桐生スバル☆☆☆座   

映画好きの座長がWEB劇場・桐生スバル座を始めましたが
東日本震災で故郷FUKUSHIMAが悲惨な状況で帰れないネ~

毛沢東は次郎長生れ代りE:二人とも28年目に2度目の結婚

2012年04月22日 | 次郎長
 さてさて、座長がネタ本としている「マオー誰も知らなかった毛沢東。上、下」はユン・チアン女史の著作であるので、敬意を表して毛沢東の女性関係を書いてみる。
 日本語版への挨拶文・本文145~159頁でも、彼女が初めて公表した2番目の妻・楊開慧夫人の自筆書類の事を強調してるので、興味深いノダ。
       
          賀子珍第三夫人              江青第四夫人
(A)毛沢東と次郎長、二人とも生まれて28年目に2度目の結婚をした。
次郎長は遊び仲間だった江尻の大熊の妹・お蝶(1829~1859)にゾッコン惚れ込んで所帯を持ったのは弘化4年春であったが、その生活は貧困を極めて、子分達は他の親分の賭場を手伝う「勝手つとめ」をしたりー「ネエゲエ」という追い剥ぎ内職をしたりの生き様、次郎長自身も出稼ぎ旅先でイカサマ博打の名手となる程だった。

 結婚して11年後の安政5年秋には、役人に追われて女房子分を連れての逃亡旅に出て、最愛のお蝶さんを名古屋で亡くすのである。次郎長は後添えの女房二人にもお蝶と呼ばせる程に熱愛していたのだ。 これらの若いときの人生経験は、毛沢東に生れ代ってからの過激分子への指導方法や共産党委員会での対応、延安に至る長征、などに生かされるのだが、女性関係は全く正反対であった。

(B)毛沢東青年は湖南省の共産党急進派指導者として北京を訪れた際に、後援者の北京大学倫理学教授楊昌済の娘・楊開慧と恋愛関係に陥った。日英独に留学した父が創る知的な家庭環境で育った楊開慧が、父親が亡くなるとオーム真理教の教祖の如き農村顔で粗暴な青年を頼るようになったのはナゾである。
 そして毛沢東青年が28歳にして校長をしていた長沙師範学校附属小学校に訪れた楊開慧は口説かれて一夜を過ごし・・結婚してしまった、1920年。

 それまでの毛沢東青年は「女性は労働的に平等ダとか44頁・・婚姻制度下の男女は強姦団に属す如きとか・・私は拒婚同盟を結成する・・」などと吹聴してた事に加え、3歳年下の未亡人教師陶スーヨンとの関係を継続していたのだから、彼の人生訓「我こそ最優先」が既に血肉化していた事を想像できる。
 
 北京から湖南省長沙に移り住んだ2代目夫人・楊開慧の悲劇はそれだけでは無い。
1927年には3人の子と共に毛沢東に捨てられたばかりか・・その3年後にはナント別の女性・賀子珍と結婚した毛沢東自身が、この長沙都市を長期攻撃してきたのだ。 斯くして、この長沙を守る反共国民軍の何鍵将軍は楊夫人に離婚を迫って彼女らへの危害を避けさせようとしたのだが、楊夫人は拒絶し・・1930年10月に処刑された。
 そして1982年になって発見された8編の遺書には「毛に捨てられた痛楚、子供達と共有する失望と恨み、共産主義への絶望」などが記されていたのだ。ネタ本の本文145~159頁で詳細に記されている。

(C)3人目の女房達(次郎長は2代目お蝶・毛沢東は賀子珍)は、更に悲劇的だった。
不可解な事件で斬り殺されたのが2代目お蝶さんだったし、6人も子供を産んだ賀子珍は毛沢東から「メンドリが卵を産むのと同じくらい易々と」子を産むと軽口を言われる程の扱いであった、1984年没。
 その賀子珍と毛沢東の出会いは、第2次ロシア革命でレーニン・ボリシェビキ政権が誕生して10年目の井岡山の山中だった。

 孫文も毛沢東もソビエト・コミンテルンの支配下でなければ中国の生存は有り得ぬと考えていたのだが、この年1927年4月12日に民族派の革命家・蒋介石が起こした孫文国民党クーデターによって追い出され、匪賊がタムロする井岡山へ逃げ込んだのだ。その時の地元語通訳だった18歳賀子珍は34歳の毛沢東は嫌いであったが「政治的保護の必要性」から結婚してしまい、その後に中国国内を転々とする中で子供を失っていった。

 戦後になってからだが、生後1ヶ月で地元の乳母に預けた長女・?と妹夫婦に預けた長男・小毛を探し出す事に賀子珍は全力集中するのに対して、毛沢東は延安で知り合った4回婚歴の上海女優・江青26歳を4度目の女房にして戦後を生きたのだ。
 ところが、次郎長の4度目の女房(1936~1916)は三州西尾藩士・篠崎東吉の娘だったので、結婚した時(50歳と34歳)から次郎長は尻に敷かれて生活していたという。

 次回は、毛沢東は次郎長生れ代りF;農民と決別し虐使した毛沢東・・・・なのだが、団塊世代にとって毛沢東は農民の味方!!農村から都市への闘争!!だと認識してるので、その驚きの内容には(月の家円鏡の落語の如く)屁をこいて座りションベンしてしまった座長なのだ。

毛沢東は次郎長生れ代りD:我こそ最優先の人生訓

2012年04月20日 | 次郎長
 さてさて、座長は60歳過ぎても「人生訓」など持ち合わせてないのに、ユン・チアン著「マオ、上巻」では毛沢東が24歳にして人生訓「我こそ最優先」を得てからの自己拡大の姿が記されているのだ。
そんな自己中心的な考え方はゴロ長と呼ばれていた次郎長の生れ代り故なのだろうか? 
        団塊世代の必読書だった
(A)毛沢東の父親が16歳で男やもめとなった息子を湘譚県の米穀商に徒弟奉公させようとした事は(27頁)、毛沢東青年を震撼させた。
 「何で俺と同じ事をやらせるのだろう?」と元米穀商の次郎長も驚いた。そこで母方一族に働きかけて父親を説得してもらい、湘郷県東山の高等小学校で勉強出来る様にして貰った。
 その学校は当時「近代学校」と総称された学校の一つで、中国古来の儒教思想(仁・義・礼・智・信)など他人との関係を重んじる学問)以外にも西欧の偉人伝記・思想を教える刺激的な学校だったので、若い頭脳を持つ毛沢東青年はドン欲に知識を吸収した挙げ句に、我が身に染み込んだ全てのものを「自己批判」の対象として捨て去った。
 そして得た人生訓が、彼の生涯を貫徹し続けた「我こそ最優先」の生き方だった。

