供述する田舎・福島県石川町の様子は(座長が実際に生きた田舎生活そのままであって)、防寒用のわらボッチが初春三月でも頑張る寒さの地だし、田植え前の田んぼには生気が無いし、前年は米が不作だったのでイモ餅を作って遣り繰りする生活だし、皆子沢山の大家族(犯人実家は11人生れた)だったし、たくさん借金を頼めるような裕福な家は少なく、それで東京へ集団就職して若者が減った町には活気が無くなるし、十数年後には隣りの鮫川村(座長が三年間住んだ所)がNHKテレビで「過疎の村」として全国放映され・・そんな土地柄なのだ。

(C)今の子は田舎であっても「引き籠り」して御馳走パクパクの生活だが、その頃の若者は頑張ったものだ。犯人も身体不自由にも拘らず働いたのだが挫折したし、西隣り町の須賀川市の青年も頑張ったが挫折してしまったが、死ぬときは同じ様な事を言い残すのだ。
 犯人「ナスの漬物おいしゅうございました」享年38歳。
 青年「父上様、母上様、三日とろろ美味しうございました」享年27歳。


(D)この事件を主題に「かえしておくれ今すぐに 作曲:いずみたく」が多くの歌手で歌われたのだが、311震災後のNHK震災主題歌「花は咲く」もこの流れと思われ・・それではと、福島会津出身の歌手・春日八郎の替え歌を再掲載して本ブログ終了です。

 H24/02/17 Utatteru #53 OZUの謡←クリック
      「陸前高田の一本松」  元歌 「別れの一本杉」
        YOUTUBE映像で謡が聞けます←クリック
 泣けた 泣けた 一人ポッチで泣いていた
 ・・・・・・・・・・・・・・


007は殺シの番号! 111は孤立死の番号!

2012年04月11日 | イジメ!いじめ!
 さてさて、座長の若い頃はJボンド・シリーズの映画を楽しんだもので、番号007は誰にでも判る共通番号だった。それから40年・・老人期に入った平成時代に突如出現した「番号111」とは何だろうか? 
          
 それは孤立死する人が最期にプッシュする電話番号なのだが、知的弱者(痴呆老人も含む)に限定される事が特徴である。

(A)厳寒3月の北海道で、湖末枝姉さんと恵妹さんという姉妹が誰にも看取られず(孤立死ー餓死)した。
安定職場の福祉課ヤクニンから「懸命なる求職活動を!!」と言われなくても、父母を亡くしてから長年にわたって知的障害の恵妹さんの面倒を見ていた湖末枝姉さんは懸命なる生活活動の状態であった。
 NHKテレビで放映された求職履歴書の筆跡や職場仲間への好印象を見れば、湖末枝姉さんの真面目で頑張り屋の性格を理解できるのだが、それが災いしてか生活保護を受けること無く・・(孤立死ー二人自殺)してしまった。

(B)座長が「ア~~日本末期の現象だ」と感じる言葉に限界集落が有るが、その限界集落が(但し、住民は湖末枝姉さんと恵妹さんという姉妹のみだったが・・)賑やかな札幌市街地に登場したのに誰も対応しなかった。
 特に、生活保護課ヤクニン達は机上の書類にだけ注力する限界職場の住民達であって、10歩先の身障者福祉を担当する村落には連絡すらしないのだ。その生活保護課の村長は「個人情報保護法があるから」を理由に責任回避の太り顔をTV画面に晒すのだが、**年前に成立したこの法律は日本中のあらゆる所に「見えない限界集落」を創り出すのだ。
 その中には、得体の知れない人物が我が物顔に闊歩する(ヤクニンの天下り集落、原発の利権集落、暴力団集落)などがあり、そこでは人知れずに富裕なる住民達が生活する点が現実の限界集落と異なる平成時代ナノダ・・。

(C)斯くして、生活に疲れて心身ガタガタとなった湖末枝姉さんは、恵妹さんの身障者手当131483円(?ヶ月分)だけに頼る生活となって数ヶ月後残金3円を残して餓死してしまう。
 残された知的障害者の恵妹さんは、この限界集落から脱出しようと電話をかけるのだが・・警察110? 救急119? に迷った末に孤立死番号111へ最後の連絡を入れて・・何の返答もない電話機を見つめつつ「孤立死」したのである。

   311は東北救済の番号!  111は孤立死の番号!
       