(B)まず、幼少期から仏教を信じていた東トン青年であったが、母親が説く仏教四法印(諸行無常、一切皆苦、諸法無我、涅槃寂静)が煩わしくなって10代半ばには仏教を捨ててしまった。
そして西欧個人主義を極限まで学び極めた彼24歳が(その頃は長沙師範学校へ入学していた)発表した長大な論文において、仏教四法印の諸法無我とは真逆の人生訓・・「我こそ最優先」を述べている、(35~39頁)

その論文骨子を次郎長自身に語らせれば、
 何よりも気に入らないのは、諸法無我(一切の事物は我成らざるものである)ダナ~。22の時から旅に出て男という自我を売ってヤクザ世界を生き抜いてきた次郎長ダ!! 
遂にはゴロ長と言われるまでの強引な自己欲悪行を49歳・明治元年まで続けたんだ・・!。

 そんな人生経験の俺だから東トン青年にも言わせてるんだ「我こそ全てなのだ!」と。
論文では「人間は歴史に対して責任を負う・・という人がいるが、吾はただ自己の陶冶にのみ関心を抱き・・自己の欲求を抱き、それに則って行動する。吾は誰に対しても責任を負うものでは無い・・」と、難しいく表現してるが・・。

(C)「2番目に重要なのは諸行無常ダナ!」と次郎長。
「俺は劇的状況が次々と展開する時代が好きなのだ! 旧い宇宙を破壊すれば、新しい宇宙が得られるのだから!! 国家、民族、人類、そして宇宙、それらの破壊を俺は望む!」「平和で安らぎの境地なんか人間にとって耐え難いものだから、涅槃寂静なんてトンデモナイ! それ故、平時でも騒乱の波を起こす必要がある」
「・・・中国人民がその動乱の海を航海して苦しみ、生から死へ変化してもなんら問題ではない、むしろ祝うべきことである。一切皆苦」。「だから俺は死に対しても無頓着なんだ。死は最も未知なるものだし、最も奇想天外で激烈な変化をもたらすものなのさ!」

(D)座長も若い頃はイロイロと人生訓を決断したけれども、すぐに挫折し変更してしまうのだった。
 だから毛沢東がこの人生訓「我こそ最優先」を生涯貫徹した事は驚くべきだし、当然ながら、そんな毛沢東が作り上げたチャイナ国が平等なる共産主義を実現しているか??改めて見直す事も大事な事なのだ。
(現在の中国経済の繁栄を支えているは地方の出稼ぎ農民達だが、彼らには都市住民の資格が無くて労働力だけを共産党幹部・沿海企業主に搾取されている)

次回は、毛沢東は次郎長生れ代りE:二人とも28年目に2度目の結婚

毛沢東は次郎長生れ代りC:司馬遼太郎が誤った日本人論

2012年04月17日 | 次郎長
 さてさて、日露戦争の話である。日露戦争後に日本人が変わったとする作家・司馬遼太郎に対して「人間はそう簡単には変わらぬモノであって、自然な反応だった。」という話を聞いたことがある・・ので、
         このWEB←から借用
(A)「仮洋鬼子ー日本留学のニセ外人」という差別的あだ名の先生から教えて貰った日露戦争の勝利軍歌を歌いながら(28頁)、毛沢東青年は己の人生訓「我こそ最優先」に従って「俺なら、我が国益こそ最優先を国是として行動するよ!」と結論して、日本人だけが疲弊した戦後の倭国を眺め下した。
 実際に日露戦争は、独仏と同盟関係を結ぶ強国ロシアが中国・朝鮮へと南下政策を強めた最悪の有事だったのだが、中国・清王朝に至っては中立・傍観したのだし、朝鮮・李王朝は大国ロシアに寄り添って強国追従の有様、であった。
 結局、日露戦争終結後には、孤軍奮闘した日本には膨大な戦費負担(国家予算の6年分)が残ると共に戦死した肉親者への悲しみと悔悟が国民全員に襲いかかった。
 そこへ追い打ちをかける様に中国・朝鮮国に華夷思想が強まると同時に倭国日本への対抗意識が興ったのだ。そんな隣国の状況に呆れた日本国民の多くが、日本国をアジアの向こう岸(欧米流)へと変えた方が良いのだという判断をしたのは自然な事だ。
 (この状況は、何か有事があれば米国の若い軍人達が血を流して助けてくれて、日本人は平和憲法を唱えて傍観れば良いという平成鳩ポッポ状態・・と似た状況ではないか!)
 
 残念なことだが、その時から(いずれ起こる白人との3度目の戦いに備えて)全アジア人と積極的な協力を獲得しようとする努力・戦略をこちら岸(アジア流)に忘れてしまった。

(B)次郎長が言う「日本人が変わったのを目の当たりにしたのは、1度目の白人戦争でアメリカの黒船が4隻来て降参した頃の話だ!」
「その頃、薩摩藩のサムライ達が生麦村で白人を切り殺して「攘夷!鎖国!」と意気揚々と東海道を西上して行ったのだが、10数年後には・・・驚く事に「倒幕、開国!」と叫んで東海道を下ってきやがった」
「しかも徳川幕府軍は今度も降参しますと恭順の姿勢なのに、清水港では幕府軍艦を襲撃して殺し放題! これらの薩長サムライの浅ましい行為に憤慨して、俺は殺された幕府乗組員らを供養してやった・・それが縁で山岡鉄舟先生と知り合う事になったのだ」
「幸運な事に、日本国外では太平天国の乱、セポイの乱、クリミア戦争、と連続しての争乱の世界だったし、土壇場で戦勝国アメリカ本土で南北戦争が起こっチャたので、日本は唯一の有色人国家として残れた。神風が世界中を吹き荒らした様な気がする」

 子分の多い割には縄張りの少なかった次郎長(=島国ニホンみたいダ!)は続けて
「もしも黒船の時の敗戦で全て終わっていれば、その後の世界中の有色人植民地と同じ立場で被害者顔で居られたし、その後の2回の悲惨な白人戦争は避けられたし、その後の世界中からの侵略前科者扱い事もナシで済んだのだ。森の石松みたいに無鉄砲な大東亜白人戦争を始めるから、負けてコロッと日本人が変わるザマになったのだ~」

(C)毛沢東が口を挟んだ「その発端となった日中15年戦争・・あれは第2次日露戦争と定義すべきなのだ」。

日露戦争後のロシアでは共産主義革命が成功し、その誤謬無き科学的理論に夢中になった有色人達は競ってロシアからの援助を求めた。
中国革命の父と呼ばれた孫文なぞは、神戸でアジア人同士の連携が必要と偉そうに講演したが、中国広州に帰るとロシアからの多大なる援助(200万ルーブル)を得て国民党軍を組織した。その代償として1922年9月に外モンゴル占領と西北ウィグル地区の併合を提案して、完全に「あちらの人間」になった。(67頁)
 毛沢東青年もこの流れに乗って出世したのだが、人生訓「我こそ最優先」は絶対に忘れなかった事が彼の命を永らえさせ、ロシアからの誤謬無き科学的指令に忠実だった中国共産党同士達は次々と犠牲となって消えていった。
ユン・チアン著「マオ」では、20世紀最大の進歩的思想国だったロシアの謀略が満載されている。

次回は、毛沢東は次郎長生れ代りD:我こそ最優先の人生訓

毛沢東は次郎長生れ代りB:放校四回と「間接的強姦」

2012年04月15日 | 次郎長
 さてさて、この座長口上は講談社刊行の「マオー誰も知らなかった毛沢東。上、下」ユン・チアン著をネタ本としている。
           講談社刊
文化大革命で元紅衛兵であったユン博士は中国人初めての英国博士号を取得後に、膨大な資料と関係者インタビューで毛沢東の真実や共産国ロシアの露骨な政治工作を(座長も驚く内容だったが)この本で著した。

(A)毛沢東少年は8歳まで母親実家の隣村湘郷で自由気ままな幼年時代を過ごす事が出来た。後年、毛沢東はこの牧歌的な時代を愛惜を込めて度々回顧したのだが、そんな彼がナゼ7000万人有余の国民を死に追いやるまでに人間が変わったのかは話さなかった。 そして、文字も読めなかった次郎長と違って、伯母達が糸を紡ぐランプの下で文字を教えてくれた事が、毛沢東を生涯にわたって(ベッドの片側に30センチもの高さに本を積み上げる程に)読書好きにさせると共に、新聞を発行して農民・労働者らを宣撫する強力な術スベを与えた。

(B)一方、ヤクザ仲間から「ゴロ長」と嫌われるほどに粗暴だった次郎長を変えたのは、幕末期にあって「三舟」の一人と称された逸材・山岡鉄舟の知遇を得た事にある。
 多くの徳川家旗本ヤクニン達が無教養な自堕落人間にすぎないと暴露された中で、「海舟は智の人、鉄舟は情の人、泥舟に至っては意の人か」と言われた人物に明治元年1868に49歳で出会った次郎長は、ガラッと人生を変える。
 そして、当スバル座座長と同じ福島県出身の天田五郎(1854~1904)の書いた「東海遊侠伝」(明17年、東京興論社)が晩年の次郎長を著名な存在へと仕立て上げてくれたのあるが、養子とした天田五郎に刺激されたのか・・文字も書けなかった次郎長は明治19年、地元清水に英語学校を開設したのである。

(C)1902年春、両親の元に戻った8歳の毛沢東少年は、暗記中心の儒学私塾へ通わされ優秀な成績を納めたのだが、次郎長ゆずりの反抗心を抑えきれなくなって教師とケンカ・・4校も放校退学の扱いとなった。
 規則に従わないとか、強情で反抗的だ、という理由なのだが、毛沢東の人生訓「我こそ最優先」の萌芽が見られるのだ。
 そこで毛沢東少年の親達は、14歳になった少年に4歳年上の羅家の娘と結婚させて温和しくさせる策を思いついた。しかしながらこの策は、1年余後に娘が他界する事で失敗し、毛沢東少年は10年後に「親同士が強制する封建的な結婚制度は間接的強姦ダア!」と非難する論文を発表させる事で決着した。
 毛沢東少年の更なる反抗心は異民族の清王朝にも向けられ、17歳の時には漢民族の満州女真族への服従の証アカシであった辮髪を切り落とす学内運動を大々的に行い・・その年の暮れには隣りの省都・武漢で辛亥革命の火ぶたが切られる事態となった。

(D)話を次郎長の子供時代に戻すと、次郎長の親・雲不見の三右衛門(1776~1871)は船持ち船頭であったが嵐雲も見ずに船を出す程の暴れ者だったので・・生まれたばかりの赤子・次郎長を女房の弟・甲田屋次郎八という米穀商に養子として預けたのである。
 しかし乱暴な親の性格そのままで育った8歳の次郎長は、服部某浪人の手習い塾を3日で破門され、次に預けられた禅業寺での寺修行も半年という有様・・遂には養父母の手に負えなくなり、次郎八の親類筋を転々とタライ廻しに預けられた。
 後に、こんな暴れん坊時代を振り返って次郎長は「俺の目には1字も無エ~が、あの頃四書五経が頭に入れア、バクチ打ちなんてならなくても良かったんだ」と述懐している。 そして甲田屋に戻されて2年後の18歳の時にお静という嫁をもらって温和しくはなったのだが、20歳になった次郎長に旅の雲水が寿命25年と予言したことがキッカケでヤクザ稼業に入り・・全てを放り出して旅に出てしまった。(その嫁は愛想をつかして別れていった)

(E)一方の毛沢東青年はその結婚をキッカケとして、(英雄色を好むではないが)女性関係を華やかにする一方で、結婚相手となった複数の女性達を不幸にするばかりか、一般女性に対しては「産前産後を除いて、男性と同じ肉体労働が出来る(1919年論文)、団結して生産参加しよう(1951年婦女節)」などと述べて、男女は平等故に女性は自立せよと男としての責任を回避したのである。

次回は、毛沢東は次郎長生れ代りC:我こそ最優先の人生訓  


毛沢東は次郎長生れ代りA:中国の母は東方の輝きを求めた

2012年04月13日 | 次郎長
 さてさて、先日まで次郎長の悪行芝居を連続ブログしていたので、お詫びとして・・熱心な次郎長ファンの為に「毛沢東に生れ代わった次郎長」というスケールの大きな話を提供しよう!
      似てる?
 ユン・チアン著の「マオ」をネタ本にしたこの話を舞台に載せるのは困難なので、幕間の座長口上の如きモノと思ってください。