       東北震災を忘れないで!

  参考ブログ:生活保護汚染で手取14万円を楽しむヨシオ31歳 2011年10月24日
            ↑ クリック

福島低汚染食品のPRソング「食べましょう!」

2011年10月16日 | イジメ!いじめ!
 さてさて、座長故郷の福島県の農水畜産物が「放射能汚染」の風評被害で販売不振!生産者が困ってます。 そこで座長は、低汚染の食品を販売する会社「シ~ベルト食品」を企画しましたが、そのPRソング「食べましょう!食べましょう!」を創りましたので御紹介します。
       
H23/10/16 Utatteru #40 OZUの謡←クリック
  「食べましょう!食べましょう!」  
        元歌:桃太郎 作曲:岡野 貞一  作詞者不明
           YOUTUBE映像で聞けます←クリック
 お爺さんお婆~さん 福島お野菜 モモリンゴ
   ・・・・・・・・・
 ・温泉楽しみ・・謡いましょう


  注:低汚染の食品を食べても発症前に「メルトダウン」する方々を対象としてます。

英霊の骨壷内に秘された「慮人日記2・・・夷敵に転向する人」

2011年08月18日 | イジメ!いじめ!
 さてさて、毎年8月・戦争ザンゲの頃になると、テレビ放送局は硬派ドキュメンタリー班の
活躍の時期となる。戦時記録番組の放送により日本人が前科者である事を再認識させるのが
仕事であるが、戦後66年にもなると、その効果も「蛍の瞬き」程度となり、
  ・・・来週からは五月蝿い「セミの鳴き声」如き吉本芸人の嬌声に掻き消されるのである。
     
  南方諸島から復員兵第一陣が、満員の米軍LST船で博多港に到着した。 (毎日新聞社)
 
 さて、山本七平著「日本はなぜ敗れるのかー敗因21カ条」角川書店刊は戦時記録「虜人日記
小松真一著」の解説本であるが、それによれば、著者小松真一氏は南洋戦地引揚げ時に、
英霊骨壷に秘匿して内地へ持ち込んだのである。

 (A)「ナゼ?骨壷にいれて?」と疑問の方は、日本歴史が創ってきた伝統的「サムライの
  戦い」ルールを知らねばならない。
   すなわち、インドで考えられた将棋原型は西欧に渡り「チェス」となったが、負けた兵士
  は殺されるか・不服従の態度を堅持した。ところが、戦国サムライルールに準じた「日本将棋」
  では、負けるまでは死に物狂いで闘うが、負けると嬉々として敵方に協力してしまうのである。

 (B)評論家・小室直樹氏によれば、その古武士ルールは織田信長の新しい軍制によって
  変化し始め、徳川家康の朱子学的武士道で払拭され、東条英機の「戦陣訓」で完成され
  た・・・・筈であった。
   ところが、今回の対外国戦争であっては降伏した途端に、日本兵達の心にこの古武士
  ルールが蘇えったのであろうか?=敵勝者の立場に転向し、敵軍を導いて困窮する同胞
  味方達を攻撃させ=南洋・シベリア捕虜収容所においては管理役・スパイ役・洗脳役・
  を為し=戦後本土に帰っても勝者占領軍の立場で日本を虐評・マスコミ指導したのである。

   こんな侮蔑日本兵達が管理者となって(外国兵以上に厳しく、たとえ個人的所有物でも)
   廃棄させる事を知った小松真一氏は、フィリッピン戦地から骨壷に入れて個人日記を運んだのだ。

 平成8月の課題は、この全世界人から侮蔑される厭らしき転向行為を再考して、新たなる視点で
 「日本人」を記録放映することである。
 なにしろ、日本は欧米帝国主義に準じて没してしまい、中国はスターリン共産主義に準じて
 いるので、「アジア人」独自の主義を見いだせないのだ。