(A)清水の次郎長は1893年6月12日に大往生したー74歳。
 「軒雄山義海居士」という博徒の戒名にしては上等なものを頂いて西方へと旅立ったのだが、生前の悪行が災いしたのか?米屋稼業をもう一度やらせたいという養父の遺志なのか・・中国中央に位置する湖南省付近で次郎長は迷ってしまった。
 (故白川静博士によれば)その湖南省は稲作・養蚕による村落作りの発生地なのだから米屋稼業だった次郎長に関連する土地だし、あるいは明治維新後に清水港を拠点に廻船業を振興した次郎長自身が、外国船が河川を航行する湖南省の進歩的で刺激的な雰囲気に興味を持った為かも知れない。

(B)ヤレヤレ・・と耳を澄ますと次郎長を呼ぶ女の声がする。
 それは湖南省シャオシャンチョン村に住む毛族男性・毛イーチャンに嫁いだ女が「今度生まれ出る赤子が日本人の生まれ変わりなら・・!」と願っている声だった。(中国の風習でその女には名前が無いのだが、実家文家の7番目の女児という意味の文7妹と呼ばれていた。)
 「なんでヤクザな日本人のオレを?」と疑問に思ったのだが、両足の骨を砕かれた不自由な纏足で寺に通って願をかける必死な仏教徒姿に同情して・・次郎長は生れ代る事にした。

(C)中国の男児の名前には、出世栄達を望む中国農民の強い願望と期待が込められている。
 母親・文7妹は生まれ出た赤子に、族譜名・毛に「輝気を与える」沢という字排、それに東方の日本を意味する「東」を加えて「東方から毛族に光輝きを与える児」という意味の毛沢東という名前にした。
  毛沢東=同年12月26日生まれ(022頁)。

(D)そういう経過で半年ぶりに娑婆に生まれ戻った次郎長・・その柔肌に感じる異国中国の風に驚いた。
「アレアレ、俺たち無法博徒が跋扈した幕末時代の雰囲気と似てるジャないか!」と赤子の次郎長は呟く。
 そうなのだ!!次郎長が生まれ育った徳川250年の末期の如くに、清国王朝250年の末期の中国は衰退混乱の状態であった。1840年のアヘン戦争で大英帝国に立ち向かった林則除という英雄を排除してしまった中国、1856年のアロー戦争で英仏露に完全屈服して半植民地化されてしまった中国、そんな中国の実務を長年担ってきたのが科挙試験で採用された宦官カンガン達であったのだが、その悪弊が露呈されてしまっていた。更には、毛沢東が生まれた翌年の1894年には島国日本との戦争に負けて、北方の属国朝鮮を手放さねばならなくなった。

(E)「そんな文官ヤロ~達に国政を任せたから・・清国がこのザマだ!」と中国の立場で呟くと同時に、次郎長が心配するのは明治維新政府がこの科挙制度を全面的に取り入れて国造りする姿だった。
 実際、この官僚制度の恩恵により、明治大正期の日本は有色人種で唯一の独立発展の道を歩む事は出来たものの・・その悪弊が出た昭和期には戦争による国家破滅を招き・・平成期に至っては軽薄隷属の日本が造られる事になる。
 「中国にはサムライは居ない様だから、ヤクザ稼業だった俺でも「中華の華」を咲かせる事が出来るかも知れない!」と紅顔の赤子は手足をバタバタさせて母親を喜ばせたが、後に革命紅軍の総大将となって7000万有余の人間を死地へ追いやる人物だと知ったなら、トラが昼寝をすると名付けられた実家への峠道・虎歌坪に放置してきたであろう。

次回は、毛沢東は次郎長生れ代りB:放校四回と「間接的強姦」

虎造芝居「奴は都鳥!7」吉兵衛、追分宿でサロメ~な最後

2012年04月09日 | 次郎長
04/03(石松が七五郎女房お民と会う) 04/04(半かぶちヤクザのすばる座為五郎の茶屋の場)04/05(石松の狼藉と田舎者イジメに泣く吉兵衛一家)04/06(石松がお民に語った秘め事)04/07(お蝶の浮気、二代目の惨殺) 04/08(為五郎の勇気、次郎長へタンカ!)04/09(吉兵衛、追分宿でサロメ~な最後)
  座長はこれらを「サロメ~なヤクザ」と改題して桐生スバル座にて上演の予定です。
      このWEBから借用←クロック
 (A)舞台右半分が開かれて宿屋風・・中段舞台で宴会をしている都鳥吉兵衛、梅吉、常吉、伊賀蔵、万作、重太郎、音松、兼吉、松五郎、久松、そして、すばる座為五郎・・ら11人。
   吉兵衛「東海道一の安藤大親分のお陰で、ようやく次郎長とも手討ちが出来る・・皆には心配かけたが今日はゆっくり飲んでくれ」
  舞台右端からウロウロ伺う男が舞台中央まで来て、中段座敷を見上げる姿・・やがて、急ぎ足で右幕へ消える。
  次郎長子分の大声が舞台左側で響くと共に、左の幕がサーとひかれて、そこは清水一家の溜まり場。そこへ先程の男・追分三五郎が飛び込んで来る。
   追分三五郎「吉兵衛のヤローが追分宿の青木屋で遊んでますぜ・・、吉兵衛をはじめ、11人!」
  溜まり場の外で聞き耳をたてるお民。そして慌てて左端へ消える。
  次郎長ら溜まり場を出て・・花道まで子分を並ベて叱咤する。
   次郎長「今から仇討ち状を書くぜ、逆縁ながら子分石松の仇討ちだ!第1番に次郎長・・2番は七五郎、3番大政、小政、大瀬半五郎、法印大五郎、増川仙右エ門、大野の鶴吉、桶屋の吉五郎、鳥羽熊にお相撲綱、追分三五郎・・だ!」
   一同「エイエイオ~」と舞台から消える中、
  七五郎がキョロキョロとお民を探す振りで最後尾へ・・
   七五郎「お民・・?」

 (B)舞台右半分の宿屋・青木屋にお民が駆け込む・・応対の為五郎・・お民は中段舞台に座る都鳥吉兵衛と会う(必死に話し込む素振り)。
  
  そこへ次郎長一家が到着する。
   次郎長「オ~イ都鳥! 今度もこちらから出迎えての仇討ちだ! 石松の仇・・覚悟しやがれ!」
  為五郎が玄関障子戸に手をかけ大声で、
   為五郎「ヤイヤイ!次郎長!ナンという野郎だ!安藤親分の采配で和解話の手筈なのに・・今度もテメ~は勝手な事をしやがる。貴様の汚いやり口はお民さんから聞いているんでイ・・」
  突然の銃声・・為五郎は障子戸を真っ赤に染めて倒れる。
  同時に次郎長ら11人が宿屋土間へ入り込み・・都鳥の子分は「親分~」と言いながを斬られてゆく。
  
   次郎長「さ~、都鳥!さっさと降りてきて勝負しな! エ~!」
  吉兵衛がゆっくり降りてくる・・たちまち、清水一家に囲まれて倒れる。
   次郎長「七五郎! クビを取れ!」
   七五郎「ヘー・・」
  そこへ中段舞台からお民が放心状態で降りてくる・・
   七五郎「お民! テメ~?・・なんで此所に・・」
  お民は倒れた吉兵衛を抱いて・・クビを持ち上げ・・頬ずりして・・夢遊状態。
  アッケにとられる次郎長一家・・、頭を抱え込む七五郎・・ら。

    (舞台暗転の中に声が響く)
  「お民のその後は判らないが・・小松村七五郎は明治五年に亡くなった」(幕)

 (C)これはなんと!!ギリシャ悲劇の「サロメ」の場面ではないか!
  というわけで、この芝居の題名を「サロメ~なやくざ」に変更して、近日中に桐生スバル座にて公演致します。
     お疲れ様でした。



虎造芝居「奴は都鳥!5」すばる座為五郎の勇気、次郎長へタンカ!

2012年04月08日 | 次郎長
04/03(石松が七五郎女房お民と会う) 04/04(半かぶちヤクザのすばる座為五郎の茶屋の場) 04/05(石松の狼藉と田舎者イジメに泣く吉兵衛一家)04/06(石松がお民に語った秘め事)04/07(お蝶の浮気、二代目の惨殺) 04/08(すばる座為五郎の勇気、次郎長へタンカ!)

 さてさて、この芝居の見せ場「為五郎の勇気、次郎長へタンカ!」場面に堂々と天下り出演致しましたのが、スバル座座長であります。虎造浪曲での「本座村為五郎」では親分を持たない独立ヤクザでキレの良い役柄ですが、天下り座長がうまく演技出来ますか?乞う御期待であります。
   
 (A)相変わらず舞台の左側がメインとなる五幕目、すばる座為五郎の茶屋に都鳥一家らが居る。
   都鳥「そういう訳で、石松を殺ったからには次郎長とのケンカになる。しかし、石松の悪行イカサマを海道一の大親分と評判の清水の安藤文吉親分に話せば・・仲介手打ちに出来るかも知れネ~。お前とも短い付き合いだったが、我ら一家とは手を切ったほうが、これから面倒が起こらネ~ゼ。達者に暮らせよ・・為五郎!」
   為五郎「親分!水くさいですゼ、アッシも次郎長に恩義はあるが、それはズーと前に返してある。これまでの親分への恩義もある!是非とも清水まで一緒に連れてってオクンナサイ!」
  そこへ突然、都鳥子分伊賀蔵が叫ぶ「親分、次郎長一家が来た!!」
   一同「エ~!!」
   為五郎「ヤロ~、清水で辛抱できネ~で出てきやがったナ! 此所で闘っても勝ち目は無エ~・・親分!私に任せて裏の物置へ隠れてオクンナサイ! 役者崩れの為五郎が、一世一代の大芝居を打ってやりますゼ」
  都鳥一家は左舞台へ去る

 (B)花道から次郎長一家が来る、次郎長、大政、小政、大瀬半五郎、法印大五郎、増川仙右エ門、奇妙院常五郎ら七人・・・。
       このブログから借用←クリック

   次郎長「為五郎、世話になるゼ」 ズラズラと舞台茶屋の縁台に座り込む子分達。
   為五郎「オヤ!清水の親分、お久しぶりで・・どうしたんです?そんなに皆さん顔を真っ赤にして・・??」
   次郎長「ナ~ニ、石松のお迎えを兼ねて、浜松の温泉へ一家を連れての極楽旅ヨ!な~お前達」
   為五郎「(何が極楽ジャイ!) へ~お茶で御座いますよ!皆さん御遠慮なく・・」
   次郎長「・・ところで石松は寄らなかったかい?」
   為五郎「知らなかったんですか? 石松さんは死にました」

  ざわつく素振りの清水一家。
   次郎長「・・本当か?為五郎! まさか都田吉兵衛が殺ったんじゃネ~だろうな?」
   為五郎「そのまさか・・で御座んす。だけど、此所で今すぐの仇討ちはいけません!石松さんは村に来てから評判悪い事ばかりする・・村人も怒ってましたヨ、それにイカサマ博打までやっちゃってネ・・お役人様も吉兵衛親分にはお咎めナシ・・もし清水が来たら召し捕るゾ・・と待ち受けてます。」
  次郎長ら、ざわつく。
   為五郎「アノネ、吉兵衛親分は此所じゃ評判良いのヨ、親分に何かあったら加勢する村人・・と言っても年寄りだけどね・・そいつらが竹槍抱えて道に潜んでますヨ!そして、及ばずながら、この為五郎も吉兵衛親分に加勢するんでゴザンスヨ」
   次郎長「何オ~この野郎! 昔の恩義を忘れやがって!」
   為五郎「オ~とその恩義はお返し済みだ、それに石松の使ったイカサマ賽子もこちらにあるんだ、これを世間様に石松さんの愛用のイカサマ品で御座いますヨと見せびらかしても良いですか?」次郎長ら、顔を見合わせる。
   為五郎「ソレカラね・・その飲んだお茶、そんな中には村人から貰ったトリカブトっていう薬草が入ってるんだ・・間もなく身体がしびれてくるよ!ソラソラソラ~」
            次郎長ら立ちすくむ・・(暗転ー幕)