英霊の骨壷内に秘された「慮人日記1・・・日本版バウシュビッツ虐殺」

2011年08月16日 | イジメ!いじめ!
 さてさて、8月終戦特集ドラマを見ると、平成生まれの若い役者が三八式長銃で勇敢に戦闘する
映像があるのだが・・・英霊の骨壷内に秘されて国内に復員出来て刊行された「慮人日記」
小松真一著
によれば、米軍の戦闘時間(朝8時~12時、13時~夕食時)以外に行なわれる行動が
日本軍の戦闘実態だったのだ。
 即ち、大量虐殺場と化す対米戦場を離れて小規模のゲリラ戦、ジャングルに逃げ込み、弾薬・
食料・医薬品の補給が無い日々を・・・「生き延びる事が戦争だ」という実態 だった
のだ。だからTVドラマの映像はウソである。
     
 (A)日本軍17個師団30万人余中、米海兵隊並の火器装備は1~2個師団であり、多くの
  兵士が極端に少ない三八銃と、手榴弾・竹ヤリ、の装備であった。
   本土でも「九十九里浜防衛師団に小銃が十人に一挺、第三十六軍では「槍(やり)1500
  本を装備ナリ」の状態である(7/16BブログB←クリック)

 (B)8月の教育テレビ夜番組では「戦死とされた230万人の兵士6割がジャングル飢餓戦争
  =餓死だった」としていたが、座長が「バウシュビッツ虐殺」と命名する戦場は開戦半年後の
  台湾=フィリッピン間のバシー海峡であって、「慮人日記」解説本の山本七平著「日本は
  なぜ敗れるのかー敗因21カ条」角川書店刊によれば、独アウシュビッツユダヤ人虐殺以上の
  日本兵殺戮場なのだ。

 (C)山本七平氏解説によれば、帝国海軍とも内紛していた帝国陸軍は、民間のオンボロ船を徴用
  して=輸送艦隊の護衛ナシ出航後の敵艦遭遇率100%でも平気だった海上護衛総司令部
  参謀大井篤
←クリック、1坪に14人2段ベッド、完全軍装姿で、甲板舷側から尻出しウンチ
  状態で=日本兵を南方へ輸送しのだが、制海権を有する米潜水艦の連日の魚雷攻撃で15秒足らず
  で沈没したのである。
   その有様を山本氏は独軍ユダヤ人収容所と比較して、「押し込み率は狂人房以上、殺戮効率は
  3000人15秒だ」と指摘すると共に、「死のベルトコンベア」如く民間のオンボロ船が
  無くなるまで繰り返した軍部官僚の「役所仕事」を非難している。

 (D)今回の大震災でも8/13ブログB←クリック)の如く軍部官僚の「役所仕事」があると共に、
  責任逃れで無対策の管首相に追随して「指示待ち」状態となった霞が関官僚達の姿、
  そして、官庁間の縄張り内紛に熱中する霞が関官僚達の姿、があるのである。
     ・・今日で、大震災から158日。
       首相退陣のメドはついたが・・・被災民救済のメドは立たない。



東京大空襲は・・ルメイ・マクナマラ空襲

2011年03月10日 | イジメ!いじめ!
 さてさて、本日3月10日は東京大空襲で下町火の海と化した日です。
昔、場末の映画館で「ウ~~ン、ウ~~ン」の空襲サイレンの場面になると、
暗い館内に緊張感が満ちた気がしました。
そこで、冒頭から童謡替え歌「ルメイの空襲 ←クリック」を紹介しよう。

       

H23/03/10  Utatteru #18
     「ルメイの空襲」 
           元歌:あの町この町  作曲;中山晋平  作詞:野口雨情

  あの町 この町 燃え上がる 人燃える
  ・・・・・・・・
  ・・・・・・・・・・地上も ボ~ボ~ 火の地獄 火の地獄


さて、この空襲は
  (A)戦争末期に無防備状態となった下町東京を、         
  (B)B29爆撃機を高度7000mから1500mへと高度を下げて、
  (C)ルメイ将軍とマクナマラ将官が作成した「焼き尽くし作戦」を
  (D)計画通りに実施し、その実験成果を誇った。
のであるが、その後、
  (E)日本政府が、ルメイ将軍に勲一等に叙する栄誉を与えた為に、
  (F)自信を持ったこのコンビは、キューバ爆撃、ベトナム爆撃、を堂々と提案し
  (G)後者の大規模爆撃では、「ナパーム弾」とクールに報道された。

 かくして、戦後66年・・焼夷弾の言葉も、東京大空襲の恐怖も、そして、
               「あの町この町」の童謡も、パンダ騒ぎで忘れられるのである。