次幕は最終回、虎造芝居「奴は都鳥!6」吉兵衛、追分宿で***~な最後

虎造芝居「奴は都鳥!5」石松秘め事「お蝶の浮気、二代目惨殺」

2012年04月07日 | 次郎長
04/03(石松が七五郎女房お民と会う) 04/04(半かぶちヤクザのすばる座為五郎の茶屋の場)04/05(石松の狼藉と田舎者イジメに泣く吉兵衛一家)04/06(石松がお民に語った秘め事)04/07(お蝶の浮気、二代目の惨殺)

 さてさて、無骨な座長には男女の秘め事芝居など書けませんが、佐橋法龍著「清水次郎長伝」49頁の一代目お蝶さんの浮気説を読んだ時には驚いた。そこで、二代目お蝶さんの不可解な惨殺(実際は明治二年の事)も組み入れて、石松の語る秘め事芝居としました。
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                           写真は三代目お蝶さん
 (A)石松「アノネ・・お民さん、石松は妙に話したくなったんで・・聞いてくれるかい? なにしろ。昨日は焔魔堂の前、さっきまではあの仏壇の下、と冥土へ一歩一歩近づいていく石松なんでネ~・・何か言い残して置きたい気分なんすヨ」
   石松「今度の仕事は親分次郎長の筋書き通りなんだ・・。石松最後の門出にと金比羅参りと上方見物をさせてもらって・・・最後はこの都田村で上がりというサイコロ遊びヨ。吉兵衛一家に散々悪口と狼藉をやらかして、最後にイカサマ博打で吉兵衛を怒らせ、
この石松を殺させようという算段。これがヤクザの道で・・逃げられネ~」
   石松「実はね~お民さん、最後だから言うけど、あの先代のお蝶さんは・・浮気してたんダヨ、俺は親分の留守中に、元相撲取りの保下田の久六と姐さんが一緒に楽しんでるのを見ちゃった!見ちゃったんだよ。その久六野郎は去年殺しましたが、その後も親分が「お蝶、お蝶」と歎くもので、アッシは思わず次郎長親分に言ってしまった。「お蝶さんはネ・・実は久六と楽しんでたんですヨ・・」とネ。
その時の親分の顔が忘れられない・・ジッと俺の顔を見て「石ッ!その事は誰にも言うん
じゃね~ぞ・・」
   石松「お民さん、この話はあんただけに話すんだよ・・。女同士なら判りあえる所があるんじゃね~か・・てね」

 (B)石松「それからの親分は変わってしまった・・俺に対しても、付き合うオンナにたいしても。まもなく二代目の姐サンを迎えて名前をお蝶と呼ぶほどの恋仲になったんだが・・・親分の猜疑心は傍目からも異常と思えるほどで・・可哀想だったぜ~二代目お蝶さんは!」
   石松「その挙げ句には、その頃一家に寝泊まりしてた浪人を使って殺しちゃった。しかも、その浪人までも殺せと俺に言いつけヤガッて・・俺は殺したよ・・言われるままに」
   石松「だけど、しばらくして清水の路でモノ乞いしてる子供を見つけた・・アッあのサムライの子だ、この御時勢だから、お勤め先をクビになり、仕方なく難儀な浪人暮らしとなって・・上方へでも職のあてがあったのだろうか?この清水へ寄った為に不運な最後になっちゃった」

 (C)石松「アッシはその薄汚い子が「昔の俺だ!」と思った瞬間、手持ちのカネをその子の手に握らせた。それからだぜ・・親分と肌が合わなくなってしまったのは・・」
   石松「お民さん、今年三月の清水での事は・・七五郎も知らせない約束だったし、アッシがこのまま焔魔堂へ行けば誰~れにもわからネ~・・幸せに暮らしておくれヨ。
七五郎さんは昔から気弱な男だけど、勝ち気なお民さんがいるから、ヤクザをやっていけるんだゼ」
   石松「アレレ、頭がボ~としてきたせいか?・・お民さんが?お民さんが・・・お蝶さんに見えてきましたヨ~
お民に見入る石松
   お民「石松さん!どうしちまったのサ! 頭もおかしくなっちゃたんだよ・・」               
                     (幕引きー暗転)

次幕は、虎造芝居「奴は都鳥!5」すばる座為五郎の勇気、次郎長へタンカ!


虎造芝居「奴は都鳥!4」最後に、石松がお民に語った秘め事

2012年04月06日 | 次郎長
04/03(石松が七五郎女房お民と会う) 04/04(半かぶちヤクザのすばる座為五郎の茶屋の場)04/05(石松の狼藉と田舎者イジメに泣く吉兵衛一家)04/06(石松がお民に語った秘め事)

 さてさて、面従腹背という言葉がありますが、この芝居は音従筋背の有様で、芝居小屋に流れる広沢浪曲は次郎長・石松を褒め称える翼賛音楽。ところが、舞台の筋立ては正反対の悪玉次郎長vs善玉吉兵衛という進み方です。
     心安からぬ方々もおられるかと存じますが、もうシバラクお楽しみ下さい。
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 (A)夜景となって薄暗い舞台の左半分は焔魔堂の絵幕で、右半分は吉兵衛一家の前で障子戸だけ明るい。そこから石松と七五郎がバタバタと外に出てきて
   石松「七五郎さんヨ・・このカネを持ってすぐ清水へ行ってくれ・・後は次郎長親分がうまくやってくれる!」
   七五郎「あのイカサマはバレてしまったようだゼ・・残った石松さんはどうなるんジャろ・・」
   石松「こちらの心配なぞしないで清水に行けば、あんたは男が上がる算段だぜ」
   七五郎「もう一度、お民に会いたいが・・」
   石松「馬鹿な事を言っちゃイケナイヨ~~」
  石松に怒鳴られて七五郎は花道へ逃げ去る。

  そこへ子分達が背後から現れて、
   子分達「ヤイ!石松、テメエ~!七五郎と組んでのイカサマで100両も誤魔化しやがった。カネを返しやがれ!」
   石松「カネは無いヨ。七五郎に上げちゃた。マ~、田舎で気まずい思いをさせちゃった石松様への詫び金だと思って・・諦めやがれ!」
   子分達「ふざけた野郎だ、殺っちまえ!」
  焔魔堂の絵幕と花道に至る場所で斬り合いが始まり、やがて、全員が舞台の左へ消え去る。

 (B)サ~と焔魔堂絵幕も引かれると、そこは七五郎の居間でお民が座っている。左手から吉兵衛らが現れ
   吉兵衛「ヤイッ!石松、此所に隠れていることは判ってるんだ!男らしく、とっとと出てこい! 手前エが村に来たときから、オカシイと思ってたんだ! 子分はイジメるし罵詈雑言を吐き散らす。昔お前がやられたことを繰り返しヤガッて、その馬鹿さ加減がわからネ~のか、最後にゃイカサマサイコロでカネを誤魔化しやがって・・許せネ~ぞー石松! 焔魔堂で待っているから、出て来いよ!」
   
   吉兵衛「お民さん、こういう始末だ!黙ってみててくれ・・」 
 吉兵衛ら、去る。

 (C)居間の奥の仏壇下から転げ出る石松。石松「お~痛て~、痛て~」
   お民「大丈夫かい?石松さん、裏道を通れば浜松まで逃げられるよ、サ~!気をしっかり持って!」
   石松「ど~もヒドく切られたようだ、浜松までは逃げられネ~、それに幼馴染みの吉兵衛にあ~言われたんじゃ行かねばならね~ゼ、焔魔堂へ」
   お民「何を言ってるのさ、あんな口ぶりでも、この土地じゃ優しい親分で通ってるんだ・・幼馴染みだし・・逃げろという意味なんだよ」
   石松「そうかもしれない、そうかもしれない、だけど行かなきゃならネイんだ。」
  しばらく沈黙、
   石松「しかし・・お民さん、あんた旦那の七五郎の心配を全然しないけど・・不思議だネ~、でも七五郎サンはちゃんと清水へ行ってるから安心してヨ」

次幕は、虎造芝居「奴は都鳥!5」石松秘め事はお蝶の浮気、二代目の惨殺



虎造芝居「奴は都鳥!3」石松の狼藉と田舎者イジメに泣く吉兵衛一家

2012年04月05日 | 次郎長
04/03(石松が七五郎女房お民と会う) 04/04(半かぶちヤクザのすばる座為五郎の茶屋の場)04/05(石松の狼藉と田舎者イジメに泣く吉兵衛一家)

 さてさて、維新の頃に作られた任侠ヤクザ番付けには載ってない程に無名の次郎長なので、後世の次郎長評判は養子天野五郎が書いた減刑嘆願書を元にした講談浪曲に依るものなのだ。加えて、佐橋法龍著「博徒の虚像と実像」によれば、次郎長はイカサマ博打の名人だったそうな。
        
   註;佐橋法龍氏は、初代お蝶さん難儀の時に助けた仏の長兵衛(深見村長兵衛ー後に保下田の久六と代官によって牢死する)の女房が曾祖母に当たるという人物だそうだ。

 (A)舞台が明るくなると舞台左寄りに幕がある状態(何が隠れているのやら?)、舞台右半分の吉兵衛一家では石松が大声で叫いている。
   石松「なんでイ!これが刺身か?こんな腐ったサカナは清水じゃ猫も食わネ~、それとも俺のヘド吐く姿を見て笑いたいのか!」
   子分「トンデモナイ!石松さん、これは浜松から取り立てのサカナじゃデ・・」
   石松「それに昨晩の女郎はナンダイ!婆アみたいな女で・・清水じゃピチピチ肌の甘い女が寄ってくるヨ、村にゃ若い奴が遊ぶ所も無いから、何の慰み事も無くて・・ボンヤリ空を見てるだけじゃ。酒も不味いし、田舎の肥溜めのニオイがするゼ・・」

  そこへ吉兵衛が2階舞台から登場、
   吉兵衛「石松!しばらく森町を離れたら、やけに生意気な口を効くじゃナイカ!」、
   石松「アッ親分、口が滑って申し訳ネ~」、
   吉兵衛「そんなお前にゃ判らんだろうが、俺が最近始めた俳句とかいう言葉遊びでもするかい?ちょうどカエルの鳴きどきだぜ・・(古池や~、かわず飛び込む・・」
   石松「チョチョと待っておくんなさい。石松はタンカは言えてもハイクが出来ネ~ヤクザ稼業で・・あれ!洒落にもならね~言葉遊びになっちゃたよ・・それじゃ、アッシは、七五郎の所へでも行ってきますヨ!」

 (B)子分達と共に舞台前端に出る石松。
   石松「七五郎の家は何処だい?」
   子分「へ~、こちらへ行って・・裏山を廻って・・アノ家がそうです」
  と指先を舞台右からグル~と舞台裏側を巡って左幕を示す。石松も同じく繰り返し・・
   石松「何だい!馬鹿にするネ~、このままアッチヘ行った方が早いじゃないか!」と舞台左へ幕と共に歩み始める。その幕が引かれて裏幕が現れると・・それには閻魔堂の絵、石松は閻魔絵幕の元にある縁台に座り・・しばらく考える様子。
   (虎三浪曲が流れて・・支度を為して表へ出る
    跨ぐ敷居が死出の山 雨垂れ落ちが三途の川 そよと吹く風無情の風・・

 (C)やがて、その閻魔絵幕が引かれると、小松村七五郎の居間が現れて、七五郎とお民が座っている。身を裏返してススーと居間に座る込む石松。
   七五郎「石松さん、来るのが遅かったじゃネ~か、お民は何時来るかと首を長くして待ってたぜ、それにしても幼馴染みの三人が揃うのも久しぶりの事・・・ゆっくり飲んでってくれ」
   お民「そーだよ、ゆっくりしてくれナ、石松さん」
   石松「あの吉兵衛親分は子供の頃からの親分ぶりで、どうも肌が合わない・・孤ミナシゴ児石松はタダ頭を下げるだけヨ・・しかも学問好きは変わっちゃいない。だから物分かりが良いのだな~石松とは正反対だ! 親父源八さんが上州館林で江戸屋寅五郎に殺された時も「人違いで殺したんじゃ・・仕方がない」とお許しなすった話はヤクザ仲間でも有名だ・・それで大前田英五郎親分とも兄弟分になれたんだぜ」
  お民が居間から去った頃合に、石松が七五郎にヒソヒソ話、
   七五郎「エ~、イカサマをやるのかい!!吉兵衛親分の賭場で!!」
          (舞台暗転)幕

 次幕は、虎造芝居「奴は都鳥!4」最後に、石松がお民に語った秘め事


虎造芝居「奴は都鳥!2」半かぶちヤクザのすばる座為五郎の茶屋の場

2012年04月04日 | 次郎長
04/03(石松が七五郎女房お民と会う) 04/04(半かぶちヤクザのすばる座為五郎の茶屋の場)

 さてさて、平成のおば様達が韓流ドラマに夢中になる御時世なのに「童謡だ!浪曲だ!」と全く世相ズレした芝居興業を続ける座長は、興業主の役得として広沢虎三の浪曲「本座村為五郎の悪事」に代えて「すばる座為五郎」を舞台に乗せます。
         
 (A)舞台左端の茶屋から眩しそうに空を見上げるのは・・半かぶちヤクザのすばる座為五郎。花道から来る旅姿のお民と男を見てクビを傾ける。
   為五郎「お民さん!お茶でも飲んで休んでは・・。あんたの旦那の小松村七五郎さんは心配してましたヨ、ここへ何回も来てネ~(お民は?お民は大丈夫かな?)って心配
してましたから・・良い旦那を持ちナスッたね~。」
   お民「ダラシナイね~あの人は!、女房が三日居ないくらいでサ~・・」
   為五郎「温泉へ行ったとの話だが、どこの温泉か当てて見ましょうか?清水の温泉なんでしょう! さっきの男は清水で見たことが有るんですよ」
   お民「なにさ!私は清水ニャ行ってません、おふざけジャないよ!」
  お民が席を立ち上がって半開きの幕と一緒に歩んで行くとー全開となった舞台に華やかな都鳥吉兵衛一家が現れる。

 (B)その舞台右端の幕陰にて振り返って舞台を見る立ち姿のお民。舞台には旅芸人達が旅立ち挨拶の賑やかな様子で、吉兵衛の女房も居る。
   旅芸人達「お世話になりました!昨晩の親分さんの芸は東海道一、日本一でございます。」
   吉兵衛の女房「有り難うさんです。これはワラジ銭ですから・・」
  芸人達が左手へ去るが、吉兵衛女房は幕陰のお民に気づいて
   吉兵衛の女房「お民さんじゃありませんか、吉兵衛とは幼馴染みですから・・遠慮無く家へ遊びにおいでくださいナ」
  しかし、お民は逃げるように去る。
  続いて、都田村の貸し元吉兵衛が2階舞台から登場、
   吉兵衛「それでは村を廻ってくるか!」
  通りすがりの村民が挨拶する・・評判が良いのだ。
  客席を村の衆に見立てて声をかけて笑いを獲る吉兵衛は舞台左端の茶屋へ至る。
  それに連動して舞台右半分には幕が引かれて隠れる。

 (C)為五郎の茶屋の縁側に座る二人。
   為五郎「親分、いつもお世話に・・」
   吉兵衛「今日は珍しいモノが手に入った!江戸では大首絵とかで評判の歌舞伎役者絵だゼ、写楽という名もシャラクセ~が・・」
   為五郎「これはナント大胆な絵じゃ・・わしも元は役者稼業、親分にお世話になってこの茶屋をやっておりますが、やはり、心の隅にゃ・・もう一度、大受けする舞台をやりたい気持ち一杯でござんす。」
  絵を囲んで話し込む二人、
  舞台がやや暗くなり、「2か月後」の立て札持ちが舞台を横断する。
   子分が茶屋へ走り込む「親分、清水の石松さんが来なすッタ。」
    吉兵衛「あの石松が・・・? 奴は清水でイイ顔役になったそうだナ~」
  顔を見合わせる二人(幕)


次幕は、虎造芝居「奴は都鳥!3」石松の狼藉と田舎者イジメに泣く吉兵衛一家



虎造芝居「奴は都鳥!1」、石松が七五郎女房お民と会う。

2012年04月03日 | 次郎長
 さてさて、座長が興業する「桐生スバル座」の入りが低迷するので、先輩興行師に相談したら「お前の芝居小屋は替え謡と説教ばかり、WEB画面も見づらいので改装が必要! 本筋の芝居モノに力を入れよ!」との事。
       
 そこで、まずは当スバル座への人寄せにと・・広沢虎造の浪曲「清水次郎長伝」を改作しました芝居「奴は都鳥!」の予告編を連続ブログする事にしました。

(A)客席には広沢虎三の浪曲「石松の代参」冒頭が流れて、ナニワ節気分が観客に満ち渡る。
     旅ゆけば~ 駿河の路に 茶の香り ここは名におう 東海道・・・
  しかし、舞台の右半分は幕が下りたままで、やがて中から怒声が響く。
   「コラッ石松!テメ~讃岐の金比羅様へ行ってこいという親分の言うことがきけね~のか」
  との声とドンドンと殴る音。やがて、幕端から石松がボソボソと歩む姿・・、
   女の声「石松さんだろう~? 久しぶりだネ~」
   石松「オ~あんたはお民さん、この清水へ・・どうナスッた??」
  二人は舞台左端の茶屋座敷に座る。

(B)お民「遠州森町にいた時は皆から孤ミナシ児と虐められて可哀想だったけど、今じゃ次郎長一家の看板男!大した出世だネ~」
   石松「とんでもネ~、親分はお蝶さんが死んでから変わってしまった。アッシに辛く当たるし、新参の渡世人ばかり贔屓にする・・・」
   「話を変えようゼ・・森町に居る時はネ~・・お民サンッ!あんたは吉兵衛さんと一緒になると思ってたが、その吉兵衛が都田村の貸元源八親分へ婿入りすると、ナント七五朗と所帯を持っちまったネ~。女心はワカラネ~・・話だが・・」
  お民「そんな事より石松サンにお願いがあるの!次郎長親分に会わせてクレナイ?内緒で、後生だから、」

(C)閉じてた右半分の幕が全開すると次郎長一家の1階2階、その中段2階舞台に座る次郎長の前までお民を案内する石松。
   石松「親分、お民姐サンです。何か大事な話があるそうで・・」
  ナゼか?・・お民が色気を出して次郎長に挨拶する、
   次郎長「サ~こちらへ遠慮無く・・石!酒でも持ってこい」。
  急激に馴れ親しむ二人なので、石松が気まずい立場。
  やがて、次郎長に追い出され再びトボトボと舞台左へを歩む石松・・(幕)。

次幕は、予告芝居「奴は都鳥!2」半かぶちヤクザのすばる座為五郎の茶屋の前